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しろがねの庭/Novel by 摩央

しろがねの庭

9,105 character(s)18 mins

自分を抑えることの出来ない少年・セタンタが、長い銀髪の不思議な男・エミヤの暮らす家に引き取られて、共に暮らすお話です。

セタンタが、エミヤの1番になりたいと思うようになるまで。
(恋愛描写は薄く、淡々としています。)

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かぐわしい花の匂いで目がさめる。
ふかふかの布団の中で、ぱっちりと赤い目が開いた。
いきなり冷たい水を顔にかけられた犬のように、ぱち、ぱちと大きく瞬きをして、クリーム色の枕カバーにぐりぐりと額を擦り付ける。
タオル地のそれは、ちょっとだけごわごわしていて、その刺激がまだはっきりしない思考を次第に醒ましていく。
セタンタは、よしと声をかけてがばりと羽毛布団を跳ね上げた。
文字通り蹴り上げたそれが落ちてくる前にごろんと転がり出て、ざらついた畳の上を一回転。大の字で深呼吸し、今日もちゃんと一人で布団から出られた自分を、惜しみなく賞賛する。
一度、起床時のこの様を目撃されてしまったことがある。
その時彼は「ただ起きてくるだけで大仕事だな」と微笑んで、青い髪に絡みついた藺草の細い片を丁寧に取り除いてくれた。
その指の長さやつめたさ、夏休みに行った海辺で拾った桜貝よりもきれいな楕円形をしている爪の白さなどを思い出してうっとりしていると、セタンタと名を呼ぶ声がした。
「今日はずいぶんお寝坊ではないかね? 今日こそ一人で起きられなかったか?」
皮肉に聞こえるセリフだが、声はやわらかく笑っている。
「ちゃんと起きてる!」
「それは結構」
ぱっと四つん這いになって膝を立てて起き上がった。襖と障子を隔て、離れたダイニングから響く声を目掛けて、すべての扉を開けては走る。
重いガラスの引き戸をガラガラ言わせながら開けつつ、隙間にねじ込んだ体がぽんと抜け出る。
勢いのまま倒れこもうとしたところを、黒くてあたたかな塊に受け止められた。
「おはようセタンタ。朝から元気なのはよろしいが、あまり無茶はしないように」
「おはようエミヤ!今日もキレイだな!」
真正面からどストレートに本音の褒め言葉をぶつけると、セタンタの美しい人は、白い長髪を揺らして頬を染めた。
セタンタとエミヤは、血縁でもなければ雇い雇われの関係でもない。
故あって実親と離れて養育されていたセタンタのあまりの横暴に、屈強な叔父さえも匙を投げ、投げ出されたそれをひょいと拾って連れ帰ったのがエミヤだった。


蹴られて腫れ上がった頬に氷嚢を当てながら苦笑して手を振る叔父と、呆れ顔で腕組みしている兄に見送られ、とうとう捨てられたのだと愕然としたセタンタは、褐色の大きな手に引き摺られ、ここへ連れて来られた。
道の半ばで我に帰り、怒りも露わに暴れ、大きな手に噛みつき、びくともしない脚を蹴ったり踏んだりしてみても、セタンタを牽いて行くエミヤの手は固く握られたまま、歩調も緩まず、それどころか一瞥さえくれることがなかった。
それまで恐れ知らずだったセタンタは、その時初めて人間を不気味に思った。
散々我儘を言ったから、物を壊しすぎたから、今日なんてとうとう叔父貴の顔を蹴ってしまったから、だから自分はついに見放されたのだ。悪い、要らない子だから、この気味の悪い男にどこかへ連れて行かれて、もう二度とあの家には帰れないのだ。
やっとそう思い至ったセタンタは、生まれて初めて、恐怖で泣いた。先ほどまでより大声で泣き、暴れて、喉から血を吐くような咳き込み方をした。それでも男は、まるで繋いだ右手から先には何も存在しないような顔で歩き続けた。
息が苦しくなって、しゃっくりが止まらず涙も涸れそうになって、その時ようやく、「ごめんなさい」と弱々しく口にした。
今までどんなに悪さをしても謝ったことなどなかったセタンタの必死の謝罪にも、前を向いたままの男は一切の反応をくれなかった。
一生懸命口にした言葉を無碍にされる時の絶望と痛みが、エミヤがセタンタに最初に教えてくれたことだった。


エミヤの屋敷は大きかった。庭も蔵もあって、玄関にたどり着く前に門まで構えてある。セタンタが住んでいた豪邸には及ばないが、相当いい家なのだろうと、幼いセタンタにも察せられるつくりだった。
そんな屋敷にぺいと放り込まれたセタンタは、一週間ほど、エミヤが立ち動く度にびくびくして、何を言われるか、何かされるのかと警戒を解かなかった。
だが、エミヤは平然と自分の都合で生活をし、その中にセタンタを組み込んでいた。
「私の名前はエミヤ。君は今日からこの家で暮らすことになった。朝食は六時半、昼食は十二時、夕食は十八時半。毎回その時刻までには台所に来て手を洗い、準備を手伝うこと」
初日に言われたこのルールを、セタンタは「その時間に遅れたり、手伝いを拒めば食事はさせない」と言われているものと受け取り、内心で反発しつつも口に出さず黙って聞いた。
起床時間は指定されなかったが、二十時に入浴し、二十二時までには就寝することも加えて指定された。これも守れなければこの男は顔色も変えずにきつい罰を与えるのだろうと、初日に手を引かれた時の不動っぷりを思い出して、更に緊張を募らせた。
エミヤは果たしてセタンタに構うことなく、恐らくはセタンタを引き取る前と変わらず暮らしつづけた。セタンタはなにもすることがなくて、かといって以前のように派手に悪さをすることもできず、無駄に広い屋敷の中を所在無くうろつき回ったり、庭の池の鯉をじっと見たりして過ごした。エミヤはセタンタが何をしていても、特に声をかけてくることはなかった。
いつも和装で屋敷内を歩くエミヤの足音は、足袋が板間や畳みに擦れる独特のもので、あまり顔を合わせたくないセタンタは、その音が聞こえると、なるべく遠くに逃げた。いっそこの屋敷から逃げ出してしまおうかと何度も考えたが、帰り道がわからないこと、逃げ出して捕まった時の折檻の可能性、そして何より、あの家に帰ってももう自分は受け入れてもらえないのではないかという恐ろしい想像から、気力は萎え、結局寝室として割り当てられた部屋に篭もって悄然と過ごした。


幼い子供が慣れない環境で気を張って過ごせば、すぐに心身に限界が来る。
ある日とうとう、セタンタは朝寝坊をした。重怠い身体に沈みこみそうになりながら目を開けると、時計は九時を指していて、ざっと血の気が引いた。
どうしよう。あいつに見つかる前にここから逃げた方がいいのか。それとも謝った方が良いのか。
謝る?
あの日、あんなに必死で謝っても全く聴いてくれなかったのに?
心臓がばくばく音を立てて、嫌な汗が額から伝う。走ってもいないのに呼吸が浅く、早くなりかけた時、部屋の襖がさっと開いた。
「起きていたのか」
視界を塞ぐように立つ長身のエミヤが、温度のない鋼の瞳で見下ろしていた。
彼は何も言えずに固まっているセタンタの側に上品に膝を折って、そっとてのひらを額に当てた。
あの日感じた、冷たい体温が、ひたりと押し当てられる。
「熱は無いな。どこか、具合が悪いのか?」
小首を傾げたエミヤの真白い長髪が、長着の肩をするりと滑り落ちる。
セタンタがぎこちなく首を横に振ると、鉄の仮面のようだった男の表情がわずかに綻んだ。
「そうか。少し遅くなってしまったが、朝食は用意してある。もし食べられそうなら、今からでも食べるかね?」
今度は縦に小さく頭を振った。あまりにかすかだった笑みが少し深まり、「では待っている」と言って出て行くエミヤの後を、セタンタは起き上がって追いかけた。
朝食は、二人分残っていた。手伝いとしてセタンタが任されている、箸や湯呑み、調味料を食卓に並べる仕事も、もう終わっていた。
いつも通り手を合わせて静かに食べるエミヤの顔を、セタンタはしきりに伺ったが、食べ終えてからも、昼食の時間になっても、彼は怒ることも、セタンタを放り出すこともしなかった。


それからセタンタは、こっそりエミヤを観察することにした。最初は物陰に隠れて見ていたのだが、庭で木の剪定をしていたエミヤが振り向いて「そんな日向にいては、暑気にやられてしまう。陰にいなさい」と声をかけてきてからは、バレているなら隠れる必要もないかと開き直って堂々と近くに寄って行った。
晴れた日には庭木の手入れや屋敷の補修をし、雨の日には土蔵にあぐらをかいてセタンタにはガラクタにしか見えない色々なものを直して過ごしている。食事時になるとさっと台所に立ち、心なしか嬉しそうに料理を始めるので、セタンタは台所にいるエミヤを見るのが一番退屈しなかった。あまりに熱心に自分を追いかけるセタンタにエミヤは何を思ったのか、見上げる赤い目に時折目を合わせ、困ったように眉を下げて、そっと自分の使っている道具を握らせてくれるようになった。
別に盆栽にも調子の悪いストーブにも破れた障子にも興味はなかったが、エミヤが作業を教えてくれるとなると、セタンタはされるがままに体を委ねてしまう。後ろから、あたかもガウンのようにふわりと腕を重ねたエミヤに、ほらこうするんだと耳元で囁かれ、鋏の柄ごと自分の手を握られると、セタンタは背筋がふわふわして頬のあたりがむずむずした。エミヤに手を握られているから、擦って誤魔化すこともできないけれど、決して嫌な感覚ではないことにも重ねて戸惑いを覚えた。
エミヤは自分の胸元で薄桃色に染まるまろい頬を見て、そっと吐息だけで微笑んだ。
そんな調子で様々な雑事をいつの間にかこなせるようになったセタンタは、剪定鋏から枝切り鋏、半田ごて、包丁と次々に道具を扱うようになった。
鋭い刃を持つ道具、熱を発する機器などは、セタンタの癇癪があまりにひどく、叔父の家では遠ざけられていたものばかりだった。
あの家にいた頃の自分なら、絶対にこれでズタズタにして笑っていただろうな。
ぼんやり庭の池の鯉を眺めながら、セタンタはさくさくとまな板の上のじゃがいもを賽の目に切った。台所が暗くてさほど広くもなく、またシンクにまだセタンタの背が届かないため、エミヤは仕舞い込まれていた古い書見台を蔵から出してきて、「ここで作業するといい」と縁側に据え付けてくれた。だからセタンタは、自分の作務衣の千切れた紐を縫い付けるのも、エミヤの手伝いで食材を切るのも、全部この日の当たる縁側で行っている。
広々とした庭は、隅々まで手入れされているが、木も鯉も、水や石ですらなんだか自然にそこにいるように見えて、見ていると何となく穏やかな気持ちになれた。
オムレツ用の卵を買いに行っていたエミヤが飛び石を踏みながら玄関に歩いて行くのが見える。じっと見ているこちらの視線に気づいたのか、竹籠を提げたエミヤが「セタンタ、終わったか?」と声をかける。それを合図に、セタンタは切り終わっていた芋を手早くボウルに放り込んで立ち上がった。


セタンタがくっついて回るのを、エミヤはあまり拒まなかった。熱心に見つめるセタンタを、やっぱりたまに困り顔で見返してくるが、セタンタは悪さはしなくなったが相変わらず遠慮もしないので、まったく気にしていなかった。
しかし、何日かに一度、宅配の小包が届いた日だけは、エミヤはセタンタを遠ざける。
「しばらく部屋に入ってきてはだめだぞ」と言い置いて、自室としている和室に引っ込んで、食事時以外は出てこない。
すると途端にやることが無くなって、セタンタはふらふら屋敷の中を歩き回ったり、庭の鯉に小さく砕いた麩をちびちびやったりして、食事までの時間をひたすら潰して待つことになる。
庭の隅の雑草が気になって、勝手にぶちぶち抜いた日があった。夕飯の準備に出てきたエミヤは目を丸くして、縁側から大きな声でセタンタを呼んだ。
初夏の日差しは強く、白い小さな手の甲が真っ赤になっていた。セタンタ自身はけっこう夢中で草むしりにのめりこんでいたので毛ほども気にしていなかったのだが、エミヤはひどく慌ててセタンタを風呂場に連れて行った。作務衣の上を剥いでシャワーを手にとり、弱い水流を赤くなった肌に当てながら、「痛いところはないか?」と訊ねてくる。
取り乱したエミヤを見たことがなかったセタンタは、むしろ彼の様子に驚きながら、何も言わずに頷く。
それでもエミヤは痛ましいものを見る目でセタンタの腕や首を冷やし続け、風呂場から出ても濡れタオルを当てがってくれたり、ずっと傍を離れなかった。
セタンタは何故かむずむずして、沈黙に耐えられず、つい「エミヤ、部屋で何してるの?」と訊ねた。
エミヤは何故か難しい顔をして、少し考え込んだ。何を考えているのかなど分かるはずもないし、何となく訊いてしまっただけなのに、そうして答えをもらえないと、久しく忘れていたイライラが戻ってきそうになる。
セタンタが自分の腿を殴りつける前に、エミヤは小さく答えを返した。
「私はね、魔法使いなんだ」
セタンタは瞬きと呼吸を忘れた。
子供騙しだと思った。けれどもエミヤがそんなことをするとは思えない。真意を探りたくてじっと目を合わせる。
鋼の瞳は真剣だった。
「魔法って、どんな?」
エミヤは驚いた顔をして、それからふっと静かに息を吐いた。
「例えば、そこにテレビがあるだろう」
「うん」
「私は、そのテレビの内側がどうなっているのか、壊さずにすべて知ることが出来る」
「どうやって?」
「手をかざして、呪文を唱える」
「何でもできるのか?」
「何でも? 物の中身を知ることしか出来ないが、そうだな、それに関してだけは『なんでも出来る』よ」
「人間は? 人間の中身は?」
「生き物の体の中は、分からない。物だけだ」
「そっか」
セタンタは濡れタオルを左手に握り、口元に右の拳を近づけて目線を下へ向けた。
「一人で部屋にいる時は、届いた小包の中のモノの中身を見てたのか」
「君は賢いな。そうだよ、それが私の仕事だ」
「そうだったんだ。叔父貴は毎日仕事に行ってたから、なんでエミヤは行かないのかと思ってた」
「……すまなかった」
「なんで謝るの?」
「話しておくべきだったかもしれないと思ったからだ。無職の男の家に居るのは不安だったのではないかと」
子供心に、「職の有無以前の問題がありすぎるだろう」と思ったセタンタだったが、賢明なことにその言葉を飲み込んだ。そしてエミヤが的外れに自分を気遣っていることで、確信を得た。
「あんたさ」
「あんたと呼ぶのはよくない」
「じゃあ、エミヤ」
「何だね」
「エミヤって、すごく鈍い?」
するとエミヤは、途端にあからさまに不機嫌になって、「なんで君にまでそれを言われるんだ?」と呟いた。


セタンタはもう、エミヤのことをこれっぽっちも怖いと思わなくなった。
怒るときはセタンタに危険があったとき。不機嫌になるのは子供相手にもかかわらず拗ねて気まずくなっているとき。それ以外の時は、いつだってエミヤはセタンタを一人の同居人として大切に扱ってくれている。
無口で表情が乏しいが、こちらから話しかければ低く甘い声でよく会話に応えてくれる。じっと見つめて観察すれば、ささやかすぎて取りこぼしてしまいそうな、美しい微笑み方をする男だと知ることもできた。
セタンタは、自分でも気づかないうちにエミヤに夢中になっていった。
朝起きるのは苦手だけれど、エミヤが手伝いを待っているから起きる。変化のない毎日でも、エミヤの側で穏やかに過ごす日々が退屈だとは思わなくなった。
庭の物干しにシーツを干す長身の背中で揺れる長髪が弾く光も、雨の午後についうたた寝してしまった自分を救い上げた腕の骨張った硬さも、風呂上がりに自分の髪から丁寧に水気を拭い取ったあと満足そうにつくため息も、ひとつひとつが一瞬で捉えなければ消えてしまう感覚ばかりで、セタンタは無数に散らばるそれらを見つけては、ただただ嬉しくなって拾い集めた。
そうして一人になった布団の中で、今日の分を大事に思い出して、胸の奥にたたみ込むようにしてよく覚えこみ、寝入る。
癇癪を起こす余地はなくなり、子どもらしい小さな世界は、エミヤがもたらしたものだけで満たされていった。


「元気にしてるか、クソガキ」
前触れもなく兄が訪ねてきたのは、セタンタがすっかり叔父の家のことを忘れた頃のことだった。
セタンタは幽霊でも見たような顔で、玄関扉を開けた姿勢のまま固まった。
自分にこのような兄がいたことを、本気で忘れていた。その事に、自分で驚いたからである。
「あ? なんとか言いやがれ」
「キャスターか?」
暗い廊下の奥から、ぱたぱたと近づいてくる足音がする。
「エミヤ、コイツになんか妙なもんでも食わせたか?」
「そんなわけがないだろう!」
上がり框まで来たエミヤは、うんともすんとも言わないままのセタンタを気遣わしげに見下ろす。
「驚いてつい。アンタがそんな事しねえってのは分かってるさ。ただ、本当に信じられねえほど大人しかったもんでな。ま、何食わそうが構ねえから、この状態を保ってくれ」
「滅多なことを言うな。セタンタはこの家に来てからずっと、穏やかに暮らしている」
兄に面罵される自分を庇おうとしているのか、エミヤは床に両膝をつくと、左手を肩の後ろから回し、右手で前から腰を抱き寄せて、セタンタにしがみつくようにしてぎゅうと抱き締めてくれた。
頬が触れ、体臭が混じる距離。しかも、自分たち以外の人間が見ている前で、堂々とそんな甘やかし方をされたことに、恥じらいよりも歓喜が湧き起こる。
「アンタの方がよっぽど兄貴らしいな」
からかうように眇めた眼で見下ろすキャスターに、エミヤはなぜか傷ついたような表情で言葉に詰まった。
抱き竦められたセタンタは、二人の動向をじっと伺う。手に提げていた紙袋を、並んだ靴の横にどさりと放り出した兄は、やれやれと頭をかきながら踵を返した。
「せいぜいマトモにしてもらえ。エミヤに迷惑かけんじゃねーぞ」
自分のものより緑の色味が強い長髪が、さらさらと揺れながら明るい戸外へ遠ざかっていく。
セタンタはきっとエミヤを見上げて、ぎょっとした。その後ろ姿を見送る眼が、いかにも切なくてたまらないと言っている。
「エミヤ!」
咄嗟に叫んで、作務衣の胸に掴み掛かる。
「セタンタ? どうし」
「オレの髪、結んで!」
「髪……髪か?」
「暑いから!」
有無を言わさぬ気迫でせまるセタンタに、思わず頷く。
セタンタはぱっと顔を輝かせると、薄紅色に頬を染めて、にっこりと笑った。
初めて向けられた、心からの満面の絵みに、エミヤはぱちりと瞬きをして、いつもよりも明るい笑みを返した。
「そうか。では君に似合う髪飾りを探そう。道具箱の中に何かあるはずだ」
「何でもいいぜ」
「いや、きれいな髪なんだ。似合うもので飾らなければ」
「エミヤの髪だって、すごくきれいだぞ」
向かい合って跪いたままのエミヤの耳の下あたりに両腕を差し込んだセタンタが、白い長髪を細い指に絡めて、さらさらだと言って笑う。
鋼の瞳をぱっちりと見開いて、驚きの表情を見せるエミヤは、普段よりもずっと幼く見えた。


以来、セタンタの長い青髪は、根本を金属の留め具で束ねるようにした。尾のようにひょんひょんと揺れるそれは、エミヤの目にも楽しいらしい。「かわいい尻尾」という言葉とともに掬われることは日に何度もあって、セタンタは自分の選択の正しさに密かな快哉を叫んだものだ。
今のセタンタには目標が二つある。
まず、エミヤを誰よりも知ること。
何度も煙草の火が押しつけられた跡のある灰皿だったり、繰り返し使えるシリコン製の氷嚢の山だったり、ひと昔まえに流行った女性向けコスメのセット商品の使いかけだったり、この家の至る所に「エミヤとかつて過ごした誰か」の痕跡が残っていることには気付いている。が、恐らくそれは故人もしくは二度とこの家に住むことはないであろう人々だということも、朧げにだが察した。
彼らがどれだけエミヤの人格や人生に組み込まれているのかは分からなかったが、自分にはまだきっと時間がたくさんある。許されるかぎりはエミヤと一緒にいれば、いつかは誰よりもエミヤのことを知っていると胸を張って言える日が来るはずだ。無鉄砲な勇気を奮って、そう信じることに決めた。
そして、エミヤの隣にできるだけ長くいること。
一つ目の目標を達成するためにも、エミヤと共にあるこの暮らしを継続させなければならない。エミヤはいわゆる「いい子」にしていれば、にっこりと微笑みかけてくれるほど簡単な性質ではない。エミヤにとって価値があるのは、セタンタがセタンタなりに、精一杯真摯に向き合うことだ。その結果、セタンタがエミヤに文句を言ったとすれば、その時はエミヤも真正面から受け止めてくれる。癇癪を起こしそうになった時、拳をきつく握りしめることで堪えようとしたが、エミヤは爪の食い込む白い拳を褐色の手で包み込んで、強張って呼吸を早くするセタンタの背中をゆっくりさすってくれた。
エミヤは怒らない。セタンタが「悪い子」でも、衝動に打ち克ち、より強くなろうと足掻いている限りは、決してセタンタを見捨てない。
いい子になりたいから、立派な人間になりたいから、そんな動機は欠片も無い。ただ、エミヤが抱きしめてくれる人間であり続けるために、今の自分より強くなろう。そうして、許される限りずっといっしょにいるのだ。
こんな日がいつまでも続けばいいのに。
セタンタは「未来」という言葉の意味もまた、エミヤによって初めて意識することになった。


「エミヤ、見て!」
今朝の焼鮭に添えた胡瓜の細切りは、セタンタの力作だった。
エミヤに包丁の扱いが上達したところを見せようと、出来るだけはやく、リズミカルに刻もうとするセタンタのまな板から、細切りの胡瓜はぴょんぴょんと跳ねて床に散らばった。
ショックを受けてへしょんと下を向いたセタンタの横にしゃがみ込んだエミヤは、苦笑しながら丁寧に拾い集めて、もう一度水洗いし、「上手になったな」と言った。
その声の喜色が偽りのないものだったので、セタンタもころりと上機嫌になって、食卓についた、のだが。
セタンタが箸で摘み上げた先には、中途半端に刃が入ったらしく、中程から先だけ二股になり、半分は繋がったままの胡瓜がぴろんと垂れ下がっている。
落ちたばかりの松葉のようなその格好が面白かったのだろう。切れていなかったことを嘆くでもなく、
単純に「見て!」と差し上げているセタンタが、不思議なものに一心に興味を向けていることがただ嬉しくて、エミヤは朝日の中で琥珀色に溶けた目を細めた。

Comments

  • わんわんお
    July 20, 2025
  • ((っ'-')╮=͟͟͞͞💌

    エミヤはキャスターが好きだったの?かな??……見送る切なくてたまらない眼をした理由を知りたいです。

    December 29, 2020
  • 最初はエミヤに対して警戒心を抱えていたセタンタが心を許していくのと、それに比例してエミヤの不器用さがどんどん分かってくる過程が、雪解けみたいに優しくて好きです。彼らのこれからに思いを馳せました。素敵な作品を読ませて頂きました.....

    August 22, 2020
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