F市鎮守の任を受けてから、二百年以上が経つ。
長いようで、瞬きほどに短い時間だった気もする。
私は元々、この土地に暮す一百姓だった。それが流行病で死んで天の審判を受ける際、『神様』から何とはなしに声を掛けられたのだ。それがどんな存在だったか、私が言うのも奇妙だが、随分と悪意が感じられたのは確かだ。
『キミ、神様やってみない?』
そもそもこの物言いからして、善意を信じる方が困難だろう。
『なんでさ?』
『だってキミってさ、人助け、好きじゃん』
言われなくても分かっている。病が流行した際、私は数少ない薬を他人に譲り渡した結果、死んだからだ。もっとも、その時点で私は随分と衰弱していたので、たとえ薬を飲んでいたとしても遠からず死んでいただろう。『神様』曰く、その衰弱も今までの『報い』との事だが、私は今でも自分の生き様を悔いてはいない。
『……自分の生きている証が欲しかっただけだ』
『なら、神様でもやってみない? 中々の塩梅だよ』
その言葉に乗った訳ではないが、私は『神様』を始めた……要は『神様』の模倣、体のいい雑用係、F市の霊脈の維持・拡張・補完役だ。その合間に私は小さな神社で、人の願いを聞いている。
「どうかどうかどうかお願いです、今すぐ5000兆円下さい」
余りに即物過ぎる願いに、私は思わず失笑を零した。ただ、丁度彼の少し後ろで掃除をしている最中だったので、随分と意地悪な構図にはなってしまった。
F市の隠れたパワースポット、願い事が叶うと言えば、すわ【衛宮神社】……何時の間にか、ここはちょっとした観光地になっていた。実際は宮司もいない小さな神社で、【衛宮神社】というのも、私が着任した折には既に付けられていた名前だ。小さいものの、第二次世界大戦の空襲を耐え抜いた代物……と言われているが、実際は私が霊脈の魔力を頼ってどうにか耐え抜いた。
第二次世界大戦は、ある意味では魔術師大戦でもあった。敵地の霊脈の破壊は戦略的に必須であり、本来の神でない、言わば模倣の私には耐える以外の手段がなかった。そもそも私の目的は守護であって、攻撃ではない。それがしかけてくる『本物』相手に耐え抜いてみせたのは奇跡というか、幸運と、皮肉にも『模倣』故の意地だ。
なので、【衛宮神社】に居るのはこの二百年間ずっと私だけで、いかにも宮司らしい格好でもって、神社の掃除や修繕をしている。何しろ神様であるから、衣食住そのものが必要ないし、本来はそういった行為でさえ必要ないが、習い性の様なものだ。それでも神様だから、失笑を気にした様子もない必死さに、笑った代償に、と力を込めかけて。
「パチンコで又給料全部スりました」
止めた、色々止めて欲しいものだ……苦笑いを再び漏らすと、今度は随分と厳しい視線を向けてきたが、流石に自分の願いの滑稽さぐらいは知っているのだろう、黙って去って行くのと引き替えに、姦しい声が飛び込んできた。
「マジここじゃね、【衛宮神社】」
「神主さーん、絵馬チョーダーイ」
二人の女子高生に左右から腕を引っ張られているのは、見た目からして『どんくさい』そうな女子高生だ。同じ制服なので、学校帰りの友人、といったところだろう。この年頃の女性には、【衛宮神社】は恋愛成就の神社として知られている。無論、そんな因果律調整など、恐ろしくてやる気さえ起こらないが、私の範疇であるにも関わらず、【衛宮神社】は私とは随分かけ離れた評価になっている。
「こちらは商売としては悪くないが、絵馬を買う前に、まずはお参りをしたまえ」
「はーい」
格好は派手で行動も軽薄に思えるが、育ちがいいのは分かる。そんな彼女らに、『嘘』を指摘する気にはなれない…店絵馬が売れるから、というのではない。そういう流れが世にはあり、人間の方から霊脈に影響する事はままある。そして私は霊脈の管理者であるものの、そういった因果を調整する事を良しとはしない。
それが、幸せであるならば、だ。
彼がやってきたのは、『【衛宮神社】は恋愛成就の神社』と認定されて暫く経ってからだ……あの、腕を引っ張られていた女性は、子供を連れてやってきた。当時の願いは叶わなかったが、彼女を愛してくれる人間には出会えたらしい。嘘をついた様な後ろめたさと確かな幸せにホッとしていると、大凡【衛宮神社】に似つかわしくない彼がやって来た。
サファイアを溶かした込んだ髪に眩しい白い肌、やややせ気味にバランスの取れた長身の青年だ。この御時世にくわえ煙草はいただけないが、それさえ見栄えがする容貌で、野性味と整った顔のバランスが絶妙ときている。こんな美男子が【衛宮神社】なんぞに用はないだろう、と些か皮肉にと思っていると、煙草がポイ捨てされるのに続けて、割と多目の小銭が賽銭箱に勢いよく叩き付け、高らかに願いが告げられた。
「頼む、今度こそ、今度こそ、ちゃんとした奴と付き合いたいんだ」
私は随分微妙な顔をした……ポイ捨てもさることながら、これだけの美男子だ、モテない筈がない。そしてモテる男が必ずしも慎みがいいとは限らない、むしろ随分と行動に難がある者もおり、彼もその類の人種、という訳だ。自分の因果で身を滅ぼしつつある、といった所だろう。
「そんな下らない願いをする前に、まずは礼儀に則った行動をする方がいいのではないかね」
「ハァ?」
彼は厳しい表情の私を見て、宮司、つまりここの管理者だと気付いたのだろう。しかもこの時は御丁寧に、竹箒を持っている最中だった。そんな私の視線の先の煙草に気付いて、気まずそうに拾い上げて、幾分逡巡した後、ポケットに突っ込んだ。そして向けてくる視線は随分厳しい、憤った犬か狼の様だ。
「……文句あんのか」
「そういう態度がそもそもの問題、と言っているんだ」
おそらく、顔の良さにかまけて随分としでかしてきたのだろう、煙草のポイ捨てを誰も指摘しない、そんな環境にあってもおかしくない。それが今更神頼みでどうにかしようとは、些かムシが良すぎる。街のゴミ清掃をしろとは言わないが、そんな態度では来る者だって自然、相応の代物になるものだ。
「そんな態度を嫌う女性が大半だ、大層な願かけをする前に、まずはそこから直すべきだな」
途端、彼は随分と複雑な表情を浮かべた。憤りと悲しみ、そして諦観が奇妙にない混じっている、主に憤りで、声はそちらに従っている。
「……お前もさぁ、そういう態度が問題なんだよ」
態度の悪さを態度の悪い人間に指摘される、如何にも当てつけの様で、私は奇妙な表情を浮かべた。
「私の何が問題だ?」
「男が付き合うのは女、って勝手に思い込んでる所だよ」
私は暫く黙り込んでから、『今はそういう世界』なのだと思い出した。山に籠もっている仙人でも魔術師でもない、あくまでF市の鎮守である限り、時事に疎いという訳にはいかない。まして、【衛宮神社】には様々な『いわく』が勝手につけられている。害になるなら排除せねばならないがこの場合、時事への疎さはこちらの命取りになりかねない。
しかし、この容貌の彼がそんな願いを抱くのは、恋愛対象は違ったとしても、皮肉なものだ。あるいはそれ故、かもしれない。興味のない人間に秋波を寄せられるのは、与える本人が考えているよりも遙かにゾッとするものだ。
「すまん、そこは私が不躾だった。個人の事情を配慮していなかったな」
「立ち入ったワケでもねぇよ……そっちはそっちで、馬鹿にされてるみてーだな」
だったらどう言えばいいのか、と口にしかけて、私は幾分検討の違う言葉で誤魔化す事にした。あるいは、彼が求めてるものに対しては正しいものかもしれない。
「そこの箱に千円入れて、好きな絵馬を一枚取って願いを書けばいい」
「ハァ?」
「キミもそれでここに来たんだろう、恋愛関連の願いと言えばココだからな」
彼は私を睨み付けたものの、私に愚痴るよりもそちらの方がいいと思ったのだろう。商売人め、と幾度となく私に向けられた、全く無関係な罵り文句を投げつけると、きっちり千円を箱に入れ、シンプルな絵馬を一枚手にして暫く考えた後、ざっと何かを書いて先人達の中に紛れ込ませ、短い舌打ちと共に背を向けた。
もし、私が因果を操っているなら幾らか意地悪をするのが適切だな、と思いながら、私は普段はしない事をした。いずれは絵馬も回収して御炊き上げする際に目にするのだが、人の願いを覗き見るのは不躾だと思っているので、あえて目にはしない。しかし彼に関しては何となく気になってしまって、絵馬を見てしまった……手慰みで絵馬を作る内に、凝りに凝ってしまった絵馬もあり、それはそれで人気らしいが、彼の絵馬は本当にシンプルな代物で、クー・フーリンという名前の側に、願いが書かれていた。
『運命の人と添い遂げたい』
口調はべらんめぇで態度もいただけないが、書き言葉は丁寧で、彼の年齢の青年が抱く願いにしては、些か軽率にも、随分と切実にも感じられた。
彼が【衛宮神社】にしばしば顔を見せるようになったのは、それからだ。年の頃を考えれば大学生か社会人だろうが、彼は主に昼間に顔を見せた。週に一回、今度は携帯灰皿を持って、幾らか控え目に賽銭を投げ入れると、【衛宮神社】の隅の方から、ぼんやり街を眺めている。
「ココ、案外眺めがいいんだな」
ぼそりと呟いた彼に、私は小首を傾げた。
「そうか?」
確かにここは海を含めたF市が一望出来るが、私にとっては布陣の一環としての意味合いが強い。霊脈の保持を視覚的なものに頼る訳ではないが、私の場合、まずは視覚に寄る部分がある。眺めがいいと言えば、少し向こうにある山の方が有名だが、手軽さでは【衛宮神社】に分があるだろう。
「視野が開けている事は基本だからな」
「……オメェ、わりかしおかしな事を言うよな」
怪訝な表情に私は小首を傾げた。眺めがいいから、と【衛宮神社】はここに存在している訳ではない、霊脈が存在するからだ。
「そうか?」
「案外、頭が硬いんだな。見た目は結構イカしてんのにな」
前の件でもそうだと思ってたが、と彼はため息を漏らした。
「イカしている?」
「そりゃ、銀髪褐色の野郎が、神社の神主なんだぜ、マジイカしてんだろ」
SNSに上げてやってもいいぜ、と言われて私は思わず手を振った。
「断る、私目当てに人がわんさと来られても困るからな」
私は、【衛宮神社】の対外的な認識を正確には知らない、代わりに内々の仕組みは知っている。【衛宮神社】にはそれ自体に幾つもの結界が張ってあり、その一つに、『【衛宮神社】から自然に意識を逸らせる』というものがある、防衛魔術の基本中の基本だ。ただ、この結界を張ったのはそれこそ第二次世界大戦の頃合いなので、件の恋愛騒ぎといい、組み直した方がいいのではないか、と改めて考えている。何より、私が晒されると中々に厄介な事に発展しかねない。魔術と言えばSNSとの根本的な組み合わせは最悪だが、それを利用できる新世代は決して少ない訳ではない。それこそ第二次世界大戦で随分と懲りた、懲りる事さえ出来なくなった、私の様な『神様』は決して少なくないらしい。
「……へーへー、随分とモテるんだな」
「そうでもないさ」
生前の私は、モテた記憶はない。『神様』に失笑されるぐらいの『お人好し』なので、そういった秋波を寄せられた事は多々あったが、『私の中に特別な人間が居ない』と知られると、驚く程に秋波はあっさり消え失せたものだ……私が選ばれた、皮肉な要因かもしれない。
「ホント、いやみな野郎だぜ」
「キミこそモテるだろう、見た目で文句を言う人間はまずいないだろうにな。まぁその雑な中身はともかくとして」
私は一呼吸置いた。
「キミが求める方面にも」
「……そうでもないさ」
彼は、随分と沈んだ声をあげた。
確かに彼には、私の預かり知らぬ【衛宮神社】の効果は出ていない様だ。
「はぁ~、暫くホールにも出れねぇわ」
彼は、大学生でホストクラブのバイトもしている。格好生活からして困窮しているではなさそうなので、まっとうな学業よりも社会に少しばかり『出掛ける』事が正しいのだと思っているのだろう。その『副業』の失敗が、皮肉にも彼を本業に押し戻している……愚痴を聞くに、喧嘩を掛けてきた客とトラブルになって、店から暫く出禁を食らったそうだ。彼曰く相手が完全に悪いそうだが、そもそも彼の容貌でホール係、というのは役不足も役不足だけに、如何とも言い難い。ホール係に甘んじていたのか、強要されていたのか、そこに踏み込むには私達はいささか他人過ぎる。彼は話すには話すだろうが、どうせが何時も通り、武勇伝の様相を呈してくるだけだろう。
「いい機会だ、学生は学業が基本だろう、せいぜい励み給え」
彼は又もや私を睨み付けた、どうも彼は私の発言について、一々気に入らない所があるらしい。見た目の格好は私と同年代に見えるので、こういった上から目線の指摘をすれば尚更だろう。
「だったら、恋愛はどうなんだよ」
【衛宮神社】の神主様、といやみたらしく言われたものの、私のあずかり知らぬ部分なら、嫌みは嫌みにすらならない。
「何でも程度というものがある。そもそもキミもいい歳だ、ティーンズでもあるまいに、肉欲にかまけてばかりで恋愛などと嘯くのは、いささか幼稚ではないかね」
彼のトラブルは、何も今回ばかりではない。確か先日も、『摘まみ食い』云々で騒動になっている。絵馬に書いた願いから考えると、彼の行動と願いは随分と破綻している様にしか見えない。
「でもよぉ、セックスは気持ちいいじゃねぇか、後腐れさえなけりゃな」
呆れた。
「そりゃあそうだろうな、だから程度と言っているんだ。少なくともキミの願いとやらは随分と貞淑だったが、願うだけなら猿でも出来るぞ」
「テメェ、見やがったのか」
「御炊き上げする時に、だ」
彼とこういった話をするに当たって予め仕込んでおいた嘘だが、黙り込んだ所を見ると上手く発動した様だ。しかしどうも、彼は単に図星を突かれて黙り込んだ訳ではなかった。沈痛な表情を見るに、ある種の覚悟、といった所だろう。
「……だったら、腹割っちまった方がいいな」
彼はそう言って煙草に火を付けた。この御時世に随分な煙草好きだと思っていたのだが、どうも彼は一種の手持ち無沙汰の解消として使っているらしい。少なくとも、煙草を咥えている感覚はあまりなさそうだ。
少し、間が空いた。
「俺は、海外から来たんだ」
「見た目で分かる。以前言っていただろう、この見た目で楽もするが苦労もする、と」
少なくともこの国の人間っぽくはないぞ、と言うと彼は失笑を漏らした。
「いずれはそこに戻らなきゃならねぇ、家業ってのは捨てられないんでな……てか、生きてる限りは何処までも、影の様に着いてきやがる……運命って、奴だな」
私の知識の中に彼のその家業、とやらは組み込まれていなかった。改めて聞くと海外の大手会社の跡取りらしい、どおりで雑に見えて基本が裕福な人間の立ち振る舞いをする訳だ。兄とか双子の弟とか弟の話は聞いていたが、ゲイはどうも彼だけらしい。
「その……カミングアウトは、したのか?」
昨今でも中々にオープンにはしがたい問題だ。家族の受け入れ如何によっては、自死を選ばざるを得ない程追い詰められる事も、まああると聞く。
「それでも変わらなかったから、逃げ出したんだ……とりあえずは、な」
「どういう事だ?」
長い長いため息が漏れた。容赦がねぇ、と彼は再び失笑を漏らした。
「ゲイだろうが跡取りの一人だ、一家庭を持ち、立派な養子縁組で子孫を残せ、とさ。それでどんな性癖だろうと問題はねぇ、と言いきりやがった。実際、大叔父の一人は、大量殺人者だったが、子孫だけは立派に遺したからとまで言われたぜ」
私が関与する事になった魔術師界隈でも、家族関係というものは世間一般と『目的』が違うのだから随分と歪んでおり、私には直視に耐えがたい部分もあるが、彼の家庭も中々の塩梅だな、と口の端を歪めた。つまり彼の両親一族は、彼の有り様を理解して受け入れたのではなく、実に事務的に彼の状況を処理しているだけに過ぎない……これはこれで、中々に残酷だと思わずにはいられない。人によっては、ありきたりの拒否や嫌悪よりも余程堪えるだろう。
「……そんな顔すんな、自由だなんだとほざくほど、馬鹿じゃねぇよ。それこそ産まれた時から腹は括ってら」
絵馬に書いた彼の願いが、今では酷く老成した末に行き着いた代物に思えた。どこぞの貴族の様に、一般人に下って今までに無かった労苦をする馬鹿話を、彼は容易に想像出来るのだろう。或いは狭い界隈で、そういった苦労話は山ほど聞かされているのかもしれない。
「そうか……いい相手に出会えると、いいな」
私はそう言いながら、意識を別の意味で彼に向けた……人の因果に影響するのは本当に厄介だが、私の力を使えば一定程度の因果に影響する事は可能だ。それこそ彼が望んでいる人間の心を変えて彼と恋に落ちる様に仕向ける事は、暗示を使えば存外簡単だ。もっとも、その後の事を考えると大概はゾッとしない結末を迎えるので、そういった人間が彼に会う確率を上げる程度に留めておくと決めている。
「そんな神妙な顔すんなよ、出来たらラッキーぐらいなもんなんだからさ」
沈黙が長すぎたのか、彼はそんな言葉を漏らした。
「そう思っていたら、故郷から逃げたりしないだろう」
「修行だ、修行、湿っぽい話にすんな」
「濡れ場で修行とは、中々業が深いな」
「……オジキなら、そうと言ってくれるだろうがな……」
少し浮かれた表情をした彼は、再び何処か思い詰めた表情になった。
しかし、【衛宮神社】に百度参りでもする気かね。
私が結界を張り直した結果、【衛宮神社】は自分でも驚く程、周囲から意識されなくなった。魔術師の工房なら逆にそれだけで『悪目立ち』するが、そもそも魔術師は霊脈を知っているし、所謂レイポイントに【衛宮神社】は建っている。目を付けられるという意味では戦術的な時点で諦めているが、そこを一般人から隠すのは悪くないと思う。
だが、彼の意識から【衛宮神社】は逸れない様だ。むしろやってくる頻度が上がっている、今やほぼ毎日だ。
「キミも懲りないものだな」
「オメェ、応援するのか貶すのか、どっちかにしろよ」
そう言いながら、彼は今日も賽銭をばらまいている。『謹慎』はとっくの昔に解けたが、彼も大学の最終学年だ、バイトは惜しまれつつも辞めたらしい。流石に修士や博士課程に進学する、という『逃げ道』を取るつもりはない様だし、そもそもなんやかんやと言いつつ、『不出来な学生』が陥る留年の怖れとは無縁だ。
「そんな事してみろ、決まった途端に中退させられるのが関の山さ」
「ほぉ、学位は何としてでも取らせると思ったが」
「学位なら奴が腐るほど取ってら、俺に一つも無いからって問題になりゃしねぇよ」
どのみち、と彼は指を二本、立てた。
「就職して二年で、家に戻る。そしたら会社のそれなりの枠に収まって、結婚だ」
見るか、とスマートフォンを操作して出てきたのは、彼には見劣りするものの、事情を知らなければ羨望のため息が漏れる容貌の男達の画像だ。
「こっちが恋人枠だ」
そして、と続いてスライドするのは幼い少年達だ。これまた、事情を知らなければ彼等自身を羨ましいと思うだろう。
「こっちが養子枠」
「……もう、決めてるのか」
流石の私も、彼の家のシステムの徹底ぶりには驚かざるを得ない。本気でそうするつもりなのだ。
「四年もありゃあ、それぐらいするさ。ウチのはそこまでの愚図じゃねぇぜ」
残りは二年と少しだ、と彼は言いながら、不意に私の手を取り、じっと私の瞳を覗き込んだ。
「……なぁ、鈍い鈍いたぁ覚悟してたが、いい加減、気付いてくれよ。アンタがそうじゃないとしても、俺は既にそうなんだ」
じゃなきゃ、何で毎日こんな所に来るんだよ、と呟いた唇が私のものと重なった。彼が愛用しているコロンの匂いが爽やかではなく、酷く甘ったるい事に気付いたが、私の心に沸き上がったのは、そんな甘さを交えた、それ故のほろ苦さだった。確かに私は鈍い、今この瞬間ようやく、どうして彼が【衛宮神社】に顔を見せる事が出来るかに思い至った……まさしく因果だ、私の結界は私自身によって破られていた、という訳だ。そして彼が、戯れでそうしている訳でもないと思い知ってもいた。
私は『神様』になって初めて、或いは昔から数えて初めて、『人間ならばよかった』と思った。何しろ二百年で、歪な世界でもある、しかしそれでも私は『神様』になったならばただ賢明にやっていこうと思っていた。その先は、大戦でもハッキリしている様に消失だ。だが、私は絶望も羨望も抱かなかった。
……最後に泣いたのは、何時だったろうか。少なくとも死の間際、私が漏らしたのは諦念のため息だった。もしかしたら、私が誰かを想うが故に音もなく涙が零れていくのは、産まれて初めてかもしれない。
「すまない……」
私は俄に実体化を止めた。そもそも本来、実体化する必要は皆無だが、生前の私の習い性でそういった形を取って霊脈を管理する事に慣れきってしまっていた。実体化すれば誰かの手を取り助ける事が容易だと思っていたのだが、同時に私はF市の、【衛宮神社】の敷地から一歩たりとも出る事は出来ない。本来の『神様』の様に、ある月に外に行ったりなぞ絶対に不可能だ。
彼と一緒に行けないなら、恋などするべきではないのだ。
時間はのろまだ、逃げ出してから三日しか経っていない。
三日も掃除を放っていたのだ、と私は自分でもため息をつきたくなる感情に失笑を零しながら、竹箒を持って敷地に実体化した途端、鼻先に見慣れた青い髪を見付けた。
「ヨォ、出てくる時はそんな感じなんだな」
私は思わず後ずさりをしようとして、腕を掴まれて諦めた。怖れどころか、僅かな喜びさえ抱いてしまっているのが、恥ずかしい。そして、どこか嬉しい。それでも恥ずかしいが、流石に見られたくない自分を再び見られた気持ちで、あんなに間近だった顔すらまともに見る事さえ出来ない。
「あ、あのだな……私はこの通り、なんだ……キミ、だから……私は、ダメ、だ……」
「てかアンタ、結構有名なんだぜ。年を取らない【衛宮神社】の宮司サンってな」
え?
ええええ?
ええええええええええええ? な、なんでさ? ま、まってくれ、それじゃ私が散々張った結界がまったくの台無しじゃないか! 何処の新聞社だコラアアアアアアアアアアアお前のトコの刷版機械を複製しまくってやるぞ!!!!!
「ど、どど、どこで、そ、そんな………」
「F市じゃ割と有名だけど、口には出さないのな」
よくある事さ、家の妖精みたいにな、誰だって公然の秘密とその訳は知ってら、と彼はカラカラと笑う。私は別の意味で泣きたいばかりの気持ちで、彼の言っている事が殆ど聞こえない。何処まで誰が知っていたかは知らないが、三歳の子供でも知っているなんて流石に認めないからな。
「そんな驚くなよ、可愛すぎだろう」
あれだけ話してるのに、自分がちっとも普通じゃねぇのをまるで気付いてねぇんだから、と笑う彼は、不意に私を鋭く見つめてきた。件のホストクラブ時代、ホール係がこの目で客を見つめてきたら、誰だって勘違いしてしまうだろう。私だってそうだし、勘違いしているとは思いたくない。勘違いだったら、惨めさで死んでしまうだろう。
「否が応でもテメェの心臓をもらい受ける、名前は?」
そう言えば彼とは随分と話をしたはずなのに、一度も私の名前を聞いてこなかった。その時点できっと彼は私の事を知っていたのだ。
「『無銘』だな……私はこうなった時点で名前を喪った」
でも、と私は小さく微笑んだ。
「キミには、『エミヤ』と呼んでもらいたい」
それでも私は片意地を張っていて、実際に呼ばれた途端に座り込んでしまうとは、夢にも思いはしなかった。