役所は芸能事務所じゃない
自治体文化政策を、個別事業の収益性と雑に混ぜてはいけない
自治体が文化芸術に関わる理由は何か。
その問いを考えるとき、文化施策の目的と個別事業の運営・収益設計を混同しないことが重要だ。
本稿では、その二つを分けて考える必要性について整理してみたい。
文化施策の話と、収益化の話は、そもそも別の議論である
大阪の時も、今度の神戸も、オケ存続が厳しくなると、やれああしろこうしろ、収益上げろってなるけど、オケ運営の方も厳しいのを百も承知で工夫もしてる。現状と世間の理解が合ってない。
— Yuko Shibuya(渋谷ゆう子) (@yukoshibuya92) March 14, 2026
本にも書いたとおり、オケはそもそも儲からないんです。他国のオケもそう。
そこを出発点にしないとまた空論。
この数日でクラシック音楽界隈でまたオーケストラの存続危機が話題となった。私の投稿に反応をくださる方も多いが、Xでは議論が分散しているので、ここにまとめたいと思う。
自治体の文化事業をめぐる議論では、文化施策の話と、個別事業の収益化の話が、しばしば雑に混ぜて語られる。
オケが危機だという話になるとすぐに、「採算が取れていない」「もっと売れる形にすべきだ」という指摘がなされる。それそのものには、一理ある。限られた財源をどう使うかを考える以上、事業の効率や持続可能性が問われるのは当然のことだ。
けれども、そのことと、自治体がなぜ文化芸術に関わるのかという政策目的の議論は、本来、同じ平面で扱うべきではない。
ここを混同した瞬間に、議論は驚くほど粗くなる。
文化施策とは、住民に文化的アクセスを保障し、教育や地域の公共性を支え、長期的な文化基盤を育てるためのものである。
一方、収益化とは、その枠のなかで個別の事業をどう持続可能に設計するかという、運営上の課題である。
前者は目的であり、後者は手段である。
どちらも大切だ。
だが、同じものではない。
私はこの点を、日本のクラシック音楽と地域文化の現場に関わってきた立場から、かなり重要な問題だと考えている。
拙著『揺らぐ日本のクラシック』でも触れたように、文化は作品や演奏だけで成立しているのではない。ホール、教育、聴衆、批評、メディア、行政、支援の仕組みといった複数の基盤によって支えられている。だからこそ、文化施策の妥当性を、個別事業の売上だけで短絡的に測るべきではないのである。
まず問うべきは、「自治体は何のために文化に関わるのか」
自治体が文化芸術に関わる理由は何か。
この問いに対して、私はまず、順番を間違えてはいけないと思っている。
民間のプロモーターや芸能事務所であれば、収益性は中核的な判断軸になる。何が売れるか。どう集客するか。どの企画が成立するか。
そこに厳密な判断が求められるのは当然であり、それが事業の力でもある。
けれど、自治体は本来、売れる公演を作るために存在しているわけではない。
自治体が文化に関わるのは、住民に対して一定の文化的アクセスを保障するためであり、子どもたちの教育の土壌を支えるためであり、地域の記憶や誇りを守るためであり、市場原理だけでは残りにくい文化基盤を維持するためであるはずだ。
つまり、自治体文化政策の出発点は、
「何が儲かるか」ではなく、「何を公共として守るのか」
でなければならない。
にもかかわらず、文化施策の妥当性を論じる場面で、いきなり
「その公演は何枚売れたのか」
「それで黒字なのか」
という話だけに回収してしまう。これでは本来の政策目的が抜け落ちる。
議論として、順番が違うのである。
まず問うべきは、その自治体が文化を通じて何を守ろうとしているのか、何を育てようとしているのか、という政策の目的だ。
そのうえで初めて、その目的に照らして各事業の設計や収支、運営の工夫を検討するべきだろう。
経営努力は必要である。だが、それは文化施策の目的ではない
ここで誤解していただきたくないのは、私は文化事業に経営感覚は不要だと言いたいのではない、ということである。
むしろ逆だ。
自治体が関わる事業であっても、運営の質は厳しく問われてよい。
広報の工夫、営業努力、スポンサーの開拓、プログラム設計、アウトリーチ、学校や地域団体や他部署との連携。
そうした努力は、文化事業が持続していくために不可欠である。
現場にいる人たちは、多くの場合、すでにその苦労を日々引き受けている。
文化事業の現場を知っている人ほど、その現実を軽くは語れないはずだ。
だから、個別事業に対して「もっと工夫できるのではないか」「持続可能な設計にすべきではないか」と問うこと自体は、まったく間違っていない。
問題は、その収益化の議論を、そのまま文化施策全体の存在意義の話にすり替えてしまうことだ。売上を上げる工夫は必要である。
だが、売上を上げることそのものが、自治体文化政策の目的ではない。
ここを取り違えると、行政はいつの間にか文化政策の担い手ではなく、興行成績だけを気にする主体になってしまう。
それは、行政の仕事を厳しくしているようでいて、実は雑にしている。
役所は芸能事務所ではない。
この言葉の意味は、経営努力を否定することではない。
政策目的と事業収支を、同一の尺度で処理してはいけない、ということなのである。
地域オーケストラや文化団体は、「売上」だけでは見えない仕事をしている
地域オーケストラや公的文化団体の価値は、本公演の収支だけでは測れない。なぜなら、その仕事は舞台の上だけで完結していないからだ。
学校へのアウトリーチ。
子ども向け企画。
福祉施設との連携。
地域の音楽教育との接続。
ホールとの協働。
地元人材との関係づくり。
こうした活動は、単発の興行として見れば効率が悪く見えるかもしれない。
しかし、地域社会にとっての意味はきわめて大きい。
民間だけに任せていては届きにくいところへ文化を届けること。
いま目の前の利益にはなりにくくても、将来の聴衆や地域の文化土壌を育てること。
文化を単なる消費ではなく、学びや対話や地域の誇りへとつなげること。
こうした働きは、公共が関わるからこそ可能になる。
にもかかわらず、評価の物差しが定期会員数、チケット販売や単年度収支に偏りすぎると、そうした活動は見えにくくなる。
そして、見えにくいものから先に削られていく。
私は、ここに強い危機感を覚える。
それは文化団体にとって不幸なだけではない。
地域にとっての損失でもあるからだ。
『揺らぐ日本のクラシック』で書いたのも、「土台が痩せる怖さ」と「見えないことへの無理解」だった
拙著『揺らぐ日本のクラシック』で私が書いたのは、日本のクラシック音楽を取り巻く環境と理解が、揺らいでいるということだった。
その揺らぎは、演奏家の問題だけでも、聴衆の問題だけでもない。
ホール、教育、メディア、批評、制度、支援の仕組みなど、周辺を支える基盤全体の問題として現れている。
クラシック音楽に限らず、文化は、それを支える土台が痩せれば、作品や公演の質だけでは支えきれなくなる。
どれほど優れた演奏があっても、それを受け止める場、育てる仕組み、届ける経路、理解する言葉が失われていけば、文化全体は少しずつ細っていく。
だからこそ、文化施策の議論において、制度や基盤の話と、個別事業の収益の話を混線させることには慎重であるべきだと思う。
ある団体の公演収支が厳しい。
だから改善策を考える。
これは当然である。
しかし、そこからすぐに
「だから自治体の文化予算を減らしてもいい」
「だから公的支援は不要だ」
という方向へ飛躍するなら、それは議論として粗い。
個別事業の経営課題と、文化政策の存在理由は、近いようでいて、やはり別の問題だからである。
では、自治体文化政策は何で評価されるべきなのか
収益性だけではないと言うなら、何をもって評価するのか。
この問いに対して、文化側も曖昧なままでいてはいけない。
私が重要だと思うのは、少なくとも次のような観点である。
1. 文化的アクセスは保障されているか
年齢や所得、居住地にかかわらず、住民が一定水準の文化芸術に触れられる環境があるかどうか。
2. 教育とつながっているか
子どもたちにとって文化体験が限られた家庭だけのものではなく、地域のなかで開かれているかどうか。
3. 地域資源として蓄積しているか
単発のイベント消費ではなく、その地域に人材、経験、ネットワーク、鑑賞文化が蓄積していく仕組みになっているかどうか。
4. 公共性の質を持っているか
文化芸術が、単なる娯楽提供にとどまらず、学びや対話や地域の誇りにどう寄与しているか。
5. 運営は健全か
財源の多角化、広報、連携、事業設計、予算執行の妥当性など、持続可能性に向けた努力がなされているかどうか。
ここで大切なのは、五番目を軽視しないことと同時に、五番目だけを肥大化させないことである。
運営の健全性は必要条件であっても、それだけで文化政策の価値は決まらない。
文化に税金を使う意味を、もっと丁寧に言葉にしなければならない
文化芸術の分野には、ときに
「良いものなのだから必要性は自明だろう」
という空気がある。
しかし、いまの時代、それでは通らない。
財政が厳しくなれば、見えにくい価値から先に削られていく。
だからこそ、文化に関わる側も、行政も、なぜそれが公共として必要なのかを、もっと丁寧に言葉にしなければならない。
何を守るための予算なのか。
何を育てるための政策なのか。
どのような公共的価値を住民に返しているのか。
その説明を、感覚や善意だけに頼らず、社会に開いていく必要がある。
ただし、その説明の仕方もまた重要だ。
文化施策の必要性を語る場面で、すべてを収益や集客の言葉に翻訳してしまえば、結局は政策目的のほうが痩せていく。
必要なのは、公共としての目的を明確にしたうえで、その実現のための事業設計や運営改善を論じることである。
順番を誤ってはいけない。
最後に――必要なのは「文化か収益か」という雑な二択ではない
文化施策の話と、収益化の話を雑に混ぜてはいけない。
このことは、文化を特別扱いしたいから言うのではない。
むしろ逆で、行政としての責任を正確に考えるために必要な整理だと思っている。
自治体が文化に関わる理由は、売れる事業を作るためではない。
住民の文化的な権利を守り、教育を支え、地域の記憶や誇りを育て、長い時間をかけて文化基盤を形成するためである。
その枠のなかで、個別事業の運営は厳しく見直されてよい。
むしろ見直されるべきである。
だが、そのことと、文化施策そのものの意義を短絡的に一体化してしまえば、議論は必ず貧しくなる。
役所は芸能事務所ではない。
だからといって経営努力が不要なのではない。
問題は、政策目的と事業収支を同じ尺度で処理してしまうことにある。
いま必要なのは、文化か収益かという雑な二択ではない。
文化施策の目的を明確にし、そのうえで個別事業の持続可能性をどう設計するかを、丁寧に分けて考えることだと思う。
その整理ができないままでは、文化政策も、事業運営も、どちらも弱くなる。
逆に言えば、ここをきちんと分けて考えることができれば、自治体文化政策はもっと健全に、もっと強く、社会に説明できるものになるはずだ。


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