舞台『反乱のボヤージュ』を観て思った取り留めのないこと…(感想に非ず)
脚本家・作家の故・野沢尚氏が2001年に発表しドラマ化もされた小説『反乱のボヤージュ』(集英社文庫。以下、原作)が鴻上尚史脚本・演出で舞台化(以下、本作)されたのを観て、色々な事を思った。
そんな取り留めのない事を書いた本稿は、だからきっと、感想でも批評でもない。
首都大学の学生寮"弦巻寮"。
大学側は寮の取り壊しをもくろみ、元機動隊の名倉憲太朗(石黒賢)が舎監として送り込まれることに。
一方、一年生の坂下薫平(岡本圭人)は、個性豊かな学生たちや、口は悪いが料理の腕は確かな食堂担当の調理師・日高菊(南沢奈央)らと楽しい日々を過ごし寮生活を満喫していた。
しかし強行に廃寮をすすめる学長補佐の宅間玲一(益岡徹)からの要請を受けた名倉は着任早々厳しい統制を始める。
時を同じくして起こった、薫平の父親問題や寮生のストーカー事件。
自分たちが抱える問題に踏み込んでくる名倉に最初は反抗するが徐々にうちとけていく。
一方で、過去のトラウマや秘密を抱えていた名倉も、かつての学生襲撃事件で共に闘った久慈刑事(加藤虎ノ介)と接点を持ちつつ廃寮に向けて学生に厳しく接しながらも、やがて学生たちと心を通わせていく。
トラブルを乗り越えながら結束を固めた寮生達は、遂に大学側との戦いに立ち上がる。
その時、薫平、そして名倉がとった行動とは-
(俳優名の追記と改行は引用者)
本作は幾人かの人物のエピソードがカットされていたり端折られていたりするが、ほぼ原作を踏襲している。細かくは検証できないが、セリフもほぼ原作どおりだ。もとより、小説といえど脚本家が書いたセリフなのだから、変更する必要もないだろう。
「STORY」からもわかるとおり、本作は「大学側の一方的な都合により学生寮が廃寮になる」ことへの反対運動に端を発した「現代の若者による学生運動」の物語だ。
さらに「学生運動をする現代の若者」と「半世紀前の学生運動の当事者」ーつまり、「既に人生を諦めて無気力に生きる現代の若者」と「社会に反乱を起こしたことなどなかったかのように総括もせず社会に迎合して生きる当時の若者」ーが対峙する構造となる。
それは本作はもちろん、本作の脚本・演出を務めた鴻上が2007年に上演(2009年再演)した舞台『僕たちの好きだった革命』(以下、『僕たちの』)にも通じている(この芝居も、後に自身の筆で小説化している)。
両作は、20世紀末、大学寮の廃止/高校の文化祭の中止を強権的に行おうとする学校(という「大人」)と闘う学生の物語で、元機動隊員(本作)或いは1969年の意識を持ったまま甦った中村雅俊演じる中年高校生(『僕たちの』)という中心人物(主人公)が、学生たちに火をつけ団結させる(本作には厳密な時代設定がないが、原作には『二十世紀最後のクリスマスイブほど楽しく怒ったことはなかった』と記されている)。
さらに、一部の反乱に対して無関心である大勢の学生の心に火をつける役目を音楽(本作では沖田(前田隆太郎)率いる「TRUE BLUE」のロック、『僕たちの』ではタイトキック(GAKU-MC)のヒップホップ)が担うところも共通している。
誤解して欲しくないのだが、私は似ていることを論って批判しているのではなく、本作を鴻上が舞台化するのは当然の流れだったということだ(駒井蓮演じる本多真純がヘルメットをかぶった姿を観て、『ヘルメットをかぶった君に会いたい』を思い出したりもした)。
両作が特徴的なのは、学校(大人)側の「実在」が、正々堂々(やっていることは狡猾・卑怯だけれど)と学生の前に立ちはだかる、ということだ(その人物が主人公と浅からぬ因縁がある、というのは物語としてのセオリーだ)。
……と、ここまで書いて本作の話に戻る。
本作が面白いのは、この「半世紀前の学生運動の当事者」が、学生運動に「参加した」学生ではなく、「参加させられた(参加を余儀なくされた)」機動隊員であることだ。
『単に嫌っているだけではありません。強烈に嫌っています』『反骨というものを気取っているあなたたちを、この手で、この寮から叩き出してやります』と言う名倉は、当時闘った学生たちと寮生たちの違いをこう語る。
彼らには彼らなりの、幼いなりの道しるべがあったんです。何でもありの世界を生きているわけではなかった。その足で地面を蹴って、私たちに挑んでくる。私たちは彼らを敵として認知できた。彼らが迫ってくる時には地鳴りが聞こえてきた。それに比べてあなたたちは、ただ漂っているだけだ。足音なんて聞こえない。
本作の話に戻ったばかりだが、私はこのセリフを聞いて、何故か、故・つかこうへい氏のことを思い出した。
現在でも若手アイドル(的)女優の登竜門のようになっている、彼の作品『飛龍伝』。彼の死後に長谷川康夫氏が発表した『つかこうへい正伝 1968-1982』(新潮社、2015年)にはこう記されている。
(1973年初演の)『初級革命講座飛龍伝』は90年代以降、つかが若い女優たちを使って繰り返し上演した『飛龍伝』とはまったく別の作品だということである。もちろん『飛龍伝』は『初級革命講座飛龍伝』をベースとして生まれた芝居ではある。しかし物語が、女性活動家と機動隊員のラブストーリーに特化してしまう、つかが最初の作品に込めた思いも、演劇的な奥深さも、「初級革命講座」のタイトルとともに、消えてしまっている。
確かにそうだと思うが、では、つかが何も思いを込めず、ただ若い女優観たさに来た若者を泣かせるだけのラブストーリーを書いたというのも、違うのではないか。
『飛龍伝』の幕開け、当時学生だった男が教員として「安保闘争博物館」に引率して来た地方の生徒たちに当時を解説しているシーンで、一人の生徒が展示している機動隊員の蝋人形に胸倉を掴まれて叫ぶ。
『この人形、生きとります!』(2003年 つか自身の演出で上演された『つかこうへいダブルス2003 飛龍伝』より)
機動隊員が胸倉を掴んだのが、その時代を知らない現代の学生だったというのは、名倉の怒りに近いのではないか。
というか、『その足で地面を蹴って』という名倉の言葉で思い出したのは、『つかこうへいダブルス2003』で同時上演された『幕末純情伝』(杉田成道演出。ただし、ともに主演は広末涼子、筧利夫)の幕開け、地面に這いつくばる桂小五郎の『じゃり、じゃり』というセリフだったのだが、それはさておき、本作の「学生運動」ともう一つの軸になる「大学側の一方的な都合により学生寮が廃寮になる」という話だ。
本作の「東京にある"首都大学"の歴史ある学生寮」という設定から想起するのは、京都大学の「吉田寮」ではないか(本作パンフレットでは、野沢氏の父親は『京都大学の霊長類研究所で働き』と記されている)。
現実的に、この吉田寮は立ち退き問題で係争中であり、それを扱ったドキュメンタリーやフィクションも多く作られている。
フィクションで私が思い出すのは、2018年7月25日にNHKで放送(2020年にディレクターズカット版が劇場公開)されたドラマ「ワンダーウォール」(渡辺あや脚本、前田悠希監督。以下、『ワンダー』)と、映画『うかうかと終焉』(大田雄史監督、2023年。以下、『うかうか』)だ。
位置づけとしては、『ワンダー』はまさに学校側と寮生側が対立している「現在」、そして『うかうか』は、吉田寮と縁がある大田監督自らパンフレットで『吉田寮の話としてやりたいとは思わなかった』と語っているとおり、廃寮が決定した「架空(「未来」ではない)」の話。
面白いことに、この2作品には『正々堂々(やっていることは狡猾・卑怯だけれど)と学生の前に立ちはだかる』大人が登場しない。
だがそのことによって、『その足で地面を蹴って、私たちに挑んでくる。(略)それに比べてあなたたちは、ただ漂っているだけだ。足音なんて聞こえない』という名倉の憤りが若者に響かない理由が暴かれている。
『そうしたのは、お前たち「大人」の側じゃないか』
若者のそんな声が聞こえる。
『ワンダーウォール』の「ウォール(壁)」とは、大学の学生課に突如出現した「窓口の壁」で、それまでのように大学側と学生側が直接顔を突き合わせることができなくなった。
それに加え、その窓口には(どんな波の力をも吸収する「テトラポット」になぞらえた)「テラトポット」というあだ名の寺戸さん(演じる山村紅葉さんが秀逸!)がいて、しかし、派遣だった寺戸さんの後任に新しい女性(成海璃子)が窓口に立ったことにより、学生側の交渉役の一人である志村(岡山天音)は、学生側の敗北という現実を認めざるを得なくなる。
コタツに入った志村は、手元にあるもので、「窓口の人」→「いつも不在(と学生には告げられる)担当者」→「学生部長」→「大学」という構図を説明する。
俺らは、「窓口の人」を倒せば、その次に「担当者」と闘えると思ったじゃん。でも、現実はそうじゃなくて、「窓口の人」が倒れたら、また新しい「窓口の人」が来る。「窓口の人」が「部品」みたいに取り換えがきいて、どんどん交換されるだけなんだ。ここから先は、永遠に出てこない。大学という組織は、今もう、そういう設計になっている。
だけど、どれと闘っても無駄なんだよ。敵はこの中にいない。
そう、この国の総理大臣だって、あっという間に簡単に、あっさり取り換えられる時代。
名倉の言うような『敵として認知』できる者はいない。
それを知っているのは、さかんに「あの頃」を美化して、勝手に若者に落胆する、「あの頃の若者」たちだって同じじゃないか。
というのが、『うかうか』だ。
寮の最終日。闘うでもなく、抗議するでもなく、ただダラダラ残った、伸太郎(西岡星汰)と美濃部(渡辺佑太朗)。特に、美濃部は、引っ越しの準備すらしていない。そんな彼に発破をかけようとしてか、伸太郎は白いヘルメットを被り、角材を燃料にして、ドラム缶の中で美濃部の大切にしていた書物を燃やしてしまう。
激怒する美濃部に対して、伸太郎が言う。
……やりますか。ロックアウト。バリケード2人でつくって。美濃部さんがやるって言ったら、やりますよ。美月も、中吉も。児玉さんだってすぐに帰ってきます。寮を通過していった人たちもきっと駆けつけてくれます。全国のOB・OGが、機動隊の隙をかいくぐり救援物資を投げ込んでくれます。美濃部さんがやるって言ったら、本当にできます。
そのセリフに対し、私は拙稿にこう書いた。
伸太郎の言葉を聞きながら、私は泣けて泣けてしかたがなかった。独りで観ていたら嗚咽していただろう。
結局、伸太郎は自分の言葉を何一つ信じていない。反対に彼が信じているのは、美濃部が「やろう」とは絶対言わないことだ。
こんな切ないセリフがあるだろうか。
かつて、築100年の寮の時間の中間点に、そんな時代があった。
多くの若者がヘルメットを被り角材(ゲバ棒)を手に共に、大学と、社会と闘った、そんな時代があった。
築100年で取り壊しの決まった寮が最後に綴った物語は、ヘルメットを被り、手にした角材をバットに見立てて野球をする二人の若者の姿だった。
私は、野沢氏や鴻上氏の物語が古いと思っているのかもしれない。
恐らくそれは半分当たっている。でも、もう半分は、そうじゃない。
確かに名倉は若者を憎んでいる。
しかし、野沢、鴻上両氏が怒っているのは、実は「あの頃の若者」ではないか。
『そうしたのは、俺たち「大人」の側じゃないか』
その想いは多くの人に気づかれることなく、時代は怒りを忘れていく。
野沢、鴻上両氏が恐れたのはきっと、忘れられていくことだ。だから、文学や芝居で語り継いでいく。というか、「語り継いでいって欲しい」と願っている。
『僕たちの』は、学生側の中心人物・小野未来(初演・再演ともに片瀬那奈)が、事の始終を小説にする(芝居は、数年後に語り部がそれを読んでいるという体で進められる)。
本作は、語り部である薫平が見たこと、体験したこととして語られる。
しかしそれは、物語の作者の要請ではなく、物語の中の人物、具体的には名倉が要請したことだ。
神楽に会いに行く際に、薫平を同行させたのもそうだが、取り壊し阻止のために籠城している薫平(だけ)に名倉は、『たくさんのものが見えてきます』と言う。『何を見ればいいんですか?』と問う薫平に、彼は答える。
圧倒的な暴力にあなたは痛めつけられるかもしれない。その時、怒りや憎しみに支配されてはいけない。地面を踏み締めて立ち上がることができたら、一度目を閉じて、全てを無にしてから大きく目を見開いて、周りの世界を見つめて下さい。360度、ぐるりと見渡すことです。虚心になった目にいろいろなものが見えてくるはずです。
そして薫平は突入してきたガードマンたちとのもみ合いの中で「見る」。
惑わされてはならないものが、360度の視界にたくさんあった。動乱の世界にいても、信じていいことと信じてはいけないことを、今の自分なら判別できるような気がした。
『信じていいことと信じてはいけないこと』を『判別』するために、『地面を踏み締めて立ち上が』り、『一度目を閉じて、全てを無にしてから大きく目を見開いて、周りの世界を見つめ』ることが必要だ。
原作は2001年に書かれたものだが、『信じていいことと信じてはいけないこと』が、更にわからなくなってしまっている2025年の今だからこそ心に沁みる。
歩いている時でさえスマホに目を落とし、ヘッドホンで耳を塞いでばかりいる現代の我々は、果たして名倉の言う『全てを無にしてから大きく目を見開いて、周りの世界を』『360度、ぐるりと見渡す』ことができているだろうか。
2025年に本作を上演する鴻上が、そう、観客に問うている。
メモ
舞台『反乱のボヤージュ』
2025年5月10日 マチネ。@新橋演舞場
原作では「TRUE BLUE」の沖田が歌う歌で若者が目を覚ますという様がシンボリックに描かれていたが、本作では上手く伝わっていなかったような気が……
本作の歌詞とは違うかもしれないが原作の沖田はこう歌っている。
恐れるな、光は東の空をいつか染めるのだから。
越えてゆけ、瓦礫に躓き、道に倒れても。
涙を噛め、闇に包まれ、狂おしく叫ぶ時も。
ノーサレンダー。屈服するな。
時代は必ず、この手て作られる……。
(2025年8月26日追記)
2025年8月25日、吉田寮を巡る訴訟が和解に至った。
翌日26日付朝日新聞朝刊は、『学生たちが今年度中に明け渡す一方で、耐震工事が終われば再入居できるようにすることで合意した』と報じている。
学生運動などを扱った鴻上尚史氏の作品



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