4月19日(土) 弱さ考についてのメモ
朝、車をとりに1.5kmくらい歩く。家に戻ってきた時点で今日の歩数が8,000歩になっていて、苦笑する。昨日(日付は今日)の帰り道どれだけ回り道して歩いたんだ。
「強いビジネスパーソンを目指して鬱になった僕の”弱さ考”」を読み返す。
ダイヤモンド社で働いていた著者の井上慎平さんは30歳前後でITスタートアップの書籍レーベルの立ち上げと編集長に抜擢された。企業はいたってホワイトで、残業もなかった。けれど、頑張り過ぎて鬱になって休職を余儀なくされてしまった。
弱さとは何か、それを「弱さ」たらしめているものは何か。
歴史、社会、教育などたくさんの視点から、著者がどん底から這い上がる過程でたくさんの本を読み、考えたことをまとめた本。
この本の編集者、今野良介さんがこの本についてインスタに記していた言葉が印象に残った。
「自分らしさとか個性とかは「弱さ」の中にしかないと思う。だから、「弱さ考」は自分について考える本。社会が求めてくる「強さ」から、自分自身を守る本です。」
ビジネス書だけど半分ビジネス書じゃない。半分は井上さんが挫折や痛みをさらけ出してくれた本だ。井上さんの痛みの文が本当に痛くて、感情移入して泣きそうになった。
本が付箋だらけになった。鬱で苦しんでいた先輩のこと、自分が落ち込んでいた時に近くにいてくれた友達の顔が思い浮かんだ。
この本にたくさん宿題をもらった。弱さについて、これからしばらくぐるぐる考えそうだ。
(印象に残った言葉メモ)
強くあろうとし続けた結果、弱くなった。弱い自分になったいま、実感をこめて言える。僕たちは、強くなろうとせずにいることが難しい時代を生きている。
「弱くてもいいんだよ」と全面的にケアする本ではない。ケアをうけた人は、その後再び強さを求められる世界に戻っていかなくちゃならない。他のビジネス書が武器だとしたら、この本は、生身の人間が働くための防具だ。
慣れない横文字を使い話す僕は、半分は自分に酔い、半分は背伸びがバレないようにと怯えていた。なんとか自分を「仕事がデキる人」に見せようと必死だったが、そうじゃないことは自分がいちばんよくわかっていた。でも、僕は背伸びをし続けた。周囲の人はみな、自分よりも優秀に見えた。
自転車を止めて号泣した僕は、自分を「みじめ」だと感じた。けれど、それは「悲しい」であってもよかったはずだ。なぜ「みじめ」と思ったのか。今ならわかる。僕は、障害を発症する前の自分は価値が高く、発症後は価値が下がったと感じていた。うつの自分を見下していたのは、過去の自分の「上から目線」だった。
日本の教育は、相手の気持ちを考え、思いやれるいい子を育てる。でも社会にでれば目的達成が優先される。
鬱をどうやって治してやろうかな?と強がっては読書や無茶な登山を繰り返し、能動的かつ主体的かつ活動的に、病状を悪化させていった。
大前提として、ネガティブな感情をポジティブな感情よりおとしめていい理由は何もない。喜びや楽しみのほうが悲しみや怒りより価値があるとは、誰にも言わせない。本当におとしめられるべきは、人生を「ポジティブをたくさんゲットし、ネガティブをできるだけ減らして、総合得点を最大化するゲーム」のように捉える、「経済的」すぎる人生観の方だ。
そりゃあ、ネガティブな感情は嫌だ。でも、本当に人を苦しめるのは、ネガティブな感情そのものをじゃない。「ネガティブな感情が自分の中に存在することを自分で許せないこと」こそが真に人を苦しめる。
「愚痴をいう人間がいちばんダサい」と座右の銘かのごとく言いまくっていた20代の自分よ。聞いているか。
可能性は自分からあえて狭めていかねばならない。「ありえる私」につながるドアをひとつずつ閉じていく。しがらみをつくるとは、そういうことだ。
人生には、どうにもならないことがある。だから重要なのは自分を「課題解決」の対象にしないことだ。人生はビジネスじゃないのだから。
友だちをつくるのに「コミュ力」はいらない。「コミュ力」は、不特定多数の人と話す場で求められるものだ。逆にそういう普遍的な「コミュ力」を無効化してくれる存在こそが友だちなのだから。
ある日、友だちの1人がぽろっとこぼした言葉が忘れられない。「私はおしゃべりが上手じゃないし、晴れの日の友人にはなれないかもしれない。でも、雨の日の友人にならなれる気がするんです」
本当に友だちが必要になるのは、「生きる」に雨が降った日だ。
彼らと僕は「誰でもわかる」ような仕事での実績などじゃなく、「自分にしかわからない」欠損と過剰でつながっている。



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