4000年続いた奇跡の環境「真脇遺跡」、自然と共生した縄文時代の楽園…北陸に残る「環状木柱列」の謎
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【能登はやさしや土までも・2】
豊かな山や海の恵みを享受し、独特の景観や文化を形成してきた「能登の里山里海」は2011年、日本で初めて世界農業遺産に認定された。自然と共生した能登の暮らしの原点は縄文時代にまで遡る。(読売新聞文化部記者・多可政史)
全国に類を見ない「長期集落」
丘陵に沿った細い山道を車で上がると、富山湾を一望できる真脇遺跡(石川県能登町)に到着する。北陸を代表する縄文時代の集落跡として知られる同遺跡で昨年10月、当時の暮らしを再現する催しが行われた。
「館長。火が付きました」。子供たちが声を弾ませる。参加者に木の棒と板を使った火おこしを指導していたのは、真脇遺跡縄文館の高田秀樹館長(65)。同遺跡とは最初の発掘となる1982年から関わってきた。
考古学の世界では一つの遺跡を何十年も発掘する「生き字引」がいるが、高田さんはまさにそんな存在だ。縄文時代の石やりなどに使用された、特殊な石材の産地が同県珠洲市の海岸にあることを特定するなど、能登の遺跡全般に詳しい。
真脇遺跡は今から約6000年~2300年前の約4000年間、縄文人の営みが継続した。世界遺産の三内丸山遺跡(青森市)でも定住の期間は約1700年とされ、全国にも類を見ない「長期集落」として国史跡に指定されている。
「三方が丘に囲まれ、冬の季節風があたらない。コナラやクリなどの利用可能な林に加え、南側は湾に面していて水産資源も豊富。これだけ好条件があれば、よその村に移住する必要もないわいね」
そんな「奇跡の環境」が真脇遺跡を生み出した。集落のリーダーと見られる人物の墓からは漆塗りの装身具が出土した。魔よけ用とみられる土製の仮面なども発見された。漆文化や祭りなど、縄文の伝統は今の能登文化にもつながっているようである。
イルカ漁の「拠点集落」か
2023年には同遺跡の40年以上にわたる調査の総括報告書が刊行され、「自然から食料を調達するシステムを確立した」(高田さん)という真脇の縄文人の実態が詳細に分かってきた。
同遺跡には、シカ、イノシシ、サメ、エイなどの豊富な食料の痕跡が残る。特に注目されたのが、縄文時代前期末(約5500年前)を中心とする地層で出土した280頭以上のイルカの骨だ。イルカは春から初夏にかけ、魚やイカの群れを追って能登半島近海を回遊する。肉は食料となり、油も遠隔地との交易品として利用価値が高かった。
縄文時代を専門とする泉拓良・京都大名誉教授は「群れをなして回遊するイルカの捕獲と解体・分配には、女性や子供も含めた大勢による作業が必要だ。一集落で行うには手にあまる」と解説。真脇遺跡は周囲の村の人たちがイルカ漁という共通の目的で集まる「拠点集落」になったとの認識を示す。イルカの骨に交じって見つかった約2メートル50の「彫刻木柱」を、イルカの霊送りの祭具とする説もある。こうした祭祀が集団作業の象徴として行われた可能性がある。
環状木柱列、集団統合の象徴?
イルカの骨は縄文時代中期以降減少し、漁の規模や生活における比重も縮小したとみられるが、同遺跡には人が集まり続けた。泉名誉教授は「イルカ漁を通じて交易の拠点となった真脇には物資や情報が集まった。イルカ肉の配分だけでは優位な地位が保てなくなった後も、別の資源の交換の場として機能した」とする。その役割を、高田さんらが珠洲市で特定した石材が担った可能性もあるという。
縄文時代晩期(約2800年前)の同遺跡には新たなシンボルも誕生した。半分に割ったクリの丸太を柱とし、円形に並べた「環状木柱列」だ。チカモリ遺跡(金沢市)や御経塚遺跡(石川県野々市市)、桜町遺跡(富山県小矢部市)でも同様の柱列が見つかり、北陸の縄文遺跡に特徴的な遺構として知られている。
昨年87歳で死去した縄文時代の大家・小林達雄さんは東北の縄文遺跡で多く見られる、石を環状に並べた「ストーンサークル」と対比。環状木柱列について興味深い説を披露している。
「記念物を作る方法としては、木柱を立てる、石を並べる、土を盛るという三つがあり、どの方法を使うかは、その地域の集団の選択だ。ただ、縄文晩期の北陸は、西日本に入ってきた弥生文化の動きを知っていただろう。縄文回帰運動の一つとしてウッドサークル建築に励んだのかもしれない」(2002年6月20日読売新聞富山版掲載)
高田さんも「直径1メートルを超えるようなクリの木を伐採して立てるので、普通の家の柱ではない」と語る。半裁した柱が10本の場合、元のクリの木は5本。「常日頃一緒に仕事している五つの村がそれぞれ木を持ち寄り、集団統合の象徴にしたのではないか」。高田さんは北陸以外に同様の木柱列がないか分析し、実態解明をライフワークとする。
震度6強の揺れに耐えた縄文小屋
真脇遺跡内には復元施設の「縄文小屋」がある。同遺跡で、木材を接合するため先端が突起状の「ほぞ」に加工された日本最古とされる角材が見つかり、小屋の復元はその構造をもとにした。
2年前の能登半島地震では、遺跡内の収蔵庫の土器が破損し、縄文館に続く道路の一部が陥没した。一方、縄文小屋は震度6強の揺れに耐えた。小屋の復元に関わった山梨県甲州市の雨宮国広さん(56)は地震後、高田さんにお見舞いの電話をすると、「縄文小屋、何ともなかったよ」と言われて驚いたという。「コンクリートの道路が壊れ、縄文小屋が無傷だったのはなぜか。現代技術一辺倒の考えを見直すきっかけになれば」と、雨宮さんは話す。
縄文人の知恵から学ぶことはないか。昨年10月、石川県穴水町の寺院で住民らが能登の将来について意見交換する場があり、高田さんも地震後の率直な思いを語った。「能登では何かあっても家庭菜園から野菜が取れる。海のものも飲み水も手に入る。地震の後でも、能登の人は自給自足で何とかやっていると、ボランティアに驚かれることもある。都会でもし災害が起きたら、そういうことはほとんど期待できないのではないか」
高田さんは3月で長年勤めた縄文館を退くが、地震を機に見直された能登の知恵の発信を続けていくつもりだ。