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また、おでこ。
交際から半年と言えば、人によっては倦怠期であったり俗的に言えば冷め期に入る時期でもある、らしい。そう聞き及んでいる。
恋人の嫌な面も段々見えてきて、このまま収まってしまって良いのかという葛藤が大なり小なり生まれてくるのは、対人関係において切っても切り離せない問題なのかもしれない。しかし、交際半年をつい先日無事迎えたばかりの剣持にとって、いや、剣持と加賀美にとってそれは無縁の話であった。今自分の目の前に居る恋人、加賀美ハヤトは今日も今日とて剣持の隣で目覚め、目の前に座る。前日から家に招き昨日二人で買った細やかなお祝いケーキの残りを贅沢に朝御飯にするところである。朝食にいつも並ぶコーヒーとココアは加賀美と剣持の席の前にそれぞれ準備され、いつもとは違う切り分けられた洒落っ気のあるケーキだけが特別な朝を演出していた。浮かれ気分でお店の人につけてもらった記念日の名前を書いたチョコレートプレートは、昨日のうちに二人で割って食べてしまった。
「一晩冷やしたケーキってアイスケーキに似ていて美味しくないですか?」
「出したばっかりでキンキンだもんね。生地がちょっと固くなってるのもあるのかな?」
加賀美が好きだと知っていたから一番人気とポップが刺さったショートケーキの、隣にあったチョコクリームのケーキを選んだ。トッピングのいちごや飾りつけは一緒で、違いがあるとすればココアの風味がするだけ。だけれど、加賀美は小気味良く大きな一口に分けて、いつもよりちょっと早く食べているから多分正解だったんだと思う。冷え固まったクリームが口のなかで溶けて、温かいココアを慎重に一口含めば冷えた胃が徐々に暖まる。
「これからも、よろしくお願いしますね」
「どうしたんです?改まって」
「なんか、落ち着いてみると実感が湧いちゃって」
なんだかゆったりゆったり時間を気にせず過ごしている気がするのに、まだ時刻は七時を回ってからそう経っていない。微睡みが抜けきらない高揚感のなか、半年も隣に居られたことが当たり前のようでそうでない心地がしたのだ。
ケーキを食べ終えちまちまコーヒーを啜る加賀美は、先に自分が食べ終わることが多いから剣持が食べ終わるのをいつも待っている。今日は剣持というよりも一つ目線の下、お菓子用に二組揃えられたアンティークのカトラリーの方に目がいっている気がするから、もしかしたらまだ残っているチョコケーキが羨ましいだけなのかもしれないけど。
「ふふ、その気持ち分かりますよ」
とうとうコーヒーも飲み終わって手持無沙汰になった手のひらは、ゆるりと持ち上がって剣持の頭を撫で付ける。強くもなく弱くもなく意味もない。最初は触れるのすら互いに躊躇っていたと言うのにすっかり加賀美は撫でることが習慣になってしまったようだ。艶やかな髪の繊維が流れる表面を二回撫でて、そのうち毛束を掻き分けてくしゃりと乱す。繊維が細くて柔らかいのに、痛むこともなくストレートを保つ剣持のうら若い毛先は、大人としての嗜みを覚えた加賀美にとってある種羨望の対象なのかもしれない。
「なに?」
理由も何も特別何か理由があって撫でられたことなんてほとんどない。だからただ会話の簡単な応酬として疑問の形を取ったに過ぎない。剣持の元来の性質がそうさせていることは加賀美も承知であるから、緩む口許が真面目に答えることもない。機嫌良くふんわり笑って、前髪の下にまできた親指はおでこと髪の生え際を弱い力でぐりぐりしたあと満足したら離れていく。
また、おでこ。
「寝癖、ついてますよ」
「早く言ってくださいよ」
なんとなく面映ゆくて素っ気ない言葉でもうすぐ引っ込みそうな加賀美の手を急かした。
どうやら今日は理由があったらしい。今朝洗面台で確認した前髪を、何も知らない顔で直してみる。それだけが理由じゃないことをなんとなはなしに剣持は察していたからだ。
人には行動原理があるという、意識的無意識的に関わらず。テレビ、雑誌、他者の心内を覗きたいという欲求は往々にしてエンタメとして消化されがちだ。そんな眉唾ものの少し齧った程度の知識を信用するほど馬鹿なわけではないが、何故だか剣持には確信があった。言い様のない確信だ。
「剣持さんはいちご最後に食べる派ですよね」
「好きなものは最後に食べたいんですよね。ハヤトさんは逆だけど」
「豪快にいきたいじゃないですか何事も」
「ケーキで豪快さ出さなくていいですよ」
加賀美が苺を最初に食べる行動原理はとてもシンプルで分かりやすい。彼らしいなと笑えるほど剣持は彼を知っていた。あっけらかんとした答えを貰うとそうしたら、剣持はまた新しい疑問を絹のような軽やかさでまろび出しそうになるのだ。ココアを飲んだ暖かみの残るその口で、そのまま。
じゃあ、なんでおでこを撫でるの。
けれどもそんな質問は二日目のケーキとともにする話題としては不適切だろうと、最後の一粒と一緒に飲み込んだ。いちごについた砂粒程度の種はなにも気にならないのに、それだけはどうも厄介な代物であった。
「お皿下げますね」
「待って、ココアもうちょっとで無くなるから」
恋人という名前が二人の関係にラベリングされた日から今日まで、スキンシップは数えきれないほどした。誰も居ないところでひたり手を繋ぐのも、お泊まりでパーソナルスペースを大幅に越えた触れあいを許容するのも、そのまま抱き締めるのも。どれも定番中の定番で至極プラトニックで、悪く言えば淡白な触れ合いばかり。恋人というものが何をするのか曖昧な考えしかない剣持に足並みを揃えるためなのか、ぬるい慣らしを繰り返すのが常だった。何日経っても、何ヵ月経っても、半年経った今も。どちらもそれ以上は何も求めなかったから。
だからこそザワザワしてしまう。わざわざ髪を掻き分けてまでおでこを撫でる行動の妙な違和感。本来ただのスキンシップに過ぎないはず、思い過ごしに相違いない、なのに焦燥を駆り立てる。ほぼ毎日そこに触れては生え際を一等優しく扱う。加賀美の手に手袋がはまっているように見える。その時ばかりは宝物を扱うような仕草で、まるで剣持が剣持でないような、ショーケースのなかの人形になってしまったのではないかというほど、蕩けた瞳は人の形をした剣持を見ていない。
「ねぇ、ずっと気になってたこと聞いていいですか」
加賀美の家の広々としたキッチンは二人で立つことが多い。最初は不馴れな高級マンションに居心地の悪さを感じて手持ち無沙汰を解消したかったから。そしてめっきりお泊まりの翌日まで居座ることの多くなった最近は、準備も片付けも揃ってやるとなにより効率が良いとなんとなく言い訳をした記憶があった。くすくすと笑った加賀美がそれを真に受けているとは思えないけれど。
腹ごなしついでに面倒な食器洗いは早々に終わらせてしまうというのを自分達のルールにしたのは、事実剣持にとって都合が良かった。
「なんですか?」
アンティークの食器は加賀美がたまたま骨董品店で見かけたもので、これを洗う時はいつもどこか背筋が伸びてしまう。蛇口から流れる水音は流石富裕層向けマンションというべきか静かなもので、だけれどもそんな些細な水圧でもお皿が割れてしまわないかと、馬鹿な妄想をよくする。そんなことを話せば隣に居る大人は可笑しそうに笑って、暫くすれば薄い謝罪と一緒にそんなに柔な物じゃないですよと要らぬ慰めを添えるのだろうか。
「なんで、」
加賀美は優しいから、剣持の言葉を遮るようなことはしない。優しいから、何も言おうとしない。今までも、これからもきっと。ただ小首を傾げて、促すでもなく待ってくれる。
だから誰にも止めてもらえないまま身勝手に全てを吐露してしまって、果てに腑に落ちてしまうのが怖い。それこそ身勝手だと知りながらも剣持はただ怯えていた。
半年前、告白を受け入れてもらえた日からずっと抱えていた言い知れないただの不安が、ひと度紛れもない彼自身に肯定をされてしまえばそれは事実となってしまう。それは剣持にとって酷く冷たい絶望でしかない。けれど、どうしても舌に残る砂粒が忘れられなかった。何か、欠けたものを追憶するような指先。目線の先には何もなく、でも確実に剣持ではない何かを求めている。剣持よりも温かく伝う温度はなによりも柔らかく泣きそうなくらい優しい彼に、幾度触れられ撫でられても、なぜだか冷ややかなまま。
「なんで、いつもおでこ撫でるの?」
時間が止まったと心臓が勘違いをした。空気中で止まった埃のように二人の身体がただそこにあるだけの置物に思えて、一つ息でも吐こうものなら陶器で出来た自分達は割れて崩れそうだと、これ以上質問を取り繕おうだなんて考えも出来なかった。何かをゆっくり諦めて口を結んだ剣持を見て、それ以上の巻き返せる何かに期待を寄せていた加賀美もとうとう観念したようだった。
「別に、剣持さんが知るところでは無いですよ」
酷い気分だった。本当に、酷い酷い気分。
なにも特別な質問ではなかったはずだ。何も知らず、何も思っていないのなら少なくとも気軽な恋人同士の会話に聞こえるはず。でも、そうじゃなかった。剣持にも、加賀美にとっても。それがすべてだった。
俯いた視界の先で地平線のように長く続く白線が映り込んで、数秒遅れてこの白線の外側は自分が置かれてるほうだと気づく。ひゅるりと隙間風が舞い込むような心地。加賀美が作ったパーソナルスペースに自分は最初から入れてもらってなかったんだと、今さらになって気付いた己の鈍さ。
跳ね返された言葉が頭をガンと潰して、そのまま血の気が引いていくと、いやに冷静になって自分が恥ずかしくて堪らなくなる。突き放された言葉をどうすれば軽い会話の応酬に戻せるだろうか。未だ言葉が見つからない剣持が動揺を取り繕おうと必死になってる傍で、加賀美も自分の言葉に驚いているような素振りを見せているのがちゃんちゃらおかしかった。あなたが焦ったって、選択を間違えたと後悔したって、もうどうしようもしてくれないくせに。言う勇気もない憎まれ口が喉の奥で死んでしまう。
剣持の一挙手一投足に共感してくれる加賀美の感受性の豊かな心が、ただ剣持の表情に合わせて共に苦しんだふりをするだけのかんばせが、どうにも心苦しかった。
「そう、ですね。確かにそうかも。ごめんなさい変なこと聞いて」
「いや、そんな……」
真っ白に染まった頭は何をしようとしていたのかすっかり忘れてしまって、瞬間、視界が暗転して立ち眩みがする。けれど、そういえば大切なカトラリーを自分は持っているんだと思い直すと自然と体は持ち直った。
今日一日、彼と二人で過ごす予定だった。この先もずっと。もう、書き込んでしまった予定帳は捨ててしまったほうが早く済みそうだ。
「僕、用事あるんでした。これ終わったらお暇しますね」
咄嗟に出た言葉を加賀美は否定しなかった。残されたカトラリーはあと一つ、加賀美が言葉にするよりも前に剣持が食洗機へと押し込んでしまったから、否定だろうがそうでなかろうが聞こえはしないだろうが。けれど、そんなことは青年にとってどうでも良かった。どうせ良いことではないのだから、聞いてしまったって自分の心がどうなってしまうのかくらい見当がついた。
「剣持さん、」
「それじゃあ、失礼しますね」
鞄を持ち出して気づくその軽さに甘やかな日常をふいに思い出す。もう家から持参せずとも日用品も着替えの服だって、全部加賀美の家に用意されていた。だってそれが二人のいつもで、大切な日常だったから。上着と、充電させてもらってたスマホと、それから合鍵だけ。あっさりと詰め終わってしまった荷物にまで憎たらしい気持ちが募る。あと少し、あと少しだけ時間がかかって、あともう少し、ここに居られたら何か変わるかもしれないなんて。
「鍵、ここに置いておきますから」
鞄に仕舞おうとして、やっぱり止めてしまった。最後の悪足掻きにしてはあっさりとしている。
丁度半年前に貰った家の鍵。ロケ先のサービスエリアで適当に買ったお揃いのストラップは未だにつけたまま、昨日までなら剣持の鞄のなかに仕舞われていたそれ。玄関に鍵を置いたことなんて一度だって無かったのに、加賀美も剣持も、その仕草を受け入れるのが妙に早かった。
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今日は連日の雨から一転秋晴れだと予報が出ていたのに、寒ざむしい空気だけが二人のためのリビングをなみなみと満たしている。この部屋はこんなにも暗いものだっただろうかと机に指を滑らせてみるが、思い出されるのは苦い顔をした愛おしい人の横顔ばかりだった。
「はぁ……」
言い方を間違えた自覚はあった。はくりと吐息の漏れる口許が明らかに緊張を持って震えていたのも自分は知っていた。けれど、そんな恋人の一歩目の勇気を自分可愛さに突き放したのは紛れもない自分だった。最初は本当に己が思っていたよりもずっと鋭く飛び出た言葉にただただ驚いていた。そしてコンマ数秒、唖然としているのは自分だけじゃないことをとんと明るい声色で喋り出す彼の虚勢で気が付いた。
きっと鋭いだなんてそんな言葉じゃ計れない、自分が推し量ってはいけない無神経な言葉。背後から無遠慮に突き刺したそれ。なのに、何も言わずに無理矢理に作らせた笑みを張り付けて、なお自分達の関係を上手くいっている恋人同士に保たせたのだ。
いつもと変わらぬ笑顔が引きつって見えた瞬間、終わってしまったことを悟った。数刻前の大切な幸せが泡のように消えていったこと、今さら後悔してしまっても遅いことは重々承知で項垂れる自分の情けなさに嫌気がさす。
「今、どこに居るんだろ」
玄関口に置かれた合鍵は、暗に引導を渡されたのだと思う。今まで一度だって剣持のための合鍵が加賀美の手に帰ることなんて無かった。呆気なく、そして重々しく置かれたそれは事実上の半同棲解消といって差し支え無いだろう。そこまでのことを自分はしてしまったのだ。突き放したこと、きっとそれだけが理由じゃない。自分が惹かれた彼はどこまでも不器用に優しくて、でも一本筋が通っていて、嫌だと思うならちゃんと話してくれるような人だから。だから彼が何も言わずに出ていった事実が余計に重くのし掛かっている。
今日の用事はもう何もない。仕事は彼との時間のためにとっくに終わらせていたし、彼と休日をゆっくり過ごす予定を壊したのは紛れもない自分なのだから。だから言い訳をツラツラ並べてたたらを踏む権利なんて与えられていない。
「会いに行かないと」
年下の恋人の手前、大人としてなんてことのないように振る舞って渡すつもりだったのに、結局は緊張で空回って大きな声で上擦った記憶がある。ほとんど最上階の窓の向こうに佇むきらびやかな夜景を前にするプロポーズとしては、まったく格好がつかない盛大な失敗に顔を伏せたくなって、実際剣持の反応を見る前に顔を伏せた。そんな大人としてはなんとも情けない加賀美の羞恥心に構わず、行き場を失ったまま手のひらに置かれた鍵を受け取って、嬉しがってるようなからかっているような笑い声で一緒に笑ってくれたことも。
「また、」
受け取ってくれるだろうか。なんて、ここに独り居るだけであっても言葉にすることは憚られた。それは自分がちゃんと過ちを理解してるからなのか、合鍵を返された手前気まずさが勝っているだけなのかは、よくわからない。ただ、せめて幼稚で生半可な言葉は言わないことが自分に出来ることで、この合鍵を渡すことを間違っても贖罪にしたくない。もし、彼が受け取ったとしても、きっとそれは終わりと同義であろう。
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激しく鳴り響くインターホンの音で微睡みから意識が浮上した。手元のスマホを見れば丁度お昼過ぎで、どうりで腹の虫が鳴いているわけだとどこか他人事に考える。
そして、自分が現実世界に戻ったことを実感すると、鳴り止まないインターホンの音もどうやら現実であるらしいことを認めざるを得ない。眠気も相まって気乗りしないから、横柄な態度を心のなかで構えつつ、相手を待たせる気満々な緩慢な動きで体を起き上がらせる。
「うるさいなぁ……」
その間にも続く明らかに宅配ではない連打の嵐に、悪質なイタズラか、それかもっと凶悪な犯罪者かなにかかと妄想半分不機嫌半分で当たりをつけて、警戒を強めたまま応答はせずにモニターだけを覗く。
けたたましい音への苛立ちと寝惚けたままの勢い任せで覗き込んだが、本当に知らないおじさんとかだったらどうしようかと今更な恐怖とともにやっとこさ目が冴え始める。
元来ビビりとして評判が通っているだけあって、相手からこちらは見えていないというのに無駄に緊張してしまう。こんなところを同僚に見られでもしたらからかわれてしまうのがオチだろう。
しかし、おずおずと覗いたモニター越しに映ったのは見覚えのある紫紺であり、ピンポンダッシュをするイタズラ小僧のほうがまだ怖いような人。抱いていた不安はエンタメになることもなくあっさりと杞憂に終わった。
「もちさん?!」
慌てて音声を繋いで紫紺の持ち主である名を呼ぶ。荒い画質でも分かるさらりとした髪が、動きに合わせて揺れて、よくよく見れば若草の瞳も雫で揺れている。あまりにも想像しがたい光景に、はて、今日は雨だったかと今朝見ていた天気予報を頭で巡らせるが、アナウンサーが元気よく晴れ模様だと言っていた記憶しかない。
「なんで甲斐田くんなんだよ」
甲斐田の焦りと情けなさが多分に含まれた応答に、開幕剣持はぶっきらぼうな態度で応える。これまた少し荒い音質で聞き取れた言葉はふてぶてしさばかりを感じさせる文句だったが、そんなことどうでも良くなるほど、明らかにいつものとは違う震えた声が甲斐田に引っ掛かりを生ませた。
「もしかして、泣いてる?」
「もう良いです。帰ります。さようなら。失礼しました」
「あぁ!待って待って!ドア開けるから上がってきて!階層分かってるよね?とりあえず話そ?それともそっち迎えにいく?」
「来なくて良いです……」
どうやらこの期に及んで泣いてることを指摘されるのは地雷判定らしい。泣いている時特有の震えた声が普段の調子で返事をしようと頑張るから、意地っ張りでチグハグなそれに少し呆れが出てくる。
歯止めが効かない程ボロボロ泣いてるくせに、触れられないと思うほうがおかしな話だと言いたいが、今溜め息の一つでもしてしまえば不安定な若干十六の少年は今度こそ本当にふらりと何処かへ消えてしまうだろう。そんなことをしてしまえばモンスターペアレント兼恋人のどこぞの誰かさんが自分をどやしにくるだろう。最悪コンクリート風呂を余儀なくされるか、良くて小指といったところ。考えるだけで身震いしてしまうが、モンペゴリラのお説教に限らず、同僚であり同じグループのメンバーが泣いていたら助けようと思うのは当然だ。
「で、不破さんに会いに来たんだよね?」
「……なんで甲斐田なんだよ」
「そりゃ僕らお付き合いしてるしぃ?って、呼び捨てとはなんだ!」
「あっそ、」
「……不破さんのが良かっただろうから本当ごめんって感じなんだけど、午後の収録終わったらすぐ帰ってくるから。それまで甲斐田で我慢してよ」
エントランスからエレベーターまでは管理人が居るから、残っていたプライドやらなんやらをかき集めてどうにか泣き止んだらしい。それでもやっぱり目元も鼻も可哀想なくらい真っ赤に腫れていて熟れた桃のようだ。こうしてみると艶っぽい涙がなんとも痛ましいただの儚い美少年にしか見えない。未だ文句を垂れてる声もしょもしょもと小さいからまるで威厳がないのも彼の大人びた調子を取っ払っている要因なのだろう。珍しい等身大の高校生らしい態度に、なんだか彼の心の芯に近いものを見ているんだと感じて、擽られるものがある。三十代にして、血の繋がりもない美少年の泣き顔に親心のような感情を抱いてしまうとは。人生とはかくも不思議だ。
「はい、スリッパはこれ使ってね」
布が擦れて痛いだろうに必死に目元を擦って誤魔化して、余裕な振りをして靴を揃えている。傍目から見ても余裕の無い姿に甲斐田の良心はますます痛んだ。
「もちさんだし寛いでたって不破さんは文句言わないだろうから」
「うん」
幼子のような返事を聞きながら来客用のスリッパを足元に揃えてやる。ふかふかのそれを大人しく履いて、甲斐田の後ろを着いていく様は迷子の仔猫か、親鳥に着いていく雛鳥にも似ていた。
「ソファ使ってくださいね」
この家は甲斐田の家ではない。同じグループのメンバーである不破が住んでいるマンションであり、次いでに言うと一人暮らし向けマンションだ。けれど、一人暮らし向けにしてはだだっ広いこの部屋でちゃっかり恋人になった甲斐田とちゃっかり半同棲を始めており、今日は午後の収録だけだからとそのまま泊まっていけと言われてしまったが故の、今の状況であった。流石に家主が居ないのに人を家にあげるのは失礼極まりないのだが、相手は家主も見知った人物であるし、なにより不破は甲斐田を信頼している。そこまでの心配をかけるほどじゃないとお互い思っているのだ。
「オレンジジュースでいい?」
「はい」
冷蔵庫のなかには不破と甲斐田用のエナジードリンクが半数と、来客用のマトモな飲み物がいくつかある。残り数の少ないそれを取り出して、甲斐田持ちよりのお菓子を適当なお皿にこれでもかというほど盛る。甲斐田は不破とお揃いのマグにコーヒーを淹れて、剣持には不破が買ってきた飼い猫もとい姫たちそっくりの猫が印刷されたグラス。弱っている今なら可愛いグラスを差し出しても許されるかもという阿呆らしい博打だった。
「甲斐田くんは家のことよく知ってるんだね」
「ん?まぁ最近すごい入り浸ってるから」
「ていうか、ふわっちのことよく知ってるのか」
台所の場所は勿論、コップの種類別に置かれてる場所も、インスタントコーヒーが仕舞ってある棚の位置も。ティースプーンを取り出してから木製の皿を取り出すまでの動線までもが習慣として染み着いた人の動作だ。彼らの日常を知りもしないのに、恋人らしい仕草に憧れが募る。
「僕もね、知ってるよ」
お皿に盛る途中で落ちたお菓子のクズをすぐに布巾で拭くのは、不破との約束なのか、それとも甲斐田の癖なのか。水で汚れを落として絞った布巾を戸棚の持ち手に吊り下げるのも、二人の日常が産み出した産物なのだろうか。
「社長のこと、知ってる。いちごを最初に食べるのが癖で、ショートケーキよりチョコケーキが好き。タオルが家のどこにあるかも知ってるし、ブランドにはあんまり拘りないけど良いところのパジャマを用意すると嬉しそうにしてるのも、全部、」
知ってた。僕のこと好きじゃないことも。
「でも、なんにも知らなかった」
言うつもりの無かった言葉だ。決めた瞬間、我ながら気高く固い決意だと思っていたのに、結局優しい人を前にするとボロボロ崩れてしまって、弱い何かしらに成り下がった。
加賀美に言うつもりならともかく甲斐田に吐露してしまうなんてそれこそ本当におかしな道理だ。困惑を浮かべる甲斐田の眉尻を認めているし、自分が矛盾したことを言っていると分かっている。早く止めなきゃいけない。だけど、壊れてしまった蛇口みたく言葉は止まらない。彼を前にして言えなかったこと、彼を前にして言うべきだったこと。正解を導き出せないまま、音を失った喉がジリジリと焦げていく。
「ずっと、ずっと無理させてた、」
エントランスを出るまではあっけらかんとした気分だった。自分でもあんまりにあっさりしたものだったから、自分の恋というのはこんなものなのかと脱力したほどに。なのに、一歩ずつ離れる度に街の喧騒が聞こえなくなって、足元がなんだか覚束なくて、拭いきれない口惜しさがずっと未練がましく後ろ髪を引っ張るから、気付かぬうちに取り繕えなくなっていた。
「そんなに泣いたら目溶けちゃうよ」
「ごめんなさい……変なところばっか見せちゃって」
「ほら、タオル。鼻もかみな」
レンジに放り込んでいた蒸しタオルを手渡して、厚手の柔らかいティッシュを必要以上に何枚も取り出して鼻に押し付ける。とりわけこの高校生は泣き顔なんて見られたくないだろうと、短くない付き合いから察せられる。なるべく彼が傷付かない形で、なるべく優しく彼をつつみこめるような、隠せる術を与える。いつも強い姿しか見せてなかった先輩の涙に少なからず動揺している事を悟られないためというのも少しあるかもしれないが。
「ごめん、ごめんなさい」
それが誰に向けての言葉なのかよく分からなかった。情けない姿を後輩に見せてしまった事への気持ちばかりの言葉だと言えばそこまでだったが、どうにも彼の言葉には煩いほどミルクティー色がちらつく。普段なら恋人という関係を差し引いても一番頼れる大人である加賀美を相談相手に選びそうなものなのに、それをしないという時点で察せられるものは多い。きっと件の彼が目許を赤くしている原因だろうに甲斐甲斐しく謝ってしまうだなんてらしくない。いくら邪智暴虐自分オンリーワンな人でも恋をすると仔猫のようにコロリと変わってしまうらしい。健気さもここまで来ればもはや毒まであると他人である自分はそんな冷たい思考をする。
「で、もちさんはどうしたい?」
「え?」
恋をすると馬鹿になってしまうだなんて通説、まさか剣持もその類いだったかと考える自分は、端から見れば随分と冷めた態度に映るのかもしれない。だけど、甲斐田自身はそんなつまらないことは微塵も思っていなかった。
「だから、どうしたい?」
「どうって……」
ぬるくなったタオルを片手にきゅっと握って、落ち着かせるためにジュースを一口飲んだ剣持に掛けられた言葉は、主語も脈略もあまりに少ないものだった。明らかに剣持ではない誰かに向けられた冷やかな蔑みがほんの僅かに言葉に乗ってチクチク刺さる。
甲斐田のその態度には既視感があった。
あれは確か、不破が朝帰りをしてそのまま収録に参加した時のこと。どうやら当時からもう半同棲を始めていたようで、甲斐田はそれはもう絶望という言葉が良く似合う青白い顔で目を右往左往させていた。だけど不運なことに不破は連絡を寄越さず家にも帰らず収録に参加したのだ。気もそぞろに貧乏揺すりを始めた甲斐田の前に悪びれもせずあっけらかんと現れた不破に向けられた表情、それはそれは大変ご立腹な様子で当事者でない剣持ですら身震いしたほど。
「ひ、」
その時とそっくりな表情になにか嫌な予感がする剣持を他所に、当たり前のような口振りの甲斐田は、剣持に答えを促すように視線を寄越す。いや、実際甲斐田は剣持の返答なんて特に求めていないのかもしれない。問答無用。そんな言葉がちらつく。恐ろしさも相まってどんな返答を求められているのかいまいち分からない。ただなんとなく、今の甲斐田は後輩としての心持ちではなく大人として自分を守ってくれる心強い味方として言ってくれていることは分かった。それにしたって恐ろしいが。
「桜魔じゃこっちより合法な事が多いから」
「な、なにが?」
「社長に泣かされたんでしょ?桜魔だったらちょっとくらいポーンと一発しても罪に問われにくいから」
どうやら嫌な予感は当たっていたらしい。言葉にすることも憚られるのか、それとも甲斐田の良心からかとてつもなく分厚いオブラートに包まれているのに、拭いきれない物騒さが滲み出ている。しかも、甲斐田は本気で心配から言っているのが余計に質が悪い。
「だ、だめに決まってるよね?」
「駄目かぁ」
「駄目だろ。なんで良いと思ったの」
「桜魔じゃ呪いの類いは親近感あるから、わりと痴情のもつれが呪詛を含んだ事件に発展するケース多いんだよね。法規制もされてるはずなんだけど」
「桜魔怖すぎでしょ」
自分達とは違う世界に生きて、それを日常としている甲斐田。本人にとっては至極普通の事なのかもしれない言動。新たな一面を垣間見れたせいで満たされる好奇心と、触らぬ神に祟りなしと身震いする自分が居た。
「まぁ、そんなことに頼らなくてもちゃんと話し合える人たちだと思ってるから」
「そうかな」
「そうだよ。言いたいことまとめたら一発殴ってちゃんと社長と話しなね」
「殴りはするんだ」
「呪詛のほうがいい?」
「……止めとく」
甲斐田の目にはまだ仲睦まじい恋人同士に見えているのだろうか。不安げな剣持に代わって当然と言いたげな自信に満ちた表情。どちらも大切な仲間で、その性格をよく知っているからこそ、二人が別れるなんてあり得ないと甲斐田は言えるのだ。
「どっちが悪いとか悪くないとか、僕はなんにも知らないですけど。やっぱりちゃんと話してほしいなって思うよ。ただの我が儘ですけど」
どうせ何も話さず出てきたんでしょと図星を突いて頭をクシャクシャにする。
頭を撫でられるのは不服だ。誰に撫でられても信条は変わらない。加賀美に撫でられた時だって剣持はちゃんと不服を顕にしてきたのだから。だけど、今は甲斐田の手のひらを拒否する気にはなれなかった。
「もちさんは子どもだし、社長はもちさんを泣かせたんだから、一発くらい殴るお膳立てしたってバチは当たらないでしょ」
「甲斐田くんが大人みたい」
「ろふまおなんだからあたぼうよ!」
「んはは、そうだね」
恋をすると人は変わるという。エンタメ好きな誰かが作った与太話だろうと思っていたが、初めて恋をする剣持を見た時、人間というのはこんなにも軽やかに笑えるものなのかと驚いたものだ。ただ意中の彼の姿を見ただけ、声を聞いただけ、たったそれだけのことで春の芽吹きを喜ぶ花のように綻ぶのだから興味深い。
他人である甲斐田ですら桃色の頬のまろみを可愛らしいと感じたのだから、その微笑みの宛先である加賀美はさぞ鼻高々な気分だっただろう。こんなにも美しい人間の微笑みを独り占めしているのは自分だけなのだという優越感か、あるいは剣持に選ばれた己の誇らしさなのか、どちらにせよご執心と呼ぶに相応しい溺愛ぷりであった。
きっとこうして甲斐田が剣持の相談事に乗っていることですら、自分は我慢していますよという風を装えてると勘違いをして傲慢にも嫉妬の色を覚えるのだろう。
恋人同士のいざこざに挟まれるのは御免被りたいし、実際両方に気を遣うのは辟易してしまうが、やはり隣にはこの人しか居ないと互いに確信を持った二人のことが好きなのだ。
だからさっさと仲直りしろよ、だなんて雑な応援を、目の前の子どもと遠くに居るしょぼくれた大人に送るので精一杯だった。
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「あれ、社長やないすか」
「不破さん、お疲れ様です。収録ですか?」
「そうそう、午前中だけやねんけど、さっき終わったからちょっと休憩して帰ろうと思って。社長はこれから収録とかすか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」
ろふまお塾での収録でもよく使わせてもらっている楽屋。の、すぐ近くにある自動販売機と、それに合わせてあつらえられた小さな休憩スペース。二人掛け用の簡易的なソファが自販機の対面の壁にあり、飲み物を買ってそのまま休んでいくライバーもまま居る。どうやら不破もその類いのようで、自販機にある銘柄と同じエナジードリンク片手に誰も居ない事を良いことにソファを大きく使っていた。
「なんかありました?珍しく息も切らしとるし、座って落ち着いていきます?」
「すみません、ありがとうございます」
「何あったか聞いてええ感じっすか?」
加賀美が息を整える数秒の沈黙の後、飛びかかった言葉はですよねとつい言ってしまいそうになるほど至極当然な疑問だった。
もはや避けることは出来ないと覚悟はしていたものの、不破らしい柔らかいが率直な言い回しに身体が固まる。三十路に突入して三年目、衰えることを知らない加賀美はどれだけハードな収録スケジュールでも息を切らすことは殆どない。だというのにただ自販機に来ただけ、しかも収録終わりという風でもないにしては息を切らして焦っている様子に、察しの良い不破でなくともその異常事態に気付かない人のほうが少ないだろう。
「本当に情けない話なんですが、良いですか?」
「そりゃ勿論。暇やし、俺でよければ是非是非」
収録後の微弱な疲労感というより、精神的に参ってるように見える加賀美は、それはそれは珍しいものとして不破の目に映っていた。メンタルが強くないとやっていけないような業種でありながら、その実メンタルに自信のない業界人は少なくない。そんな中で加賀美は特殊なほど強いメンタリティをしている。それがなんとも不思議なことに目に見えてやつれ気味なのだ。善意はありつつ、興味や好奇心のほうが大きく顔を覗かせる。
「剣持さんとの、事なんですけども……
」
「……なんかあった感じっすねぇ」
「そうなんですよね」
喋ろうとすればするほど口が重くなっていって、背が段々丸くなれば言葉ももにょもにょと情けなくなっていく。不破の適当な相槌があってようやく何か言いだすくらいなのだから、よほど重症なのだろう。
「端的に言うと私が怒らせてしまって、いやもう本当、最低なことを言ってしまったというかなんというか……」
「社長もにょりすぎっすよ。何あったか俺付いていけてないんやから頭抱えんとってくださいよ」
とうとう頭を抱えて床とお喋りを始めた加賀美を揺さぶって続きを促す。そうしたらやっと観念したのか、それとも堪えられないほどの自責の念がそうさせたのかは不破の知るところではないが、顔面蒼白といった加賀美の口から今朝の出来事が赤裸々に語られ始めた。
剣持との朝だか昼だかの会話。聞いている限りでは穏やかなもので、加賀美が自ら取り立てて問題だと言いたげにしている件の会話も、不破にとってはピンとくるようなものではなかった。加賀美が剣持の疑問をはぐらかしたのもそうであるし、剣持がはぐらかされたことで出ていった事もだ。どちらも子どものような人ではない、むしろ未成年の剣持のほうが不破よりよほど大人のような精神をしている。たかだか質問をはぐらかされた程度で歪むような精神力ではないはずだ。それが余計不破の疑問に拍車を掛ける。
「不破さんには青龍と言ったほうが分かりやすいかも知れません」
「……、続けて」
一瞬にして穏やかな声色がガラリと変わった。
「剣持さんに青龍を重ねて見てしまいました。それも、多分きっとバレてます」
「は?」
「青龍の角があった場所がなんだかとても愛おしくて、おでこばかりを撫でていたら勘繰られてしまって、思わず突き放すような言い方をしてしまったんです」
幼い頃から自分とは違う誰かの人生が記憶のなかにあった。太古の昔、それも日本ではないどこか異国情緒の溢れる都。栄えた国の中心でその誰かは四獣神と言われる神の一柱、白虎という名を冠する者として呼ばれていた。
青年期に入る頃にはより鮮明に、より色濃く白虎の人生の一切をなぞることが出来たが、それと同時に自分はとうとう気でも触れてしまったのかと随分気に病んだ記憶がある。純粋に世間様におかしな奴だと言われるのが怖かったのもあるが、医者にかかっても診断書にただの妄想癖と烙印を押されるのが関の山であろうから、三十を過ぎても自分の記憶に妄想だとか、虚言だとかいう正しい名前を付けることは出来なかった。
けれど、それは不破と出会ったことで転換期を迎えた。自分と同じく四獣神の一柱である朱雀の記憶を持った不破との邂逅は、それが拗らせた自分の妄想で収まるものではないことを教えた。そして、その確信は前世で玄武であった甲斐田、青龍であった剣持との親睦の末確固たるものになっていった。
だからこそと言えば良いのか、なんの因果か加賀美は剣持に恋をした。剣持の指先に触れるのを躊躇した時、それが自分の気持ちがそうさせるのか、白虎の意志がそうさせるのかあまりに自信のない恋慕だった。
記憶の中の剣持によく似た青龍の姿は、前世の自分ながらあからさまな贔屓目で見ていて頭を抱えたくなる。他にも沢山己の人生を豊かにし、輝かしいものにしてくれた人は居たというのに。他の誰の姿よりよほど鮮やかに色付き、青龍の後ろには常に桃色の景色と花の匂いが鼻腔を掠める始末。
歩みを進める度水面に波紋を広げるような静けさを持った、春を司る神。スッと通った鼻先、男とは思えない細く白い首、千年の間変わらぬ絹肌、常人離れした美貌を剣持と重ねて見るのは残酷なほどに容易な事だった。
「青龍の事が好きなのか、剣持さんが好きなのか分からないなんて、不甲斐ないです」
「うわぁ、やってんねぇ社長。笑うしかないやん」
空になったエナジードリンクの缶を意味もなく振る不破は、何を考えてるのか読めない笑みで加賀美の罪悪感を煽る。
「笑い事じゃ無いんですよ……」
「いやぁ、今一番笑われへんのはもちさんやろ?」
どうやら空っぽだったらしい。ガコガコガラン、思っていたより大きな音を立てて缶がゴミ箱に落ちていく。廊下に響く鈍い音に被さるように告げられた不破の言葉が、咎めるように鋭くなった気がした。
「俺さ、社長やし白虎やったからもちさんの事幸せに出来るやろなぁって思って応援してたんよ」
チリチリと空気が焼けていく。
「勘違いみたいやったけど」
朱雀でもある不破にとって、加賀美と剣持が睦まじい仲になるのはさほど驚くことではなかった。前世からずっと互いを愛し敬っていた二人がたかだか今世紀に生まれ変わったからとて、相手に飽きるわけないと思っていたから。
「もちさんは何にも知らんのは知っとった事やろ。だからもちさんにはあんたしか見えてなかったのに、青龍の事重ねてた?どっちが好きなんか分からん?ふざけんなよ」
「それは、だからこれからちゃんと考えようって!」
「それじゃ遅いから出てったんちゃうんか!あんたが一番……!一番やったらアカン事やったやろ!知らん奴重ねられてあの子がどんな思いするかくらい考えろや!」
「だからこれから考えようって!剣持さんが私の事を考えてくれた分、私も沢山考えようとしてるんでしょ!」
剥き出しにされた敵意が間を置かず、大した躊躇いもなく加賀美を殺しにかかるような覇気で首の皮にまで届く。しかし、負けじと声をあらげたのは、譲れない身勝手な思いが、ここで否定しなければ自分はとうとうただ腐すのを待つだけの木枝になってしまうぞと囃し立てたからだ。
ドクドクと五月蝿い心臓の逸りは不破への恐怖ではなく、ずっとずっと、長い間愛おしい人にすら伝えることなく留めていた感情が、偶然にも発露した反動だった。
「今のあんたはただの唐変木やからな。あの子に相応しくない」
年の離れたいたいけな少年への確かな愛情。大いなる時代を越えてなお風化することなく彼を温かく包む祝福。それを抱いているのが自分だけだと、どうして言えようか。
「分かっています」
「ほんま、大馬鹿野郎やわ。事務所じゃなかったら一回殴ってた」
荒げられた声とともに熱くなった激昂をなんとか落ち着けるように、肺に溜めていた息を震えた呼気で吐き出した不破は、もう失ってるはずの朱雀の権能を思い起こされるほどの剣幕をして加賀美をねめつけた。咳払いをひとつして声を潜めても、その牽制を決して収めようとはしなかった。安堵していたからこそ、二人を祝福したからこそ、加賀美もそうだがそれ以上に自分が許せなかった。ただただ今もなお傷ついているであろう小さな背中を思うと悔やまれるばかりだった。
「そんなんでもちさんにまた会うとか、俺は絶対反対やから。朱雀としても、不破湊としても」
「それも、重々承知です。だから沢山取り零してきた分、掬って考えて、会いに行こうと思います」
「もう次なんか無いからな。俺やなくて、もちさんのためにも」
「ええ、心に留めておきます」
加賀美の言葉を聞いて一瞬目尻を緩めた不破は、ようやくいつもの調子にほんの少し戻った。そして、覚悟を決めたと言わんばかりにしている加賀美の眼前にスマホの画面を突きつける。
「これは、」
「甲斐田とのトーク履歴。もちさんの居場所は一時的にやけど俺らがしますんで。言うことちゃんと考えたら来てください」
先程の緊迫した雰囲気から一転、いきなり画面を突き付けたかと思えば、いつもの柔らかさをした不破の言葉が張り詰めた空気をやわやわと解す。その唐突さに怒りにも似た熱のある感情が途端に離散して、肩の力が抜けたような気分になる。自然と手のひらに籠っていた力が抜けて、そうしたら次にトーク履歴に映る可愛らしいスタンプともちさんという剣持の愛称が目に入った。
こっちに来てるから社長にお灸据えといて。だなんていう甲斐田からのメッセージに、お灸の意味を分かっているのか定かではないがまかせろと返されている。実際不破からのお灸は大分と加賀美に効いているから大成功なのだが、そんなことよりも加賀美には気になるメッセージがあった。
「泣いてるって……」
泣いてるから早く話聞いてあげて。これまた至極気軽なメッセージだ。甲斐田にとっても不破にとっても仲間として剣持を心配した言葉に違いない。しかし、合鍵を置いていく時ですら泣かなかった剣持が、心を痛めて泣いて、加賀美以外の安寧を求めている。そんな立場でないと重々承知していたはずなのに、そんな理性と関係なく嫉妬の色が正直にジワリと頭を染める。
「そう。だから社長はものっすぅ~ごく反省してもちさんに、って……なんて顔してるんすか」
「すみません、あまり見ないでください……」
「嫉妬ッスか?はぇ~良いご身分ってやつすね」
「勘弁してください……お二人には凄く感謝してるんです、なのにもう……本当に情けない限りです」
「男の嫉妬は醜いっすよ~」
「不破さんって結構良い性格してますよね」
さっきとは違ってまったく毒気のない冗談混じりのチクチク言葉なのに、むしろそのほうが良く刺さる。不破はそんなジョークが加賀美に苦い思いをさせることを心得ているようで、余計容赦がない。
ただでさえ余裕のない姿ばかりを晒して、良い年した大人として恥ずかしさでどうにかなってしまいそうなのに、泣いている剣持に対して心配するならまだしも、内輪の問題を親身に寄り添ってくれてる二人にこんな感情を抱いてしまう自分の心の狭さに嫌気がさす。
「まぁ、余裕無くなんのも分かりますよ。今日も急いで来たっぽいし、もちさんのこと探してたんでしょ?」
「ええ、ご実家にも伺ったんですが居ないと言われてしまって手当たり次第に駆けずり回ってました」
「そんだけ出来るならまぁ、及第点じゃないすか?俺は二人がこのままとか嫌やし。話、ちゃんとしてくださいよ」
「勿論です」
二人とも穏やかな呼吸になる頃にはすっかりいつもの調子で話せていた。収録とはまた少し毛色の違う砕けた仲間内での言葉遣いを感じ取り、今朝からずっとざわめいていた加賀美の心中は久し振りに落ち着きを取り戻した。
不破はいつかの日、交際を打ち明けられたあの瞬間。運命だと謂わんばかりにお互いを慈しむ二人を見て、ただ独り大丈夫だと確信した。その時を思わせる表情をしている加賀美に震える指先が密かに安堵した。
「これ、俺なりの活を入れるってやつです」
タッチ決済からボタンを押して直ぐ、自販機から落ちてきた缶コーヒーは、秋の日に飲むにはちょっと難色を示す冷たいブラックだった。
上手くいってほしい、不破の本音はそればかりだった。でも、あたたかいコーヒーでエールを送る事ばかりを誠実な加賀美は望んでいないだろうから。後悔をさせることも尊重だろうと思った不破の、考えうる最大のエールと一喝の気持ちだった。
───────────────
「ただいま」
「不破さん、お帰りなさい」
「お邪魔してます」
「おぉ、ええよええよ。もちさんは寛いどってぇ」
外は秋晴れといってもまだ冷えるようで、帰ってきたばかりの不破の頬は少し赤らんでいる。もう言い慣れてしまったお帰りの言葉とともに迎え入れた甲斐田は、オシャレの為とかなんとか言って今日のコーデに合わないからと外されてしまった無念の残るマフラーの代わりに、エアコンでほかほかの両手で不破を温める。剣持が居る手前恋人の距離感は慎もうと玄関を開ける前に決めていたのに、習慣として染み付いてしまった甲斐田の恐ろしく早い包み込みの魅惑に勝てなかった。
「ありゃ、もちさん顔真っ赤やないすかぁ」
ほどなくして甲斐田の手から逃れた不破は、コートを甲斐田に預けてタオルを握り締める剣持を見る。霜焼けのようになっている剣持は、秋だというのに冬の寒空の下待たされていたのかと間違いそうなくらい寒そうに見える。実際はその目頭は熱くて堪らないのだろうけれど。
「うるさい泣いてなんかないから」
「はい嘘ー!」
「甲斐田黙っとけ。そうやんなぁ、もちさんは俺に話あるんやろ?この不破湊、なんでも聞きますから甲斐田ほっといてココア淹れような」
「ありがとうございます」
「不破さん僕も」
「黙れ。甲斐田は自分で淹れんねん。マグカップも用意せぇよ」
「なんでー?!」
デリカシーが無いのか単純に慰めるのが下手なのかは知らないが、ナイーブな剣持に余計な追い討ちを掛けようとする甲斐田を粛々と叱りつけて荷物を放り出す。そのままキャンキャン吠えている甲斐田の耳を引っ張ってキッチンまで連れていった。客人との大きな扱いの差に甲斐田は半泣きでマグカップを用意しているが、当然だろと一蹴されてしまいまたヒンヒン泣き始める。
剣持からして見れば恋人だからこそ出来る粗雑な扱いにしか見えず、並んだ後ろ姿すら微笑ましかった。お互いに腕捲りをチェックして、何故か不破用のココア味プロテインを甲斐田が、甲斐田と剣持用のココアを不破が用意している。そんな当たり前にある光景が目映くて心地好い。
「んで、社長の事やんな?」
「うん、でも甲斐田くんが結構話聞いてくれて」
「一発ぶん殴るって決着になったんでしたっけ」
「違うよ?」
「社長なら二発は余裕やろ」
「だから全然違うよ?加賀美さんは殴んないし、そうじゃなくてどうやったら普通に過ごせるかなって聞きにきたんです」
はてさて筋肉量が三十路のそれとは思えない彼をこの中の誰かがぶん殴ったところで、鳩尾に食らった一発で悶絶するような姿なんて一切想像出来ないが。
「もちさん、何言ってるか分かってるよな」
「はい。収録で二人に迷惑かける訳にはいかないし、二人だったら色々分かるかなって思って」
「そっかぁ、もちさんなりに考えてくれたんやんな。でもさ、今は俺たちの事なんか考えやんで良いんすよ」
加賀美のことを考えること自体がもう剣持にとっては苦しいことなのかもしれない。けれど、悪い方向ばかりに考えてしまうよりは、気休めにしかならなくとももっと楽しいことを考えてほしかった。
「自分の事考えてや。何したいとか、何やったらもちさんはちょっとは楽しい?」
温かいココアに浮かぶマシュマロと同じく不破の言葉は剣持の心にふわりと溶け込む。でもきっと加賀美を殴っても最低だと罵ったとしても、剣持はちっとも心晴れないだろう。今もまだ剣持の思考をなみなみと満たすのは、優しくて誠実で、だけどとても離れたところにいる加賀美なのだから。それは不破も甲斐田も分かっている。分かっていても、何も言わないなんて出来なかった。
「なんにも分かんないんですよね。加賀美さんになんて言ってやれば良かったんだろ」
「そりゃね、なんでも言ってええんよ。馬鹿とか阿呆とか」
「そうそうサイテーって言ってやりましょうよもちさん」
「加賀美さんは最低じゃないよ、大切にされてきたから。手出された事ないし、キスだってされたことない」
加賀美も剣持も、お互いの柔さを知らないのだ。何を恐れているのか、躊躇して、知ることもないが傷つけることもないだろうと、踏み込まなかった。
「加賀美さんにとって滅多な事だったのかも」
飲み終わったココアの底には溶けきれなかった粉が見える。
「やっぱりちゃんとお別れ言おうと思います。変な気遣わないでね、腫れ物みたいに扱われると居心地悪いから」
「でも、」
「この話は終わり。ココアとジュース、ご馳走様でした」
まだ涙の乾いた痕が見えるのに、剣持はなおも綺麗に笑って見せる。それが心の底からでなくとも、本心ではある笑みだと経験則から分かった。その瞬間、嫌な確信が生まれて誰かに否定されたくなった。
加賀美は許された。許されてしまったのだ。諦めるのが上手くて、絶望を許容だと勘違いしている子どもに。
「待って、!」
覚悟が決まるまでのほんの僅かな時間でも居場所になると約束したのに、これでは不義理になってしまう。加賀美との約束という形なんてとうに頭に無く、ただこんな小さな子どもを独り出ていかせるのはあまりに心許ないと勝手に体が動いていた。けれど、剣持が立ち上がってしまう前に掴もうとした右手は、剣持の体と同様突然響いたインターホンの音によって固まった。
「もうちょっと、待ってくれます?」
良くしてくれた不破の言葉を無碍にすることは流石に出来ないのだろう。妙なタイミングで鳴ったインターホンに嫌な予感はしていただろうに律儀に座り直す。育ちの良さというか、幼さゆえの甘さに今だけは感謝して玄関の鍵を開けにいく。ほどなくして玄関扉を開けたのは勿論配達の人でも宗教勧誘でもない、待ちかねていた剣持の恋人だ。
「加賀美さん、だよね。どっちの差し金?」
「ごめん、もちさん」
「私が無理を言ったんです。剣持さんにお話があって」
「そうだね、僕もあるよ話。ごめんなさい二人ともゾロゾロ押し掛けちゃって、お暇するね。ほら行こ」
暖かさを取り戻してきていた若草が加賀美の存在を認めた途端、土煙を被ったほの暗い色に戻ってしまった。取り繕われた笑みのお陰で分かりづらいが、加賀美を前にして怯えを孕んだ瞳がずっと落ち着かない。目を合わせてしまったが最後、どうにかなってしまいそうだと加賀美の視線から必死に逃げているのだ。
細めた瞼の奥で人知れず苦しみ喘ぐ剣持に直ぐにでもお役御免になった右手を差し伸べることは出来た。でも不破は握り締めたまま二人を黙って見送った。
「良いの?不破さん案外もちさんに過保護じゃん。社長がまたいじめちゃうかもよ?」
「甲斐田も大概やろ。それに、こういうのは社長が自分でなんとかするべきやろ」
「確かにねぇ。僕らはどうする?」
「社長ぶん殴る用のハリセンともちさんに説教する用の座布団。あと、四人分のココア用意しとこ」
「ですね」
────────────────
ここ半年間、いやそれ以上の月日、いつも歩幅を合わせてくれる彼に甘えて何も気にしたことの無いまま隣に連れたって歩くことが多かった。顔を合わせるのも隣に肩を並べるのも具合悪いだろうと半歩後ろの距離を保つのがこんなにも難しいとは思わなんだ。
先頭を行く剣持の後ろ姿は珍しくて、背中はこんなに小さかっただろうかとか、十ばかり身長が離れていると旋毛まで見えるのかとか。出ていかせてしまって自分も慌てて出たものだから、耳まで真っ赤なまま薄着でいる彼に何もしてやれない自分の酷く情けなくて不甲斐ない姿が目についた。
「僕から話しても良いですか?」
「はい」
お互い話があるとき、彼から話を始めるのも珍しい事だ。ただ、軽やかに振り返る姿はやっぱり変わらず美しい。ころころ転がる鞠のような仕草、いつもその可憐さに見惚れて、そしてどっち付かずな懺悔を抱く。芯の通った声が波紋を作る度、青柳色の鱗を思い出してしまう。
「別れて下さい」
告白したときの事は今でもハッキリ覚えている。年の暮れだったか、ろふまおの収録が終わった夜も遅い時間。不健全な恋慕を抱いているのにそれを隠して仲間として肩を並べるなんて申し訳ないと建前を並べて、その実これ以上誤魔化せないという自分の身勝手さから想いを吐露した。
そして見てしまったのだ。心臓が耳にあるような煩さが思考を邪魔して、心音で朧気なまま好きだと言ってしまった時、嫌悪を持ってして一瞬引きつった表情を。だけど、そのあとすぐにあなたの勘違いですよと慰めるみたいにありがとうと言ってくれたから、あんな一瞬の見たこともない苦々しい表情よりも、とても見慣れた、そして自分が愛した笑みの方が信じられるものだったから。形の良い端正な笑みに甘えてしまったのだ。
否定されなかったことを肯定と捉えて愚かにも受け入れられたと勘違いをした。普段賢いと評される事の多い自分の頭は加賀美の言葉を使って醜い言い訳を垂れたのだ。
「加賀美さん僕の事好きじゃないよね。今まで無理して付き合わせちゃったから、僕から言おうと思って」
それももうお終いだ。すっぱり諦めてしまおう。
「いや、私は」
「だって僕じゃない人の事好きだよね?」
疑問の形を取ってみたが、ほぼほぼ確定事項のような物言いで剣持は言ってのけた。
多くを望んでいた訳じゃない。手のひらが重なる瞬間だけ、微かな温度を感じられる関係でも良かった。踏み出さなければ傍に居させてくれる距離感は多分存外に心地好かった。けれど、肩に手を置き、腰に彼の手を回させても、自分のステップが彼の足を踏むことは一生無いのだ。
「それは、そうだったんですけど、違うんです!」
「もうなんにも言わないで!」
傷つけたくて、傷つけられたくて。ぶつかって分かち合ってそのまま溶け合う。恋人とはそんなものだと思っていた。でも自分たちはどうだろう。別々の容器に入ったまま、その足で抜け出せるのに、ガラス越しに揺れる相手の表情にずっと意味もなく怯えている。飛び込むこともせず、だから混じりも濁りもしない。綺麗に扱われて優しくされるだけでは、どうしたって足りないのだ。
「もう加賀美さんの言うことなんにも聞きたくない!」
加賀美の言葉はどうにも聞いていられなかった。きっと鳥肌が立つような優しさで、昨日と変わらぬ強さで抱き締めて、全てを許してくれる。でも、そこでもきっと何も話してはくれないのだろう。
抱き締められた感触はすぐに無くなってしまうのに、撫でられたおでこに残る温もりだけはずっと残り続けている。彼が贈ってくれた慈悲深い愛情は恋人に与えるには希薄で、同時に剣持にもたらした疑問のほうがずっとずっと重たい。
誰にしていた事なのか、誰にしたかった事なのか、知らない、知りたい、知りたくて堪らない。けど、知りたくない。
「僕を使って、僕以外の人のこと見ないでよ……」
「剣持さん、」
怒鳴ったことなんて加賀美は勿論、他の誰にだって無い。人生で一度だってそんな酷いことする必要性は無かった。変な声の出し方をしてしまったのだろう、上擦った声は聞くに耐えない。
「付き合わせちゃったのは僕の方だし咎めるつもりとか無いですから。誰かに言うこともしない、だからもう何にも言わないで下さい。それじゃあ」
加賀美の表情が読めない。傷付いているのか呆れているのか、でもきっとどちらにせよ心象の良いものではないのだろう。別れを告げたばかりなのに、彼にどう思われるかを気にして心拍数がどんどん上がるなんて、無意味なことだ。ジワリと汗が滲むのに身体はサァッと冷えて喉が渇く。気付いた時には駆け出していた。
「待って!」
聞こえない聞きたくない。いいよって、言われちゃったら?別れの言葉を肯定されてしまったら?この別れを晴れの日の門出のように、祝福に彩られた花束のように、両の手で丁寧に受け取ってほしくなかったから、だから身勝手な思いで乱暴に押し付けた。
「は、はっ……」
怖くて振り返れないまま日暮れの街を走る。早く訪れる夜から逃れようとそそくさ足早に過ぎゆく人々からは、どう見えているのだろうか。片隅にある外聞がそんな事を気にするのに傷心中の幼心は一刻も早く逃れたいと喚く。駅はどっちだったか、角を曲がって、タイル張りになっているからここは少し滑っていて。
ええと、ええと。彼が居ないのならばどこでも良いか。
息が上がって雑に吸い込んだ冷たい空気のせいで肺が余計苦しくなったと同時に、歩みが緩む。行き交う人混みは誰にも興味が無さそうに改札へと進んでいる。そこまで来てようやくどうやら駅前まで着いたのだと気づいた。呼吸を一つ二つ整えて暫くしないうちに、自分も人混みに倣って改札口まで早足に進む。まだ十分に息も整っていないままに鞄を漁るものだから、それに気を取られて足が縺れて転びかける。手から滑る定期を粗雑な仕草で押し付ければ、少し安心して冷静に家のある路線を探せた。
「はぁ、つかれた……」
もう遅い時間。自分以外に電車を待つ人はポツポツと黄色い線の内側に立っているが、待合室の中には誰も居ない。走ったばかりの自分には暖房が少々暑かったが、誰も居ない空間にホッとして一つの椅子に腰かけた。
「好きって、言われたこと無かったなぁ」
深く腰掛けた途端、身体の力が抜けてどうやら口許も緩んでしまったらしい。ヒビの入ったコンクリートの床に落ちて割れてしまうだけの言葉が、ぽつぽつと溢された。
「好きだったなぁ……」
他愛もない空音でも良いから言ってほしかった。彼にとって、好きでもない男に甘言を施すのはそんなにも惜しい事だったのだろうか。聞ける相手はもう居ないし、居たとしても聞く勇気があるかと問われれば首を振る。静かな時間は余計なことを考えさせるからいけない。こんな妄想は自分を不幸にしてしまうだけだ、さっさと止めてしまおうと首を横に振る。
「やめやめ、」
好きだったなんて、まるで分別がついたみたいな言い方。嘘を吐け、そんなに潔い気持ちじゃない。それくらい自分がよく分かってる。
「大好きです!」
「は、?」
勢い良く開けられた待合室の扉。寒ざむしい空気が一気に入って、目を瞑って身震いをしていたら、聞き慣れた声が駅全体に響くんじゃないかと言うほど大きな声で好きだと叫んだ。
「好きです!あなたが、剣持刀也が大好きです!」
「な、なに……?加賀美さん、?なんで?」
「毎日好きで堪らないんです!大切にしたくて可愛いあなたに触ることすら出来なかった!」
「待って、ここ外だから、なんなんですか?一回落ち着いてよ、」
「もっとはやく伝えるべきでした。好きも愛してるも全部」
焦がれていた言葉が、もう心に入りきらないと悲鳴をあげているのに、花吹雪へと形を変えて総やかに浴びせられる。愛してるなんて、初めて言われた言葉。嘘かもしれないのに、むしろ嘘である方が自然なのに。彼の声はいつだって妙な説得感があって、疑う余地なんてこれっぽっちもないような、信じざるを得ないような気にさせるから困ってしまう。加賀美のために、なにより自分のために諦めようって決めたのに、揺らいでしまいそうになる。馬鹿はどっちなんだという話だ。
「伝えてなかったことが、伝えたかったことが沢山あります」
彼の大きな声がビリビリと肌にまで響いてひりつく皮膚のザワつきが嬉しくて堪らなくて、顔中が茹で蛸のように熱くなる。そんな顔見られたくないと俯こうとするのに、そんな剣持の羞恥心を承知している上で何も思いやってやるつもりはさらさら無いときた。遠慮のない足取りでズイッと近付いて、逃れるなんてそんなの許さないと謂わんばかりに真正面から愛してるを紡ぐ。
「あなたに大昔のあなたを重ねて見ていました。ちっぽけな引け目で私はあなたを傷付けました。信じてもらえないことは重々承知です、遅すぎることも分かってます。でも自信を持ってあたなを愛してると伝えに来ました」
「ぁ、うぅ……だ、から、だからっ……ちょっと……まって、」
目と鼻の先に彼がいる。瞳の先には、ただ一人。
「剣持さん。あなたを愛しています」
あぁ、なんだ。彼も真っ赤じゃないか。
「もう、わけわかんないから……ちょっと待って……」
「それでも愛してます。あなたが許してくれるなら、手を。どうか」
何を言っているのか半分も分からないのに、余裕の欠片もない彼の飾らない言葉が単純な心を喜ばせる。もう、そうなってしまえば、手を差し出すしか選択肢は無かった。
「冷たい……薄着をさせてすみません」
「そんなこと、いまどうでもいいから……」
きゅうと握られた手を解すように温められる。恋人らしい、恋人という関係に相応しい営みの延長。
「加賀美さんって、勢い任せだよね」
「言わなきゃと思ったらつい。それと、またハヤトと呼んでくれませんか?」
「僕の事名前で呼んだこと無いのに?大体、好きとか全部体裁のための嘘とかかもしれないし……」
「それは嘘じゃありません。大好きです。髪も瞳も手も足も、刀也さんの全部が愛おしくて堪らないんです」
ムードもタイミングもへったくれもない雑で武骨な口説き文句。まともな人ならひっぱたいてさっさと電車に乗って帰ってるだろう。だけど、ただ加賀美から手をぎゅっと握られて引き寄せられるだけでコロリと疑心暗鬼の種が枯れて落ちてしまう。チョロい剣持の心を完全に見透かしてるとしか思えない甘ったるい甘言の数々。彼は人を爛れさせる悪魔か、それとももっと手酷いなにかなのかもしれない。
「あ、その顔も可愛い」
今しがた、急行は発車してしまった。
「……まだ許してないから」
「ええ、刀也さんの満足いくまで許さないで」
「説明もちゃんとしてもらうし、一発兄コブに殴ってもらうし、」
「はい。全部受け止めます」
「ショートケーキ買ってもらうし、それから、それから」
こんな浮かれ気分で身体も頭もふわふわしたままじゃきっと碌なパンチも出せない。一人だけ心底幸せそうな顔で微笑んでる加賀美になにか食らわせる役は、今の剣持には荷が重すぎる。
「それから、キス、して……」
少しの我が儘くらい許されるかもしれない。そう思ったのに、深く深く俯いて尻すぼみになってしまった剣持の言葉に数秒経っても返事が返ってくることはなかった。
「や、やっぱ今のな、んむ……っ!」
「キスする時は顔を上げて?鼻で息をして、私に身体を委ねて」
「ん、んぅ……は、ッハヤトさ、」
手をクンッと引かれ、前につんのめりながら立たされた衝撃は、加賀美の大きな身体に包み込まれてすっぽり消えた。そして、剣持の驚きの言葉は、それが音となる前に飲み込まれてしまった。
途端、大きな手のひらがあやすみたいに顔を柔く包んで、もう片方の手では強く強く背中を掻き抱かれる。夜は日増しに寒くなっているというのに、厚着していなくて良かったなんて思う日は今日この時限りをもってもう二度と来ないんだろうなとぼんやり分かってしまった。
ぬるりと唇を割り入る悪戯な舌先がこしょこしょと剣持の口内を擽る。漏れ出た艶の帯びた声が鼻から抜けて、二人の鼓膜に響く度に背中に回された手にグッと力が入って皺が寄る。あんまりにも熱烈であんまりにも腫れぼったい抱擁に、もう一生離してくれないんじゃないかなんて馬鹿な考えが過って、あまつさえ嬉しいなんて浮かれすぎにもほどがある。
「ぁ、んっ、んんっ……」
こんなに人の唇が柔らかいなんて知らなかった。マシュマロに似ていると聞いたことがあるけれど、加賀美の唇は少し乾燥していてザラザラしている。代わりにすごく熱くて、重ねる度に嬉しくなって離れるともっと寂しくなる。ひと度そう思うと離れるのが名残惜しくなって、まだ肺にたっぷり酸素があるうちから別れに悲しみが滲む。触れている間のほうが切なくなってしまうなんて、もう離れられなくなってしまうじゃないか。
「ふぁ、あ、だめ、ハヤトさん……腰、抜けちゃったからぁ……」
「え、?!す、すみません」
「ばか、はじめてだったのに」
「だ、だってぇ……」
さっきまで剣持をリードする大人だったくせに、今度は子どもみたいにアワアワとしょんぼりしている。ヘンな人。
「ねぇ、帰ろ?僕鍵もってないから、ハヤトさんが開けて」
「はい、一緒に帰りましょう」
抱き締められた温もりが全然消えない。離れてしまった唇ばかりを悩ましげに見つめる剣持の視線に気付いた加賀美が、羽織っていたコートを頭に被せて可愛いリップ音がするキスを、髪を挟んだ額に落とす。そんなとろりと甘やかすみたいな、剣持のわがままを口にする前からそれ以上にして叶えてみせる都合の良い魔法の持ち主。
初めてされたキスの余韻も当分消えそうにない。こんなことは初めてだ。加賀美から与えられるものが磨り減っていかないなんて、困った。はてさて、どうやら今度は持ちきれない愛情をどうやって抱えればいいか分からない。
「手貸して」
「手どころか、ほら、肩貸して」
「ぇ、?ぅわあっ……!」
油断していた剣持の肩を抱いて、膝の下に加賀美の腕が回される。ヒョイッとなんともまあ軽い調子で脚が宙に浮く。こんな往来で横抱きだなんて、浮かれポンチだと笑われてしまう。
「ちょっと、!おろして!」
「ダメです。絶対離れたくない。きっとみんな具合の悪い子の介抱にしか見えませんよ」
頭に被せたコートの意味は、もしかしたら加賀美の打算も含まれていたんじゃないかと邪推してしまうほどには、にやりと笑う口角が悪びれもなくつり上がっている。
「私のわがままに付き合ってくださいませんか?」
酷い人、
「僕が断らないって分かってるでしょ」
コートを引っ張ってもう一段深く頭を覆ってしまえば、周りより加賀美の体温のほうがよく目立つ。それでも、きっと人生のなかで最も恥ずかしい思いをするんだろうなぁ、なんて、それすら幸せだと剣持は微笑んだ。
──────────────
「で、無事和解ってこと?」
「はい、まぁ」
「もちさんよく四獣神の話分かったねぇ。僕初めて聞いたときわけわかんなくてこんがらがったのに」
「まぁ普通に滅茶苦茶混乱したし、ハヤトさんの正気を疑ったけど」
「酷い!」
現在、不破の家のリビングにて、一人の男が正座をして他三人がお値段およそゼロが少しばかり多めのふかふかソファで寛いでいる。
「まぁ誤解解けたってことはめでたいんやけど、一発殴る約束してたし、俺たちも素振りめっちゃしたから安心してや」
「なんにも安心できないんだよなぁ」
「不破さん社長筋肉のせいであんま恐怖感じてないっすよ。おもっきしいきましょう」
そう、今日は迷惑をかけた二人への詫びを持ってくる為の訪問であり、二人からも人騒がせなカップルへのハリセン一発もといお説教大会も兼ねていた。
しかし、剣持のお説教は玄関口でほぼ終わっている。時間にしておよそ一分未満。玄関までお出迎えに言った不破による「溜め込みすぎちゃだめっすよ?」だなんていう生ぬるいやりとり緩い抱擁付きで完結した。
そして本日のメインイベントである加賀美への渾身のハリセン一発。兄コブは今日のためにアメリカンサイズのハリセンを通販で購入した後、バッティングセンターにて練習をみっちり三日してきたのだ。
「それじゃあまず前座の僕から」
「自分が前座である自覚あるんだ」
「まぁ貧弱っすからね甲斐田は」
「そこォ!オーディエンスうるさいぞ!」
貧弱甲斐田のバッティングセンターでの打率は目も当てられないほどだったが、無条件で加賀美に収録での恨み辛みを当たれる機会なんぞ滅多にないので気合いだけは充分。彼には背後から聞こえてくる野次は、さながら自分の背中を押す輝かしいファンファーレにでも聞こえているらしい。なにやら目を瞑って浸っている。先にハリセン一発を入れるべきはこいつのほうでは?と不破が良からぬ疑問を持ったところで、甲斐田選手バッターボックスに堂々たる出で立ちで立つ。
フォームだけは一丁前、実力は半人前。さて二人の野次が本当のファンファーレとなるか否か。
「せーのォ!」
「いった、!く、ない……?」
良いとこいってペチンという擬音がギリといったところである。あまりに残念な結果にハリセンを受けた本人は拍子抜けしているし、不破と剣持は絶望という心持ちで手で顔を覆っている。甲斐田だけが何故だか白けた場の空気に納得がいっていない。これが劇場王の本気と言うべきか、なんとも度しがたい。彼にはバッターボックスよりもベンチの温めが適任だったようだ。
「甲斐田戻ってええぞ」
「僕ポケモンじゃないんだよなぁ!」
「コイキングじゃん」
「うるせぇ!ガキぃ!」
不破の苦々しい言葉により、己にとって鬼に金棒ではなく猫に小判となってしまったアメリカンハリセンをバッターボックスに残して去っていく。渋々ベンチよりかはまだ暖かいホームなソファへ戻った甲斐田は、剣持とやんや言い合いをしはじめ、未練などこれっぽちもなさそうにしている。その間に本当の本命である不破がようやくホームベースもとい座布団の横に立つ。加賀美も居住いを正して、流石に筋トレもしている不破の打撃は厳しいものだろうと身体を構える。
「俺、メジャーリーグ目指してたんで」
「たった三日のバッティングセンターでそこまで熱くなんねぇだろ」
ホラを吹くのも大概にしたほうが良いと思うが、謎に不破の瞳の奥に闘志が宿っているのが見えて余計意味が分からない。最底辺に興醒めしている今なら、不破がどんなバッティングをしても甲斐田よりかは酷いものにはならないだろうという不名誉な安心感のある中、バッドが握り締められた。
「せーのォ!」
「いったぁ!」
「ハヤトさんが痛がってる?」
「私のことなんだと思ってるんですか」
「もちさんのこと泣かせた人」
「もちさんのことジェネリック青龍にしてた人」
「それは本当に、非常に申し訳ないと思ってる」
いくら三十路の筋肉量ではないからといって、仮にも、本当に仮にもメジャーリーグ目指して鍛えていた人間のハリセン一発はそこそこ重たいらしい。腰にまともに受けたダメージを分散させるように擦っているが、ハリセンを持った不破が傍に居なければ完全に湿布貼りに苦戦したおじさんである。
「やっぱり社長には言葉の方が効くんじゃね?」
「やーいやーい浮気者~」
「楽屋の弁当三個一気食い~」
「グッ!言い訳のしようがない!けど一個関係ないだろ!」
どうやら三日分の血の滲むような努力が乗ったハリセンよりチクチク言葉の方が重傷になるらしい。兄コブは惜しくも甲子園の土を集めることにはなってしまったが、元々誠実な人だからこそそちらのほうが良心が痛むのだろう。こればっかりは得手不得手。
「よし、メインイベント終わったし、お土産のドーナツ食べようや。ココア淹れるで」
「僕も手伝います」
「ありがとぉもちさん。甲斐田は引き続き社長にチクチク言葉浴びせるんや」
「了解!」
珍しく痛がる加賀美の姿を見れて満足した不破と剣持は、今度は小腹を満たそうと甘いものが待ち構えているキッチンへと向かう。来客用のマグカップと、みんなの好みに合わせて買ってきたドーナツがちょうど二つずつ。お皿は不破セレクトの猫耳がちょこんと飛び出た陶器の平皿。剣持的にこのお皿は特に咎めるものではなかったのは幸いだ。
「キッチンに立つ刀也さん可愛いな」
「もう二度と見れなくなるところでしたけどね」
「いやもう、本当に反省してるんで。二度と泣かせませんし」
剣持が涙を流したと知った瞬間、自分のほうが死んでしまうんじゃないかと錯覚した。心配、後悔、過ち。そんな剣持を前にしてしまえばちっぽけで身の程知らずな考えがしゅん巡して、血の気がサァッと引いていくおぞましい感覚。もう二度とそんな思いしたくないし、させたくもない。
「不破さん相当怒ってたと思いますよ。仲直り出来てなかったらどうなってたか」
「すごい剣幕でしたよ、あんなにちゃんと説教されたのは久々だったので、
頭が上がらないです」
もう一生失いたくないとあの日心の底からそう思った。ずっと曖昧で心の中にしか無かった霧の向こうの形。なあなあなままなんとなく燻っていた名前のないそれを、上手く言葉にして情熱にして、剣持への執着へと変えたのは、不破との言い争いがターニングポイントだったように思う。
「なんの話してたの?」
「社長がひどい野郎だって話」
「もうやめませんか?」
「じゃあマリパしよや。この間のリベンジマッチ」
「良いですね」
「社長負けたら今日の夜ご飯奢りってことで」
「私だけ罰ゲーム?!まぁ良いですけど」
ココアは当分、冷めそうになかった。