過ぎ去って、恋
別れた恋人が忘れられなくて記憶除去手術を受けた弓と、別れた恋人が忘れられなくて会いに行ったら自分のことを忘れられていた槍の話です。
以下キャプション
・現パロです。
・ハッピーエンドが好きな人が書きました。
・SF(すこしふしぎ)要素があります。ふわっと感じて頂ければ嬉しいです。
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きっかけはそう、歯医者だ。
アーチャーは生まれてこの方、虫歯になった事がない。もちろん朝昼晩と欠かさず歯を磨いたし、虫歯の原因として挙げられるようなチョコレートやキャンディの類はそもそも好まなかった。思春期真っ只中のアーチャーの顎を生えかけの親知らずがズキズキと苛んだ時でさえ、痩せ我慢をし続けた。医者が苦手なのではない。自分でケアさえ怠らなければ、一生お世話にならなくて済むという認識があったまでだ。
だからアーチャーが白衣の医師に囲まれながら目を覚ました時は、そこがデンタルクリニックのユニットチェアの上だとはすぐには分からなかった。
「疲れが溜まっていらっしゃったようですね。ぐっすりでしたよ」
フッ素臭い口を差し出された紙コップの水で濯ぎながら、アーチャーは脳内時計の針をさかさまに回して必死に記憶を辿ろうとしていた。ここは歯科らしい。それはいい。だがなぜ己が歯医者にかかっているのか、その経緯が一切記憶になかった。こんなことは飲みの席で緑茶ハイだと言われて掴まされたアブサンを一気飲みしたとき以来だ。思い出したら頭痛がしてきた。あの時は誰に嵌められたのだったか。
「処置は済みましたが、詰め物をしているので二時間ほどは食事を控えてください。唇に麻酔が残っている間は、熱いお飲み物も危ないですのでお気を付けて」
「親知らずの抜歯?」
医者からすれば患者が一瞬にして馬鹿になったとしか思えないような質問を投げかけると、歯医者と言うよりは悪徳博士のような髪型をした男は意外にも動揺せずただにっこり笑った。
「いえ、虫歯を削りました。だいぶ楽になりましたでしょう?」
「はぁ、虫歯」
反芻しなから歯列を舌でなぞる。中学時代に散々悩ませてくれた忌まわしい奥歯は健在だ。麻酔のせいか唇が僅かに腫れぼったい。本当に虫歯の処置をうけていたようだが、眠っている間に、何故かもっと大きなものがアーチャーから抜け落ちたような気がしていた。
アーチャーの周囲で些細なイレギュラーが起こり始めたのは、その日からだった。と言うよりは、アーチャーと世界の間で、何やら明確な誤差があって、普段通りにしようとすればするほどに、その隙間の存在がちらりと顔を覗かせるようなことが起き続けた。
例えば、椅子。
アーチャーが渡米してから腰を据えているワンルームには、どうしてか一人暮らしには持て余すほど椅子が多い。仕事から帰宅し、茹でたウィンナーをピクルスと一緒につつている最中にそのことに気が付いた。まずダイニングテーブルには折り畳み式の白い椅子が二つあるのに、テレビの前には某人をダメにするクッションと、ゆったりした幅のソファまで鎮座している。これらの椅子達を満足に活躍させる為には、アーチャーの体が少なくとももう一つ必要になるだろう。なぜ必要もないのに買ったのか。その理由はアーチャーと世界との狭間に吸い込まれてしまったかのようだ。それにアーチャーはあの座っているのだか寝転んでいるのだか分からないソファは苦手なのだ。おやつなのかツマミなのかいまいち区別のつかないピクルスと同じくらいに。
一度気が付いてしまうと、違和感は次から次に生まれ出る。例えば戸棚の奥に大事そうに仕舞われていた未開栓の赤ワイン。帰宅した際の「ただいま」に返ってくる、五月蝿すぎる程の静寂。残業が確定したとき咄嗟に開いたメッセージアプリの上で、行先を見失ったようにうろつく自分の指。まるで正体の掴めない謎に翻弄され、アーチャーの苛立ちは日に日に蓄積していった。このままでは良くない。少し遠出して気分転換でもしようか、などと画策しつつ、通帳を久方ぶりに開いたアーチャーは目を剥いた。
貯金の半分がごっそりと消えていたのである。
一度見た時は信じられなかった。血の気を失って震える指で、何度もなぞるように確認した。
一ヶ月前。
軽く車が買える額を自分がどこかに振り込んでいる。
ここまでくるとその記憶すら有していない自分にすら疑心暗鬼になってくる。深呼吸だ。深呼吸をしろアーチャー。
振込先の名前に見覚えがないことは既に予想できていた。だが後ろに続くデンタルクリニックという文字には、最近どこかで縁があったような気がする。
二秒後にはコートを掴んで家を飛び出していた。本来、アーチャーの記憶力は良い方だ。一ヶ月前に一度訪れただけの歯科の場所でさえ覚えている。テナントビルの外階段を三階まで駆け上がると、昼間だと言うのにシャッターが固く降ろされていた。声を掛けるが、人のいる様子はない。痺れを切らし始めたアーチャーの足下に、一枚の手書きの張り紙が舞った。
『テナント募集中。ご連絡は……』
アーチャーは生まれて初めて、失望によって膝を着いた。
あの悪徳デンタルクリニックがせしめたのは、日本ではゴールデンタイムに流れるクイズ番組の賞金になるレベルの大金で、この国でも1年は無職でも食うに困らず生きていけるほどのものだった。あの時胸に感じた消失感の正体もなるほど頷ける。失っていたものは虫歯でも親知らずでもなく、貯金だったというつまらない洒落だ。
だが未だに引っかかるのは、アーチャーがそれだけの金を貯金していたのは、クレジットカード等も登録している連邦銀行の口座ではなく、普段はあまり利用していない地元銀行の口座だったことだ。言わば老後資金用の口座である。老後と言っても先が長くない余生を悟るようなことがあれば、寄付でもしようかとこつこつ貯めていたのだった。
失望と己の不甲斐なさに苛まれながら、アーチャーはテナントビルの目下にある鄙びた公園のベンチにふらふらと腰を下ろした。欅が立ち並んでいて木陰が涼しい。時折通りかかるランニング中の人々の軽快な足取りが、幾らかアーチャーの最悪な気分を掬い上げてくれる。世の中には金で買えない物だって沢山あるだろうアーチャー。詐欺に遭ったからって死ぬ訳じゃない。あの貯金だってまだ半分以上は残ってる。
自分にそう言い聞かせながら、膿を孕んだような長い溜息を吐き出した。いい歳した大人が公園でみっともなく膝を抱える理由としては、これくらいは充分過ぎるだろう。
「おう、デカいガキがいると思ったらてめえか。相変わらず辛気臭いツラしてやんの」
突如ベンチの隣にどさりと尻を落としてきた男に、アーチャーは目を白黒させた。見たところ歳はそう変わらないか、こちらより少し若いくらいだろうか。長い青髪と赤い瞳。一度会ったら忘れないような男だが、それならば今頃アーチャーの口からは気の利いた挨拶が飛び出ている。
「す、すまない。知り合いだっただろうか?ここのところ少し忘れっぽくてな。面識があるなら謝るが……」
その時見せた男の無表情には、あらゆる感情が詰まって見えた。驚き、悲しみ、痛み。なまじ端正な顔立ちをしている為に、人が時々無機質な美術品から感情を読み取るように、アーチャーが勝手にそう解釈しただけの可能性もある。一瞬の沈黙でそんな事まで考えた。そして次に男があっけらかんとした笑顔を向けてきた時には、その懸念はほとんど確信に変わっていた。
「こりゃよく見りゃ人違いだな。知り合いに似てたもんでよ」
「公園のベンチで一人途方に暮れてるような知り合いが?」
「いたんだよなぁ。迷子のガキみてえな知り合いが」
揶揄のつもりだったアーチャーの切り返しを、男は真正面から打ち返す。やりづらい。人違いだと分かれば立ち去れば良いものを、彼はどうやらアーチャーを話し相手として見定めたようだった。
「ほらそうやって眉間に皺寄せまくるのもそっくりだ。この世の終わりみてえな顔してよ。何かあったのか?」
「むしろ無くなったと言うべきか、作った覚えのない虫歯を処置されて医者に大金ごっそり持っていかれたよ」
「……それって世間一般的には詐欺じゃねえの?」
「そうとも言う。医者は一ヶ月後にはトンズラだしな」
あーあ。と同情なのだか呆れなのだか、恐らくは後者の意味で感嘆を漏らして男は煙草に火を付ける。一本くれ、と言いかけたが、禁煙するのに三年以上掛けたことを思い出してやめた。
「じゃあオレの話も聞く?不運同士、傷の舐め合いといこうぜ。な」
「同類として認識されたとは光栄だな。だが別に不運って訳じゃ……」
「昔の男が忘れられねえ」
アーチャーはぎょっとして男を振り返った。渾身の気遣いで顔には出さなかった。この快活そうな美丈夫の口から出てくる「昔の男」という単語に、異常な程に動揺している自分がいた。
「あ、誤解すんなよ。お前の同情買ってナンパしようとか微塵も思っちゃねえから。オレは別に男の趣味は無かったんだが、そいつに関しては趣味とかどうとかの話じゃあなかった。まあ、ガキの喧嘩みてえな理由で別れちまったんだがな。結局オレもあいつもガキみてえなところあるからよ。今もどっかで膝抱えてるような気がして、忘れたくても忘れられねえ。忘れさせてくれねえんだわ。で、もう一度やり直そうって時には、そいつはもうオレのことなんて顔すらも忘れてた」
名前も知らない男が自嘲げに歪めた唇から、言葉の名残のように紫煙が漂う。何ら共通点も無ければ、抱えた喪失感も全く違う。傷を舐め合おうにも、男の傷はあまりにも深い。
アーチャーが言葉を紡ぐより早く、彼はベンチから立ち上がった。
「どうだ?ちったぁ自分の不運がマシになったか?」
「君こそ、その……私でよければ相談に乗るが」
「おいおい。そうやって行き摺りの相手をそうホイホイ信用すっから詐欺られんだぜ。学習しろよ」
ぐうの音も出ない。
「ま、とは言え、話できて良かったわ。元気でな、オニーサン」
「待ってくれ」
アーチャーは振り返った男の顔を、今一度よく観察した。ぱっくりと切り開いたような眼が、こちらを見つめ返して今僅かに揺らぐ。
「君と私は本当に赤の他人なのか?」
「さっきも言ったろ。知り合いだと思ったが……全く人違いだったって」
男は青い尾を揺らしながら去っていった。男の話がどこまで真実なのかは確かめようがない。もう二度と会えないだろうという漠然とした確信があった。ただ最後の質問への返答だけは、アーチャーは信じていたかった。孤独に打ちのめされたあの男を、アーチャーだけが記憶の奈落に忘れて去っているなんて耐え難かった。
一息ついて立ち上がりかけたアーチャーは、隣……先程まで男が座っていた場所に何かを見つけた。指輪だ。座る前は無かった筈だが、そうなると男の持ち物で間違いないだろう。周囲を見渡すが、そろそろ日も落ちてきた頃合でひと気は少ない。こんな市街で闇雲に探しても時間を食われるだけだ。
宝石のないシンプルなデザインの銀の指輪は、内側にイニシャルと思しきアルファベットがLancer.Aと刻印されていた。
その落し物を預かってからというもの、アーチャーと世界の間にあった齟齬が僅かに狭まってきたように感じ始めていた。何が、という明確な根拠はない。気のせいでもいい。そして適うならばもう一度彼に会いたい。指輪を拾得物として届出ないのは、それが一つの理由だった。もう一つの理由は、男がもうこの指輪を探してはいないかもしれないという懸念のためだ。余程緩いものを付けていたのか、それともポケットにでも入れっぱなしにしていたものでなければ、ベンチに置いて行ったりなどしまい。男は指輪と一緒に、彼の「昔の男」への思いを置いていこうとしたのではないか。
持ち主を探している時、頭に過ぎるそれらのことは全て憶測だ。もし彼の語った言葉が全部出鱈目なら、アーチャーはいい笑い者になるだろう。それでも良かった。あんな顔を見せられるくらいなら、笑ってくれた方がいい。
休日返上で公園近郊を捜索するうちに、アーチャーは奇妙な噂を耳にするようになった。何でもこの付近では、催眠療法と脳神経外科学を応用したモグリな違法手術を行うクリニックがあるらしい。その内容というのは主に記憶除去手術。つまり人の脳から、ある一つの物事に関する記憶だけをすっぱ抜くというものだ。手術後に本人すら記憶除去された事に気が付かないよう巧妙に取引を行っている、という時点で、この噂の信憑性はかなり眉唾ものだ。そんなことより患ってもいない虫歯治療で10万ドルもすっぱ抜くインチキ歯科医の方を警鐘として広めて欲しいものである。
「ホットコーヒー、一つですね。砂糖とミルクは?」
捜索を続けて半年あまり。冬の身を切る寒さに耐えかねて駆け込んだ喫茶店で、アーチャーはウェイターの顔を見上げたまま絶句した。
半年探した。半年も。禁煙に努めた三年よりも長い半年だった。
「あのォ」
男が首を傾げると、あの時と変わらず長い尻尾も揺れる。少し困ったように、「なんかオレの顔についてる?」と彼は小声で言った。
「目と鼻と口が付いてる。それと、これ。君のだろう。あの時ベンチに忘れていった指輪、返そうと思って預かっていたんだが」
アーチャーが立ち上がったせいで、ウェイターはコーヒーを持ったまま客を見上げることになった。ポケットから指輪を……紛失したら本末転倒なのできちんとジュエリーボックスに入れていたそれを取り出し、アーチャーは返事を待つ。席が疎らな店内では、流行りのポップソングが流れていてもいっそ静寂過ぎるくらいだ。実際、アーチャーとそのウェイター以外のその場に居合わせた全員は、固唾を飲んでこの珍事の成り行きを見詰めていた。
だが男の示した反応は、予想のどれとも違っていた。
「すまん、人違いじゃねえか?オレあんたのこと知らねえし、あの時ってのもピンと来ねえし…… 」
掴んでいた命綱がすぱりと切られたような感覚だった。一度会っただけの相手を半年も覚えている、だなんて確信していた自分が急に恥ずかしくなる。何か思いがあって指輪を託した?そんな臭い真似をする若者などいまい。全部アーチャーの思い込みで、勝手に必死になっていた。笑ってくれた方がマシだなんて、それすら烏滸がましい考えだった。
耳まで赤くなって硬直するアーチャーの手から、ウェイターは何かに気が付いたように無造作に指輪を抜き取った。
「でもこれは確かにオレのだ。同じデザインのが一個うちにあってな。それにイニシャルまで入ってんなら間違いは無さそうだが。しかし男から指輪受け取るって変な感じするもんだな」
「す、すまないな、相手がこんなむくつけき男で。だが持ち主に返せて良かったよ」
恥じ入ったアーチャーは口ごもる。ウェイターの手からすっかり温くなったコーヒーを受け取って一気に呷ると、もう一方の手から素早く伝票を抜き取って、代わりにやけくそのような枚数のドル札を押し込んだ。
「釣りは君のチップに」
息も絶え絶えの捨て台詞を吐いて踵を返しかけたアーチャーの手を、思いがけず大きな男の手が掴む。どうしてか以前からその手をよく知っているように思えた。アーチャーが忘れていても、アーチャーの肌がこの感覚を覚えていると熱と共に伝えてくる。
「なあ、もう一つ同じデザインのがあるって言ったよな。彫刻されてる名前……お前の名前って、エミヤ、だったりする?」
アーチャーは……アーチャー・エミヤは、目を見開いた。
詐欺に遭ったのも、消えた10万ドルも、きっと多分この運命に導く全てだったのだのかもしれなかった。