シミセンの神話学入門
① 神話との出合い
どうしていま神話なのだろう。自分でもよくわからないまま、これからどうなっていくのかも分からないまま、連載を始めることにした。私のパートナーの実家は世界遺産となった石見銀山のある島根県大田市。帰省のたびに出雲を通る。どうやら出雲は神話の舞台らしい。それくらいの知識しか私にはなかった。アマテラスオオミカミとスサノオノミコトという名前を聞いたことがあるくらいで、ヤマタノオロチを八幡の大蛇と思い込んでいるくらい情けない状態だった。そんな私がふと神話と出合った。1年ほど前のこと。以前から気になっていた「カイエソバージュ」中沢新一著を5巻まとめて買って、少しずつ読み始めた。本当に少しずつ。その中に出てくるのはギリシア神話でも古事記でもなかった。それはいわゆる未開の地で語り継がれてきたものだった。その中では、人は他の動物と対等であった。村上春樹に羊男の話が出てくるけれど、神話の中では当然のように人以外の動物たちも人と同じように会話をしている。というか、自分たちの世界にもどると毛皮を脱いで人の姿になったりする。神話=神の話というわけでもなさそうだ。(そのあたりは次号で考える予定)もちろん、ここに登場するのがレヴィ=ストロースという人なのだが、まだ手が付けられていない。この1年でいくらか読んでいくことになるだろう。いずれにせよ、神話はまだ人類が文字というモノを発明する前から語り継がれてきたもの。そこには、人々の無意識の世界までもが語られている。だからこそ、心理学者(ユング、そして河合隼雄など)も神話に興味を持つ。人類が誕生して500万年とも700万年とも言われる。その間、大きな変化は何度も起こっている。文字が発明され、貨幣がつくられ、国家というモノが出来上がってきた。神を見つけ、芸術に触れ、科学を発展させてきた。狩猟・採集から農耕が始まり、そして環境破壊は始まった。戦争は近代に入って相手の見えない争いとなった。しかし、しかしである。環境がいくら大きく変わろうと、人の脳自体の仕組みはほとんど変化がない。神話だって超弦理論(物理学の最先端の理論)だって同じ人間の脳が考えたこと。そう考えると不思議な感じがしませんか。そして、だからこそ、神話の中に、いま我々がどう生きるべきかのヒントが隠されていたりするのです。さて、私の神話に対する興味はこんなところから始まった。このような考え方は、昨年の「憲法入門」にも大きく影響を与えている。それで、神話について少し勉強しようと思ってみた。いくらかの本を図書館で借りて読んだ。そうすると神話の世界の奥深さが見えて、自分の立ち位置が見えなくなってしまった。つまり、この神話学入門をどういう方向から進めていけばよいのか、それが見えてこない。けれど、とりあえずは語り始めるしかない。次回は神話学全般についての話をしておくつもりだけれど、それ以降は私の興味の向くまま、おもしろそうな神話を皆さんに紹介していきたい。そこから、教訓を引き出すというのではなく、昔の人々はどうしてこんなこと考えたのかなあと、ほんの少し考えるだけでも、生き方のヒントが見つかってくるのかもしれない。最後に、インドネシアの神話を引用して終わりにしよう。
「はじめ人間は、神が縄に結んで天空からつりおろしてくれるバナナの実を食べて、いつまでも命をつないでいたが、あるときバナナの代わりに石が降ってきたので、食うことのできない石などは用はないと、神に向かって怒った。すると神は石を引っ込めてまたバナナをおろしてやったが、そのあとで「石を受け取っておけば、人間の寿命は石のように堅く永く続くはずであったのに、これを斥けてバナナの実を望んだために、人の命は、今後バナナの実のように短く朽ち果てるぞ」と告げた。それ以来、人間の寿命が短くなって、死が生ずるようになった。」
② 神話学とはどんな学問か?
神話とは何だろうか。それは世界の始まりのころのお話。まだ世界は形作られておらず、人々もいない、神々が天や地や海底を、そして黄泉の国(死後の世界)を行きかっていた時代。そんな時代のお話。語り継ぐ人々はそれを真実だと信じている。これからいろいろな神話を紹介していきますが、現在の科学技術万能の時代からすると、子どもでもそんなこと信じないというような話がいっぱい出てきます。だからと言ってそれをバカげたものとして斥けてしまっていいのだろうか。そんなところから神話の研究は始まります。どうして昔の人々はそんなことを考えたのか。神話に近い種類のお話として、伝説とか昔話がある。伝説はどちらかというと実際に存在した人の実際にあった話を語り継いだもの。だから具体的な場所や物が実在することが多い。昔話は、いわゆる「むかしむかしあるところに・・・」から始まるお話。特に時代や場所の設定はなく、どこでもいつでも起こりうるようなお話。神話・伝説・昔話、この3種類は必ずしもはっきりと区別できるものではない。『古事記』では最初は神々の話が登場するが、後半では天皇の話が中心になる。非現実的な世界から現実的な世界へとつながる。それで、戦争中、日本国の天皇は神の子孫であるとしてあがめられた。そんな苦い経験がある。でもだからと言って、『古事記』を捨て去るわけにも行かない。いったいどうしてそんな話が出来上がってきたのか。歴史の記述が始まる前の人々はどんなことを考えて生きてきたのか。それを探っていきたい。世界中に神話が存在するけれども、その中身を分類すると、主に次のようなことについて書かれている。世界の始まり・人類の誕生・死の起源・火の起源・農耕の始まりなどなど。いろいろな地域で発達した文化の中で語り継がれてきたものには似通ったものが多い。それは偶然の一致なのだろうか。世界各地の神話を研究してきた学者たちは、そこにいろいろな共通点を見出してきた。神話を比較研究することによってある共通のパターンを見つけ出してきたのだ。そこから、実はその神話の起源は同じところから発しているのではないかと考えるようになった。たとえば、日本の神話とギリシア神話。遠く離れた地域でのお話ではあるが、もともとは、同じ神話を信じる人々が移動することによって世界各地に広まって行ったのではなかったか。こじつけのように感じるところもあるが、人類がどんどん移動して世界中に広がって行ったのは間違いないだろうし、それと同時に、一つの話が世界に広がっても不思議ではない。さて具体的にどんな話があるのだろうか。次回から一つ一つ見ていくことにしよう。今回の締めくくりは、ニュージーランドに伝わるマウイ神のお話。陸地の起源を説明した「島釣り型」の神話。
マウイには祖母があり、彼の兄たちが運ぶ食物によって養われていたが、彼らはあるときこの務めを怠り、祖母の食物を自分らで食べてしまった。マウイが、兄たちに代わって食物を持って祖母のところに行ってみると、彼女は病気になり身体の半分はすでに死んでしまっていた。マウイはこれを見て、瀕死の祖母の下あごの骨をむしりとり、それで釣針を作り、これを隠し持って家に帰った。
あくる日、兄たちが大洋に魚釣りに出かけるときになると、マウイはカヌーの中に隠れていて、沖に出たところで姿を現した。そして隠し持っていた例の釣針を取り出し、自分の鼻を打って出した血を餌の代わりに付けて、釣り糸を海中に下ろした。するとすぐに巨大な魚が食いついた。マウイが糸を引き上げると、海底から大魚の形をした陸地が釣り上げられた。
③ 天地の始まりのお話―――ギリシア神話より
最初は「古事記」にするか「ギリシア神話」にするか迷いましたが、時代的なことも考えて、「ギリシア神話」を選びました。いくつかの本を読んでみると、あらすじは同じでも、ずいぶんと書かれ方が違ったりする。まあ、もともとは語り継がれてきたお話だから、いろいろ変わっても仕方ないのかもしれないけど。現在読むことができる中で一番古いものは、紀元前8世紀くらいに書かれたもののようだ。「ギリシア神話」を読んでいても、特に感動するわけでもなく、何か感じ入るものがあるわけでもない。どうしてこんなこと考えつくのだろう??? と、そんな思いの連続。古代の人たちにとっては何か意味があり、そして現代の我々にはそれが見えなくなってしまったのだろうか・・・ それはともかく、あまり深く考えずに、とりあえず読んでみよう。世界のはじめのはじめ・・・最初に生まれたのはカオスでした。
カオスとは、その内部ではあらゆるもののあいだに何の区別もなく、すべてが混沌と混じりあっている巨大な淵。次に生まれたのがガイア。ガイアは大地の女神。そして地底の暗黒界であるところのタルタロス=男の神様。さらに愛の神様エロス。エロスは絶世の美青年。男女を愛によって結びつけて子を産ませるエロスの力は世界に欠くことができません。このあと、カオスから地下の暗闇の男神エレボスと夜の女神ニュクスという二人の子が産まれ、さらにエロスの働きによって二人はこの世で最初の結婚をします(兄妹なのに)。そして天上の光=男神のアイテルと地上の光=昼の女神へメラが生まれました。これで、夜と昼、地下の闇と天上の光の区別がこの世に誕生しました。
ガイアは誰とも結婚せず、自分の力だけで天ウラノス、海ポントスを産みます。どちらも男神。これで、海と陸、天と地の区別などができます。その後、ガイアは自分の息子であるところのウラノスと結婚し(親子なのに)、男女六人ずつの神様を産みます。この十二人をティタン神族と呼びます。さらにガイアは恐ろしい怪物の息子たちを産んだのです。キュクロプスは額の真ん中に丸い目を一つだけ持つ巨人で三つ子の怪物。ヘカトンケイルはやはり三つ子で、それぞれ五十の頭と百本の腕を持つさらなる巨人。この不気味な息子たちを見た父親のウラノスは、自分が王として支配しているこの世にこんな連中にいられては困ると思い、母親=大地の神ガイアの腹の中にその子どもたちをもどし、地底に閉じ込めたのでした。
このことに怒った母ガイアは、まず巨大な鎌をこしらえ、自分の子どもたち十二人のティタン神族を呼んで言いました。「お前たちの誰でもよいから、この刃物を使って、あのひどい父ウラノスに罰を与えてやっておくれ。」皆恐ろしさのあまりブルブルふるえていましたが、最も若い末の弟クロノスが「その役を、自分が引き受けましょう。」と申し出ました。母ガイアはクロノスに罰の内容を伝えました。何も知らない父ウラノスは母ガイアのもとにまたやってきました。それを待ち受けていた末弟クロノスは父ウラノスの男性器を左手でつかみ、右手に持った鎌で切り取って、背中の後ろの海に投げ捨てました。その塊は朽ち果てることなく海面をただよい続け、そのうちに白い泡がわいて出てきました。その中から一人のえもいわれぬほどの愛らしい女の子が生まれ、泡の中で成長し絶世の美女となりました。それが愛と美の女神=アフロディテです。
「すごい」の一言です。これ以上のコメントはさけます。このあと、クロノスが王となるのですが、またまた、いろいろ問題が・・・続きは図書館ででも探して読んでみてください。おもしろい。次回は「ギリシア神話」の中でどうしても読んでおきたい「オイディプス」のお話の予定です。
④父を殺して母と結婚したオイディプス――ギリシア神話より
ギリシア神話にはたくさんの神々が登場し、それにまつわるたくさんの興味深い話があるのですが、私たちは、もっと他の世界の神話にも触れたいので、少し先を急ぎましょう。今月は、ギリシア中部に栄えた古都テバイにまつわる伝説の中でもっとも有名なオイディプスの話を紹介します。
テバイの王ライオスは神からのおつげ(神託)で、「息子によって殺される」と聞かされていました。そこで男児が生まれると、くるぶしにピンを通して山に捨てさせようとしました。しかし、あわれに思った牧人(牧場で働く人)が、その赤ちゃんをコリントスの王の牛飼いにあずけたのです。コリントス王夫妻には子どもがいなかったため、「ふくれ足」という意味のオイディプスという名前をその子につけて育てました。ある日、成長したオイディプスは、けんかの相手から自分が捨て子だったということを知らされ、その真偽を確かめるため、デルポイにおもむき、神託を得ます。それは、「父を殺し、母と結婚することになるだろう」というものでした。育ての親を実の親だと信じていたオイディプスはコリントスにはもどらずに旅に出ます。その途中で馬車と出会い、すれ違いざまにいさかいが起こります。そして、そこに乗っていた老人を殺してしまうのです。その老人こそが実の父親ライオスだったのです。何も知らないオイディプスは、その後、自分の真の祖国であるテバイにやってきます。そのころテバイでは怪物スピンクスが、人々になぞをかけ、解けないものを次々と食べていたのです。そのなぞとは「はじめは四本足で、次に二本足、そして最後に三本足になるものは何か」というものでした。このなぞを解いて、テバイを救ったものは、ライオス王の未亡人イオカステと結婚し王になることができると言われていました。そして、もちろん、オイディプスはこのなぞの答えを言い当てたのです。その答えとは「人間」。なぜならば、赤ちゃんのときは四本足でハイハイをし、成長すると二本足、そして、最後は老いて杖をつくようになるから。オイディプスは実の母親と結婚することになってしまいました。これで、デルポイの神託通りになったのです。その後のことは、ソポクレスの書いた悲劇「オイディプス王」で次のように書かれています。疫病に苦しむテバイの人々はオイディプス王に何とかしてほしいとお願いをします。再び、デルポイに使者を送り、神託を得ると、「先の王ライオスを殺した犯人を処罰すれば疫病は止むだろう」とのことでした。何も知らないオイディプスはその犯人探しを始めるのですが、先に真実を悟ってしまった実の母であり今は妻であるところのイオカステは自殺をしてしまいます。それを見たオイディプスは、自らの手で自分の両目をえぐり取り、盲目となって、流浪の旅に出るのです。
何というお話でしょう。どうしてまた、こんなややこしいお話を思いつくのでしょう。これと似たようなお話を私はいくつか知っています。(ギリシア神話と比較していいのだろうかと思うほどの例で申し訳ないのですが。)それは、私が小中学生のころ夢中で見ていた百恵ちゃんの「赤いシリーズ」です。好きになった相手が実は異母兄妹であったとか、生まれてすぐ病院で間違えられて別の親に連れて行かれ、本当はすてきな両親・家庭で育てられるはずだったのに、犯罪者の父親に育てられることになったりとか、まあ、とにかくややこしい話でした。最近はドラマをあまり見なくなったので、どうなのか知りませんが、人間はもともとこうしたドロドロしたお話が好きなのかもしれないですね。そう、いまはドラマよりも、日々ニュース番組やワイドショーをにぎわす真実のほうがドロドロしているから、みんなそちらばかりに目が向くのかもしれません。そういう意味ではこういう神話の中から人間の本性を探るのも必要なのかもしれません。
なお、精神医学者フロイトは、男の子が無意識のうちに母親に愛着を示し、同性である父親に敵意を抱くようになる傾向をエディプス(オイディプス)コンプレックスと呼びました。
⑤イザナキとイザナミ、神の結婚そして国生み――古事記より
今回から数回にわたって日本の神話「古事記」のお話を紹介しましょう。今から1300年ほど前、西暦712年に「古事記」は書かれています。ギリシア神話と同じように、世界の始まり、神々の出現、国生み、その他さまざまな物事の始まりが語られています。もともと日本には話し言葉はあっても、書き言葉――つまり文字はありませんでした。それが中国から漢字が伝わり、その変形としてカタカナやひらがなを作って日本の文字を作り上げていきました。そして、今まで語り継がれてきたお話を書き留めていくようにしたのです。同時に中国など他の国との付き合いを始めるにあたって、日本とはどういう国なのか、どういうふうに建国されたのか、もっと言うと、「この国は私たちの国である」ということを伝えないといけない、そういう理由もあっていくつかの本が著されたようなのです。数年後には「日本書紀」が、より日本の国外の人が読むことを意識して書かれています。また、地域ごとに語り継がれてきたお話を書き留めるべく「風土記」がいくつも著されています。さて、「古事記」前半は神々のお話、後半には現在の天皇につながるお話が書かれています。私たちの興味は主に前半にあります。それでは、少し最初の部分を飛ばして、十数番目くらいに出現する神=イザナキとイザナミのお話に入っていきましょう。
イザナキがイザナミにたずねました。「あなたのからだはどのようにできているか。」イザナミが答えます。「私のからだはだんだんにできあがっていますが、できていないところが一ヶ所あります。」そこで、イザナキはこう言いました。「私のからだはだんだんにできあがって、でき過ぎているところが一ヶ所ある。だからこの私のでき過ぎたところで、あなたのからだのできていないところをふさいで、国土を生みつくろうと思うがどうだろうか。」イザナミも「それがよろしいでしょう。」と言いました。イザナキは「それでは、私とあなたが、天の御柱を回っていき、出会うようにして、そこで結婚しよう。あなたは右から回って会うようにしなさい。私は左から回って会うようにしよう。」約束し終わって柱を回るとき、イザナミがまず、「ほんとにまあ、すばらしい男よ。」と言いました。その後にイザナキが「ほんとにまあ、すばらしい女よ。」と言いました。その後、結婚して生まれた子は手足がしっかりしていない子でした。次に生まれた子もやはりうまく育ちません。そこで、天上の神のお言葉をいただくようお願いしました。すると、「女が先に言ったのが良くなかった。言い直しなさい。」と言われました。それで、もう一度最初からやり直しです。今度は先にイザナキが言いました。「ほんとにまあ、すばらしい女よ。」次にイザナミが言いました。「ほんとにまあ、すばらしい男よ。」それで生まれたのが淡道の穂の狭別の島(今の淡路島)です。次に、伊予の二名の島を生みました。今の四国のことです。からだは一つで顔が四つありました。顔ごとに名があります。伊予国(愛媛県)はエヒメと言い、讃岐国(香川県)はイヒヨリヒコと言い、粟国(徳島県)はオオゲツヒメと言い、土佐国(高知県)はタケヨリワケと言いました。次に、筑紫島を生みました。今の九州です。・・・以下、九州各県が登場。その後、壱岐島、対馬、佐渡島、そしてやっと本州。それから、小豆島などの島も生んでいきます。イザナキとイザナミはすっかり国を生み終わると、次には次から次にいろいろな神を生み始めました。そして最後に生んだのが、ヒノカグツチの神。火の神です。イザナミはこの火の神を生んだためにやけどをし、病気になってからだを横たえていました。それからもまだ神は現れます。イザナミがもどしたものから現れたのが、カナヤマビコとカナヤマビメ、鉱山の神です。次に、イザナミの大便から現れたのが、ハニヤスビコとハニヤスビメ、土器の材料にする粘土の神。そして、イザナミの小便から現れたのが、ミツハノメ、水の神です。こうして、イザナミはたくさんの神を生んだ後、ヒノカグツチを生んだのが原因で死んでしまいます。
イザナキは黄泉の国(死者の国)へイザナミを連れ戻しに行きます。そのお話しは次回にしましょう。
⑥黄泉の国から天の岩屋戸――古事記より
イザナキはイザナミにもう一度会いたいと思って黄泉の国(よみのくに=死者の行く場所)まで来ました。そして、「いっしょにつくった国はまだ完成していない。だから帰って来てほしい。」と言いました。イザナミは「もう黄泉の国の食べ物を食べてしまったのでもどることはできない。しかし、せっかく来てくれたのだから何とか黄泉の国を支配する神に頼んでみます。どうか私の姿は見ないで下さい。」と答えました。いつまでたってももどって来ないので、イザナキは待ちきれず中をのぞいてイザナミの姿を見てしまいました。するとそこには変わり果てた姿が。身体中うじ虫だらけ。さらに八種類の雷が身体から出ていたのです。イザナキは恐ろしくなり、逃げて帰ろうとしました。妻イザナミは「私に恥をかかせたわね。」と言って、追いかけてきます。そして、とうとう追いつかれたとき、夫イザナミは妻に離婚を申し渡しました。すると、妻は「いとしいあなたが離婚なさるのなら、私はあなたの国の人間を一日に千人絞め殺してしまいましょう。」と言いました。そこで夫は「お前がそんなことをするのなら、私は一日に千五百人の子どもを生ませよう。」と言い返しました。(このやり取りをした坂は出雲の国にあるそうです。)
黄泉の国からもどったイザナキは、「いやな、醜い、汚い国へ行ってしまった。私は自分の身体のみそぎをしよう。」と言って河原にやってきました。そこで左の目を洗ったときに現れたのがアマテラスオオミカミ。次に右目を洗ったときに現れたのがツクヨミノミコト。そして鼻を洗ったときに現れたのがスサノオノミコトでした。イザナキは三人の尊い子を持つことができたと大変喜びました。そして、それぞれに、高天(たかま)の原、夜の国、海原を支配するように命じました。
ところが、スサノオは言われたとおりに仕事もせず、泣いてばかりいる。どうしたものかとイザナキが聞いてみると「私はお母様のいる根の国に行きたくて泣いているのです。」とスサノオは答えました。イザナキは大変怒って「それではお前はこの国に住んではならない。」と言い渡しました。スサノオは仕方なく姉のアマテラスにお願いするため高天の原までやってきました。ところがスサノオは高天の原で大暴れ。アマテラスは恐れを抱いて、天の岩屋戸に入り、こもってしまいました。すると高天の原も葦原の中国(あしはらのなかつくに=人々の住む国)も真っ暗になってしまいました。そしてあらゆる災いがもたらされます。そこで八百万の神が集まって、何とかしなければということになりました。アメノウズメノミコトはおけの上で神がかりのようになって、乳房も女陰もあらわに踊り狂いました。するとすべての神様は大笑い。不思議に思ってアマテラスが外をのぞいてみると、すかさずアメノタヂカラオノミコトが手をとって引っ張り出しました。それで再び高天の原も葦原の中国も明るくなりました。
死者の国のものを食べてしまうともとの世界にもどれないとか、見てはいけないといわれたのに見てしまうとか、こういうお話はいろいろなところに出てきます。「鶴の恩返し」のお話もそうでしたね。
さて、スサノオノミコトはというと高天の原を追放になり、出雲の国の斐伊川(ひのかわ)上流にある鳥髪というところに降りてきました。ここでヤマタノオロチが登場しますが、それは次回に・・・。もうしばらく「古事記」のお話を続けていきましょう。
⑦八俣の大蛇(ヤマタノオロチ)と因幡の素兎(イナバノシロウサギ)――古事記より
全財産を押収され、ひげを切り取られ、手足のつめを抜かれ、体罰を加えられて永遠の流刑に科されたスサノオノミコト。まずは食べ物をオオケツヒメノカミに求めました。すると、オオケツヒメは鼻や口や尻からおいしいものを取り出し、さまざまに調理して、スサノオに差し上げます。しかし、それをこっそり見ていたスサノオは、汚いことをして料理を差し出したと言って、オオケツヒメをすぐに殺してしまいました。殺されたオオケツヒメの頭からはカイコが、二つの目からはイネが、二つの耳からはアワ、鼻からはアズキ、女陰からはムギ、尻からマメが生まれました。そして、身体はすべて植物となったのです。これが五穀の起源とも言われます。
さてスサノオは、出雲の国の斐伊川(ひのかわ)上流にある鳥髪というところに降りてきました。川上では年寄りが二人、少女を真ん中にして泣いていました。娘の名前はクシナダヒメ。「どうして泣いているのか。」とスサノオはたずねました。すると老人が答えます。「私の娘は八人いましたが、八俣の大蛇が毎年やってきて、娘たちを食べてしまうのです。そして、今年もまたちょうどその時期がやってきたのです。」スサノオが八俣の大蛇についてたずねると、「その目は赤いほおずきのようで、一つの胴体に八つの頭、八つの尾があります。また、その身にはコケとヒノキとスギが生えていて、その長さは八つの谷、八つの峰にも渡るほどで、その腹を見るといつも血でただれているのです。」と答えました。スサノオはその少女を神聖なクシに変身させて、自分の髪にさしました。そして、垣根に八つの門をつけ、その八つの門ごとに八つの食べ物を置く場所をもうけ、そこに酒を入れる船を置いて、その船ごとに強い酒をいっぱいにして待っているように指示しました。さて、八俣の大蛇がやってくると、その船に自分の頭をさし入れ、酒をがぶがぶと飲みました。そして酔っ払ってそのまま横になって眠ってしまったのです。それを見てスサノオは大蛇を剣でばらばらに切ってしまいました。斐伊川はその血で真っ赤になって流れたそうです。こうしてスサノオノミコトはクシナダヒメと結婚し、出雲に宮殿をつくることにしました。そして生まれた子を初代として六代目に生まれたのがオオクニヌシノカミ。またの名をオオナムチノカミ。このカミには兄弟がたくさんいたが、このオオクニヌシに国の支配権はゆずられました。そのわけはというと・・・
兄弟たちは因幡の国のヤガミヒメと結婚したいと思い、末弟のオオナムチに荷物を背負わせ、従者として連れて行きました。ちょうどしんがりのオオナムチが気多(ケタ)の岬にたどり着いたとき、素っ裸のウサギが倒れていました。わけをたずねるとウサギは次のように言いました。「私は沖ノ島に住んでいましたが、この本州に渡ろうと思い、サメをだましてきました。ところが最後の最後のところでだまされたと気付いたサメが、すっかり私の着物をはぎ取ってしまったのです。その後、通りかかった兄弟の神々が私に『海水を浴びて、風に吹かれて寝ておればいい』と言うのでその通りにしていると、さらに私の身体は損なわれてしまったのです。」この話を聞いてオオナムチは「急いで川に行って身体を洗うと良い。そしてガマの花粉をまきちらしてその上に寝転がると良い。」と教えました。その通りにするとウサギの身体は元通りになったのです。これが因幡の素兎(イナバノシロウサギ)です。その兎は「あなたがきっとヤガミヒメを得るでしょう。」と言いました。しかし、兄弟たちはそんなことを許すはずもなく、オオナムチはひどい目に合わされます。そして、オオナムチは母に言われて根之堅州国(ネノカタスクニ=地底の国=黄泉の国)にいるスサノオに助けを求めに行きました。ところが、スサノオの娘スセリビメと出会うとお互い一目ぼれで、すぐに結婚してしまいました。(オオナムチはスサノオの子孫だったはずなのだけど。)その後、いろいろな試練を乗り越え地底の国から帰ったヤチホコノカミ(オオナムチ)は、スサノオからもらった大刀と弓矢で兄弟たちを追い払い、国を治めるようになりました。そして、オオクニヌシノカミとなり、ヤガミヒメとも結婚したそうです。
さて、前半のヤマタノオロチのお話の中にはたくさん八つという数字が出てきます。この八という数字にはいろいろな意味が込められているのでしょうが、それはまたどこかで調べてみてください。ところで、岡山から出雲まで走っている特急のなまえは「やくも(八雲)」です。ここにも八が出てきています。出雲には神にまつわる話がたくさんあるのです。この後、ニニギノミコトとサクヤノコノハナビメの物語、それから二人から生まれたウミサチビコ・ヤマサチビコのお話へと続きます。興味はつきないのですが、またの機会にして、少し先を急ぎましょう。
⑧作物の起源――ハイヌウェレ型神話
今回からはテーマごとにいろいろな部族の神話を紹介していきます。日本の神話との共通点もおもしろいところです。前回「古事記」の中で登場した神、オオゲツヒメの身体からはいろいろな作物が生まれました。「日本書紀」にも同じような話はあり、そこではウケモチという神が登場します。これらの日本の神話とそっくりな作物起源の神話はインドネシア、メラネシア、ポリネシアからアメリカ大陸にかけての広い範囲で見つかるのだそうです。そこで今回はインドネシアのセラム島原住民ウェマーレ族の神話を紹介しましょう。
ヌヌクサ山の頂上で、バナナの実から発生した人間の祖先たちの一人に、アメタという名の男がいた。彼がある日、犬をつれて狩りをしていると、一頭のイノシシが犬に追い詰められて池に飛び込んで死んでしまった。死体を引き上げると、きばの先に見たこともない実がついていた。それは世界で初めて登場したココヤシの実だった。それを大切に包んで家に持ち帰り棚にのせておいた。するとその夜、彼は不思議な夢を見た。男が現れその実を土に埋めよと命令する。言われた通りにしてみると、三日後にはもう高い木に育っていた。その三日後には花が咲いた。その花から飲み物を作ろうと思い、アメタはヤシの木に登ってその花を切っていた。ところがあやまって自分の指を切ってしまい、流れた血が花にかかった。それから三日後、そのヤシの木から人間の子が生まれかけていて、頭がもうできていた。その三日後には胴体もできていた。さらに三日後、完全な女の子になっていた。再びアメタの夢の中に男が現れ、その女の子を大切に育てるようにと命令した。アメタは女の子にハイヌウェレ(ココヤシの枝という意)という名前をつけて育てた。彼女はものすごい速さで成長した。そして、大便としていろいろな宝物を排泄した。それで、アメタは非常に裕福になった。あるとき、マロという踊りが行われることになった。この踊りは九日のあいだ毎夜、徹夜で、男たちが九重のらせん形の輪を作って踊る。その輪の真ん中には女たちがいて、踊り手の男たちに口でかむためのびんろう樹の実とシリーの葉を渡す。ハイヌウェレも男たちにそのかむためのものを渡す役をした。最初の晩は何も起こらなかった。二日目、ハイヌウェレはびんろう樹の実とシリーの葉の代わりに美しいサンゴを男たちに渡した。三日目、同じように美しい磁器の皿を渡した。四日目は前夜よりももっと大きな皿を、五日目には大きな山刀を、六日目の夜には銅製の美しいシリー入れを、七日目には黄金の指輪を、八日目にはさらに美しい銅の貴重な品を皆に配った。このようにハイヌウェレが日ごとに高価なものを男たちに配るので、人々は気味悪くなり、ねたましくもなった。それで集まって相談した上で、彼女を殺すことにした。九日目の夜の踊りの場になる広場に、あらかじめ穴を掘っておいた。そして、踊りながらハイヌウェレをその穴に突き落とした。歌声を張り上げて彼女の悲鳴が聞こえないようにしながら生き埋めにした。そしてその上を踊りながら踏み固めた。さて、朝になってもハイヌウェレが帰らないので心配になったアメタは、占いをして、彼女が前の晩に殺されたことをさとった。そこで彼はハイヌウェレが生まれたヤシの木から九本の葉脈をとり、昨夜の踊りに使われた広場に突き刺していった。九本目を刺して引き抜くと、ハイヌウェレの髪の毛と血がついていた。アメタはその場を掘り起こし、彼女の死体を掘り出した。そしてその身体を切りきざんで、その広場に埋めた。するとそれらは、それぞれがまだ世界になかったものに変わった。いろいろな種類のイモも発生した。そのおかげで人間は、イモを栽培し主食物として暮らせるようになった。
この神話を聞き取ったドイツの民族学者イェンゼンは、このタイプの作物起源神話をハイヌウェレ型神話と名付けました。日本と世界の各地に同じような話が残っているというのは大変興味深いことです。おそらく、作物栽培の方法と同時にこのような神話が伝わってきたのでしょう。
⑨火の起源――女性器から出た火
「古事記」の中でイザナミが死んだ原因は何であったか覚えていますか。イザナミは神々を産んでいく中で、火の神カグツチを産みます。そのとき陰部にやけどをしたのが原因で死ぬことになります。さてパプアニューギニアの南海岸にいるマリンド=アニム族の神話の中で火の起源は次のように語られています。
あるとき男の祖先のウアバは、女の祖先のウアリワムブが嫌がって逃げるのを追って、小屋の中にいるのを見つけ、暗くなるまで待ってから、自分もその小屋の中に入り、無理に犯した。するとそのまま身体が離れなくなってしまい、翌朝になってもまだ交合したまま引き抜けずに、うめき声を上げているところを発見された。それで、仲間の祖先たちは二人をそのまま担架に乗せて、からかいながら村まで運んで来た。そこにアラメムビという男がやってきて、まだ交合したままでいるウアバの身体をつかんで、ゆすぶったりグルグル回したりした。するとその摩擦から、煙と炎が立ち上がり、これが火の起源となった。ウアリワムブはこのとき、火といっしょにヒクイドリとコウノトリも産んだ。それで火で焼かれながら誕生したこれらの二種類の鳥の羽は、今でも焼け焦げたような黒い色をしている。また、コウノトリの脚が赤く、ヒクイドリの頭に赤い冠があるのも同じ理由によるのだという。
同じく、パプアニューギニアの南東の端にあるミルン湾付近で語られていたという次のような話も残っています。
人々が、まだ火を持たずに、ヤムイモやタロイモを薄く切って日干しにして食べていた昔に、一人の老女がいた。老女は十人の若者たちをそのやり方で養っていた。若者たちが森に野生の豚を狩りに出かけて留守になると、彼女は自分の食事だけを、身体から出した火で料理して食べ、若者が返る前に灰などをきれいに掃除して分からないようにしていた。ところがある日、若者たちの食事に煮たタロイモが混じっていた。それを最も年下の若者が食べて、おいしかったのでびっくりして仲間にも食べさせた。彼らはなぜタロイモがこんなにおいしくなるのかを知りたくて、次の日皆で狩りに出かけるときに、一番下の若者だけは残って家の中に隠れていた。すると老女は、若者たちの食べ物は天日で乾燥させておいて、自分の食べるものだけ両足の間から火を出して料理した。そのことを見つけた若者は、狩りから帰ってきた仲間に報告した。彼らは火が便利なものであることを知り、それを老女から盗むことにした。翌朝、老女が火を使って料理をしようとしたとき、隠れていた最も年下の若者は、老女の背後に忍び寄って、火をうばって逃げた。だが、逃げる間に彼は手を焼かれて、持っていた火を落としてしまう。火は草を燃やし、木にも燃え移った。その木の洞にはガルブイイエというヘビが住んでいた。火はそのヘビのしっぽにも燃え移った。老女は大雨を降らして火を消したが、ヘビのしっぽの火だけは消えずに残った。雨がやむと、若者たちは火を探しまわった。とうとう木の洞からヘビのしっぽの火を見つけ出した。そして、村々から人々がやってきて、その火を持って帰った。こうしてどこの村でも人々は火を使って便利な暮らしができるようになったのだという。
このように女性の身体の中にあった火を、両足の間から、つまり子どもが産まれるように女性器から取り出して使うという話がいろいろなところに残っているのだそうです。出産ということがとても大切なことであり、また神秘的なことであったのと同じように、火にも何か神がかり的なものを感じていたのでしょう。女神から火を盗むことで我々は文明を手にしたけれども、同時に、こういう神話が残っているということは、それが神や自然に対する反逆にもなるのだということに皆気付いていたということなのでしょう。
⑩洪水神話――ノアの箱舟ほか
神々は何らかの目的で人間を創造したにもかかわらず、あるとき、洪水を起こして人々を滅ぼすことに決めます。しかし、知恵の神エンキまたはエアは滅亡から逃れる方法を一人の人間にひそかに伝えます。その人間とは、シュメール語の神話ではジウスドラ(永遠の生命の意)。アッカド語の神話ではアトラ・ハシス。「ギルガメシュ叙事詩」ではウトナピシュティム。そして、イスラエルに伝えられた「旧約聖書」ではそれはノアとなります。これらの洪水神話では、人間をはじめすべての生物が破滅の危機を迎えようとしますが、選ばれた一部のものだけが救われることによって、世界が再構築されるということが語られています。それでは、よく似ているのですが、それぞれの神話を簡単に紹介していきましょう。
紀元前三千年紀に成立したシュメール人の洪水伝説から。アン、エンリル、エンキと女神ニンフルサガは人間を創造し、動物を地上に生じさせた。天から王権が下り、五都市が建設され、五神に一都市ずつ与えられた。(文書破損のため!経緯は不明だが)その後、神々は洪水を起こすことを決める。しかし、エンキはこのことをジウスドラに伝えたため、彼は舟に乗って洪水から逃れることができた。七日後に洪水が過ぎるとジウスドラは太陽の神ウトゥに供え物をささげた。動物と人類の種を救ったジウスドラに神々は永遠の命を与え、ディルムンの地に住まわせた。
アッカド語で伝わる神話では、はじめ神々は人間のように重労働にたえなければならなかった。そこでエンキの助言で母神マミは人間を創造し、神々の労苦を負わせることにした。神々の前で神ゲシュトゥ・エが殺され、女神ニントゥがその血と肉を粘土と混ぜ合わせて人間を創造したのだ。しかし、やがて人間は増えすぎて騒がしくなり、神々にとって耐えられなくなってきた。そこで神々は洪水を起こして人間を滅ぼすことに決める。そのとき、エンキはアトラ・ハシスに舟を造るように命令した。そして造った舟に家族と財産や動物を乗せたアトラ・ハシスは洪水から逃れることができた。生き残ったものがいることを知ったエンリルは怒るが、エンキになだめられた。
次は「ギルガメシュ叙事詩」(シュメール人の古い伝承をもとにバビロニア人が紀元前二千年紀前半にまとめたもの)第十一粘土版より。神々が洪水を起こすことを決めたとき、知恵の神エアはユーフラテス河岸の町シュルパクに住むウトナピシュティムに箱舟を造らせ、それに動物のすべての種類とともに乗り込ませた。やがて激しい嵐が起こり、七日間続いた。嵐がおさまると箱舟に乗らなかった人間はすべて粘土にもどっていた。その後、七日目にウトナピシュティムはハトを放ったがもどってきた。次にツバメを放ったがやはりもどってきた。さらにカラスを放つと、すでに水が引いていたためもどってこなかった。そこでウトナピシュティムは外に出て神々に供え物をした。それで神々が集まってきた。生き延びた人間がいることを知ったエンリルは激怒したが、人類を抹殺してはいけないというエアの説得を受け入れた。そして、ウトナピシュティムとその妻に永遠の命を与え、神々の仲間入りをさせた。
最後は、古代ヘブライ語で伝わる「旧約聖書」の「創世記」六~九章より。世界と人間を創造した神ヤハウェ自身が、人間が悪くなってきたことを見て後悔し、洪水を起こしてすべての人間を滅ぼそうと考えた。しかし、無垢(むく)なノアにだけは箱舟を造って洪水を逃れるように指示した。箱舟にはノアとその家族とともにすべての動物の雌雄一対ずつをも乗り込ませた。洪水は四十日間続いた。その百五十日後に水が引き始めると舟はアララト山の上についた。ノアはカラスを放ったがもどってきた。またハトも放ったがもどってきた。その七日後に再びハトを放つと、口にオリーブの葉をくわえてもどってきたため、ノアは水が引いたことを知った。さらに七日後にハトを放つともうもどってこなかった。ノアは舟から出て神に供え物をした。神は人と動物が地上に増えるように祝福した。そして神は、洪水を起こして人間を滅ぼすことはないという契約をノアと結び、そのとき現れた虹を契約のしるしとした。
ほとんど同じ話のようですが、少しずつ違うところがあります。その違いに注目するとき、それぞれの話が書かれた時期や場所による考え方の違いが見えておもしろいように思います。
⑪異類婚――けものとの結婚
神話には数々の異類婚の話があるそうです。異類婚とは人間と人間以外の動物などが結婚することです。結婚というのは種族の保存・繁栄という意味でもとても大切な神話のテーマなのですが、この異類婚という不思議な結婚。いったいなぜそんなことが思いつかれたのでしょう。いくつかの具体例を見ていきましょう。
まず「古事記」から。失った釣針を求めて海の神の国に行った山幸彦は、海神の娘トヨタマヒメを妻とする。ヒメはまもなく懐妊し、夫の国である浜辺に産屋を建て、そこで子を産むことにした。出産するときには本国の姿になって子を産むので決してその姿を見ないようにと強く念を押した。にもかかわらず、禁を破って中をのぞくと、ヒメは大きなワニの姿をしてうごめいていた。驚き恐れて逃げ出すと、これを知ったヒメは恥ずかしく、かつ恨みに思って、子を産み終わると、海神の国に帰ってしまった。そのとき生まれた子がウガヤフキアエズで、のちにタマヨリヒメと結婚し、できた子どもが初代天皇カムヤムトイワレヒコいわゆる神武天皇である。
二番目は、マレーシア セランゴル地方の伝説から。ラボという名のマレー人が、田んぼのイネがゾウに踏み荒らされているのに腹を立て、ある日、通り道に大きな鉄製のわなを仕掛けた。その夜、一頭のゾウが足に釘をさしたまま逃げ去った。ラボは翌日、逃げたゾウの足跡をたどって行き、途中道に迷って三日三晩さまよった末、見知らぬ国に着いた。そこはシャム(現在のタイ)国境に近い広大な土地で、住民は皆ゾウであるが、そこでは人間の姿をしており、国境を出るとゾウの姿になるのであった。ラボがその国を歩いていると、物音一つせず、打ち沈んでいる。そこで、出会った老人に理由をたずねてみた。すると、国王の娘がけがで苦しんでいるのだと言う。それで、ラボはそのけがを治すことができると申し出て王宮をたずねた。そして姫の足から釘を抜き取って治療に成功した。国王は感謝しラボを娘のむこに迎えることにした。ラボはしばらくその国で過ごし、二人の子どもをもうけて幸せに過ごしていた。だが、やがて故郷が恋しくなり、姫にいっしょに帰ってくれるよう頼んだ。姫は食事のとき、皿に木の芽をつけないということを固く約束してくれるならという条件で承知し、二人は出発した。ところが、その日の夜、食事をとり始めたとき、ラボは妻との約束を忘れて、飯と木の芽をいっしょに皿に盛った。姫はラボを責め、たちまちゾウに姿を変え、ジャングルの中に姿を消した。ラボは泣きながら彼女の後を追ったが、姫はすでにゾウになってしまったのでと、帰ることを拒んだ。現在マレーの人々はカレーといっしょにたけのこを食べるが、かつてはたけのこや特定の木の芽を食べることを禁止していたこともあったそうだ。
最後に、北アメリカ北西海岸地方に住むツィムシャン族のお話。英雄神であるツェムセスが、ある日、腹をすかして海で獲物を捕まえようとしていると、そこに美女が現れた。サケの女であった。ツェムセムはその女に求婚し、いっしょに暮らした。翌朝からはサケが入り江にひしめき、彼はそれらを捕まえてたくさんの干しサケを作った。彼の皮膚はやわらかく白くなり、みにくかった髪も美しくなった。すべてはサケ女のせいであった。しかし、裕福な生活をするようになったツェムセムは妻につらくあたるようになった。そして、つらい仕打ちまでするようになった。女は泣き、そして怒り、干しサケに向かっていっしょに出かけようと誘い、口笛を吹くと、干しサケはいっせいに家から飛び出し、海の中に入ってしまった。ツェムセムの白い肌も、つやのあるきれいな髪もすべて元通りになった。そして、元の貧乏生活にもどってしまった。
多種多様な相手と結婚する話があります。それぞれの民族の社会的背景とか世界観によって登場する動物、結婚の行く末などが決まってくるのでしょう。ここで紹介した話はすべて破局にいたるものでしたが、幸福に終わる話もあるそうです。日本では破局型が多いのだとか。なぜでしょうね?
⑫月と星と虹と月経の起源――カシワナ族の神話より
今回はペルーとの国境に近いブラジル奥地の先住民カシワナ族の神話を紹介しましょう。コメントは一切なし。どうしてこんな話を思いつくのでしょう???
昔、二つの部族が戦っていた。ある男が敵と出会って逃げようとした。すると相手は贈り物をして安心させ、彼を自分の家に招待した。行ってみると、心地よいハンモックに寝かされ、ごちそうを出されて歓迎された。残った食べ物は家に持って帰るようにと包んでくれた。男が帰ろうとすると、相手はどうしても途中まで送っていくと言う。ところが、その相手はとぎすました山刀を持っている。男が不安に思っていると、「途中で適当な木を切って、掘り棒をつくるのだ」という。だが少し行ったところで、男はその相手に山刀で頭を切り落とされてしまう。その頭は、地面に落ちてもまだ瞬きを続けていた。それを見た殺害者は道の真ん中にくいを立て、その上に頭をさして立ち去った。そこに、その犠牲者と同じ部族の男が通りかかる。そして長い髪をなびかせている頭を見つける。それは生きていて、目を光らせ、瞬きをし、涙を流し、口を動かしていたが、質問をしても何も答えられない。そこで彼はそのことを知らせに村にもどった。それで戦士たちがやってきてその頭をかごに入れて持ち帰ろうとした。しかし、その頭はかごの底に歯で穴を開け落ちてしまう。何度も何度も。人々は持ち帰ることをあきらめ、その頭を置き去りにして逃げ帰ろうとした。しかし、頭は彼らをどこまでも追いかけてくる。人々は大きな果樹の上に登った。頭は熟れた実を要求する。何度もその実を投げるが、いくつ飲み込んでも首の切れ目から外に出てしまう。一人の男が、その実を離れたところに投げることを思いつく。頭は遠くに投げられた実を追いかける。そのすきに男たちは木から降りて家に逃げ帰った。頭はまた追いかけて村にもどってきた。頭は「どうか、戸を開けて、自分の持ち物を返してくれ」と言った。そこで細く開けたすき間から彼の糸の玉だけを投げてやると、頭は長い自問自答を始めた。「わたしは何になろうか。野菜や果物になれば人間がわたしを食べる。土になれば上を歩く。畑になればそこに種をまき、作物を作ってそれを食べる。水になれば、それを飲む。魚になれば、それを食べる。獲物になれば、人間がそれを殺して食べる。ヘビになれば、人間にかみつくので、彼らに憎まれ殺される。毒虫になれば、人間をさすのでやはり殺される。木になれば、人間に切り倒され、薪として燃やされる。コウモリになれば、暗闇で人間をかむので、やはり殺される。太陽になれば、寒いときに人間を暖めてやることになる。雨になれば、降って川の水かさを増し、そこで人間がおいしい魚をとる上、草を生育させて、それが人間たちの獲物を養うことになってしまう。寒さになれば、暑いときに人間を涼しくしてやることになる。夜になれば、人間を眠らせることになり、朝になれば、人間を目覚めさせ、仕事に向かわせることになる。本当に、いったい何になったらよいのだろう。そうだ、いいことを思いついた。わたしの血を虹にし、目を星にし、頭は月にしよう。そうすれば人間の妻たちと娘たちは、血を流すことになるだろう。」これを聞いた女たちはおびえて、「どうしてわたしたちがそんな目に会うのよ」とたずねた。すると頭は「わけなんか、何もないさ」と答えた。それから頭は自分の血を盃に集めて空にまくと、それが虹になり、目をくりぬくと、それが無数の星となった。頭は、糸の玉をコンドルにまかせて、自分を天頂まで引っ張り上げさせた。家の外に出た人間たちは、初めて空にかかる虹をながめた。夜になると初めて星と満月が輝くのを見た。そしてこのときから、女たちの月経が始まり、彼女たちは夫に抱かれて妊娠するようになった。
1年をかけて、ギリシア神話から始まり古事記・そして世界の神話の中から興味深いものを読んできました。何か印象に残るものはあったでしょうか。現在に生きる我々はいったいここから何を学べばいいのでしょう。すでに100歳になられているレヴィ=ストロースの本を読もう読もうと思いながら結局2冊しか読んでいません。その中から一文を引いて、本連載を締めくくることにします。「17世紀以来、科学的思考は根底から神話的思考に対立し、やがて後者を駆逐するものと信じられてきました。・・・19世紀の進化論は、生物学を歴史に近づけました。現代の宇宙論も同じ方向を示しています。・・・科学そのものが生命の歴史、世界の歴史に変わろうとしているのなら、科学的思考と神話的思考は長いあいだ別の道をたどったのち、ふたたび相まみえる日がこないともかぎりません。」こうして私の興味は時間軸過去の方向世界の歴史へ、さらには水平方向世界の文化へと向かっていくのですが、一休みして、これからの1年は最近流行の古典文学を皆さんといっしょに読んでいきたいと思います。(こうでもしないと途中で挫折しそうなので。)良かったら、購入して、もしくは図書館で借りて、いっしょに読んでみませんか? ドストエフスキー著「カラマーゾフの兄弟」。


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