宿屋の廊下は、昼を過ぎると少し静かになる。
朝の食堂のざわめきも引いて、残るのは階下の皿の音と、窓の外を行き交う荷車の音くらいだ。
シュタルクは二階の廊下に立って、扉を見ていた。
買い出しに行くはずだった。
昼前には出るつもりだった。
なのに、昼を過ぎても、まだ部屋から誰も出てこない。
もっとも、最初はあまり気にしていなかった。
フリーレンが起きてこないのは、いつものことだからだ。
どうせまた寝坊して、フェルンに起こされて、それでも布団にしがみついているのだろうと思っていた。
でも、今日はフェルンまで出てこない。
それが少し変だった。
シュタルクは扉を軽く叩いた。
シュタルク「フェルンー。フリーレンー。まだかー」
返事はすぐにはなかった。
少しして、内側で小さく物音がする。
フェルン「……どうぞ」
扉を開けると、先に目に入ったのはフェルンだった。
もう身支度は済ませている。外套も整っていて、いつでも出られる格好だ。
そのフェルンが、少しだけ諦めた顔でこちらを見た。
それから、視線でベッドのほうを示す。
シュタルクもそっちを見た。
フリーレンが、寝ていた。
いや、寝ているというより、ベッドに潜ったまま動いていない。
毛布を胸のあたりまで引き上げて、髪も少し乱れたまま。
着替えてすらいない。
シュタルク「マジかよ……」
その声に、毛布の中でもぞりと動く。
フリーレン「シュタルク、知ってた?そういう日のことを女の子の日って言うんだよ。今日の私は女の子の日だ。いいね?」
シュタルク「女の子って歳じゃねーだろ」
言ってから、しまった、と思った。
フリーレンは毛布から顔だけ出した。
眠そうな目のまま、じっとシュタルクを見る。
フリーレン「また言ったね。私、シュタルクがクソババァって言ったこと忘れてないから」
シュタルク「いや、あれはその、流れで……」
フリーレン「今のも流れでしょ」
シュタルクは思わずフェルンのほうを見た。
せめて何か言ってくれ、という目だった。
でもフェルンは、静かに、はっきりと、最低ですという目を向けてきた。
逃げ場がなかった。
シュタルク「……ごめんなさい」
フリーレン「うん」
フェルン「ちゃんと反省してください」
シュタルク「はい」
少し間が空いた。
部屋の窓から、昼の光が斜めに差している。
フリーレンはその光の中で、まだ起き上がる気配がなかった。
シュタルク「……で、どうすんの」
フェルン「見ての通りです」
シュタルク「いや、それは分かるけど」
フェルンは小さく息をついた。
怒っているというより、もう予定変更まで頭の中で済ませている顔だった。
フェルン「フリーレン様は今日は宿で休ませます。買い出しは私たち二人で行きます」
フリーレン「そうして」
シュタルク「フリーレン、自分で行く気ゼロだな」
フリーレン「今日はそういう日なの」
シュタルク「そういうもんなのか」
フェルン「そういう日もあります」
シュタルクはそこで、さっきの失言を思い出して、もう余計なことは言うまいと決めた顔になった。
フリーレンは毛布の中から片手だけ出して、ひらひら振る。
フリーレン「じゃあ、よろしくー」
フェルン「何か欲しいものはありますか」
フリーレンは少しだけ考えた。
フリーレン「甘いもの」
フェルン「それは予想していました」
フリーレン「あと温かいやつ」
フェルン「分かりました」
フリーレン「あと、すごく効く民間魔法の魔導書」
シュタルク「急にいつも通りになるな」
フリーレン「あるかもしれないでしょ」
フェルン「ありません」
フリーレン「即答だね」
フェルン「即答です」
フェルンは卓の上に置いてあった財布を持った。
その横で、シュタルクはまだ少し気まずそうに立っている。
フリーレン「シュタルク」
シュタルク「な、何だよ」
フリーレン「帰ってきたら、さっきのこと、もう一回謝って」
シュタルク「まだいるのかよ、その話」
フリーレン「いるよ」
フェルン「当然です」
シュタルク「……はい」
フリーレンは満足そうでも不満そうでもない顔で、また毛布の中へ戻った。
宿を出ると、外は思ったより明るかった。
風は少し冷たい。
石畳の道を、人や荷車がゆっくり行き交っている。
フェルンは最初から迷いなく歩いていた。
買うものがもう決まっているのだろう。
シュタルクはその隣で、少し黙って歩いたあと、ようやく口を開いた。
シュタルク「……なあ、さっきの、そんなにまずかったかな?」
フェルン「最低でした」
シュタルク「やっぱり?」
フェルン「やっぱりです」
シュタルクは頭をかいた。
シュタルク「だって、俺、師匠から勇者一行の話はいろいろ聞かされてたけどさ」
フェルン「はい」
シュタルク「ヒンメルがどうだったとか、ハイターが酒飲みだったとか、フリーレンが変なところで意地張るとか、そういう話ばっかで、女の人のそういう話なんて、聞いたことなくて……」
フェルンは少しだけ黙った。
シュタルク「だから、何ていうか、フリーレンがそういうので動けなくなるとか、頭では分かってても、実感がなかったっていうか……」
フェルン「それで、あの発言ですか」
シュタルク「……はい」
フェルンは小さくため息をついた。
でも、さっきよりは少しだけ角が取れていた。
フェルン「事情は分かりました」
シュタルク「ほんと?」
フェルン「理解はします」
シュタルク「おお」
フェルン「でも、それはそれです」
シュタルク「ですよね」
フェルン「ダメなものはダメです」
シュタルク「はい」
そこでようやく、少しだけいつもの調子に戻る。
シュタルク「でも、今日のフリーレン、ほんとにしんどそうだったな」
フェルン「本当につらい日は、ああなります」
シュタルク「そんなになるのか」
フェルン「人によりますけど、今日はつらいほうなんだと思います。起きてこない時点でだいぶです」
シュタルク「へえ……」
フェルンは少しだけ横目で見た。
フェルン「分かっていなかったんですか」
シュタルク「いや、そういう日があるのは知ってるけど、そんなに動けなくなることもあるんだなって」
フェルン「います」
シュタルクはしばらく黙って歩いた。
石畳を踏む音が二つ、並ぶ。
シュタルク「……俺さ、ほんと、こういうのよく分かんなくてさ」
フェルン「そうでしょうね」
シュタルク「兄貴たちといた時も男ばっかりで、師匠のとこ行ってからも、周りに女の人なんてほとんどいなかったし」
フェルン「はい」
シュタルク「だから今、フリーレンとフェルンと旅してるの、たまに変な感じする。いや、嫌とかじゃなくてさ。知らないこと多すぎるなって」
フェルンは前を向いたまま聞いていた。
シュタルク「気をつけないと、また今みたいに余計なこと言いそうで」
少し間が空く。
フェルン「……まあ」
シュタルク「お?」
フェルン「それは、仕方ない部分もあると思います」
シュタルク「ほんと?」
フェルン「ええ。今までそういう環境じゃなかったのでしょうから」
シュタルクは少しだけほっとした顔をした。
フェルン「でも」
すぐに続く。
シュタルク「はい」
フェルン「だからといって、何を言ってもいいわけではありません」
シュタルク「はい」
フェルン「分からないなら、分からないなりに、少し考えてから喋ってください」
シュタルク「……はい」
フェルン「あと、せめて私のほうを見て助けを求めるのはやめてください」
シュタルク「だってあのとき、もう終わったと思って……」
フェルン「あの時のシュタルク様は、終わってました」
シュタルク「ですよね」
フェルンは少しだけ口元をゆるめた。
ほんの少しだけだったけれど、さっきまでより空気は軽い。
それきり、少し黙った。
通りの先に、薬草を売る店が見える。
フェルンはそちらへ曲がった。
店先には、乾かした薬草や、小瓶に入った煎じ薬が並んでいた。
フェルンは慣れた様子でいくつか選ぶ。
フェルン「これと、これをください。あと、痛み止めになるものを少し強めで」
店主「強めかい。本人は動けるのか?」
フェルン「今日は休ませます」
店主はうなずいて、瓶を二つ包んだ。
その横で、シュタルクは並んだ薬草を見ていた。
見ていたけれど、どれが何に効くのか分からない顔だった。
店を出てから、フェルンが次の角を曲がる。
今度は菓子屋だった。
シュタルク「やっぱり甘いの買うんだ」
フェルン「買います」
シュタルク「予想してたんだ」
フェルン「当然です」
フェルンは焼き菓子をいくつか選んで、それから少しだけ迷ったあと、蜂蜜漬けの木の実も包んでもらった。
シュタルク「そんなに食うのかよ、フリーレン」
フェルン「食べると思います」
シュタルク「妙に確信あるな」
フェルン「長い付き合いですから」
菓子屋を出ると、今度は温かい飲み物を売る屋台に寄る。
香草を煮出した湯と、少し甘い果実湯を買った。
両手がだいぶ塞がる。
シュタルク「持つよ」
フェルン「では、これを」
シュタルクは包みと瓶を受け取った。
思っていたより重い。
シュタルク「……結構あるな」
フェルン「今日は宿から出ないでしょうから」
また少し黙った。
シュタルクは荷物を見ながら言う。
シュタルク「なんかさ」
フェルン「何ですか」
シュタルク「フリーレンって、千年以上生きてるのに、こういう日があると妙に普通だよな」
フェルンは少しだけ考えた。
フェルン「普通、ですか」
シュタルク「うん。最初はまた寝坊してるだけだと思ってたのに、扉開けたらあれだし」
フェルン「寝坊もしていたと思いますけど」
シュタルク「寝坊もしてたのかよ」
フェルン「半分くらいは」
シュタルクは少しだけ笑った。
フェルンも、ほんの少しだけ口元を緩める。
シュタルク「でも、今日のは違ったんだな」
フェルン「違いました」
シュタルク「……そっか」
フェルンは前を向いたまま、小さく答えた。
フェルン「そういうところがあるから、たぶん一緒に旅をしてるんだと思います」
それ以上は言わなかった。
宿へ戻ると、廊下は行きより静かだった。
部屋の扉を開けると、フリーレンはさっきとほとんど同じ格好でベッドにいた。
でも、少しだけ顔の向きが変わっている。
たぶん一度は起きたのだろう。
フリーレン「おかえり」
シュタルク「まだ寝てたのかよ」
フリーレン「うん」
フェルン「薬を買ってきました」
フリーレン「えらい」
フェルン「ありがとうございます」
シュタルク「そこ素直に受け取るんだな」
フェルンは荷物を机に置き、薬草茶の支度を始めた。
シュタルクは焼き菓子の包みを持ったまま立っている。
フリーレンの視線が、その包みに向いた。
フリーレン「甘いもの」
シュタルク「こんなんでいいのかよ」
フリーレン「大事だよ」
シュタルクは包みを机に置いた。
置いてから、少しだけ気まずそうにフリーレンを見た。
フェルンはそれに気づいたけれど、あえて何も言わなかった。
薬草を湯に落とす音だけが、静かに部屋に響く。
シュタルク「……あのさ」
フリーレン「何」
シュタルク「さっきの」
フリーレンは寝台の中から顔だけ向けた。
シュタルクは少しだけ言いにくそうにしてから、観念したように頭を下げた。
シュタルク「ごめん……」
フリーレンは少しだけ黙った。
フェルンは湯気の向こうで、耳だけそっちに向けていた。
フリーレン「……まあ、いいよ」
シュタルク「え、いいのか?」
フリーレン「ちゃんと謝ったし」
シュタルク「なんだよ、それ」
フリーレン「でも、あとでまた思い出して、少し嫌な気分になるかもね」
シュタルク「面倒くせえ……」
フリーレン「そういうものだよ」
フェルンが茶を持ってきた。
フェルン「はい、フリーレン様」
フリーレンは起き上がろうとして、少し止まる。
やっぱりまだ重いらしい。
それを見て、シュタルクが先に茶碗を受け取った。
シュタルク「ほらよ、フリーレン」
フリーレン「……お」
シュタルク「今日は女の子の日なんだろ」
フェルンが横で小さく目を細める。
今度は何も言わなかった。
フリーレンは茶碗を受け取って、一口飲んだ。
フリーレン「苦いの嫌い……」
フェルン「薬ですから」
フリーレン「甘いの先がよかった」
フェルン「だめです」
シュタルク「いつも通りだな」
フリーレンは茶碗を持ったまま、少しだけシュタルクを見た。
フリーレン「シュタルク」
シュタルク「何だよ」
フリーレン「さっきのこと、完全には忘れてないから」
シュタルク「まだ言ってる……」
フリーレン「でも、買い出しはえらかった」
シュタルクは少しだけ黙って、それからそっぽを向いた。
シュタルク「……別に」
フェルンがその顔を見て、少しだけ息をつく。
呆れ半分、まあいいでしょう、というため息だった。
窓の外は、もう少しで夕方になる。
買い出しは間に合ったし、宿の部屋は暖かい。
フリーレンはまだだるそうだけど、茶もあるし甘いものもある。
今日は、たぶんもう外へは出ない。
でも、それでよかった。
フリーレンは茶碗を両手で持ったまま、ぼんやり言う。
フリーレン「買い出しって、二人で行くと早いね」
フェルン「当然です」
シュタルク「フリーレンが来ないからな」
フリーレン「仕方ないよ。今日は女の子の日だからね」
シュタルクは少しだけ口を開きかけて、すぐ閉じた。
目の前にいるのは、千年以上生きた女の子だ。
そう学習したらしい。
フェルン「それでいいです」
フリーレンはそれを見て、少しだけ満足そうに目を閉じた。
まだ痛みはある。
でも、部屋の中には温かい湯気と甘い匂いがあった。
それだけで、今日はもう十分だった。