青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

芝山努『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』


この春、リメイク版が公開されるということで、『のび太の海底鬼岩城』(1983)をひさしぶりに鑑賞。個人的に「映画ドラえもん」の中でもトップ3に数えるほどに愛着のある作品だが、やはり抜群におもしろい冒険奇譚だ。夏休みのキャンプに海に行くか?山に行くか?という問答から始まり、「海底の山に登ればいい」という第3の選択肢を提示して始まるのも最高。 40年以上前の作品でありながら、バギーやポセイドンといった人工知能と人間とのありかたは、AI時代到来の今、なお示唆的だ。「大山のぶ代のドラえもんは友達でなく保護者」という揶揄されていたこともあったが、むしろそれが良いではないか。

ドラちゃんが連れていってくださるなら安心だわ

ドラちゃんがついていてくださればねぇ

というように、のび太のママのみならず、静香・ジャイアン・スネ夫の母親からも、絶大な信頼を寄せられている。そして、ドラえもんにもまた、「責任は僕にある」「ダメ!僕、責任者だから」と旅の引率者としてのプライドがある。そこが頼もしくて、かわいらしいのです。


シリーズ4作目にあたる『のび太の海底鬼岩城』は、その後25作目の『のび太のワンニャン時空伝』(2004)まで長期にわたり監督を担当することとなる芝山努の初登板作品だ。原作の藤子・F・不二雄と芝山努のタッグが生み出す「映画ドラえもん」の最大の特長は、その強烈な不穏さ、薄暗さにある。この『のび太の海底鬼岩城』でも、そのダーティーさはいかんなく発揮されている。船や飛行機の墓場バミューダトライアングル、幽霊船と骸骨船長、いるはずのないアヒルの鳴き声、幻の海底都市の戦争と核爆弾、ポセイドンや鉄騎隊のヴィジュアル、海底人の存在を知らせる教育ドリームの不気味さ・・そして、なにより強烈な印象を残すジャイアンとスネ夫のタイムリミット付きの死のドライブとバギーの自爆。全編に渡ってダークトーンが貫かれている。まずもって、物語の舞台は太陽の光も届かず、人知の及ばない世界が広がる深海である。その“暗闇”にテキオー灯という秘密道具の光を照らすことで(実際にはのび太たちが浴びるのだけど)、冒険が始まっていく。

想像力は未来だ!人への思いやりだ!

これは『のび太的月面探査記』(2019)にて辻村深月が書いた『ドラえもん』という作品の根幹を浮かび上がらせる名台詞。たしかに、『ドラえもん』というサイエンスフィクションを支えているのは想像力だ。だが、なにより重要なのは、“イマジネーションは暗闇からやってくる”ということではないだろうか。そのことに自覚的であったからこそ、映画ドラえもんにおいて、藤子のデザインするヴィランはそのどれもがおどろおどろしく、芝山の演出は“ホラー”の領域に踏み込み、のび太たちが危機的状況に陥れば、その絶望感は極極に高められている。


一方で、冒険の楽しさもまた瑞々しく演出されており、日本海溝ジャンプ、海中の大平原ドライブ、地球の底の底を目指すマリアナ海溝潜り、深海魚探しツアー、海底キャンプでの海藻や魚との戯れ、海上に月やイルカを眺めながらの夢のような夕食。

ここには、旅の喜びと切なさがある。食事シーン(プランクトンを利用したバーベキューやマツタケご飯!)や水中でのトイレのお作法などにしっかり尺を割いているのもいい。食事シーンはなんと4回もある*1。個人的に好きなのは、「テントアパート」という住居について、ドラえもんが「では、部屋を説明します。中へどうぞ。」と解説するシーン。

個室は6個あります
<中略>
このドアは中央広場に通じています。食事をしたり、みんなで遊んだりする部屋なんだ。どの個室からも出入りできんるだ。

この細かい設定にワクワクするんだよな。あと、静香ちゃんが水の中にいるにも関わらず、シャワーを浴びたがったり、食事前に手を洗うマイムをしたりするのもいい。こういった“生きていくこと”の細部の充実こそが、「映画ドラえもん」というシリーズが、少年少女たちの胸に深く刻まれていった大きな要因であるようにも思う。深海という未知の世界、そこでどんな風に暮らしていくのかを克明に描き出すこと。未知(≒暗闇)を“光”に変えていく、それがドラえもんの想像力であり、わたしたちに生きていく力を与えてくれるのだ。

「ドラえもん あなたがいるということが 未来があるということだから」


枡野浩一『ドラえもん短歌』より

*1:リメイク版ではなんと1回しかない。海底人のエルとの食事シーンにおける「こんな美味しものはじめて食べた」もカットされている