負傷を押し、監督に頭を下げて出た都市対抗はプロ入りのラストチャンスだった・小笠原道大さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(48)
試合になっても、ポジショニングを自分たちで考えて動けと。要は観察力、洞察力を養うということ。自分たちでバッターのタイプを見て、例えば引っ張りなのか、逆方向に打つのが得意なのか、そういうものをみんなで話し合ってポジショニングをしなさいって。自分たちで組み立てていくという考えでプレーしてた部分があり、伸び伸びやらせていただいたっていうのはありますね。 (2年夏に千葉大会決勝へ進出)ピッチャー(元ヤクルトの北川哲也さん)も良かったんです。実際プロに行ってますし。あとはバランスが取れたチームだったんです。みんな2年生だったんですよね。レギュラーに1人1年生がいましたけど。要は1年からずっと、そのメンバーで戦ってきて、ピッチャーの力もあり、何とかそこそこ抑えて最少得点で頑張って勝ったっていうものだと思うんです。結構、頭のいい選手が多かったですね。 2年生の大会前、練習試合の途中で急に呼ばれて「今から捕手でいけ」って二塁手からコンバートさせられました。嫌だと言っても「NO」はないので。変な意味じゃないですよ。やらざるを得ないというかね。(選手としての)幅が広がり、そこがチャンスという部分もありますし。当時は、そんなこと考えられないですけど。キャッチャーを生まれて初めてやって1、2カ月だったので、大会では全然使いものにならず、もう本能でやってた部分がある。ただ、感性は磨かれましたよね。自分の感覚でやって結構当たってたので。今になってみれば、あの経験は、すごく生きている。コンバートに対しての気持ちとか、いろんなことを勉強させてもらった時期なのかなと。
▽若い時は目の前のものしか見えない 私が10歳ぐらいの時に父親が倒れまして、しっかりと職につけないぐらいの後遺症がありました。母親もパートに出て、何とか生計を立てていたのを目の当たりにしてました。要は家庭環境が、高校を出てすぐ働きたいと私に思わせたというか。母親は大学に進学させたかったんですが、自分の中で「働かなきゃ」と。野球しかやってないんで、方向性を徐々に穴埋めしていきながら出た結果が社会人野球。いろんな親の関係もあって、五島監督が千葉のチーム、NTT関東との話を進めてくれました。そこ(船橋市のチーム拠点)はね、母親が勤めていた学校の近所なんですよ。 社会人1、2年目は、その場その場が一生懸命だったです。3年目に当時、大学3年までと社会人3年目までのメンバーの、日本代表予備軍みたいな感じの合宿があったんです。そういうのに招集されてから少しずつ先を意識しました。3年目はドラフト候補といっても、新聞の評価では一番下のランクぐらい。もう完璧にプロだけって考えたのは5年目。(1996年の都市対抗大会に新日鉄君津=現日本製鉄かずさマジック=の補強選手で出場)この大会はプロに行ったメンバーがたくさんいましたね。福留孝介(日本生命)や松中信彦(新日鉄君津)もいたし。