微分音て何? 音楽理論は学ぶべき?AIによりDTM終了? 遅れ馳せながらの大自己紹介
恐らく、ここを見た人の殆どは私に興味を示したかで、VRCのプロフィールのリンクから来たのでしょう。
何者
「中井三十一」と書いて「なかい みそひと」と読みます。
名の由来
井→音楽記号の♯(シャープ)
中→その中間、すなわちStein-Zimmermannの四分音臨時記号を意味する。( https://www.unicode.org/L2/L2023/23276-quarter-tone-accidentals.pdf 13ページを参照)
※後述の通り標榜する体系は31EDOであり、単位音程自体は歴史的には五分音として扱われてきたものだが、Neutral Circle-of-5th Notationに基づいて半音階的半音の半分の音程として扱った。
出典:https://en.xen.wiki/w/Chain-of-fifths_notation
三十一→31EDO オクターブを31音程等分した音律
https://en.xen.wiki/w/31edo
31EDOはルネサンス~バロック期に一般的だった音律「1/4 Syntonic Comma中全音律」の31音への拡張の卑近な近似と見做すことが可能。
読み「みそひと」 短歌の文字数「三十一文字(みそひともじ)」から
やっている事
"微分音"を用いての作曲(DTM)や、関連の記事執筆・解説動画投稿などをしております。
YouTube
ニコニコ
VRC微分音集会 主催
Xなど
使用機材
よくあると思われる質問
誕生日は?
11月5日です。
VRバースデーは12月20日です。
DTM歴は?(2025年9月時点)
何を以てDTMとするかは曖昧なので、スマホアプリで遊んでいた時期を含めて7年程。PCに乗り換えて本格的に作るとなってからはまだ5年に満たない程度です。
義務教育以外で音楽経験は?
小3から高1までピアノ歴7年、ここで初歩的な楽典を学習しました。
音楽性について、影響を受けたものは?
私は日常生活の中で、広告、テレビやラジオ、街中で流れている音すべてに曝露しています。したがって影響を受けているものと言えば数知れずと言っても過言ではありません。
どんなジャンルの音楽を作る?
⓪微分音を用いて ①思い立ったジャンルを ②音源があれば 作ります。一際あるジャンルに特化しているというものはありません。
プロ作曲家ですか?
いいえ。
プロ作曲家になりたいですか?
現状の音楽社会のままであればその方針はありません。
なったとてすぐAIに取って代わられるのも時間の問題でしょう。
PC環境は?
デスクトップPC / Windows 11
i9-14900K / DDR5 32GB×2
使用DAWは?
Reaperです。
音感は?
絶対音感があるので、必然的に相対音感があります。
範囲は含む倍音にもよりますが、おおむね4kHz以下です。
100~2kHz程度の範囲では音感の精度が高まっており、31EDO単位での音高判定が可能です。
音楽思想・哲学
以降、読み物です。
VRCの中で開いた方はブラウザで開きっぱなしにしておいて後で読むのもいいかもしれません。
私の音楽に関する考え方や姿勢について三本立てで、ぐだぐだ語っていこうと思います。
微分音とは何?なぜ使うべき?
【微分音】その存在をご存じですか?
音楽を楽しむ方にはぜひ知っていただきたい概念です。
微分音→形態素としては『微』+『分』+『音』
即ち、『微かに分けられた音程』。
数学の微分とは何ら関係ありません。
意味はその名の通り、
半音より細かい音程。
西洋音楽の半音による音梯(音程グリッド)に当て嵌まらない音程。
現在のピアノでは演奏不可能な【音程】。(音高ではない)
従って、よく誤解されがちですが
東方紅魔郷や蓬莱人形 (A4=424Hz)
藤井風 まつり以降の曲等 (A4=432Hz)
コンサートチューニング(A4=442Hz)
UNDERTALE、DELTARUNEの一部楽曲(A4=427.474Hz)
これらの楽曲は、音程のグリッドが12音に当て嵌まっているので、微分音ではありません。
宿敵「12EDO」
従来から西洋音楽では1オクターブを音程的に均等に(周波数においては等比的に)12個に分けた調律方法で演奏されています。
それ以前には【ピタゴラス音律】とか【中全音律】とかなど、不等分の12音音律が使われていましたが、結局19世紀ごろにはほとんど12等分平均律(12 Equal Division of the Octave → 12EDO)に統一されました。これは基本的にギターなどのフレット楽器において、グネグネと曲がったフレットを打つ必要がないことが一番の利点でした。しかし時代が下っていくにつれて、様々な楽器での合奏が試みられるようになると、鍵盤楽器すら19世紀頃にはほとんど12EDOになっていた模様です。12EDOによって、ほとんどどんな楽器とでも音が合うよう、均等な協和を保って演奏ができるようになったのは、音楽にとって大きな進歩だったことでしょう。
しかしながら、16世紀頃まで鍵盤楽器で一般的だった「中全音律」から、現代の12平均律になったことによって犠牲になったものがありました。それは、三度等の協和精度です。つまりド〜ミ、レ~ファ等の音程において、人間が心地よいと〝生得的に〟感じる協和の〝スイートスポット〟からは実のところ
いわばあなたはいつも〝調子っ外れ〟な音を演奏しているのです!
音律とは
微分音をよく知るうえで、重要な単語を改めて確認しましょう。
音楽における【音律】とは、音高の相対的な関係をどのように規定するのか、すなわち『基準音があって、そこから他の音をどのような周波数比率で導くか』という体系のことを指します。
例えば「ラ」の音を440Hzと定めたとき、「ド」や「ミ」といった他の音を何Hzに置くかは、整数で表せられる簡単な周波数比に基づくか、あるいは便宜的に等比数列的に決めたステップに基づくかによって変化します。この体系が異なれば、同じ旋律でも響き方は大きく異なります。
具体的には
周波数比で「ド」を決めれば
等比数列的に「ド」を定めれば
現在の西洋音楽においては12EDOが標準的に用いられています。
これは、1オクターブを12等比周波数に分割するものであり、各半音の周波数比は
従って音程的には等分になり、隣り合う音との音程は
特に音律の起源を遡ると、紀元前6~5世紀ごろ、古代ギリシャの哲学者ピタゴラスが【完全五度】(周波数比3:2)の積み重ねによって音階を構築したとされる【ピタゴラス音律】に行き着きます。これは、数学的な整数比に基づく体系であったものの、12回完全五度を積み重ねても7オクターブとはほんのわずかに一致しない
(
微分音は音痴・ピッチベンド・ポルタメントとは異なる
いきなりですが、【きゅうくらりん】は微分音ではないと思われます。
よく勘違いして解説している人がいるので整理して理解していただきたいのが、
【音痴】【ピッチベンド】【ポルタメント】
といった概念との違いです。これらは一見、音高の揺らぎや曖昧さに関わる事象のように思われがちですが、実際には微分音という体系的な規範とは全く異なるものです。
まず、一般に【音痴】と呼ばれる状態は、音程感覚が鈍化しており、基準となる音律に定められた音高へ的確に到達できないことを指します。例えば12EDOにおいて「ラ」を440Hzとしたときに、歌唱者がそれを480Hzだとか410Hzで発声してしまい、意図した高さから外れてしまうような状況です。ここでのズレは個人の聴覚的・運動的能力に起因するものであり、音律そのものの枠組みとは関係がありません。まあ、そのような歌声や演奏を皮肉って〝微分音〟などと言うといったことも見かけます。
【ピッチベンド】は、シンセサイザーや弦楽器などで用いられる技法で、音高を連続的に滑らかに変化させる奏法を指します。
ギターで弦を押し上げる(日本語ではチョーキング)、或いはシンセのベンドホイールを操作することで得られる効果が典型的です。
ピッチベンドは『固定された音高』に留まらないため、音律で規定された階段のステップを一時的に動的に外れた状態にありますが、特段目掛けられている音程そのものが音梯を逸脱したわけではないため、微分音と呼べるものではありません。
また【ポルタメント】は、歌唱や弦楽器演奏、シンセサイザーなどで、ある音から別の音へ移行する際に、音程を段階的ではなく滑らかに変化させる奏法を指します。グリッサンドの一形態です。
以上のように、いずれも【微分音】ではなく、個々の技法や能力の問題とはそもそも異なるものです。
大事なのは音高を目掛ける事
音律や音高をめぐる議論において重要なのは、『理論上の理想』と『実際の演奏現場』との隔たりです。例えばコンピューターやデジタルシンセサイザーといったデジタル機器では、数値的に精密に定義された周波数をそのまま出力できるため、12EDOでも31EDOでも、あるいは任意の微分音音階でも、定義通りの音を殆ど誤差なく鳴らすことが可能です。つまり1セント(
一方で、アコースティックな楽器や人間の声といったアナログな領域ではそうはいきません。弦楽器で弓を動かす手の加減や、管楽器での息の圧力、声楽における喉の微妙な筋肉の動きなどによって、実際に鳴る音は常に理想値から僅かに揺れ動いているでしょう。果てはピアノですら(弦振動に起因する倍音のズレの影響で)わざと理想値からずれた調律をしてあります。この揺らぎは避けられないものであり、当然、厳密な意味で『音高を精確に演奏する』ことには限界があります。
しかし、ここで生じるズレを【微分音】と同一視するのもこれまた正しくありません。なぜなら、演奏者が意図していない偶発的な誤差は、音律体系の一部として標榜されている音高ではなく、単なる不安定さに過ぎないからです。微分音を語るときに問題となるのは、『12EDOの単位音梯の外に、明確に目標として定められた音が存在するかどうか』であり、それを狙って鳴らすことこそが『微分音を演奏する』という行為に当たります。
言い換えれば、微分音とは【誤差】ではなく【目標】であり、音楽表現の中に意識的に組み込まれた新しい音程の体系なのです。この区別を明確にしておくことで、偶然の揺らぎと創造的な音楽表現としての微分音とを混同せずに議論を進めることができます。
微分音の意義
では、微分音の何がそんなに良いのかご紹介します。
既存の西洋の調性音楽の問題点の打破
新たな協和の可能性の模索
既存の音楽システムの再確認
既存の西洋の調性音楽システムからの脱却
協和感の正体に迫る話
一旦、なぜ音は協和するかという前置きをしましょう。
単純な周波数比は【協和】して知覚されるという話があります。
楽典における"協和"音程とはまた異なる意味になりますが・・・
ここでいう【協和】とは、同時に鳴る複数の音が快く調和して響くように感じられる性質を指します。
音楽心理学では、【聴覚的協和感】(sensory consonance)と呼ばれる、音楽的文脈とは無関係に、純粋な音刺激に対する協和・不協和の感じ方が研究対象とされています。
この領域で長く支持されてきた仮説のひとつは、『周波数ができるだけ簡単な整数比(たとえば 1:2、2:3、3:4 等)の関係にある音同士は、人間の聴覚において【協和】して知覚されやすい』というものです。
文献資料(協和感研究の動向と課題)によれば、純正音程(周波数比が厳密に整数比)での各音程(完全5度→2:3、完全4度→3:4、長3度→4:5、短3度→5:6など)は、協和性が高いものとして掲げられています。
なぜ『簡単な整数比』が協和を生みやすいかを説明しようとすると、以下のような話がしばしば取り沙汰されます。
倍音列の重なり
大抵の楽音(ピッチの知覚できる音高)はその周波数成分に、【基音】に加えて(理想的には)その整数倍の周波数【倍音】を多数持つことが一般的です。たとえば、ある音(基音の周波数f )の倍音列がf, 2f, 3f, 4f, 5f, \dots と続くとき、もう一方の音との周波数比が単純であれば、その倍音列同士に共通の成分(重なる周波数)が多く出現しやすくなります。共通倍音が多いということは『響きがなじみやすい』状態とされ、うなりやざらつきのような不協和要素が減る可能性があります。うなり・ざらつき感の軽減
異なる周波数の音が近接して鳴ると、【うなり】や【ざらつき】といった干渉的効果が知覚され、それが不協和感を与える源になるという説があります。周波数比が単純であると、楽音が持つ特定の倍音同士のうなりが抑制され、滑らかな融合感が得られやすい、という考え方です。
先ほどの文献では、音楽経験の有無に関わらず、被験者が協和と不協和を識別できるという実験が報告されており、【協和】(簡単な比率を持つ音程)を好む傾向が見られたという結果も引用されています。これは、協和感とは文化背景を超えて、ヒトなどが一定の神経基盤を持つ可能性を示唆するものです。
勿論、この『単純な比=協和』仮説には限界や批判もあり、特に複数音(3和音以上)や実際の楽音の複雑な倍音構成を扱うにはより洗練されたモデルが必要とされる点も、文献で指摘されています。
倍音を一切持たない正弦波といった音色や、整数倍の倍音を持たない鉄琴やベル状の楽器の音色での聴覚的協和感についてはまだ謎多いです。
無意識のうちの洗脳
ではなぜよく【微分音】は〝気持ち悪い〟とか〝調子っ外れ〟に聞こえると言われているのでしょう?
結論から述べればその答えは単純です。
我々が常日頃から12EDOに被曝しているからです。
これが無意識のうちに脳内で西洋和声文法を刷り込まれ、それへの違反を感じ取っているからなのです。
脳は音楽をあたかも言語かのように処理します。音楽文法違反や解釈失敗があると、言語における文法違反や解釈失敗に似た反応を示すことが指摘されています。
脳の事象関連電位(ERP)研究や脳磁図(MEG)の領域で研究で報告されている現象として以下のようなものがあります。
ミスマッチ陰性電位(MMN)
音高カテゴリーからの逸脱を聴覚的な統計的予測違反として捉えた反応
ERP波形としては刺激呈示後約100〜250msに出現し、主に両側前頭〜側頭(やや右優位)に強く出現する陰性波
言語の音韻/音素逸脱に対しても反応
音楽に注意を向けていなくても観測される
ERAN(Early Right Anterior Negativity)
音楽的文脈の中で和声の期待が裏切られたときの反応
ERP波形としては刺激呈示後約150〜250msに出現し、主に右前頭部〜側頭部に強く出現する陰性波
言語の文法違反で生じるELAN(Early Left Anterior Negativity)
に対応する音楽的アナロジー音楽に注意を向けていなくても観測される
N5
音楽文脈をどう解釈・統合するかに失敗したときの反応
ERP波形としては刺激呈示後約450〜600msに出現し、前頭〜中心部に広く現れる陰性波
言語の解釈失敗で生じるN400に対応する音楽的アナロジー
この上で、実際に以下のような反応が報告されています。
単純な微分音(12EDOの音梯から±25〜50セント)を『標準-逸脱』パラダイムで提示するとMMNが観察されるので、これは『物理的に予測を裏切られた』際の典型的反応が見られた。
2音和音/和声文脈中の微分音を扱った研究で、単なる音響的ズレ(MMN)に加えて、文脈的に〝許されない〟和音として処理されるときにERAN様の前頭陰性や後続のN5/遅延成分が出る報告がある。
すなわち『単音のズレ』か『統語違反としてのズレ』かで神経応答の性質が変わる。
四分音を含む2音和音を被験者に提示した研究では、ERP成分の振幅や時間域が12EDOの音と異なり、音楽経験者は微分音をより分離して高い感度で処理した。非音楽家はしばしば最も近い12EDOの音としてカテゴリー化してしまう傾向が示された。
西洋の12EDOの環境で育った人は微小なピッチズレを【逸脱】として感知しやすく、特に音楽家ではERP(MMNやERPの後続成分)が大きくなる傾向がある。
場合によっては微分音を日常的に使う音楽文化(中東・インドなど)の被験者では同じズレが『期待される変化』として扱われ、反応が小さくなる、あるいは別の分布を示すという報告もあるそうです。
臨床分野では、こうした応答の出現の仕方・大きさは被験者の音楽経験や文化的馴染み(エンカルチュレーション)に依存すると報告されています。12EDOに慣れた人は微分音を『逸脱』として強く反応しやすく、微分音文化に馴染んだ人は反応が弱いか異なるのです。
したがって、もしあなたが12EDOの文法に大いに洗脳されていた場合は、簡単な周波数比が聞こえたからと言ってその協和を処理できない状態である可能性があるのです。
既存の西洋の調性音楽の問題点の打破
長い前置きとなりました。
音楽理論の理想形を考えれば、本来すべての音程は整数比で定義できる【純正律】に基づいて構築されることが望ましいと考えられます。例えば、完全5度は2:3、完全4度は3:4、長3度は4:5、短3度は 5:6といった具合に。簡素な周波数比に還元されることで、協和的で澄んだ響きを生み出します。ところが実際に音階全体を限られた音数の純正律で組み立てようとすると矛盾が生じます。
例えば、ド~レを8:9と定義し、ド~ラを3:5と定義するとどうでしょう。完全5度のはずのレ~ラ間の比率は
そこで西洋音楽は妥協案として12EDOを採用しました。これは1オクターブを12等分し、隣接する半音上の周波数を
この体系では完全5度(7半音)が
周波数比では
となり、純正な 2:3 ≈ 1.5 に非常に近い値を与えます。
音程では
ほぼ2セント差です。
ところがどっこい長3度(4半音)は
周波数比では
音程では
です。純正な 4:5 = 1.25 との差は約13.7セントとなっています。
御覧の通りほぼ
短3度(3半音)も
周波数比では
音程では
約15.6セントの誤差となり、やや不協和感を残します。
一方で31EDOは、1オクターブを音程的に31等分する方法です。ここでは完全5度は18ステップで定義され、
音程では-5.2セントとなり純正値1.5よりも12EDOに比べわずかに誤差が大きくなります。
しかし、長3度(10ステップ)は
音程では
よって誤差0.8セントです。
短3度(8ステップ)も
音程では
よって誤差約6セントです。
すなわち、31EDOは3度音程においては12EDOを大きく上回る精度を示し、また音律の構造上、純正律で現れていた、レ~ラ間の破綻を回避することが可能となります。(純正律的に音を選択すると41EDOや53EDOでは破綻します。)
このように、12EDOが便利さと均一性を優先する一方で微妙な協和性を犠牲にしているのに対し、31EDOはより高度な調和を実現できる代替的枠組みとして、西洋調性音楽の問題点を打破する鍵となり得るのです。
新たな協和の可能性の模索
これまで西洋音楽理論において【協和】とみなされてきた音程は、主に単純な整数比に基づくものでした。
特に重視されたのは素因数 2・3・5 だけによって構成される比率、すなわち
オクターブ(1:2)
完全5度(2:3)
完全4度(3:2²)
長3度(2²:5)
短3度(5:2×3)
といった関係です。このような周波数比は「5-limit」と呼ばれ、12平均律が近似する範囲とほぼ一致しているため、西洋音楽の標準体系に組み込まれてきました。
しかし、周波数比の素因数をさらに拡張してみると、新しい種類の協和関係が見えてきます。例えば7を含む比率;
・自然7度(4:7)
・セプティマルマイナー3度(6:7)
これらは、独特の聴覚的協和感を持ちますが、12EDOでは近似精度が低く、大きな誤差を伴うため殆ど実用的に扱われてきませんでした。
同様に、11や13といった素数を含む比率もまた、12EDOの枠組みではもはや全く表現できないため、西洋音楽理論の蚊帳の外に置かれてきたのです。
ところが、24EDOや31EDO、41EDOのような微分音体系を導入することで事情は一変します。例として31EDOでは、2・3・5に加え、7・11・13といった高次の素因数を含む比率をそこそこ精度よく近似できるため、従来の音楽ではほとんど顧みられなかった音程を、意識的に標榜された協和音程として活用することが可能になります。
これによって、協和の概念そのものが大幅に拡張され、従来の和声感覚では到達できなかったバラエティ豊かな響きが新たに獲得されるのです。
この考え方を整理したのがアメリカの作曲家ハリー・パーチ(Harry Partch)による【prime limit】という概念です。これは『どの素数までを周波数比に許容するか』によって協和の複雑さを規定するという枠組みで、しばしば12EDOは5-limit(素因数 2・3・5 に限定)、31EDOは13-limit(素因数 2・3・5・7・11・13 を含む)と位置づけられます。つまり、微分音を導入することは、単に『音の数を増やす』ことではなく、協和という概念の射程そのものを拡張する試みでもあるのです。
既存の音楽システムの再確認
西洋音楽における音律は、歴史的にさまざまな実験と妥協を経て形成されてきました。
中世からルネサンス期には純正律が理想とされ、和声の中で主要三和音を澄んだ整数比で構成することが目指されました。先ほどにも書いたように、純正律は全音階ですら矛盾し、追ってこの問題を解消するべく少し妥協を行った【中全音律】が誕生するのでした。
31EDOの誕生についても、恐らく14世紀初頭ころ『パドヴァのマルケット』(Marchetto da Padova)が言及したディエシス(純正長3度を3つ積み上げた音程とオクターブの差、41.06セント)が大全音(比8:9、203.91セント)をほぼ5分割するという発想に始まったところから、中全音律の研究と共に31EDO周りの研究に発展していきます。
いずれにせよ、その音楽の歴史の中で長らく頭を抱える悩みになったのが、異名同音(例えば『♯ソ』と『♭ラ』)が実は同じ音を指さないという問題でした。大体はピタゴラスの所為ですが(笑)、この困難を解消するために、調律法が模索され、最終的に粗方の研究が吹っ飛んで12EDOに至ったのです。
一方で、世界の音楽文化を見渡すと、西洋の枠組みとは異なる多様な音律が存在します。
アラブ音楽のマカーム(مقام)では、現在は24EDO程度に細分化された独自の音階体系に基づき、独自の情感を表現します。
古代ギリシア音楽においては、エンハーモニック(12EDOでは異名同音になっているところについて)が理論的に検討され、西洋音楽の基盤を形作りました。
東南アジアに目を向けますと、タイのラナート(ระนาด)に用いられる音階は、ピタゴラス音律上のドリア旋法のようなものに基づき、所謂『ファ』と『♯ファ』のような半音階的半音をごまかすように異名同音を作った結果、7EDOとなりました。
また、トルコ音楽の九分音(koma単位による細分)は、西洋の12音体系を超えた音高感覚を育んできました。
さらに、西洋音楽そのものの歴史においても、外部からの影響によって新たな音程が探求されてきました。ブルーノートはその典型です。ブルースやジャズにおいて、一般的には中立3度(短3度と長3度の間)近傍の音程を模索する独特の表現は、12EDOには収まりきらない微分音的な協和感を意図するという説もあり、現在の音楽においても重要なファクターとなりました。
つまり、12EDOの内部にあっても、ジャズやブルースの奏者は『既存の枠組みの外』を意識的に探求してきた可能性すらあるのです。
このように現在の西洋音楽理論は歴史的妥協の積み重ねで成立した一つの体系にすぎません。世界各地の調律法や表現法、さらには西洋音楽内部で生じた逸脱的な実践を改めて参照することで、より広い音楽的地平を再確認することもできるのです。
既存の西洋の調性音楽システムからの脱却
有象無象の研究を経て大成されてきた西洋音楽ですが、近代以降の作曲家や理論家、さらには民族音楽の研究者たちは、この枠組みに必ずしも縛られる必要はないと考え、新たな発想を積極的に模索してきました。
勿論、非西洋の民族音楽的なアプローチはそれにあたるでしょう。
アラブ音楽のマカームやインド古典音楽のシュルティなどは、固定的な12音とは異なる柔軟な音高の運用が行われています。
東アジアや東南アジアの楽器に見られる調律は、西洋的な整数比の協和音程にとらわれず、文化独自の美意識に基づいて構築されています。西洋以外の音楽体系に学ぶことで、12音を超える音楽的表現の可能性が自ずと見えてきます。
そしてこれは微分音音楽においては重要な視点なのですが;
Erv Wilsonによって提唱された【MOSスケール】です。
MOSスケールとは、
①特定の音程を繰り返し積み重ねることで得られる音列
(たとえば5度圏の発想)
②得られた音列における隣接音程がちょうど2種類に分かれる
(全音階が『全音(L)と半音(s)』という2種類の音程で構成される発想)
を同時に満たす音階です。
MOSの概念を適用すると、従来の全音階にとどまらず、多様な新しいスケールを体系的に導くことができます。少し例を見てみましょう。
9EDO【Anti-diatonic】
(666.7セントの音程を7音積み上げて構成)
(ssLsssL|L:s=2:1|1+1+2+1+1+1+2=9)22EDO【Diatonic】
(709.1セントのやや広い完全5度を7音積み上げて構成)
(LLsLLLs|L:s=4:1|4+4+1+4+4+4+1=22)13EDO【Oneirotonic】
(461.5セントを8音積み上げて構成)
(LLsLLsLs|L:s=2:1|2+2+1+2+2+1+2+1=13)
さらに、オクターブそのものからの脱却も試みられています。
その代表例がボーレン・ピアースです。
オクターブ(1:2の比)ではなく、1:3の周波数比を基準とした音程分割に基づく音階であり、従来の和声感とはまったく異なる響きを生み出します。
このように〝オクターブを分割〟〝オクターブは同じ音〟という西洋音楽の大前提を疑うことで、全く新しい音楽的地平を切り開くことが可能になるのです。
このような動向は、西洋音楽の普遍的な可能性そのものを問い直す実践だといえるでしょう。微分音を含む多様な音律やスケールの探求は、将来の音楽においてますます重要な位置を占めていくかもしれません。
微分音に託された意義
さて、音律の基本的な考え方から始まり、様々な微分音の旨味を確認していきました。
ここから浮かび上がるのは、微分音は単なる特殊効果ではなく、音楽表現の根幹を広げる手段であるという事実です。従来の12EDOは便利で実用的な体系ですが、純正律に比べるとやはり協和音程の精度に限界があり、新たな整数比や文化的響きを十分に包含することができません。
微分音を導入することで、より多彩な協和感や新しい響きを追求できるのです。
さらに、微分音は『既存のシステムの破壊兵器』などでは決してなく、歴史や文化の中で眠っていた響きを呼び起こす鍵でもあります。中全音律やその延長の31EDO、ブルーノートやマカーム、古代ギリシアやタイの音楽のように、西洋の12音外の音程はすでに人類の音楽史において活用されてきました。それらを現代的な理論やテクノロジーと結びつけることで、一層多様で豊かな音楽経験が日の目を見ることになるでしょう。
微分音の必要性とは12音の外にこそ音楽の未来があるという視点を持つことです。単に新奇さを追い求めるのではなく、人間の聴覚と文化の可能性を最大限に引き出す営みにほかなりません。微分音を意識的に導入することは、AIが台頭していくであろう21世紀以降の音楽創造において避けて通れない大きな課題であり、同時に無限の可能性を秘めた挑戦なのです。
ここまでお読みいただいた方はよく微分音のご理解いただけたかと思いますので、この次の段落はスキップしていただいても構いません。
でも微分音って現代音楽みたいな変なやつでしょ?
目次から飛んできたそこの貴様、さては読み飛ばしましたね!
そのようにお考えであれば、ご自身の不勉強を恨んでください。
16世紀(ルネサンス~バロック期ごろ)にはすでに中全音律の拡張から31EDOの面影がかなりあったのです!
感覚では曲は作れない
芸術の価値を数値で測ることは不可能です。
なぜなら「良いもの」とは万人に共通する一つの基準によって定義される物ではなく、あくまで個々人の感性や経験によって変化するからです。例えば、ある人にとって心を揺さぶる音楽も、別の人にとっては只の雑音にしか聞こえないかもしれません。
美術や文学においても同じで、絶賛される作品が必ずしもすべての人の心を打つわけではありません。芸術とは本質的に「評価が揺らぐ」ということが発生すると理解しておくべきで、工業製品のように品質基準を数値化して優劣を判定することはできないのです。
したがって、芸術における「良し悪し」とは絶対的なものではなく、相対的で主観的な概念にすぎません。
音楽においても同様で、ある旋律が「美しい」と感じられるのは、その人の文化的背景や記憶、感情の状態に依存しているのです。もちろん全人類に当て嵌まる数学的な正解や客観的な最適解は存在しないと言っても過言ではありません。
芸術は主観評価の集積
あなたが例えば、とある楽曲を聴いて「これは素晴らしい」と感じることがあるかもしれません。
繰り返しますが、それはあくまで個人の主観的な評価にすぎません。音楽は聴く人の経験や価値観に深く結びついており、同じ曲でも人によって受け止め方が大きく異なります。たとえば、あなたにとって思い出の場面を彩った楽曲は特別な意味を持つかもしれませんが、その背景を知らない人にとっては何の感慨も呼び起こさない場合があります。つまり、『良い音楽』とは普遍的に存在するものではなく、聴き手の心の中で形作られるものなのです。
私たちが「感動した」「心地よい」と表現するその瞬間は、単なる感覚の記録の統計が導いた物であり、誰にでも当て嵌る客観的な評価基準ではありません。音楽における美しさや価値は、聴覚的協和感などのように生得的に知覚されうる現象を除けば科学実験のように数式やデータで再現できるものではなく、割と個人が抱く感情そのものに依存しているのです。
したがって、楽曲に対する「良い」「悪い」という判断は絶対的なものではなく、あくまで「あなたの感想です」という範疇を超えることはないのです。
理論/音楽理論とは何たるや
ここで【理論】という言葉の意味について、辞書的な定義を確認しておきたいと思います。
『広辞苑第六版』によれば、理論とは「(ア) 科学において個々の事実を統一的に説明し、予測することが出来る普遍性を持つ体系的知識。」とされています。
この定義は、単なる知識の集積ではなく、現象を整理し、そこから将来の展開を見通す力を持つ事こそが理論であることを示しています。つまり理論とは、過去の経験や観察をもとに、今後起こりうる結果を予測できるだけの再現性と普遍性を備えた体系なのです。これは学問分野において重要であるだけでなく、芸術や音楽においても無視できない要素でしょう。
では音楽理論とはどうでしょうか。音楽を聴いたときに生じる響きや印象といった現象を整理し、体系的に説明するための知識体系です。具体的に、楽器の演奏方法であるとか、音響、音楽心理学等が含まれます。私たちが『心地よい和音進行』や『印象に残る旋律』といったものを分析し、一定の規則性として説明できるのは、この「理論」という枠組みがあるからに他なりません。理論があることで、私たちは「なぜその旋律が明るく感じられるのか」「なぜその和音が緊張感を与えるのか」といった現象を理解することができます。感覚に頼るだけでは曖昧に、言語化して説明できずに、見過ごしてしまうような音楽現象も、理論を通すことで他者と共有し、再現し、さらには自己のボキャブラリには無かった(未経験の)新しい表現の基盤とすることができるのです。重要なのは、理論が単なる説明にとどまらず、再現のための道筋を示してくれる点です。作曲において特定の感情や雰囲気を意図的に表現したいとき、理論はその目的に向かう指針となります。つまり、音楽理論は過去の音楽を解釈するだけでなく、新しい作品を創り出すための実用的な道具でもあるのです。
個人の経験や歌詞の言語理解から喚起される感情
音楽が私たちの心に呼び起こす感情は、単なる音そのものの響きから生まれるわけではありません。寧ろ、それは聴き手の記憶や経験、そして歌詞などの言語理解と結びついた知的/情緒的反応として生じます。
まず、例えば私たちは過去に聴いた音楽や場面を通じて、ある音型や和音進行に対して【安らぎ】【切なさ】【高揚】といった感情を結びつけてきました。例えば、子どもの頃によく聴いた曲が一部でも流れると、それが【懐かしさ】を連れてきて心が揺れることがあります。このような【懐かしさ】が感情を喚起し、さらに自伝的記憶を引き出すという関係が、実証的な研究でも指摘されています。
また、歌詞がある場合、その言葉の意味や語感が感情の解釈を決定づける要素になります。同じメロディでも、歌詞の内容が悲しみを語るものであれば、聴き手はそのメロディを悲しさと結びつけて受け取ります。言葉の意味が感覚的刺激に意味を与え、感情の方向性を定めるのです。(出典)
実際は音楽心理学の分野では、音楽の『感情的性格』や『感情喚起』などを区別して論じる文献が多くあります。(出典)
感情的性格とは、ある楽曲がもともと持っている雰囲気・傾向(喜び・悲しみ・憂鬱・緊張感など)を指し、それに聴き手の解釈・経験が乗ることで、実際の感情として届くと論じられています。
したがって、音楽が想起させる感情は、(ある程度までは生得的に共通しうる部分もありながら、)音響そのものだけで発動するものではなく、人生や言語理解と結びつけて解釈された『意味ある経験』の産物です。これが『感情を誘発する音楽の力』の本質であり、同じ一連の音でも、人によってまったく異なる感情世界を呼び起こす理由なのです。
第六感について
閑話休題。第六感というオモシロ話をしましょう。
念のため宣言しておきますが、ここで取り上げる【第六感】という語句を、人間の感覚器官で直接知覚することができない【予感】と定義しておきます。まあ一般に『第六感』とは直感や霊感のように説明されがちですが、一先ずここではより合理的な観点から捉えてみます。
人間は日常の中で膨大な情報を目や耳を通して取り入れていますが、そのすべてを意識的に処理している訳ではありません。むしろ多くは無意識のうちに統計的に蓄積され、後に「何となくこうなりそうだ」などという予測として表面化するのです。例えば、人混みの中で危険を察知したり、誰かの表情から次の行動を直感的に読み取ったりするのは、実際には過去の経験から無意識にパターンを学習し、その帰納的な結果を予測に転化しているからです。この意味での「第六感」は、神秘的でオカルトの様な能力ではなく、観察と学習を基盤とした人間の認知の一形態にすぎません。
つまり、先に定義した【第六感】においては、私たちは無意識のうちに周囲の事実を整理し、統一的に説明・解釈しています。そして、その積み重ねから得られた普遍性を持つ体系的な知識を用いて、次に起こるであろう結果を予測しているのです。
これはまさに理論の働きと同じです。直感と呼ばれるものが単なる偶然の産物ではなく、多くの経験と観察から導かれた知識の無意識的活用であることを考えると、【第六感】と【理論】は本質的に地続きであるといえます。
言語化されていないだけで、人間は自らの体験を統計的に処理し、法則性を掴み、それを次の行動や判断へと反映させているのです。したがって【第六感】とは、言葉にならない理論、あるいは暗黙知として働く理論にほかなりません。
うまくいく感覚派など存在しない
もしあなたが音屋で、【マジで】、【本当に】、【何も】音楽理論を学ばず、ただ感性や直感の赴くままに作曲しているのであれば、その行為は言い換えれば『ゴールに対してあてずっぽうを試みている』ことに等しいのです。
(というかこれほどのレベルの人は日本じゃそうそういないです。ドレミぐらいは一般に通じるでしょう?)
感性は瞬間的で移ろいやすく、安定した再現性を持たないため、同じ目的を目指しても、毎回違う結果に辿り着いてしまう危険性があります。例えば『切なさを表現したい』と思っても、和音や旋律の組み合わせが偶然うまく作用する場合もあれば、意図したのとはかけ離れた雰囲気を生んでしまうこともあるでしょう。例えるならば地図を持たずに見知らぬ街を歩き回るようなもので、本当に運が良ければ目的地にたどり着けるかもしれませんが、そうでなければ延々と迷い続けることになります。
一方で、もし理論を知らずに作曲していても、驚くほど精確に意図した雰囲気を作り出せている人がいます。その場合、本人は「感性でやっている」と豪語するかもしれませんが、実際には過去の音楽経験を通じて、無意識のうちに現象を統計的に把握しているのに過ぎません。すなわち、理論を言語化できていないだけで、暗黙のうちに【体系】を築き、その帰納的な結果を直感として反映しているのです。これこそが先ほど述べた【第六感】にほかなりません。つまり、感性による作曲が成功する時、それは単なる偶然ではなく、本人が長い時間をかけて蓄積してきたデータと経験が裏で機能しているのです。すなわち、彼らは歴とした『音楽理論』を用いて作曲していたのです。
〝ある程度までは理論、そこから先は感情だ!〟と言われても、実際のところ、その〝感情だ!〟の部分も本人が言語化して説明できていないだけであり、根幹は理論なのです。
ここで興味深いのは、この『無意識の統計処理』が人工知能のアルゴリズムと同じ原理で動いているという点です。AIは膨大なデータを取り込み、その中からパターンを抽出し、次に現れるであろう結果を予測します。
音楽生成AIもまた、過去に与えられた楽曲データを学習し、『こういう和音の後にはこのような旋律が来やすい』といった規則性を見いだし、あたかも人間が感性で作ったかのように曲を生み出します。人間の『第六感による作曲』とAIの『アルゴリズムによる生成』の違いは、処理が意識的に行われているかどうか、そしてその知識を言語化できるかどうかにすぎません。本質的にはどちらも、経験やデータの蓄積から規則性を学び、それを基に新たな出力を生み出しているのです。
したがって、繰り返しますが、音楽理論を(部分的かどうかに関わらず)知らずに感覚で作曲している人も、成功している(ゴールに到達している)限りにおいては理論を暗黙のうちに運用しているといえます。違うのは、それを『意識して使っているか』『言語化して共有できるか』という点です。(この言語化の一端を担うものに音楽理論とはやや異なる、音楽用語や記法の辞書のような【楽典】というものが存在したりもしています。)
もし理論を学べば、暗黙知として働いていた規則性を明確に理解し、再現性を持って活用することができます。逆に理論を知らない儘では、成功は個人の経験に依存し、他者と共有できず、また再現も難しいというリスクを抱え続けることになるでしょう。
感性だけで作曲することは決して不可能ではありません。しかし、それは経験と偶然に頼った極めて非効率な方法であり、意図的に成果を積み上げるには残念ながら限界があります。
結論、『感性で音楽を作る』という行為は、無意識の統計処理と帰納による理論運用であり、実はAIのアルゴリズムと本質的に変わらないものです。人間の作曲者においても、成功の裏には必ず何らかの体系的知識が働いています。理論を学ぶことは、その知識を『偶然の直感』から『再現可能な技術』へと昇華させる作業にほかなりません。
理論を学ばないのは冒涜?
音楽理論を学ぶかどうかは、最終的には個人の自由です。
理論を学ぶことは音楽表現の幅を広げ、既存の作品を深く理解する助けになりますが、学ばないという選択も、ジョン・ケージ的な発想ですが、偶然性の美学を追求する余地を残すものです。
しかし、一般的な西洋音楽理論に反する考えを提唱したり、理論を学ばない姿勢を〝音楽に対する冒涜だ!〟と一蹴する者もこの世には居ます。
しかし、本質的には正当ではありません。言っている人の感想か譫言だと思っておくくらいがよいでしょう。
それらを冒涜と断定する態度は、正統こそが正当であると勘違いし、唯一絶対の正しい道が存在するかのように考えており、異なる意見を排斥している点で、芸術の自由の弾圧です。
もはやそのような態度は、音楽理論を信仰対象とし、異論を受け入れないという点で、宗教的なドグマに近い性格を帯びるといえます。芸術において多様性こそが豊かさの源泉である以上、音楽理論を絶対視して他の立場を攻撃することは、カルト的な振る舞いと言えるでしょう。
(勿論、マトモに曲を作りたいのに〝感覚派だ!〟と豪語し、結果〝いい曲ができない!〟と嘆く人を見かけると暗澹とした気持ちになります。)
シチューにカレールーを入れかけてませんか?
もう一つ重要なことを説明します。音楽理論の正体を理解するうえで、ひとつわかりやすい比喩を紹介しましょう。
シチューを作りたいのに、手に取ったレシピはカレーの作り方。
いやそんなんじゃシチューは作れませんて。
どちらも料理であることに変わりはありませんが、求める結果が異なれば、手順や材料も異なるのは当然でしょう。(稀にめちゃくちゃ美味いカレー味シチューができて満足する人もいます。)
同じことが音楽にも当てはまります。再現したい音楽的現象や表現を明確にせず、漠然と直感だけに頼って作曲を進めても、意図した結果を得ることは難しいでしょう。そこで必要なのが、ゴールに向かう道筋を示す体系的な手法、つまり相応しい音楽理論です。
ジャズっぽいものを作りたいわけでもないのに、Ⅲmの和音をトニックと解釈しているようであれば、あなたの曲はシチューを作ろうとしてできたカレールー入り蕎麦かもしれません。(ジャズ理論においてはⅢmをトニックとして扱うので、ポップスやクラシックの考え方に相反するのです。)
理論を知り、どの理論を使うか適切に選択することで、どの音や和音を選べば特定の雰囲気や感情を表現できるのかがわかり、作曲時の迷いを減らし、効率的に目標を達成することができます。直感だけに頼るのは、材料も手順も異なるレシピを手探りで試すようなものであり、結果の再現性も低くなります。
理論は単なるルールとは異なり、目的に沿った音楽表現を設計するための道具です。つまり、再現したい現象を明確にし、そのゴールへ向かうための体系的な手法を選択して用いることこそ、創作の成功に直結するのです。
プロパガンダに屈するな
残念ながら、この世には音楽理論不要論者が蔓延っています。彼らは頓珍漢なデマゴギーを言って情に訴えかけ、信者を増やそうとしています。
(デマかも)〝理論を勉強するより、聞いて覚えたほうが早い〟
言語化して説明できないうちは傾向を把握できず非効率です。余程あなたに音感があるとかで、曲を一瞬で解析し、傾向を分析し、その統計情報を自身の楽曲に投影できるのであれば、やっていただいて構いません。当然ですが、あまり耳にしないテクニックについては統計が少なく、再現することも儘ならないと思います。
(デマ)〝音楽は感情でやるものだから理論はいらない〟
それは音楽を用いて相手を共感させるという目標設定に他ならないです。その感情を想起させるための方法論がないのでは、あなたは当てずっぽうを試みるしかないのです。
(デマ)〝理論を学ぶと縛られる〟
目標とする音楽と異なる理論を学習すると、あなたが以前から学習した別の理論や培ってきた音楽の傾向に関する統計の記憶が削除されるとでも言いますか?またはシチューにカレールーを入れるつもりですか?
(デマかも)〝音楽理論を学んでもプロのような曲はつくれない〟
この言説には要注意です。95%くらいは本当でしょうが、残りの5%があなたを騙します。
実際の作曲は音楽理論のほかにもシンセの使い方やサウンドメイキング、ミックス・プリマスタリングなどの知識が無ければ、プロのような楽曲は作れません。しかし、この言い方は音楽理論を学びすぎることがまさか悪であるかのような言い種です。正しくは「音楽理論だけ学んだとて、他に学ぶものがあるから、プロのような曲はつくれない」と捉えるべきことなのです。
プロの作曲家ですらこのような自身の言説や思考の陥穽に気が付いていない言動をする(少なくとも音楽を人に教える点では)モグリが多いのですからこちらも頭を抱えています。
あなたは、頭にアルミホイルを巻きながら、このような根拠のない情報をまだ信じますか?
DTMは死んだ
AIがMIDIを吐き出せる現実が衒う終焉
えー・・・
皆さま、いま私たちは大きな歴史の節目に立って居ります。
音楽という人類の文化の営みとは、歴史を通じて『12等分平均律』という枠組みによって制度化され、統一され、世界の共通語となりました。
この体系は、ピアノの鍵盤からシンセサイザーのパラメータに至るまで、全てを均質化し、グローバルな商業音楽の基盤を築いたのは事実です。
その結果、J-POPもロックもジャズもクラシックも、あなたの脳の知覚すらも、すべてが【12音の檻】の中で語られるようになってしまったのです!
残念ですが、今この12音の檻はAIによって完全に制覇されようとしています。Suno、Udioをはじめとする作曲AIは、膨大な12EDOの楽曲のデータを学習し、わずか数秒で「もっともらしい楽曲」を生成できるようになりました。
素晴らしいコード進行も、マイナーのバラードも、あるいは流行りのEDMスタイルも、勿論そのMIDIすらも、瞬時に再現されます。人間が何時間も悩んで生み出すはずの音楽が、今やAIの計算処理によって大量生産できてしまうのです。
皆様、この現実を直視しなければなりません。
12EDOに従った作曲は最早、人間にとって特権ではありません。
AIが安価に、効率的に、そして終わりなき反復で供給できる時代が到来したのです。つまり『12音で作られた心地よい音楽』は、これからコモディティ化し、人間が競う領域から外れていくでしょう。
では、私たち人間は作曲をやめるべきでしょうか?
~答えは、断じて〝否〟であります。~
むしろこの状況こそ、人間が新たなフロンティアへと踏み出す絶好の機会なのです。
12音という規格は、便利であるがゆえに私たちの耳も脳も縛りつけてきました。しかし音の世界は、本来はるかに広大です。19EDOが描く妖艶な揺らぎ、31EDOが拓く繊細な煌き、41EDOが放つ狂気的な精密さ、あるいは純正律の無限の空間。
それらは全て、12EDOが『切り捨ててきた表現』であります。
微分音作曲は、その広大な宇宙へと向かう人類の旗印です。
半音よりも細かい音程を操る時、旋律はさらに高度に構築され、和声は調和と不協和の境界を超えて、聴覚を震わせ、感情の深部を直接刺激します。そこにあるのは未知への畏怖と恍惚であり、またはどこか懐かしいでしょう。それはMIDI規格が根強い今であれば、AIの統計では再現できない、生身の人間だけが切り開ける領域なのです。
ここに、私たちの使命があります。
AIに12音の音楽を委ね、人間は12音を超えた作曲を担うこと。
それこそが音楽家に託された最後の意味であり、これからの音楽文化の存続をかけた道なのです。
皆さま、今一度考えてみてください。
かつてルネサンスの音楽家たちは教会旋法の制約を破り、バッハは調性を確立し、現代の作曲家たちはジャズやロックの荒野を開拓しました。歴史の転換点には常に、新しい響きを求める人間の意志があったのです。そして今、私たちの時代に与えられた使命は明白です。AIの時代にあって尚、人間が【音楽】を語るためには、12音の檻を超えて、微分音という新世界に踏み込まなければならないのです。
微分音作曲は、決して難解な実験に留まりません。むしろそれは、聴覚の新しい自由を取り戻す革命の狼煙です。私たちはこれまで、『音楽は12音である』という暗黙の前提に囚われてきました。しかし本当は、音程は無数に存在し、世界中の民族音楽はすでに多様な音体系を使いこなしてきました。インドのラーガ、アラブのマカーム、果ては中全音律の31音の拡張に至るまで。
人類の歴史はもともと微分音に満ちていたのです。それを忘れさせたのが、演奏と工業社会に都合の良い12EDOでした。12EDOは音楽の大量生産と大量消費に迎合し、人の脳までも染め上げてしまったのです。
したがって、微分音作曲とは単なる未来志向の挑戦ではありません。それは、歴史の豊穣さを取り戻し、AIには決して真似できない『人間の選択』の瑞祥となる灯光なのです。
皆さま、ここで一つ強調させていただきます。
AIは、与えられた統計に基づいて模倣を繰り返す存在に過ぎません。12EDOという規格の中では、確かにAIは人間を凌駕します。
しかし、規格を越えた瞬間に、AIは道を失います。その未踏の荒野で、音を選び取り、響きを編み上げることができるのは、私たち人間だけです。
だからこそ、私は断言致します。
これからの時代、12音の音楽はAIに委ねればよいのです。スマホが一般的になったように、社会は便利さと効率を求めます。同じように12音の中ではもう、さらに効率のいい音楽社会へとシフトしていくでしょう。
私たち音楽家は、情感豊かな表現のために、その外に広がる微分音の地平を切り開くことに専念すべきでしょう。12音の心地よさを再生産するのはAIの役割、未知の美を探求するのは人間の使命。この二つを峻別することが、いま私たちの文化を生き延びさせる唯一の戦略になりうるのです。
音楽家の皆様、今こそ立ち上がりましょう。
12音平均律の檻を打ち破り、微分音作曲の旗を掲げ、AIに対して人間の自由と創造を誇示するのです。微分音の荒野は決して恐るるに足りません。それは人間の耳に、かつてない自由を与える楽園です。
未来の音楽は、AIの反復の中にはありません。
未来の音楽は、人間が勇気をもって踏み出す微分音の一ステップの中にあります。
作曲者の皆様、あなたがいま12EDOの中で旋律を並べているその時間、AIはすでに幾千もの『似たような音楽』を吐き出しています。
12EDOにいる限り、あなたが苦心して積み上げたコード進行も、リズムパターンも、AIにとっては瞬時に生成できる退屈な反復にすぎません。
演奏家の皆様、あなたがいま12EDOの中で旋律を奏でているその時間、AIはすでに幾千もの『素晴らしい演奏』を吐き出しています。
あなたが微分音の楽器を手に取らない限り、あなたの演奏より格段にAIの方が優れたサウンドを作り上げてしまうかもしれません。
それでもまだ「自分にしか作れない12音の音楽がある」と信じ続けるのでしょうか。
もはやその夢はAIによって瞬時に適合され、消費され、使い捨てられる宿命にあるのです。
真に音楽家に残された道は、12音を超えること、微分音という未踏の宇宙へ踏み出すことにしかありません。半音を打ち捨てて得られた共鳴が、新しい感情を呼び覚まし、未体験の響きがあなたを待っています。
音楽家のの皆さま、問いかけます。
いつまで夢を見続けているのですか?
駄文、以上。
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ワイにうまい棒を恵んでくれると飛んで喜びます。

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