写真:講談社写真資料室
写真:講談社写真資料室

生後まもなくは「松本清治」だった

 松本清張が広島で生まれたという記述は、『半生の記』にはないが、「広島は私に因縁の深い土地だ。父と母はここで一緒になった」と記されている。「私に因縁の深い土地」という表現は、広島が出生地であることを示唆(しさ)しているようにも読み取れる。

 生誕から間もない時期の2枚の写真や、清張の晩年のインタビューでの証言、「父系の指」など初期の自伝的小説の記述から総合的に判断すると、清張は高い確率で広島生まれだと私は考える。前述の写真の台紙には、撮影者として「小早川圭風」という名前が記されており、広島市郷土資料館の調べによると、小早川写真館は広島に実在していたことが分かっている。もう一枚の乳児期の写真の台紙には「広島市土手町 俵写真館」と記されている。土手町(現・松川町・比治山町・稲荷町)は1枚目の写真が撮られた「広島京橋」のすぐ近くで、広島駅の南口のすぐそばである。

 清張の乳児期に松本家が小倉から広島に移動し、写真を撮った可能性もあるが、当時の交通の便を考えれば、現実的ではない。また清張の母は生家を出たのち、西志和村に一度も戻っていないというから、一家が小倉から広島に里帰りした可能性も考えにくい。

 1枚目の写真の台紙の裏には「明治四十二年二月十二日生、同年四月十五日写」と記されている。2枚目の写真の裏には「明治四十二年二月十二日、同年六月二十七日写 松本清治」と記されている。これらの写真は、資料として信憑性が高いため、松本清張の出生は、福岡県の板櫃(いたびつ)村に出生届が出される10ヵ月前の、1909年2月12日だと推測できる。だとすれば清張は1992年8月4日に、82歳ではなく、83歳で亡くなったことになる。

 清張には姉が2人いたが、何れも乳児期に死亡しているため、父母は清張の誕生を心から喜び、奮発して2枚の写真を撮影したのだろう。

 2枚目の写真の「松本清治」という書き込みに着目すると、松本清張(きよはる)という本名は、出生届が出される半年前の時点では、「清治」だったことが分かる。当時の写真撮影の料金の高さを考えれば、誤字であれば、台紙を取り換えただろうから、この時点で松本清張(きよはる)は「松本清治」だったと考えられる。「清治」では「せいちょう」とは音読みできず、「せいじ」となるが、「松本清治(せいじ)」では、「松本清張(せいちょう)」のようなインパクトに欠ける。後の「国民作家」の名前としては「清張」の方が音の響きが良いため、清治から清張に変更したことは、両親の好判断だったと言える。

 なおデビュー当初、清張は先輩の作家や編集者から「清張(きよはる)」と本名で呼ばれていたという。清張が売れっ子となる前は、誤って「清情(せいじょう)」と記されたこともあったらしい。

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つづけて 「この文章は殺人犯も追える」…芥川賞選考委員がズバリ見抜いていた「松本清張の才能」 を読む

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