政治の文法について
選挙の結果を受けたテレビ番組で、芸人の太田さんが高市総理への質問をするやりとりにおいて、高市総理が「意地悪」という表現を用いたことが話題になっています。
この問題について、一人の社会学者として、あまり雑に扱わず丁寧に論じたいので、唐突に聞こえることをいとわず、まずは「自然科学」と「社会科学」の境界の話から聞いてください。
自然科学の文法とは
「自然科学」と「社会科学」の境界についてはいろんな側面からいろんな議論が展開されてきましたが、わりと新しめの社会学ではどう論じられているのかを、理系の人にでも伝わりそうな言い回しを意識して書いてみます。社会学のアプローチや理論は、哲学の動向を踏まえたものが多いので、前半は哲学的な話になります。
人間は、物理的・化学的プロセスを記述する言語(科学記号、数学、専門的概念など)を構築し、それを用いて対象を記述し、説明することができます。対象は、原子、天体、微生物、動物、人間でもよいです。
空想上の存在(たとえば神)でもよいです。「神は違うだろ」と考えるかもしれませんが、「神について考えている人間」がいるとき、その生化学的なプロセスを記述する、ということは可能です。
でも普通はそんなことしないですね。「神とは何か」と問われて、「では神について想像しているときの人間の神経生理学的な状態をみてみましょう」と返されても、困りますね。なんだか、「言語が滑っている」気がするでしょう。「人間」とは何か、「社会とは何か」についても同じです。自然科学の言語でそれを記述すると、滑っている気がします。
ただ、このギャップ(滑り具合)を説明するときに、「水準が違うのだ」「人間は記号を操るのだ」と説明されても、なんだかいろいろスキップされていて説明された気にならんな、と感じますよね。(実はこの滑りっぷりを人類はテキトウに説明してきてしまったために壮大に知的リソースが無駄遣いされてきたという長い歴史があるのですが、それはまた別の話。)
なので、このギャップを埋めていきましょう。
志向性の語彙による記述
私たちは、生物・動物の場合には単なる物理的プロセス(「代謝」)ではなく、「食べる」「攻撃する」「怒る」といった言葉で記述することが多くなります。なぜこういった違いが生まれるかというと、一部の生物に意識があるから、というわけではなくて、そう記述した方が言語の使用が効率化するから、つまり「言語が仕事をしやすい」「実用的である」からです。
「食べる」「攻撃する」「怒る」のような概念を、志向性の概念といいます。「〜を食べる」「〜を攻撃する」「〜について怒る」のように、意識を想定してその向かい先がある(かのように)記述するための概念群ですね。
ただ、意識があるのかないのか、という面倒なことを考える必要はありません。そんな形而上学的な問いに取り組むのではなくて、「言語が働いているのか」「言語を実用的に使っているか」という観点から考えて、「せっかくの言語なのだから、実用的に使えるやり方で使いましょう」と考えればさしあたり十分です。
「酸素原子はさまざまな元素と《くっつきたがる》」と記述することはもちろんできますが、それはわかりやすさを優先した日常言語の借用です。これでは、科学活動(説明)を前に進める上で役に立ちません(言語が働きません)。「酸素は寂しがりなんだよ」という記述だと、「じゃあ仲間で集まるのかな」「なぐさめてあげないと」みたいなやりとりにつながってしまって、言語が「空回り」するわけです。L.ウィトゲンシュタインは、この状態を「言語がどんちゃん騒ぎしている(仕事をしていない)(die Sprache feiert)」(『哲学探究』38節)と表現しました(彼自身は伝統哲学によって言語が機能停止していることを批判したのですが、同じことです)。
科学活動を前に進めるためには、「くっつきたがっている」という志向性の言語ではなく、「外殻」「電気陰性度」「結合」といった志向性を想定しない言語で記述した方が、「どういう原子と結合しやすいのか」という、《次に進む言葉の使い方》になるわけです。逆に、一部の動物の行動を記述・予測する際には、志向性の語彙を用いた方が格段に効率的になります(そのことを示すために、動物行動学から志向性の言語を除去したらどうなるか考えてみるといいかもしれません)。このことは特に人間についての学問において当てはまります。
ここまで来ると、私が高市さんの「意地悪」発言について何を言おうとしているのか、一部の人には伝わっているかもしれません。でも先に進みます。
行為の文法
「実用的である=効率的である=次に進む」ような言語の使い方を、私たちは知っています。
文法(統語論)がその一つです。言葉の順番、機能語(前置詞、助詞など)の規則は、「守らないと怒られるぞ」という規則である以前に、私たちの活動を前に進めて効率をよくするための規則でもあります。「日本に低下している出生率を」みたいに自由に組み立てられると、せっかくの言語が働いてくれません。
でも、いくら文法的に正しくても、言語が働かないことがあります。「日本の出生率は紫色だ」というのは、文法的には完全にクリアですが、意味論的には「意味不明」で、言語の効率のよい使い方にはなりません。「私は自分が痛いということを信じている」もそうですね。
さて、これ以降が社会学の領域です。
社会的活動を前に進める文法
文法や意味論では適正に見えても、やりとり全体としては機能しないこともあります。「私は悲しみを持っている」(意味論的に通じる)→「測定したら何リットル?」「それって偶数?」(意味論的に通じる)は、全体として意味不明です。こんなことばっかりやってたら、言語のみならず社会が機能しません。
要するに、社会的活動における規則というのは、私たちの社会活動を外から縛るものというよりは、社会を機能させる(休暇に出さない、噛み合わせる)ことで、社会的な活動を「前に進める」「次につなげる」「効率化する」ルールでもあるのです。社会学理論における規則概念は、このような規則の側面(構成的constitutiveであること)を重視します。
こういったルールのことをウィトゲンシュタインは(統語論=表層文法と区別して)深層文法と呼んでいます。N.ルーマンは「ゼマンティーク/構造」、A.ギデンズは「社会を構造化する規則」のように言っています。社会学の一分野であるエスノメソドロジーには「概念の論理文法」という言い方もあります。
ここではウィトゲンシュタインに敬意を表して、文法という言葉を使わせてください。
「科学活動を前に進める文法」もあれば、「教育場面を前に進める文法」もあれば、「経済活動を前に進める文法」もあります。科学はお金の力で進みますが、利潤の言語(文法)では進みません。「お金がなければ研究できない」ということと、「利潤の語彙が科学的発見の仕組みのコアなエンジンだ」ということは、全く違いますね。
もちろん政治もそうです。政治という活動において、働く言語・社会活動とそうではないものがあり、それを支える社会的にコアな文法(規則、コード)があります。
この文法(コード)を甘く見てはなりません。これは、単に私たちの頭の中にある規範や習慣だ、で済ませることができません。たとえば各種領域の文法は、物理的建造物を構造化するものでもあります。
なぜ議会という建物があるのか
政治にもいろんな側面がありますが、「議会」について考えてみましょう。民主制の国にいる私たちは、ずいぶんとお金と時間をかけて、議会という建物や制度、そしてそこに参加する政治家を準備します(めちゃめちゃ金かかってます)。意思決定するだけならこんなにお金をかけて議会という建物を建てなくてよいですし、面倒でお金のかかる制度や政治家も必要ありません。
議会の存在理由の一つは、方針(法案)に関連する事実関係(エビデンス)を確認したり、弱点(副作用)をあぶり出してパッチを当てたりすることにあります。そうしないと、ちゃんと機能する法律は望めません。社会がしっちゃかめっちゃかになってしまいます。
これは、たいへんな作業です。事実関係の確認では官僚や有識者も動員されます(官僚にはそれなりにお金がかかっています)。調査をかけ、データを適切に取得し、文書(議事録)は正確に残します。「まじめだからやっている」のではなく、政治が「前に進む」ために、つまり空回りしてお金と時間の無駄にならないようにデザインされているだけの話です。
方針のブラッシュアップ(穴を塞ぐ作業)をする際には、方針に反対する議員(野党議員)の質問や確認が、政治を前に進める一つの要素になるので、その機会が議会では保障されています。実質的には野党の質問も空回りすることが多いのですが、空回りするような質問ならば、与党は「本質的ではないので流します」とはねつけることができます。はねつけられないのなら、そこには何かしら法案の性能についてのそれなりに本質的な問題提起が含まれているのでしょうから、「野党が反対論陣を張ること」は、いずれにしろ「政治を前に進めるための活動」になりやすいのです。
簡単に言えば、「方針に賛成の人ばっかりだったら、方針の穴が見つかりませんよ」ということです。議会での会議の形式は、政策方針にパッチを当てる作業を形式的に保障しているのです。
このように、経済でも教育でも政治でも、特定の制度ややり取りの作法、つまり分野の特性に応じた文法があります。この文法は、長い時間をかけて、各分野の活動を「前に進める」ものとして練り上げられてきたものです。
文法違反の社会的・経済的なコスト
ここまで来ると、社会学者として私が言いたいことはもう伝わったと思います。
政治家が政治家として質問に答える場面で、「意地悪だ」という言葉を使うことは、「酸素原子とはどういう性質を持つのですか?」という問いに対して、「酸素はさびしがりやなんですよ」と返しているように聞こえるわけです。この例がしっくりこないなら、「なぜ結婚するのか?」という問いに対して物理や生物学の語彙だけで返す場面を想像してもよいでしょう。
ここで肝心なのは、こういった反応だと深層文法が働かず、活動を止めてしまう、ということです。回答の「レベルが違う」というのは説明のスキップです。人類が練り上げてきた効率的な文法(コード)の使用法を無視しているので、「前に進まない」、というべきです。酸素に志向性の語彙を使うことが、酸素の性質についてのさらなる探究につながらないことを思い出しましょう。
社会の各分野が、分野を運営し、進めるために蓄積してきたルール(文法)があります。お金も時間も手間もかかってます。何ならそのコードが機能しやすいように建物も建てちゃいます。だから政治家は、ある方針について、可能な範囲で「趣旨」「手段」「副作用」といった語彙で説明し、議論を交わすことが、制度のために使ったお金や手間を無駄にせず、そして長い時間をかけて蓄積された言語・文法を「働かせる」ことにつながるのです。
「意地悪」発言は、政治の世界においてしばしばみられる文法違反による、壮大な「お金の無駄遣い」なわけです。
(実は「文法違反」というのはごく当たり前にあることなのですが、そのことが、投票というシステムがしばしば政治の文法に従わない人を議会の場に送り出すことにつながっています。この点については、別記事にて。)


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