『星獣戦隊ギンガマン』第四十八章『モークの最期』
◾️第四十八章『モークの最期』
(脚本:小林靖子 演出:長石多可男)
導入
さて、配信では遂に最終章まで配信されて全てチェック済みだが、今回はタイトル通りモークが遂に物語の表舞台からドロップアウトするものだ。
スーパー戦隊シリーズにおいて指揮官・司令官クラスの死というものがここまで劇的に描かれた例は少ないが、強いて言えば『五星戦隊ダイレンジャー』の道士がその例だった。
そういう意味ではこのエピソードは「ダイレンジャー」のオマージュであるとも言えるが、「仲間たちのために命を張ってなくなる」という最期でありながら、なぜこうも完成度や面白さに差があるのか?
それはもちろん物語として積み重ねてきたものの差ということになるが、それ以上にモークというキャラクターの特性それ自体にあると言える。
何が言いたいのかというと、「動けない樹木」ということを逆手に取った展開がこの流れに説得力をもたらし、脚本としても映像としても見事に噛み合って連動している。
しかも、前回獣撃棒を強化した反動でモーク自身も体に限界が来ていたことでさらに説得力が増したということになる、全てはここに持ってくるためだったのだ。
幾分唐突とも言える展開だったから懐疑的ではあったのだが、改めて見直して今回の展開に繋げるために必要な布石を打っていたということになる。
これが道士の場合は説得力がまるでない、ダイレンジャー5人よりも強い上にその死因が戦いの最中に判断を間違えた末路というのは単なる自業自得にしかならない。
そしてもう1つ、今回のことの発端となった地球魔獣が内側から仕掛けた猛毒というのも決してここに来て湧いて出た突発的なネタではなく、物語の序盤に提示されていたものだ。
そう、第六章で星獣が大気汚染から星を守るために命を賭して仮死状態になったが、今度は「地球の内側から」というより陰湿かつギンガマンには手の打ちようがない方法でやってきた。
映像演出としても紫色のアップや枯れ葉のアップを効果的に用い、またギンガマンがアースも使えずに転生不能という状態に陥らせるなど、長石監督の演出もまた光る。
同じ猛毒系のエピソードを演出したこともあり、今回はよりそれに磨きがかかっており、そしてそれが今週配信分とも非常にいいバランスで噛み合っているのだ。
さらにその中でギンガマンの強さが極まるシーンがあったり、また、ラストシーンで細かい引用がなされているなど、全体的に見て序盤から見ていた人にはピンと来る要素ばかりである。
ギンガマンはどうしても「物語」「脚本」「音楽」ばかりが褒められがちだが、何と言っても最終的に「映像」としての迫力・価値がなければ無意味であり、見事にそのハードルをクリアした。
さて、今回のレビューのポイントは以下の3つだ。
「動けない樹木」を逆手に取ったモークの最期
本作の終盤は全て序盤で示されたネタの反復とズレ
ギンガマンの真の「強さ」が極まる
ではレビューにかかる。
「動けない樹木」を逆手に取ったモークの最期
導入でも書いたが、今回のポイントは「動けない樹木」という設定を逆手に取ったモークの最期であり、本作は改めてモークの使い方が絶妙であったという他はない。
第四章『アースの心』でも描かれていたが、樹の根のネットワークで自然界の様々な情報を探ることができ、さらに人格面でもギンガマン5人に取っての良きアドバイザーであった。
そんなモークが今回ある種の自己犠牲とも言える行動に打って出る展開に違和感がなかったのはまずこの「動けない樹木」だったからこその部分がとても大きい。
地面の中に根を張っているということは、地層のことであったり地球の内部から仕掛けられたことをどうにかできるだけの力は持っていることになる。
こればかりは流石にギンガマン・黒騎士・星獣のいずれでも無理なことであり、地球の内側に仕掛けられた猛毒を自ら体内に吸収することで無効化するという作戦はモークにしかできないだろう。
リョウマたちはバルバンと戦う前線のファイターであり、ヒュウガも似たような位置付けにあるが、だからと言って地球内部の毒をどうにかすることはできない。
尚且つ、リョウマたちは決して意図的ではなかったとはいえモークに「ヒュウガに言うな」と指示に逆らい主体的判断で動いてすらいる、これは通常であれば許されない展開だ。
少なくとも杉村升がメインライターをやっていた時代の戦隊ならばこんなことは許されないだろうし、実際「デンジマン」では最後にアイシーのいうことを聞かなかった結果うまく行かなかった。
また、これが下手に動ける司令官だったとしても無意味だっただろう、それこそ道士然り前作の久保田博士然り、司令官はどうしても物語の都合上戦士たちを見守ることしかできない。
言って仕舞えば終盤でははっきり言って足手纏い、邪魔であり、だからこそ小林靖子と長石多可男はここで思い切ってモークを退場させるという英断に踏み切ったのだ。
しかもギンガマンはその死に目にすら逢えないわけだが、これはおそらく小林靖子なりの配慮であり、モークの死を決して必要以上に英雄的行為として賛美しないためだろう。
例えば「ジュウレンジャー」のブライ兄さんがそうだが、登場人物の死をかっこよく演出することはいくらでもできたであろうに、本作では決してそれをやらない。
自己犠牲というのは描き方によってはいくらでも美化できてしまうものであるが、本作は黒騎士ブルブラック然りブドー然り、登場人物の死はあくまでも「死」としてのみ賛美されず描かれる。
ヒュウガの死だってそう、あれもリョウマにアースを覚醒させるためのトリガーにはなったが、あくまで「きっかけ」に過ぎず、あくまでも「生きること」しか小林靖子は肯定していない。
「死んでしまえば所詮それまで」というある種の諦観と突き放したような厳しさが今回のモークの最期に見て取ることができるし、種に戻ったというのももちろんいずれ復活するためである。
だから私自身はモークの最期にこれといった感情はない、むしろそれを持つことは失礼であると戒めつつ、ここまで「司令官の死」を静かに、かつ劇的に描いてみせたのは見事だ。
本作の終盤は全て序盤で示されたネタの反復とズレ
これも冒頭で触れたことだが、ここから最終章までのネタは全て序盤で示されたものを反復させつつズレを起こしている。
今回でいえば具体的に3つ、まずは知恵の樹モークの最期の原因となった猛毒が第六章のネタを形を変えて使っているものであるということ。
2つ目がそれに伴う銀河転生不能からの反撃、そして久々に超走光なしのギンガイオーによる銀河獣王斬りというのもやはり第七章からの引用だ。
そして3つ目、ラストでブクラテスに「その必要はない」と容赦無く剣を刺すシェリンダのカット、これも第一章で使われていたものである。
特に3つ目に関してはシェリンダがブクラテスを封印から「復活」させるめに使った剣を今度は「殺す」ために使っているという対比も面白い。
こういう細かい遊びの要素が実は本作の映像にはたくさん散りばめられており、意図的にそうしたのか偶然にそうなったのかは窺い知れないだろう。
普通の戦隊シリーズにはない面白さであり、本作は実は通常のスーパー戦隊シリーズの王道に沿っているようで、実はあまりないパターンで終盤の展開が構成されている。
序盤で提示されたネタを単なる伏線回収としてだけではなく、小ネタの範囲でも細かいカットで最大のインパクトを生んでいるところが奇妙な面白さにつながっているのだ。
また、「貴様ら、どこまで邪魔するつもりだ!?」というミサイル魔人の言葉に対して「お前たちを倒すまでだ!」というのも「お前たちは俺が、俺たちが倒す!」の変形版だろう。
実は全てのカット・全ての物語・全てのネタがそうだが、もう一つ述べておくとするなら「走る」ことに関してもそうだろうか、第一章や第二章では馬で走る姿が印象的だった。
終盤に入ると予算の都合も相まってその馬すら出てこないわけだが、それでも主題歌の「走れ!」で言われているように本作はとにかく「走る」戦隊という特徴がある。
これは野生の本能で駆け巡るというギンガマンのヒーロー性を表す特徴にもなっているし、昨今のようにデジタルなものが多い中で「アナログ」であることを重視した点も大きい。
ただ、同時に大きく違っている点もあり、もうこの辺りに入るとギンガレッド/リョウマも完璧に一人前に成長し、ヒュウガからの自立を果たしている。
バルバンは逆に瓦解寸前であり、作戦という作戦が全て失敗に終わってしまうなど、もはや後がないという状況になっているのだ。
その中でもなおバルバンの脅威が薄れることはないが映像から見て取れるのは本作の見せ方がとてもよくできているからだろう。
つくづく本作は「あり方」「見せ方」「やり方」の全てにおいて完璧なまま太い柱に貫かれてここまで来たと言える。
ギンガマンの真の「強さ」の本質とは?
そして今回ヒュウガとギンガマン、それぞれに道は違えど、6人全員が自分の意思に基づいて戦っているというのが素晴らしいのである。
ヒュウガから独り立ちを果たしたリョウマ、立派な星を守る戦士へと成長したヒカルを中心にギンガマン5人が最後まで諦めずに戦い続けるのだ。
第三十八章でリョウマたちは徹底して自分たちだけで戦うことになったわけだが、この段階に至って「真に最強の戦隊」へ成長することができた。
その強さとはもちろん戦闘力的な意味での強さではなく、「何があろうと揺るがずに自らの意思で戦い続ける」という「弱さを認めた上での強さ」なのだ。
これは正直他のどの戦隊にも決してない本作の特徴であり、単に「武器が強い」「戦闘力が高い」「チームとして優れている」だけの戦隊ならいくらでもある。
だが、なまじ力が優れていると結局は「力が強い勝てるんでしょ」「正義の存在だから」というように「強さの本質」が見えにくくなってしまう。
そうして強さにばかり重きを置き始めると、結局は「力こそ全て」ということになってしまうし、それは決して本作が目指すべきものではない。
まさにそれはリョウマ自身が第十七章で勇太少年に語ってみせた通り、「力や技だけが戦士の条件ではない」のである。
近い時期の作品でいえば『超力戦隊オーレンジャー』が失敗したのはまさにここであり、「オーレンジャー」は結局のところただの「初期化」としての「軍人戦隊」をやってしまった。
そのせいで、変身不能に追い込まれたはいいが、そもそも何のために戦い力を振るうのかという立脚点すら見失ってしまい、結局のところ「力こそ全て」以上のものではなかったのだ。
当時サブプロデューサーとして参加していた高寺成紀はその事実に気づいていたからこそ、徹底して「ヒーローとは何か?」を3年かけて遠回りしながらも着実にアプローチした。
『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』の2作を通して「弱いヒーロー=等身大の正義」というあえてアンチヒーローに近いところから「ヒーローとは何か?」を炙り出したのはそのためである。
髙寺成紀は後年本作に対して「やはりどこか他人事めいた正義に映ってしまう」こと、そしてそれが「クウガ」への反証に繋がったことをインタビューで述懐している。
確かに本作の目指したところは必ずしも彼にとって目指すべき境地ではなかったのかもしれないが、だからこそ本作は「最強の戦隊」であることに説得力が出る。
そしてそれこそが私が第一章から言い続けてきた考え方=脳のOSであり、ここまで設定・物語・キャラ・映像のあらゆる点を一貫させてきたからこそ見えてくるものなのだ。
少なくとも私が見てきたあらゆるヒーロー作品の中で本作を超える徹底して身も心も戦士というメンタリティーを研磨した作品はない、あるというなら挙げてみやがれ。
それくらいに、ギンガマン5人もヒュウガも持っているものが違うわけであり、昨今の「とりあえず困ったら新兵器」などというヌルゲー化した課金アプリ戦隊などとはわけが違う。
どんなに優れた兵器・武器を持っていたとしてもそれをどのように・なぜ・どんな目的で使うのか、またそれを成し遂げた先に何が待ち受けているのか?
ここを明確にして逆算思考でやってきたからこそ異常なまでの完成度に至っている、まさに「至芸」という他はない。
総評
さて、今回から最終章までが地球魔獣との最後の戦いに向けて、まさに「激震」とでもいうべき回だったかもしれない。
モークのキャラクター性を逆手に取った「最期」の演出、序盤から提示されてきたネタの反復とズレ、そしてこの回で極まるギンガマンの「強さ」の本質。
改めて1年間の作品を構築していくことがどれだけすごいことかを思い知らされるような、そんな名品。
総合評価:S(傑作)100点満点中110点



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