樋口尚文の千夜千本 第237夜 【追悼】長谷川和彦、豪胆で繊細なる映画の「核融合」
日本映画の「転回点」を体現する鬼才
長谷川和彦監督が遂に逝った。癌との闘病はずいぶん前からだったので、不意に長谷川監督の不在が訪れたという驚きはなく、むしろ病状が悪化してからもずいぶん最期のときは延長されたという感慨を持つ。そんな覚悟ありきのことゆえ長谷川監督という存在がこの世から消えたという悲しみはいくぶん回避されたのだが、しかし「ああ、これで本当に長谷川監督の次回作を観ることはかなわなくなった」という虚脱感は如何ともし難い。
1946年の年頭、広島でいわゆる被爆二世として生まれた長谷川監督が映画界に足を踏み入れた1960年代後半はひと昔前に黄金期にあった日本映画が不振を極め、興行と質の両面で劇的な凋落期にあった。ただしそんな中にあって、たまさか潜り込んだ今村昌平の独立プロダクション、次いで助監督時代を過ごし脚本家デビューも果たした初期ロマンポルノ時代の日活撮影所には、潤沢な製作費には事欠くものの、既成の商業映画の枠から逸脱した面白い作品を作ろうという気概と自由さが溢れていた。折しも海の向こうからはヌーヴェル・ヴァーグに次いで旧套のハリウッドのスタジオ規格をはみ出した新鋭たちによるアメリカン・ニューシネマが続々となだれこんで来た。
長谷川和彦は、まさにこの「時代」を背負った「転回点」に位置する鬼才だった。当時の私は特に構えるわけでもなく、たくさんの映画やドラマを観まくるうちに、長谷川脚本による日活ロマンポルノ作品や神代辰巳監督『青春の蹉跌』、久世光彦演出のドラマ『悪魔のようなあいつ』と全部自然に出会っていたので、「あの気になる脚本の書き手が若くして映画を撮るのか」という期待のもとに、1976年秋の第一作『青春の殺人者』をATG専門館だったアートシアター日劇文化で初日に観た。この時は作品の凄まじい熱量に圧倒されながら、一方で一種不思議な後味が残った。
というのも、この尊属殺人の実話と、それに取材した中上健次の小説をもとにした力作は、前半の親殺しまでは言わば今村昌平的な粘着的リアリズムで撮られているのだが、後半の主人公カップルの冴えない彷徨と放浪の部分はダルで緩いアメリカン・ニューシネマふうの感覚で終盤まで描かれる。この木に竹を接いだような異物感は、凄惨でシリアスな社会派リアリズムの映像にゴダイゴのポップな英語歌詞の楽曲がまぶされていたことでより際立っていた。もっともこの異物感すらひとつの持ち味と思わせる作品全体の混沌とした勢いと熱量ゆえに、『青春の殺人者』はすこぶる高い評価を集めた。
しかし私はこの作品の前半と後半の異物感について興味をかきたてられたので、『「青春の殺人者」という事件の現場』というロングインタビュー作品(総監督と聞き手は筆者/キングレコード『青春の殺人者』Blu-ray所収)で長谷川監督に詳しく問いかけたところ、もともとの脚本では田村孟が前半の社会派リアリズムを後半では観念的に煮詰めてゆき、主人公を戦後も根強く継続する父権的な社会に叛逆するゲリラのように描いていたという。だが実際の作品では、そんな毅然としたゲリラを宣言するのは自分にとってのリアルではない、もっと情けなくだらしなくさすらい、後悔で涙ぐんだりする主人公こそが自らの分身だと言わんばかりに、後半は脱力し、しらけている。これを観客として観ていた自分も、もし後半の主人公が先行世代の田村孟が意図したような確信犯的な抵抗者であったなら何の共感も抱かなかったかもしれないが、長谷川が独自に脚本を改変してたどりついた後半のしまらないぐだぐだ感には非常に「共振」するものがあったのだ。
このことは象徴的で、まさに長谷川和彦という監督は『青春の殺人者』前半の先行世代的な社会派リアリズムの殺気や密度を継承しながらも(実際長谷川は今村昌平に匹敵する「調査魔」をもって任じており、作品のモチーフや主題について執拗に調べあげていた)、表現の出口においては自らにとってアクチュアルなアメリカン・ニューシネマ的等身大脱力感を志向していた。その新旧の映画思潮の「転回点」を体現していたのが長谷川であり、『青春の殺人者』の前半後半の異物感は長谷川のありようそのものを映していたと言えよう。
この魅力的な異物感をさらに突破して、まさに被爆二世から原爆を描くというそれこそ先行世代の社会派作家が深刻に真摯に手がけそうな主題を、アメリカン・ニューシネマ的な軽快、痛快なエンタテインメントとして描き切ったのが、第二作の『太陽を盗んだ男』だった。ここにはもはや『青春の殺人者』における異物感はなく、主題と表現は長谷川監督の大胆で野心的な演出によってみごとな「核融合」を果たしていた。一作目の興奮を経て、もはやこの二作目は公開を指折り待って、1979年秋の公開初日に東宝系封切のメイン館だった日比谷の千代田劇場で観たのだが、それはもうとんでもなく面白い描写のてんこ盛りと繊細でナイーブな人物描写に唸らされっぱなしであった。ただ一点、この広い劇場で私のようにわなわなと興奮して大きなリアクションで観ている客がまばらであったのは気になった。二作目にして製作費も時間もぎりぎりまで費やしたこの大傑作は、まさに時代の先を行き過ぎていたせいか意外なまでの不入りに終わり、それがこの稀代の鬼才監督の運命を変えてしまった。
『太陽を盗んだ男』は本公開時こそ興行不振であったが、SNSもない時代にじわじわとその評判は若者たちに伝播し、名画座で上映されれば必ず超満員という感じの人気を誇った(当時のロードショー時に極端なる不入りで名画座では観客が溢れていた二大典型例は『太陽を盗んだ男』と『ブレードランナー』だろう)。だが、『太陽を盗んだ男』に続いて『連合赤軍』など異色の企画を練っていた長谷川監督は、遂に三作目を手がけることなく鬼籍の人となった。この長すぎる待機時間のあいだに、長谷川監督は鬼才だが粘り過ぎて金もかかる面倒な監督ではないかというイメージも肥大する一方であったし、また監督自身も『太陽を盗んだ男』という傑作で自ら上げたハードルを超えることの難しさを誰よりも感じていたことだろう。
無責任に言うならば、『太陽を盗んだ男』の後に一本、必ずしも観客の期待に応えない「失敗作」を撮っておけば、長谷川監督のフィルモグラフィは数も内容も多彩に膨らんだかもしれない。黒澤明であれ大島渚であれ深作欣二であれ北野武であれ森田芳光であれ、さまざまな「失敗作」もいとわずに撮り続けることで作品歴に時々とんでもない「成功作」が紛れ込んで来た。長谷川監督ほどの才能であれば、撮ってもらいたい信奉者も少なくないわけで、いっそ気安く身軽に撮り続けていれば、そこから弾みをつけて新たな傑作を生む端緒となったかもしれない。しかし、長谷川監督は常に大胆で豪胆な素振りを見せつつも、実はかなり繊細(いっそ小心と言うべきかもしれない)な性格なので、その「失敗」を許せないのだった。そのゆえに、終生さまざまな企画を立てつつも、石橋をたたき割る慎重さが勝って踏み出せないのだった。もっともこの大胆さと小心さの同居ゆえに『太陽を盗んだ男』という多面的な傑作が生まれたとも言えるので、そこの良し悪しは断じがたいところであるが。
私は長谷川監督とくだんのロングインタビュー作品の他にも劇場トークや長い配信番組でもご一緒したが、「ゴジさんに欠けているのは失敗作を撮る才能です」と蛮勇をふるって申し上げると「おまえ簡単に言うなよ」と怒りながらもどこかまなざしはしみじみと思うところあり、という感じであった。だが、さらに言えば、長谷川監督は『青春の殺人者』以来ちょうど半世紀次回作を撮れぬままに逝ったが、遺された二作は普通の監督が何十本撮っても到達できない域に達している作品であることは間違いなく、長谷川和彦はこのたった二本の作品により日本映画史に屹立する存在なのである。