花女10| 半田唄子 求道の前衛いけばな人
2025年8月26日/記
(敬称省略)
前衛いけばなの記念碑的な展覧会の1つが、1952年に開催された第1回「白東社展」である。特に注目したいのが、半田唄子と木畑茂子の作品であり、中川幸夫を含めた男性陣を凌ぐ、新鮮な作風を展開していたのである。男性陣が彫刻的な作品形態だったのに対して、インスタレーションとしか形容しようのない作品形態を見せていて、驚かされる。私は自著『前衛いけばなの時代』(注1)で以下の指摘をした。
◆〈いけばなの伝統にルーツをもち、いけばなに習熟した作家が新しく開拓した作品形態であり、積極的に評価すべきではないだろうか。ただ、当時としては床置きが本道で、2作品は脇道に入ったような印象を与えたかもしれない。〉〈(その後)どうも継続的な発展があったようには思われないのである。開拓されたものに対する意識的な整理や定着がほとんどなされないまま、女性の2作品は偶然の産物のように生まれ、そして忘れ去られていったということなのだろうか〉◆
結局、この本を書いた時点では、2女性についての検証は宿題となった。その後、ずいぶん時間は立ってしまったが、半田に関しての資料や証言を入手し、半田の活動を知ることができた。そして、戦後いけばなの最重要作家の一人だとの確信をえたのである。そのことを、私は、いけばなに関わった評論家として語っておく責任があると思い、半田を連載の戦後部のメインに据えた。
なお、のちのちに触れる中川幸夫の問題行動については、慎重に書いたつもりではあるが、中川ファンの読者もかなりいたはずだから、西川編集長は相当に困ったはずである。しかし、一切口を出さなかった。感謝している。
(注1) 三頭谷鷹史『前衛いけばなの時代』美学出版、2003年刊。
🔴半田唄子の初期代表作《天井に挑む》
(初出「日本女性新聞」2016/9/15 第29回)
前衛いけばな運動がもっとも激しく燃えた1950年代前半、女性のトップランナーは半田唄子(1907~84)であった。『いけばな芸術』の読者投票がそのことを明瞭に物語っている。前回触れたように1953年8月号の「新鋭作家40人集」読者投票で第2位を獲得、女性の中では1位だった。
それ以前にも、半田は同誌の1952年度「作品ベストテン」(注1)に登場している。雑誌に掲載された重要作品すべてが投票対象になるので、家元、大家、中堅、若手が激しく競い合う。中川幸夫(1918~2012)が勅使河原蒼風、小原豊雲に次ぐ第3位を確保したが、半田も負けていない。15位に食い込んだのだ。女性では14位が高名な工藤光園で、それが女性のトップだった。半田は小原流の重鎮である光園に並んだのである。
この時の中川と半田は、ともに一個人作家であり、男女それぞれの立場でいけばな界的秩序に波紋を投げかけたわけである。いけばな界=家元制社会という中では、個人作家が成立すること自体が異例のことだし、しかも上位を競うとは。いけばな界の下克上と言っても過言ではない。もちろん『いけばな芸術』読者の範囲内のことだが、進歩的ないけばな人の多くが読者であった雑誌なので、その影響は小さくないと思われる。
この頃の半田は45歳前後だった。決して若くはないが、新しいいけばなに生き甲斐を見いだしていた。その背後にいたのが重森三玲(1896~1975)である。三玲と出会い、三玲の指導で千家古儀の家元を返上し、早々と一個人作家になっていた。そして九州から京都に通って、月1回開かれる重森主宰の研究会「白東社」に参加していたのである。四国から通っていた中川とは研究仲間だったが、のちに結婚することになるとは、この頃の半田は夢にも思っていなかっただろう。
研究会の成果を初めて世に問うたのが、1952年5月の第1回「白東社展」(大阪三越)である。白東社展では長時間ぶっ通しの過酷な生け込み(現場制作)がなされたらしい。美術評論家の水澤澄夫によると、皆〈目をくぼませ頬をこけ〉させてヨレヨレ、〈ビタミン注射で時々元気をつけて〉といったありさまだったという(注2)。出品作は、当時の白東社研究会のテーマが「マッス」であったこともあり、大半がその集大成的な作風であった(図2,3,4)。ただ中川幸夫の1点がそれまでのマッスを脱して、木の枝によって〈空間のヴォリューム〉(中川)を追求する作品(図5)に進化していた。
興味深いのが女性たちの作品である。とりわけ半田の約2メートル立方の杉のマッスを天井からぶらさげた《天井に挑む》(図1)は、迫力ある大作である。観客の頭上に浮かぶ異様な塊。今ならインスタレーションと呼ぶのだろうが、当時はそんな言葉も概念もなかった。実際男たちの作品は彫刻的な展開であり、床面に設置されていた。半田がどうしてこんな作品形態に至ったのかは謎である。本人によると月々の研究会の集大成ではなく、〈試作〉だったというから半田独自の工夫なわけである。
が、面白いことに同展出品の木畑茂子も同様な作品形態に至っているのである。こちらは3つのマッスを会場の柱に沿わせた作品《コルム》(図6)で、木畑は〈柱を一つの花器と見て構成した〉と語っている。
半田と木畑が同じ考えでこの形態に至ったとは思えない。それぞれの考えや感覚によるものと推察する。しかし、男たちが彫刻的台座の上にがん首をそろえていた時、2女性は独自判断で予想外な作品展開を実行していたのである。天晴れというほかない。
(注1)『いけばな芸術』1953年2月号
(注2)水澤澄夫「白東社展について」『いけばな芸術』1952年8月号
(図1~6)出典 『いけばな芸術』1952年8月号
🔴強烈な自我に目覚める、家元返上
(初出「日本女性新聞」2016/10/1 第30回)
森山明子の『まっしぐらの花』( 注1)は中川幸夫を主題にした本だが、半田唄子についても詳しい。それによると森山の質問に中川が〈半田はお嬢さんだった〉と答えたとある。そう、たしかに半田の前半生は裕福だったのである。
下沢歌子(のちの半田唄子)は1907 (明治40)年に生まれた。生家は使用人が20人もいる福岡市の小間物問屋だった。いけばなは女学校に入った13歳頃から始めているが、茶や書も学んでいる。20歳の時に同じ福岡の海産物問屋の半田家に嫁ぎ、いけばなから離れた。育児などがその理由である。とはいえ女中さん付きの奥様、ここまでは順風満帆の人生である。
ところが彼女が32歳の時に夫が急死。姑、娘2人、息子1人が残された。すぐ生活に困るというわけではなかったが、将来のことを考えて再びいけばなを始めたという。おそらく彼女のような良家の未亡人が選べる数少ない職業の一つが花の師匠だったのではないか。しかし不幸は二度襲う。まもなく太平洋戦争が始まり、福岡大空襲で焼け出されてしまったのだ。そして終戦、ここから半田の波乱のいけばな人生が始まる。
戦後の半田は懸命に働いた。1947年に千家古儀の家元を託されて花を教えるとともに、実家の〈下沢家の別邸では茶を教えた〉(『まっしぐらの花』)という。のちに触れる小説『拈華微笑』では花を教えたことになっているが、茶と花を並行して教えるケースは多く、両方を教えたのかもしれない。それはともかく、この話からわかるように、半田の実家は健在で、半田と実家との関係も良好だったと思われる。
また、この頃、半田は進駐軍が出入りする料亭(旅館)などを回って花をいけている。この料亭の方は、生活のためでもあるのだろうが、非常に前向きな行動のようにも見える。こうした場で、新しい花を試みているようなのだ。この点について『日本女性新聞』のインタビューが興味深い(注2)。彼女は当時を回想して、進駐軍の兵隊さんが彼女の花に〈ワンダフル〉と言わなかったことをたいそう気にしているのだ。
というだけでは意味不明だが、半田に密着取材して書かれた佐藤和子の小説『拈華微笑』(注2)と重ねると本来の意味がわかってくる。
小説のなかで半田は語る、〈どんな素材でも一様に同じ型に活けることには、やはり娘時代から飽き足りなさを感じていました。それで、わたしは一方で型に捉われない新傾向の花を工夫し、進駐軍相手の旅館に活けてまわったりして、しきりと模索〉したと。しかし、なかなかワンダフルとは言ってくれなかったのである。
この頃の彼女は輝いていた。40歳を過ぎていたが、潜在していた強烈な自我が目覚め、生活のためのいけばなだったのが、生きがいのためのいけばなに変わっていく。その熱い思いをぶつけた相手が重森三玲だった。
1949年8月、半田は同志社大で開かれた夏季講習の重森の講義に出かけた。当時の旅はたいへんで、福岡から京都まで汽車に揺られて23時間。講義を聴き、初対面の重森に直訴した。先のインタビューによると、進駐軍のことを話し、〈いい花をいけるにはどうしたらいいのですか〉と聞いたという。重森は〈あなたがそう思うなら、そうなるようにしなさい〉と答えた。どうやら〈そうなるように〉徹底的に努力することや、戦後〈人間は自由になったけど、花は型を踏襲しているだけ〉なのはなぜかと、流派不要について語ったようだ。
〈私はガツンと、頭を殴られたようなショックを覚えたのです。そのあと、勉強をしなおすつもりで流派を離れる決心をした〉という。その年の11月、重森は福岡で半田の新傾向の花を見る。〈やれるじゃないか、半田さん〉〈ボクがうけあうから〉とまで言ってくれた。半田は自信をえて家元を返上、そして翌1950年に白東社同人となる。
(注1)森山明子『まっしぐらの花』美術出版社、2005年刊。
(注2)インタビュー「真実の花を求めて」『日本女性新聞』1976年7月14日号。
(注3)佐藤和子「拈華微笑」『文学者』第16巻第2号、1973年2月刊。小説だが、主人公の平川喬生と柳田瑤子は、名前からして中川幸夫と半田唄子とわかるし、重要登場人物の杉森三嶺や大河原白鷗なども同様で、重森三玲、勅使河原蒼風のことだと知れる。
この小説は、中川と半田に密着取材して、取材内容の多くを活かした作風になっている。作者の佐藤和子は二人の実像に迫りたかったのであろう、取材してえた事実はできるだけそのまま再現しようとしたようだ。だから気をつけて取り出せば参考資料として活かすことができる。この小説、むしろ実名小説とした方がよかったような気がする。
実名小説と言えば『華日記』(新潮社)であり、作者の早坂暁は、前衛いけばなの時代に『日本女性新聞』の編集長をしていた人だ。当時のいけばな界の隅々を熟知し、前衛運動に加担もしている。大いに参考にしたいのだが、残念ながらそれはできない。
実名で登場というリアリティーを活かしながらフィクションを溶かし込んでいるため、エンターテインメントとして面白いし、私も楽しく読んだ。が、巧みさが災いして事実とフィクションの境目が見えてこない。ヘタをすると、フィクションの面白い部分に気を取られ、事実と思い込んでしまいかねないのである。ということで、私の場合、参考資料としても扱わないことにしている。
(図1)出典 『いけばな芸術』1953年8月号
🔴理想を追う、求道的ないけばな人に変貌
(初出「日本女性新聞」2016/10/15 第31回)
よい花をいけたい。そのために家元を返上し、いけばな作家半田唄子が誕生した。千家古儀の戸畑宗仙から家元を引き継いだのが1947年、返上したのは49年の11月か12月だと思われる。
家元返上の影響は大きかったはずである。まずは門弟の減少だが明確な記録や証言はない。密着取材したと思われる佐藤和子の小説『拈華微笑』に、〈6、70人に増えていた門下生は、いっぺんに10人足らずに〉なったと書かれている。それに近い状態だったのではないか。家元返上に計画性はなく、まして打算などない。理想一途の行動であった。
返上後の半田について『まっしぐらの花』(注2)に興味深い記述がある。半田には〈紅柏会を主宰して百人近くの弟子がいた〉とか、中川と暮らすために東京に旅立つ時、見送りの女性たちがロシヤ民謡「仕事の歌」を歌ったとか。紅柏会? 仕事の歌? これだけでは意味がわからないので再び『拈華微笑』を読んでみよう。
〈で、わたしはこんどは方針を変えて、鉄道やバスの発着所に勤める娘たち、洋裁や婦人帽の仕事をもった人たちなど、働く女性の職場を対象に教授先を開拓してゆきました〉とある。
小説だから現実がこの通りだったという保証はない。ただ、戦後のいけばなが大衆化していく過程で「職場のいけばな」が勢いをもったことを思い出すべきだろう。いろいろな職場に教室ができて、普通の働く女性たちにいけばなが広がっていったのである。労働運動も盛んな時期であり、そう考えると流派とは無関係な「紅柏会」に弟子百人、労働歌「仕事の歌」で見送られたことも納得できる。
各所にいけ込みをする仕事も増えたようである。『日本女性新聞』のインタビューによる回想(注3)に、〈戦後のどさくさから、やや立直りかけていたころでしたが生活は苦しかったですね。昼なんか回転焼といって、いまのタイ焼きみたいなのをひとつ食べて仕事したものです。そして、福岡市内の「みつばち」とか、「うぐいす」とかいったバーやレストラン、美容院、料亭など〉にいけて回ったとある。
ただし、〈生活は苦しかった〉に加え〈地をはいずりまわるような苦難を経験〉と回想するが、そうした半田の主観にはやや違和感を覚える。実家は健在でその別荘を使ってのお茶の教授、月謝は相当安かっただろうけども弟子百人、そして各所へのいけ込みがある。懸命に働いたことを疑うわけではないが、生活困窮や貧困などとは次元が違うのではないか。
また、福岡から京都まで通って白東社の研究会に参加している。その費用だってたいへんだ。『拈華微笑』には〈不動産を手離して〉とある。もとは裕福な商家であり、不動産が残っていたとしてもおかしくはない。
彼女の身辺を冷静に見た上で、その主観に立ち入ってみよう。客観的には貧困でないにしても、かつては奥さま、そして先日まで良家の未亡人であったその生活感覚からすれば、戦後の生活を苦難と実感した可能性はある。しかし、さらに言えば、回想に出てくる苦難はむしろ前向きの言葉だったのではないか。自分の力で懸命に生き、懸命に理想を追う人生。彼女はいつの間にか稀に見る求道的ないけばな人に変貌していたのである。
(注1)前掲書『拈華微笑』
(注2)前掲書『まっしぐらの花』
(注3)前掲書『日本女性新聞』1976年7月14日号
(図1)出典 『いけばな芸術』1952年2月号
(花女10| 半田唄子 求道の前衛いけばな人 おわり)


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