「やりきった」兄・慎吾氏(東京ヤクルト)とともに指導者の道を歩みはじめた元女子プロ野球・川端友紀さん
■やりきって現役引退
「やりきりました!」
さわやかな笑顔できっぱりと言いきる姿は、一点の曇りもない青空のように清々しく輝いている。現役時代、いかに全身全霊をかけて打ち込んできたかが伝わってくる。
女子プロ野球で、企業チームやクラブチームで、はたまた日本代表で、常に中心選手として活躍し、女子野球界を牽引してきた川端友紀さんは一昨年、プレーヤーとしてのユニフォームを脱いだ。
「女子プロ野球を引退したときにも『やりきった』と思っていたけど、実際にグラウンドに出ると『やっぱりやりたいな』っていう気持ちがありました。でも今回はグラウンドに行ってもそういう気持ちにはならなかったので、これが本当にやりきったということなんだなって感じました」。
そこには未練など何ひとつなく、ただただ充実感が漂っていた。
■女子野球界を牽引し続けてきた
川端友紀。野球ファンでその名を知らない者はいないだろう。女子プロ野球の創設メンバーとして実力、成績はもちろんのこと、人気の高さも抜群だった。
京都アストドリームスでのルーキーイヤーに首位打者(.393)に君臨すると、翌年には.406という高打率で2年連続のタイトルに輝いた。
埼玉アストライアに移籍してからも首位打者(.431)のほか最多打点(34打点)や最高出塁率(.537)など数多くの打撃部門のタイトルを手中に収め、9年間のプロ期間でMVPはじめベストナインやゴールデングラブ賞など、数々の勲章を獲得している。
一旦は引退したものの、再び企業チーム・エイジェックで選手兼ヘッドコーチとして復帰すると、「3年以内に日本一を獲る!」と目標を立て、「全日本女子硬式野球選手権」のみならず「全日本クラブ選手権」「ヴィーナスリーグ」でも優勝し、“3冠”を奪取した。
さらには女子野球の発展を目的に、「女子野球チームが少ない」と選んだ九州の地にて自らクラブチーム・九州ハニーズを立ち上げた。選手としてプレーすることはもちろんだが、選手集めやスポンサー営業、グッズ販売、イベント企画、練習場所の確保、主催試合の運営など、裏方の仕事もすべてこなした。
トーナメントで戦うだけでなく、リーグ戦形式の試合を企画実施して個人の数字を求めたことも、現在の女子野球界では新しく画期的な挑戦だった。
そんなトップランナー・川端友紀選手が現役を退いた。
■最後のワールドカップ決勝戦で本塁打締め
一昨年の開幕前、川端さんは「引退」の決意を胸に抱いてシーズンインしたという。そこには、こんな思いがあった。
「コロナの影響でワールドカップが中止になってしまったときに、今後また開催されることになったら、そこで7連覇して中島梨紗監督を胴上げして引退したいっていう気持ちを強く持っていたんです。中嶋監督は女子プロ野球時代から尊敬する先輩なので。そのチャンスの年を迎えて、『この年、やりきって引退しよう』というのはシーズンが始まる前に決めていました」。
女子野球日本代表である侍ジャパン女子は「マドンナジャパン」と称され、2008年の第3回大会(日本・松山)で初の国際大会優勝を成し遂げて以来、WBSC女子野球ワールドカップ(第6回まではIBAF)ではずっと、その王座を守り続けてきた。
川端さんの言葉にあるとおり、コロナ禍によって予定されていた第9回大会が一時は中止となった。そのとき、日程や形式などさまざまな大会システムの見直しが行われ、その後、同大会は2023年に日本・三次でグループラウンドが、そしてカナダ・サンダーベイにて決勝ラウンドが開催された。そこでマドンナジャパンはみごと優勝し、7連覇を達成したのだ。
第5回大会から連続で代表メンバーに選出されてきた川端さんは、自身最後の大会でもおもに3番打者としてスタメン出場し、グループリーグ5試合すべてで安打を記録。.615(13打数8安打6打点)という驚異的な打率をマークした。
決勝ラウンドでも5試合で3割を超え(16打数5安打3打点)、決勝戦の対アメリカ戦では右越え本塁打を放って優勝に大きく貢献した。
そして念願どおり中島監督を胴上げし、もうこれで思い残すことは何もないとグラウンドを去ったのだった。
■No Baseball No Life
その後、自身が立ち上げた九州ハニーズには完全なる裏方として運営に携わってはいたが、表舞台からは身を引いた。指導者という選択肢もあっただろうが、それは選ばなかった。
「わたし自身、プレーヤーとして野球が大好きなのは自覚があるんですけど、指導者として考えたときに本当に向いているのかなとか、やっていけるのかなという不安があって、一旦、野球から離れていろいろ考えてみたほうがいいかなと思ったんです」。
そこで彼女は野球とはまったく関わりのない世界で、これまで無縁だった職に就いた。
ところが、だからこそ気づいたのだという。
「野球とは関係のない仕事をして、いろんな経験をさせてもらった中で、やっぱり野球の道がわたしには合っているなっていうのを、あらためて実感したんです」。
No Baseball No Life。野球こそ人生だ―。川端さんの中で、はっきりとした答えが出た。
するとそんな折、野球の名門校である神村学園女子硬式野球部から臨時コーチの要請がきたのだ。「なかなか指導者がいなくて困っている」と聞き、二つ返事で引き受けた。
「あらためてグラウンドに行ったときに新鮮さもあったし、離れてみて、野球に関わらない生活というのがなんかちょっと不思議な感じがして…。選手たちが成長していく姿が見られてすごく充実していましたし、教える側の魅力にも気づけたことは、よかったかなと思います。指導者としてやっていこうと前向きになれた、わたしにとっては大きなできごとでした」。
自身の進むべき道が明るく照らされた思いだった。
■父の背中を追い、兄とともに指導者の道を進む
意志あるところに道は拓くというが、川端さんの心が定まったことで、新たなオファーが舞い込んできた。強豪企業チーム・ZENKO BEAMSの助監督というポジションだ。監督はなんと中島梨紗氏である。
「中島監督のもとで、指導者として学びたい」と願ったりかなったりで、新しい出発を決意した。背番号は73を選んだ。かつて女子プロ野球時代に背負ってきた23は女子プロ野球リーグ初の永久欠番にも制定された思い深き番号だが、「ステップアップの意味をこめて、23にプラス50」としたのだという。
すると、奇しくも兄・慎吾氏も同じ番号に決定したと聞いて驚いた。東京ヤクルトスワローズで主力として活躍した兄もまた、昨年限りで20年間の現役生活に終止符を打ち、今年から2軍打撃コーチとして第二の人生を歩みはじめている。
まさか同じ背番号で、本拠地も互いに同じ埼玉県とは…。心強くもあり、縁の深さも感じている。
さらに大きな支えが存在する。川端兄妹を一流選手に育て上げた父・末吉氏だ。元福岡ソフトバンクホークスの黒瀬健太氏、横浜DeNAベイスターズ・小園健太投手(ドラフト1位)、千葉ロッテマリーンズ・松川虎生捕手(ドラフト1位)ら、教え子たちをプロ野球界に送り込んだ名伯楽である。
末吉氏は今も地元で貝塚ヤングの監督として、中学球児の指導にあたっている。今後はまた、これまでと違った視点からも“指導者としての大先輩”にあたる父の教えを仰ぐ。
「私も指導者としてはルーキーのようなものなので、いろいろ父にも教えてもらいながら、本当にいい一年にできたらいいなって思います」。
これまで常に女子野球の発展を考え、行動してきた。その川端さんが指導者として後進にさまざま伝授し育てることもまた、発展に寄与することになる。
女子野球界のレジェンド・川端友紀助監督の指導による次代の名選手誕生が、ひじょうに楽しみだ。
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(撮影はすべて筆者)