学マスを支配する「バトルロイヤル的世界観」と、その打開策
学園アイドルマスターの話をさせてくれ
『学園アイドルマスター』なるゲームをご存知だろうか。
物語の舞台となるのは「初星学園」と呼ばれる、とある学校だ。
そこには「アイドル科」という名のアイドル育成機関が存在しており、「プロデューサー科」に所属するプレイヤーは、そこで学んだ知識を活かして、アイドルたちを成功へ向けてプロデュースしていく。まあ、大まかにはそんな感じだ。
で、どうしていきなり「学マス」の話をするのかといえば、僕はこのゲームが、今の社会を覆う「バトルロイヤル的な世界観」「サヴァイヴ感」を非常に鮮明に反映しており、それゆえにこのゲームを分析することで、現代人の意識規範を明確に捉えられるのではないか、と考えているからだ。
戦闘狂のアイドル達
さいきん、「雨夜燕」という新キャラクタが実装された(実装とはつまり、プロデュース可能となったということです)
彼女は「学園NO.2」というポジションに位置しており、幼馴染でありライバルでもある学園NO.1の「十王星南」にずっと負け続けている。
そのため燕は星南に勝ち、学園のトップを示す称号である「一番星(プリマステラと読む)」になることを決意する。これが彼女をプロデュースする際の大まかなストーリーである。
ただ、ここでひとつツッコミを入れると、そもそも「雨夜燕」と「十王星南」は、アイドルとしてベクトルが全然違うキャラクタなのである。
例えるならば「安室奈美恵」が「CUTIE STREET」をライバル視しているような感じなのだ(変な表現だけども)。確かにどちらもアイドルではあるのだが、彼女たちが武器とする部分は、全然別物である。
そもそも比較できないというか、比較しようがないというか、そういう印象を受ける。「別にそこ、あんまライバル視しなくてもいいんじゃない?」と正直感じたりする。
ただ、学マスにはこの「対決」「バトル」という要素が、あらゆる場面で立ち現れてくるのだ。
例えば学マスの公式サイトで「学園名簿」を開くと、雨夜燕の紹介ページには「この私を並のアイドルと比べるな。私の敵は、あいつだけだ。」という彼女のセリフが記載されている。
「アイドル育成ゲーム」において、「敵」という強い言葉が普通に使用されているのだ。だいぶ物騒である。これは本当にアイドルゲームなのか? などと思わなくもない。
あるいは「花海咲季」の紹介ページにある文言は「わたしは勝負が好き!勝つのが好き!負けるのがだ~いッキラい!!」だし、その妹である「花海佑芽」のセリフは「あたしの夢は、お姉ちゃんに勝つことです!」である。
あらゆる場面で「勝つ」「負ける」「戦う」といったモチーフが登場するのだ。なんというか、みんな好戦的すぎる。戦いが好きすぎる。なんでそんなにバトル意識が強いんだ、と突っ込みたくなる。
アイドルって、そんなに「相手を打ちのめす」要素があるものだろうか…?
しかし、この流れは別に「学マス」に限った話ではない。
『ウマ娘 プリティーダービー』というゲームがある。このゲームも学マスに並ぶ有力コンテンツであり、少し前には映画も公開されている。
その内容は、競走馬が美少女に擬人化された「ウマ娘」というキャラクタたちが一斉にレースを繰り広げ、そしてレースに勝利した少女がライブ時にステージのセンターに立つ権利を得ることができるというもので、一見するとかなり滅茶苦茶な設定である。
しかしこの滅茶苦茶な設定のゲームが、現代においては違和感なく、多くの人間に受け入れられているのだ。これはとても示唆的ではないだろうか。
強化される「サヴァイヴ感」
批評家の宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』において「サヴァイヴ感」という言葉を提示している。
現代において、ネオリベラリズム的な世界観は広く普及し、「誰もが好きなことをしてもよいが、その代わり、生じた結果と責任は100%個人が背負う必要がある」といった認識は当たり前のものとなった。
つまり「自己責任」という言葉から我々はもはや逃れられないのであり、社会や人間関係はどんどんピリピリしたムードをまとうようになっていく。「一度でも失敗したら全てが終わってしまう」といったような感覚、言い換えれば「サヴァイヴ感」が共有される。宇野常寛が主張していたことは、要はそういうことだと私は理解している。
宇野は「サヴァイヴ感」が反映された作品の一例として『バトル・ロワイヤル』を挙げている。学生同士が殺し合いをするというあまりにも野蛮な展開が有名な本作であるが、しかし「学マス」や「ウマ娘」のストーリーも、実はこれらの延長線上にある作品なのではないか。
『バトル・ロワイヤル』をもう少しカジュアルに、ポップにしたものとして学マスやウマ娘があるのだ。根底で両者は繋がっているように思えてくる。
つまり現代人は誰もがみな他者と競い続ける「アイドル」であり「ウマ娘」なのである。常に周囲と戦い続ける必要があるのだ。
社会全体がバトルロイヤルのフィールドなのである。
現代社会においてこのギスギスした険悪な雰囲気は、宇野常寛が『ゼロ想』でそれを指摘した頃よりも、はるかに悪化している。
その大きな原因として、やはりSNSの普及が挙げられるだろう。
Twitterにおいては、すべての事象の評価軸が「いいね!」に還元される。「どれだけ注目を集めたのか」といった結果が数字で明確に現れる。だから私たちは「いいね!」を「稼ぐ」ことを、ある種のゲームのように捉え、そして承認をめぐる欲望を、その中で爆発させてしまう。
常に周りの目を気にして、「こうすれば、もっとみんなから注目される。アテンションが得られる」と自然に考えるようになってしまう。そして「いいね!」が多く得られたものが、結果的に正しいということになってしまう。だからこそ「正義」の名のもとに、あちこちで炎上が発生する。
先に名前を紹介した十王星南というキャラクタには、自分や他者の「アイドルパワー」を推測するという(よく考えると謎の)能力がある。
だからこそアイドルの勝ち負けが決まる(数値化され比較されうる)わけだが、これもTwitterにどこか似たものを感じる。あらゆる事象が、単純な一つの尺度で測られるのだ。その競争から(バトルロイヤルから)我々はもはや逃れることはできない。
打倒、「お姉ちゃん」
さて、ここからは「花海咲季」と「花海佑芽」という二人のキャラクタについて話したい。
名前から推測できるように二人は姉妹である。「咲季」が姉で「佑芽」が妹だ(二人は年子であり、共に高校一年生である)
「あたしの夢は、お姉ちゃんに勝つことです!」というセリフが示すように、佑芽がアイドルを志したのは「姉に勝つため」である。でもこれって、よく考えたらすごい設定だと思う。
「キラキラしたアイドルに憧れたから」とか「ファンの皆に笑顔を与えたいから」とか、そういった要素はどこにもないのだ。彼女がアイドル活動を通して目指すものとは「姉を打ち負かすこと」、それのみである。
しかし、しだいに佑芽は考えを変えていく。
ストーリーが進み、彼女はついにオーディションにおいて姉よりも良い成績を残す。憧れだった姉についに勝利したことで、彼女のアイドルに対する熱は冷めてしまう…かと思いきや、別にそんなことはない。
彼女は「姉に勝ちたい」以外の動機をすでに発見しており(「あたしの……ファンになってくれた人たちが、いるから。」という言葉が象徴的)、これからもアイドル活動を続けることを宣言する。
花海佑芽は姉と競い合っているうちに、自分がアイドルを目指す理由を発見した。…こうして書いてまとめてみると、なんだかありきたりな、平凡なストーリーのように聞こえるかもしれない。
しかし社会を取り巻く「バトルロイヤル的世界観」や、人々が日々感じている「サヴァイヴ感」を相対化するための手段は、結局はそこにしかないだろうとも思うのだ(※1)
宇野常寛は『庭の話』という著作において「制作」の重要性を説いている。「制作」の楽しさは自分一人の世界で完結しており、その喜びを享受する際に、他人と自分を比較する必要はどこにもない。この楽しさに目覚めることで、人々は「他人から自分がどう思われているのか」という(過剰な)自意識から一時的に逃れることができるのではないか。『庭の話』ではこういったことが論じられている。
佑芽がアイドル活動を行う理由は「他人に勝つため」から「自分の願望のため」にゆっくりと変化していった。これは彼女の動機が、宇野が述べる「制作」に(抽象的な意味で)近づいたことを意味するだろう。
もし仮に、佑芽に「姉を倒す」以外のモチベーションがなかったら、彼女はどうなっていただろう。咲季に勝利した段階でやる気を失ってしまい、その後もアイドルとして活躍することは恐らくできなかったのではないか。少なくとも、以前と同じほどの熱量を保つことはできなかっただろう。
花海佑芽は姉に勝利したが、しかしここで燃え尽きることはない。すでに佑芽は、アイドル活動を通して「姉に勝つ」以外の目的を発見しているからだ。
そんな彼女はこれからもステージの上で大きな輝きを放ち、多くのファンを魅了し続けることだろう…(※2)
※1 ちなみに、雨夜燕ルートにおいても似たような展開は存在する。
燕は単に「一位になりたい」という願望だけを抱いていたわけではなく、自身がトップになることにより、星南を一番星のプレッシャーから解放したいという願いがあったことが、ストーリーが進むにつれ明かされることとなる。
※2 しかし、ここまで花海佑芽のことばかり話しておいてアレだが、僕の推しは有村麻央である。曲が一番カッコいいからね。


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