第216話 お父さんと父

―一条愛視点―


 車に乗って、指定されたレストランに向かう。まるで、籠の中の鳥に戻ったみたいね。さっきまでの自由で幸せな時間との落差がすごい。いつもなら雑談をする黒井も察してくれているようで、ただ静かにハンドルを握っている。


 いくつか家族で使っていたレストランの内、中華料理店を指定された。お母さんが大好きだったお店だ。個室もあるから、お父さんも安心して、ご飯を食べることができた。大事な思い出がいっぱい詰まったお店。


 父の車はまだない。私のほうが先に着いたみたいね。


「予約した宇垣です」

 この名字を使わなくちゃいけないのか。懐かしくて、大事なはずなのに、今はどこから鉛のように重い。


 広い個室に、ふたつだけ用意されたイス。

 普通なら、家族団らんの楽しい時間を過ごすはずの場所で、私はひとり父親を待っている。


 重苦しい空気に耐えながら、なるべく楽しかった時代のことを考えようとしていた。でも、少しずつ思い出せなくなっている。特に、父の笑った姿を……母が亡くなって以来、父は笑わなくなっていた。理知的でおだやかな人だった。でも、今は……


 冷徹な復讐鬼そのものに見える。


 後ろで物音が聞こえた。父が来たんだ。

 ドアがゆっくりと開く。まだ、暑いのに、冷気が入ってきたと錯覚するほどの息苦しさと冷たい雰囲気。自分の弱さをかなぐり捨てて、ただ自分の優秀な脳を使って生きている怪物。今の私には、彼をお父さんとは呼べない。だって、私の知っているお父さんとは違い過ぎるから。


 大好きなお父さんの皮を被った怪物が、ゆっくりと目の前に座った。彼はポケットにしまったペンを押さえていた。


「久しぶりだな、元気だったか」

 まるで、自分を見ていないかのように、儀礼的な言葉。


「はい」


「そうか」

 私たちの親子のようには見えない会話は、ここで途切れて、重い沈黙が続く。


「何を食べますか?」

 その沈黙に耐えられずに、私はメニューを開いた。

 

 在りし日の父は、いつも笑顔で先に私にメニューを選ばせてくれた。常に、私の好きなものを覚えていてくれたし、そこに、母の好物もしっかり注文するさりげない優しさもあった。でも、今は……


「好きに食べるといい。私は、このあと会合があるから軽食にする」

 

「そう、ですか」

 私との食事の予定を自分から立てておきながら、この後の仕事の予定を優先する気なんだ。どこかでショックを受けている自分がいた。昔のお父さんなら絶対にやらないであろう行為。そして、どこか投げやりに言われた言葉。こんなに近くにいる父親が遠くにいる。心の距離は、一切、埋まっていない。


「ずいぶん、大きな話題になっているな、学校のいじめ問題は」

 思わずドキリとする。彼はどこまで知っているのか。今回の食事の本題は、まさか英治センパイ?


「はい、学校でもその話題で持ちきりです」


「学校始まって以来の大不祥事だ。お前を、あの学校に進学させたのは、失敗だったかな。経歴に傷がついてしまっただろう」

 

「……っ」

 思わず息が苦しなる。そんな単純なことで、私の大事な場所を貶めないで。私が、あの学校以外の場所に進学していたら……


 たぶん、私は……

 

 思わず父をにらむように見て、あわてて表情を戻す。


 これは、もしかしたら、罠? 私を動揺させるための。いじめ問題だって、父の情報網をもってすれば、ほぼすべての捜査情報を握っているはず。


 父は、何も言わずに、ただこちらを見つめていた。まるで、すべてを見通しているかのように。


「まぁ、いい。また、明日からしばらく忙しくなる。顔を出せないから、何かあったら黒井にでも相談してくれ」

 その言葉の後から、ほとんど無言の食事が続いていった。


―――――――――――

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