「性別は二つ」でない 歌手のノンバイナリー公表から知る味方の言葉
Re:Ron連載「ことばをほどく」第15回
音楽グループ「XG」のメンバーであるCOCONAさんが、先日AFABのトランスマスキュリン・ノンバイナリーとして、グループ公式のインスタグラムアカウントを通じてカミングアウトされた。
本来の自分とは異なる人間を装い続けるというのはどこか常に自分自身を否定する感覚とともにあるもので、そうした装いをやめ、自分自身として生き始めるというのは、勇気を伴いつつも祝福すべきことであると、私自身の経験を通して感じている。だからまずは「おめでとうございます」と言いたい。
ところで、この報道を通じて「AFAB」という言葉に初めて触れたというひとも多いのではないだろうか。また、「トランスマスキュリン」のような言い回しも、なじみがなく思われたかもしれない。
■「割り当てられた性別」
「AFAB」は「assigned female at birth」、すなわち「出生時に女性という性別を割り当てられた」を意味する省略表現だ。ほかにも「AMAB」=「assigned male at birth」、すなわち「出生時に男性という性別を割り当てられた」という言い回しや、それらを包括するカテゴリーとして「assigned gender at birth」、日本語にすると「出生時に割り当てられた性別」という表現もあり、こちらは「AGAB」と略される。この表現に代えて「assigned sex at birth」を用いる場合もあり、主に医療の文脈で見かける。まれに「ASAB」と略されることもあるが、「AGAB」に比べると目にする機会は少ない。
「AFAB」や「AMAB」のような略語は、私の感覚では比較的最近使われるようになったものだ。私の世代だと、例えば「FtX」=「female to X」や「MtF」=「male to female」のような略語を、私自身はあまり使わなかったものの、よく見かけた。前者はAFABのノンバイナリーのひと、後者はAMABの女性をおおよそ表している。ただこれらの表現は、おそらく「かつて女性で、いまはノンバイナリー」というような、さも事実として女性であったことがあったかのようなニュアンスを帯びている面もあったからだと思うが、最近は見かけることが減った。
「AFAB」や「AMAB」は、本来的にはトランスジェンダーであろうがシスジェンダーであろうが、出生時に女の子か男の子に分類されたことのあるすべてのひとに当てはまる表現だが、現在主に流通しているのはトランスジェンダー/ノンバイナリーを中心としたコミュニティーにおいてである。ただ、その流通具合はなかなかのもので、ゲームなどのサブカルチャーにも登場することがある。
たとえばインディーゲームながら大ヒットし、フォロワーを多く生み出した「Vampire Survivors」(バンパイア・サバイバーズ)というゲームがあるが、ここで登場するジオヴァーナという魔女のキャラクターは、作中に「assigned Mage at birth」であると説明されており、これは略して「AMAB」でありながらユーモアを利かせて「male」ではなく「Mage(魔法使い)」とすることで、ファンタジー的な世界観の表現ともなっている。「mage」自体が男性の魔法使いを意味するわけではないが、作中では「witch(魔女)」と対比されるとともに、「AMAB」を想起させる表現が用いられていることもあり、英語圏ではトランスジェンダー女性のキャラクターとして認識されている。
ところで、「割り当てられた性別」とはどういうことだろうか?
以前はトランスジェンダーやノンバイナリーの人々のありようを説明するのに、「体の性別と心の性別が異なる」と言われることがあった。これはその表現が現れた当時にはトランスジェンダーやノンバイナリーの人々の存在を説明する重要な言葉であったに違いないが、現在では次第に使われなくなっている。いまでは「出生時に割り当てられた性別と一致しないジェンダーアイデンティティー/性自認/性同一性を持つ」という説明が多くなっている。
だとすると、「割り当てられた性別」とは「体の性別」の丁寧で配慮のある言い換えなのだろうか? ある意味ではそうだと言えるかもしれないが、「単なる言い換え」ではなく、重要な見方のシフトを伴う言い換えであるということは意識する必要がある。
■「割り当て」言葉をめぐる歴史
つまり、「割り当てる」という社会実践に焦点が当たっているのである。「体の性別」や、ときに用いられる「生物学的性別」では、こうした観点は必ずしも含意されない。
まずは歴史的なところから確認してみよう。南カリフォルニア大学で法学の教授を務めるジェシカ・A・クラークは、「出生時に割り当てられた性別(sex assigned at birth)」という語の歴史と現代における意義をまとめた論文を発表している。それによると、「出生時に割り当てられた性別」という表現の誕生は1950年代にさかのぼる。意外なことに、これは「ジェンダーアイデンティティー」という言葉の誕生よりも早い(「ジェンダーアイデンティティー」は1960年代にロバート・J・ストーラーが使い始めた)。もともとは性分化疾患ないしインターセックスの子どもの医療について語る中で登場した。出生児が外性器や内性器の形状などに基づいて典型的な女児や男児のいずれにもはっきりと分類しにくいことがあるが、当時はその場合であっても一刻も早くいずれかに分類しなければ子育てが難しくなると考えられており、性染色体、ホルモン、内性器、外性器、将来の成長や予想される生殖能力などを鑑みて総合的に性別が判定されるようになっていた。
医師たちによるこのプロセスが「割り当て」と呼ばれていた。
他方で、トランスジェンダーの歴史の文脈では性別に関与する身体的な特徴を変更する手術が古くから知られていた。多分にゴシップ的な真偽不詳のうわさではあるが、古代ローマのネロ帝がAMABの恋人を手術する医者を探していただとか、同じく古代ローマのヘリオガバルス帝が自身の手術を望んでいただとかという話が残されているようだ。
現代的な手術が広く知られるようになったのは、アメリカのクリスティーン・ヨルゲンセンの性別移行が広く報じられた1950年代のことだった。そうした手術について語られるなかで、1960年代にsex reassignment surgeryという表現が現れるようになる。現在では「性別適合手術」という訳語が一般的だが、ときに「性別再割り当て手術」と訳されることもある。ここで「reassignment」、すなわち「割り当てのやり直し」という語りかたが現れ、性分化疾患やインターセックスとは見なされないひとも含めて「性別の割り当て」という概念が用いられるようになった。
アメリカ精神医学会による『精神疾患の診断・統計マニュアル』では、1987年の第3版において当時で言う性同一性障害を割り当てられた性別とジェンダーアイデンティティーの食い違いをもとに記述するようになった。それと前後してトランスジェンダーの人権運動の文脈にも取り入れられていき、「出生時に割り当てられた」という表現はいまでは広く使われるようになっている。以上がクラークの紹介する「出生時に割り当てられた性別」の歴史を再構成したものだ。
■「性別」という概念の多義性
さて、「割り当て」という言葉を理解するうえで重要なのは、それが主に医師たちの合意や判断と必要に応じた届け出という社会実践であるという点だ。
これは「性別」という概念のそもそもの多義性に関わっている。「性別」という概念は、ときに性染色体のタイプ、すなわちXXかXYかという分類を表すのに用いられる。「女性は性染色体がXXで……」と語られるのはこの用法だ。
他方で、内外の性器の形状をこの言葉で表すこともある。これらは主に身体的特徴の話であるが、性別は社会的な分類を表すこともある。たとえば戸籍に記載される情報は、必ずしも性染色体や性器の形状とは対応していない。しかし、たとえば同性婚が認められていない現在の日本では、誰と婚姻関係を結べるかといった社会的な位置づけに関わる役割を担っている。また、各種の身分証で記載されている情報もある。それに加えて、人間関係のなかで置かれる位置づけとしての性別もある。これは周囲からどの性別として認識されているかなどに関わり、単にすれ違うひとによるパッと見の判断が重要になる状況もあれば、これまでの交友関係が重要となる友人同士の状況などもあり、さまざまだ。そしてこれらに加え、当人の経験する性別、すなわちジェンダーアイデンティティーもある。
割り当てという実践は、「性別」という概念のこれらの多義性をいわば一点に凝縮し、出生時に書き込む作業だ。基本的には出生時の性別は外性器の形状に基づいて判定されるが、それが難しい場合にはすでに述べたようにより広範な情報が参照されることもある。
そしてこれは単に性器の形状の分類をしているわけではなく、その分類に基づいて戸籍に情報を記載し、その情報をもとにその後の身分証や学校などにおける位置づけが定められ、婚姻の可能性などについても一定の方向づけが与えられることになる。赤ちゃんの性別を女の子と男の子の2通りのいずれかに分類するというのは、単に身体的特徴のみに基づくなら理論的にも歴史的にも必然的なことではないというのはよく指摘されるが、二分法を基礎に設計されている社会においては二分法的な分類がおおむね必須となっている(ただし、たとえば日本では出生時には性別未確定として届け、のちにいずれかを決定するということも可能である)。
これが単なる身体の形状の分類ではないというのは、家族法学者・家永登の紹介する1991年3月13日の札幌高裁決定における判決文にも見て取ることができる。そこでは、医師たちは出生児の性器の形状や性染色体のタイプに加え、将来的な性的機能やより幅広くその子の今後の幸福に関する予測も加味して、性別の分類をおこなっているという記述が見られる。
■「割り当て」を哲学で見ると
私はこのあたりを推論主義と呼ばれる哲学的立場をもとに理解している。
推論主義によれば、言葉の意味は「何に適用されるか」と「そこから何が引き出せるか」という両面から理解される。「体の性別」と「割り当てられた性別」の違いはこの後者における違いとも言うことができる。
それらの適用のされ方は、おそらくおおむね同じだ。要するに生まれたときに身体の形状を医師が確認して女の子に分類したという者は、「体の性別」であれ、「割り当てられた性別」であれ、「女性」と呼ばれるだろう。しかし「体が女性」と「女性を割り当てられた」では、そこから引き出せる結論が異なってくる。「体が女性」であれば、そこから自然と導かれるのは身体的な特徴や身体的な機能に関する情報だろう。
「女性を割り当てられた」と語るときには、そのひとを女性に分類するという医師による判断や、その分類を受けたために生じるその後の社会的取り扱いに関する帰結を引き出すのが自然である。
Netflixのドキュメンタリー映画『トランスジェンダーとハリウッド』で具体例とともに示されているように、トランスジェンダーやノンバイナリーの人々は、シスジェンダーの人々に比べてもともと性器についてずけずけ聞いたり、場合によっては実際に触れたりといったことをしていい存在と見なされる傾向が高い。2022年にピクシブ社の社員であったトランスジェンダーの女性が上司によるセクシュアルハラスメントを訴えた事件があったが、そこでも上司から陰部に顔を押し当てられるなどの被害を受けたという証言がなされていた。
「体の性別」のような言い回しは、体に性別が備わっているという観念をもとに、特に性器に関するイメージを喚起するものとなりがちだ。「割り当てられた性別」への言い換えは、一つにはそうしたトランスジェンダーやノンバイナリーの人々に対する性的な視点を助長しない工夫とも言えそうだ。
これに加えて、先述のクラークは「体の性別」や「生物学的性別」がこれまで一貫した定義で運用されておらず、レズビアンやゲイも含めて(というより場合によってはレズビアンやゲイをターゲットにして)、性的マイノリティーの人々の排除に用いられてきた歴史があると述べている。
「体の性別」に代わって用いられているのが「割り当てられた性別」ならば、現在「心の性別」に代わっているのは「ジェンダーアイデンティティー」である。こちらに関しては「割り当てられた性別」に比べるとすでによく知られていると思うが、簡単に説明したい。ただ、多くの概念や言葉で起こりがちなことだが、この用語についても当事者や専門家のあいだで理解がいくらかずれることがありうるため、誰かの文章を読んだり発言を聞いたりする際には文脈に照らしつつ解釈を修正するようにしてほしい。
■「心の性別」に代わるジェンダーアイデンティティー
ジェンダーアイデンティティーは、ざっくりいうと「自分自身の性別をどのように認識しているか」と説明されることが多い。ただ「認識」というのはややあいまいな表現で、あまり実態を捉え切れていないように思う。
青年期のジェンダーアイデンティティーの発達について研究するトマス・D・スティーンズマらは、ジェンダーアイデンティティーをアイデンティティーという概念から説明しており、これが比較的わかりやすいだろう。
私たちは思春期にアイデンティティー(自己同一性)を形成していく。これは要するに自分が何者であるのかという自己イメージであり、もっと言えば自分が誰と同じで誰と異なるかという自己理解である。アイデンティティーには、例えば自分自身の価値観や自分がどのような年代に属しているかや、自分のナショナリティーとは何かといった多様な側面がある。私は日本で1980年代に生まれた人々に一定の同族意識を持ち、「同じ時代、文化を知っているひとたち」と認識し、シンパシーを覚えるが、これは私自身の自己理解と関わっている。そうしたアイデンティティーの中には「自分はどの性別か」という側面もあり、それが「ジェンダーアイデンティティー」と呼ばれる。
ジェンダーアイデンティティーというトランスジェンダー専用の何かがあるというより、「一般的に人々が青年期に形成するアイデンティティーというものがあり、そして多くのひとはその中に性別に関する自己認識も持っており、それがジェンダーアイデンティティーだ」という説明のほうが、少なくとも私が関連する文献を読んだり、ほかのひとたちと会話をしたり、あるいは自分自身の経験について思い返すときにはしっくりくる。
「性別に関するアイデンティティーとは?」という問いには「性別(ジェンダー)」自体のわかりにくさもあり、さまざまな立場があり得る。私と近い分野のひとたちのあいだで最近注目されているのは、社会規範との関係のもとでジェンダーアイデンティティーを理解する立場ではないかと思う。ともあれ、ジェンダーアイデンティティーに関する語りを普通に把握するうえでは、込み入った哲学説に踏み込む必要はないだろう。
多くのひとは、出生時に割り当てられた性別に即したジェンダーアイデンティティーを形成する。もちろん、そこに葛藤がないという意味ではない。女性と見られることへの違和感や男性としての振る舞いを期待されることへの嫌悪感が生じることもあるだろうが、ともあれ自分は女性ではある/男性ではあるという自己イメージで安定したならば、そのひとは女性/男性としてのジェンダーアイデンティティーを形成していると言えるはずだ。出生時に女の子か男の子かに分類され、女の子や男の子としての社会的分類に即した幼少期を経て、ときに葛藤や違和感、嫌悪などを持ちつつも思春期を経て自分は女性、男性であると理解するようになったひとが、一般的に「シスジェンダー」と呼ばれている。
■「ノンバイナリー」=「非二分法的」
しかし、誰もがそのように自己形成するわけではない。
なかには出生時に割り当てられた性別と食い違うジェンダーアイデンティティーを形成したり、そもそもジェンダーアイデンティティーを形成しなかったりということがありうる。前者のなかには割り当てられた性別とは違うものの女性や男性としてのアイデンティティーは持つというひともいれば、両方を部分的にアイデンティティーとするひとや、帰属意識の揺れ動きを自身のあり方として経験するひともいる。トランスジェンダーやノンバイナリーといった人々の多くはこうしたアイデンティティーの持ち方をしており、女性か男性かという二分法に適合するひとは「バイナリー」(「二分法的」を意味する)、それに即さないアイデンティティー形成をおこなっているひとは「ノンバイナリー」(「非二分法的」を意味する)と呼ばれる。ジェンダーアイデンティティーの形成については、遺伝的要因、胎児期のテストステロン暴露量、性染色体の働き、妊娠者の免疫反応など、いろいろな生物学的要因が指摘されているが、はっきりしたメカニズムはわかっていないようだ。
一般的に、ジェンダーアイデンティティーとそのひとのジェンダーの表現は必ずしも一致しない。男性的とされる服装や振る舞いを好む女性や、女性的とされる服装や振る舞いを好む男性はありふれている。当然ながらノンバイナリーの人々のあいだでも、特に男性的な表現を好むひとや、女性的な表現を好むひとが存在する。トランスジェンダーの男性とAFABノンバイナリーで男性的な表現を好むひととは、アイデンティティーにおける違いはありつつ、一定程度の経験を共有することがある。
「トランスマスキュリン」のような言葉はトランスジェンダーの男性も男性的な表現を好んだりどちらかというと男性寄りなアイデンティティーを持ったりしているノンバイナリーのひとも包括する言葉として用いられている。対応する言葉の女性版は「トランスフェミニン」だ。トランスマスキュリンにAMABで男性的な表現をするノンバイナリーを含めるか否かなどは、ひとによって考えが分かれていて、そこまで意見が一致していないように見える。
■言葉を使ってみるというメッセージ
これらの用語や概念は込み入ってややこしく思えるかもしれない。なんでそんな変な言葉を使うのか、理解してもらう気はないのか、そんな言葉を自分も身につけないといけないのか、ともやもやするひともいるだろう。
ただ、避けられる言葉には避けられるだけの理由と歴史があり、好まれる言葉には好まれるだけの理由と歴史がある。
それは「体の性別」と「割り当てられた性別」の比較で述べたような事情であることもあるし、AGABや「トランスマスキュリン」のような概念を用いなければ自分が何者であるかを十分に言い表せないといった事情であることもある。
それらを、トランスジェンダーやノンバイナリーの人々が経験している通りにシスジェンダーのひとが理解できるわけではないかもしれない(というか、トランスジェンダー同士でも当たり前に食い違ったりする)。外来語が多く、そもそも頭に入らないかもしれない。それでも、ひとまず言葉を使おうとしてみるということはできるだろう。
そうした言葉で自分を表現しなければならないと思っている人々にとっては、そうでない人々が、本人には必要でないにもかかわらずそれらの言葉を使おうと努力することが、ひとつのサポートとして経験されることがある。「体の性別」から「割り当てられた性別」に語りかたをシフトさせることは、すでに述べたようにトランスジェンダー/ノンバイナリーの人々に向けられる偏見と闘うひとつのやりかただ。
だから、もしCOCONAさんの報道などをきっかけに、トランスジェンダーやノンバイナリーの人々の味方になりたいと思ったひとがいたら、あるいは以前からそう思っていたけれど何をしたらいいのかわからないと思っているひとがいたら、まずは言葉を使おうとしてみるということがよい出発点になるかもしれない。
自分のかばんにレインボーフラッグのピンバッジを付けたりするのと同じように、それは「私はあなたたちが存在していることを知っています」というしるしにもなりうる。
**参考文献**
【性別の割り当てを巡る歴史】
・J. A. Clark (2022) “Sex Assigned at Birth,” Columbia Law Review, 122: 1821-1898.
・マイケル・ブロンスキー著、藤崎百合訳、清水晶子日本語版監修(2025)『LGBTQ+の歴史』(河出書房新社)
【性別の割り当ての実践】
諸橋憲一郎(2022)『オスとは何で、メスとは何か?』(NHK出版新書)、サラ・S・リチャードソン著、渡部麻衣子訳(2018)『性そのもの』(法政大学出版局)など
・家永登(2017)「性別未確定で出生した子の性別決定」『専修大学法学会』、1-54
【ジェンダーアイデンティティー】
・Thomas D. Steensma, Boudewijntje P. C. Kreukels, Annelou L. C. de Vries & Peggy T. Cohen-Kettenis (2013) “Gender Identity Development in Adolescence,” Hormones and Behavior, 64 (2): 288-297
・Rach Cosker-Rowland (2023) “Recent Work on Gender Identity and Gender,” Analysis, 83 (4): 801-820
・Katharine Jenkins (2023) Ontology and Oppression: Race, Gender, and Social Reality, Oxford University Press.
みき・なゆた 1985年、神奈川県生まれ。哲学者、大阪大学大学院講師。専門はコミュニケーションと言語の哲学。単著に『言葉の道具箱』『言葉の風景、哲学のレンズ』『言葉の展望台』(講談社)、『会話を哲学する』(光文社)、共著に『われらはすでに共にある 反トランス差別ブックレット』(現代書館)など。
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- 【視点】
記事の最後で三木先生がおっしゃっている「まずは言葉を使おうとしてみるということがよい出発点になるかもしれない」というコメントに勇気づけられました(当事者でもないのに勇気づけられたという表現でいいのか悩みますが)。当事者にとって大切な概念だと思えばこそ、自分には使う権利はない、容易に使ってしまってはいけない、と思うような人もきっと多かろうと思うからです。 周囲から「めんどくさいな」と思われるような概念/言葉だとしても、そういう新しい言葉でしか自分の立ち位置や在り方を表明できない、というようなことって、ジェンダーアイデンティティに限らずほかにもあるよなと思います。そういう言葉を、すぐに使うのが難しいとしても、まずは知ろうとしてみる、ということなのかなと思いました。 知ることで、「あっ、自分もそうかも」と思えることもあるかもしれないし、男か女か二つしかない性別に合わせる必要もないよなと思えて、ちょっと楽になれるかもしれない。目の前の相手を理解することにもつながるかもしれないし、案外、自分の内面の奥深さに気づくことになるかもしれません。 私の場合は、娘がXGをよく聴いていて、共通の話題があると娘とコミュニケーションしやすくなるから、というのがきっかけではあるですが、COCONAさんの語りに、より注目してみたいと思います。
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