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本ブログ記事は、前回の記事、
「べナセラフのジレンマ第一の「角」について(1)」 の書き直し(の第一弾)である。 |
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(2018/11/5)
以下の、このブログ記事の本体部分は、2018年11月4~5日にかけて、書き直しました。諸事情から、10月14日に投稿したオリジナルの文章を保存しそこねましたが、4日の改定が終わった時点のバージョンを、記録として残しておきました。 |
某事情から、最近、ベナセラフの『Mathematical truth[数学的真理]』(1973)を改めて読んだ。そして、いわゆる「ベナセラフのジレンマ」の一つ目の「角horn」、つまりその「意味論的関心semantic concern」に、改めて、非常な感銘を受けた。
この「第一の角」は、その解釈の議論が分かれるであろうことは予想に難くない。感銘を受けたのは、これを次のような壮大な要請であると解釈した上でのことである: 「哲学的世界観」においては、数学的命題の真理条件を定める理論は、数学外の記述的命題の意味論(真理条件を定める理論)と均質的であるか、さもなくば、均質ではない数学内外の「真理の理論」がそれでもなお「同じく真理に関する理論であること」を保証するような、両者を橋渡しするメタ理論を伴わなければならない、とする要請。
ここで「哲学的世界観」ということばは、ベナセラフ本人の次の言葉を特に重要視するものである。
… [A]lthough it will often be convenient to present my discussion in terms of theories of mathematical truth, … what is really at issue is our over-all philosophical view. (p. 663) (太字強調は安田。)
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* 【第二の角の「壮大」な解釈について】
このラインで「第二の角」を把握すると、そしてベナセラフ(1973)自身は数学「内外」の認識論上の統一性をあくまで「因果的認識論」の枠組みの中で求めていることを加味すると、「数学的知識」についてのベナセラフ(1973)の意見とは、要するにこれを先験的知識とか(ゲーデルのように)なにやら超自然的な「直観作用」によってもたらされる知識とみなすことを初めから論外視する立場からの、認識論一般に対する提案であることになる。つまり、伊藤邦武氏の指摘するように「分析哲学の支柱ともいうべき経験主義的認識論を基礎にして」(『プラグマティズム入門』p. 229)、その上で、「数学的知識は今やこの基礎の上で、認識論一般の文脈と地続きの関心の中で再検討されるべきだ。そうしよう」と提案するものである。今回のブログ記事シリーズで私がベナセラフに(もしかしたら過剰自己投影かもしれないが)帰するつもりの「自然主義的」解釈も、まさにこの線にそったものである。* ただし、このように「壮大な」レベルで解釈された「第ニの角」は、(その発信者であるベナセラフ自身にどこまで自覚があったかは別にして)それ自体は必ずしも分析哲学の伝統における標準的な理解での認識論の枠内で「数学内外の'認識論'の統一性」を求めることを要請しない。後述するように、同じように「壮大に」解釈された「第一の角」も必ずしも分析哲学の伝統における標準的な理解での意味論で「数学内外の'意味論'の統一性」を求めることを要請しないのと同じである。そして私自身は、「ベナセラフのジレンマ」をこのような壮大な二つの要請から生まれるものと解釈した上で、結果的にこの「ジレンマ」は意味論・認識論の両方における「分析哲学の伝統における標準的な理解」そのものの再検討をうながす、そのことにおいて「自然主義的」なものだ、とも解してる。この「ジレンマ」を今、再評価しようとしている。
** 補足すると、上記引用部分の後に続く一文は、実は上述の「一般的読み方」を助長するものになっている。
I will argue that, as an over-all view, it is unsatisfactory ----- not so much because we lack a seemingly satisfactory account of mathematical truth or because we lack a seemingly satisfactory account of mathematical knowledge ----- as because we lack any account that satisfactorily brings the two together. (下線強調は著者自身(原文では斜体))
このように、これだけに気を取られすぎると、強調される「as an over-all view」というフレーズが「数学的真理」の理論と「数学的知識」の理論の整合性を言っているだけのようにも聞こえる。だが、その程度のことを言いたかったのなら、その前の文の帰結部分(安田太字の部分)は「our over-all philosophical view」ではなく「the coherence between our accounts of mathematical truth and mathematical knowledge」でもいいし、「our over-all view of mathematics」でもいい。だが、繰り返すが、序文全体が強調しているのは数学の「内外」の現象を説明する際の統一性、数学に対する哲学的関心をその他の人間現象に対する関心と地続きで捉える態度である。「ベナセラフのジレンマ」をいわば数学哲学の「内部の問題」であるかのように解する風潮が定着している現代ではこの一文はとりわけ誤解を招きやすく、せっかくの序文の補完を台無しにしかねないものであるが、このときのベナセラフはまさかここまで序論の補完を無視する読み方が定着するとも思わず、ちょっと不用意な表現になってしまった、、、というあたりではないだろうか。
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今回この序文を私はこのように「本論の議論を補完するもの」として解釈し、その締めのあたりに出てくる「over-all philosophical view」というフレーズの意味するもの、つまり、「ジレンマ」の二つの「角」の双方を同時に満たすことを要求されているひとつのもののことを、あえて「哲学的世界観」と読んでみた。実は、このフレーズを、私は次のセラーズの言葉も重ねて読んでしまったからである。
The aim of philosophy … is to understand how things in the broadest possible sense of the term hang together in the broadest possible sense of the term.(『Philosophy and the scientific image of man』の冒頭の言葉。)
「第一の角」の話にもどる。すでに示唆したことだが、きちんと説明すると、冒頭に示したのはこれの「壮大な」解釈であり、この解釈では「第一の角」それ自体は必ずしもタルスキ的な指示型意味論にこだわるものではない。「数学的真理の理論」どころか、数学外の日常的な真偽言明についての意味論すらも、そのような意味論で解することを要請しない。繰り返すが、これが要請するのはひとえに、真偽主張的なつまり記述的な言明の'意味論'の数学の「内」と「外」での連続性というか統一性である。私はこの意味での「第一の角」に、今回、非常に感銘受けた。なぜかというと、(これもすでに示唆したが)これをこのレベルで解釈することで我々は、要請される'意味論'の統一性を、タルスキ的な指示型意味論(分析哲学における標準的意味論)自体をそもそも論のレベルで退けることで得る、という可能性を選択肢の中に持つことになるからである。「そもそも論レベルの否定」とは、言い換えると、多くの数学者・メタ数学者が通常「意味論」なることばでそもそも理解するもの、それ自体の否定にまでその帰結が及びうる、そのような否定である。この「そもそも理解」とは、後期ウィトゲンシュタイン含め多くの分析哲学者がすでに「俗論的folk-theoretical」と評してきたにも関わらず、その有力な代替案が未だに提案されぬまま、デファクトで標準の座を占め続けているものである。少なくとも、数学基礎論、、、というより、「数学語の意味論」とか「数学知の認識論」とでも呼ぶべきような知的関心の分野にとってこれの本格的代替案足りうる「意味論」理解は、私の知る限りではまだ提案されていないと思う。というのも、この伝統的・俗論的な「『意味論』のそもそも理解」とは、統語論/意味論/語用論という言語学の標準的な三分類の枠組み、すなわち、言語の統語論を(基本的に)「その意味論の付与に先行独立して同定ないし規定しうるもの」とし、意味論を(基本的に)「語用論の考察に先行独立して付与しうるもの」とする、そのような基本的な枠組みを前提にするものだから、である。(そして、注意すべきは、この伝統的・俗論的枠組みにおいては、意味論の付与は、なんらかのメタ言語 ----- それがどんなものかは通常は厳密には語られず、しかしこの枠組みを成立させる上で非常に重要で「便利」な役割をコッソリ果たしているもの ----- を介して行うもの、と理解されている、そのことである。後でこの点にはまた触れることになる。)この枠組み自体がまさしく指示型意味論の前提となっていることは明らかだが、これを問題視する議論に、私個人は、少なくとも「数学語の意味論」とか「数学知の認識論」と評しうる文脈では、耳にしたことがない。「第一の角」のこの壮大な解釈は、分析哲学の伝統的な「意味論」理解をこの標準的な三分類の枠組みから根こそぎ、ゴッソリと、なんらかの超越論的な* 観点から俯瞰して相対化することを促している、と、そう言えるものかもしれない。(著者ベナセラフの意図はどうであれ、結果論的には。)(実は、「第一の角」の要請を「'意味論'の統一性」と表現する際に、こうして'意味論'という言葉に引用符を被せて距離をとっているのは、こういう事情による。)そうだとすると、このことの意義はいよいよ大きい。
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* 【「超越論的」という語について】
ここで「超越論的」という語は、「認識主体としての『我々』の『立ち位置』を俯瞰で見る」というような意味で用いられている。私の勘違いでなければ、カントも基本的には同じような意味でこれを用いていると思う。ここでの「超越論的」という語には、それ以外の意味や示唆は一切含まれない。カント以降、この言葉はきっといろいろな使われ方をされてきた歴史を持つと思うが、カント以外の「超越論」には私は一切予備知識がなく、それらへの示唆はとくに、全くないことを明記しておく。 (注:この注には後に補足追記が加えられている。) |
この標準的な三分類の枠組みは、言語とその使用者たる「我々」のことを、「言語とは『我々』個々人が獲得し使用する所与の表象記号体系である」と関係づけて理解する、一種の共時的な言語観と「我々」観を前提にしている。どういうことかというと、(「共時的な言語観」の方はいったん措いておくとして)まず、「共時的な『我々』観」というのは、「我々」個々人を経時的同一性chronological identityをはじめから有する自立的存在(言い換えると、言語獲得すなわち言語コミュニティへの編入・参加に先行独立してこれを有する自立的存在)とみなし、そのような経時的・自存的存在である個の偶発的あつまり(偶然同じ言語を話すこととなった個体の集まり)として「我々」をみなす「我々」観のことである。そして、「我々」自身をこのように相互に独立な個の偶発的あつまりと見なすことは、結果的に、言語と「我々」の関係を言語と「我々」個々人との間の個別関係、というミクロの文脈において理解することを引き起こす。(言語と「我々」全体=言語コミュニティ(という生態学的全体)との関係、というマクロの文脈ではなく。)その結果、言語と「我々」の相関関係もまた、相互に独立な経時的・自存的存在同士の間の偶発的関係と見なされることになる。いうなれば、言語を「我々」個々人にとっての所与とみなし、その結果、「我々」個々人のこともまた言語にとっての所与であるとみなす「言語と『我々』」観である。被関係項(言語および「我々」個々人)の存在が、それらの間の関係の成立・非成立に先行独立し、経時的同一性を持って継続しながら偶発的に関係性を取り結んだり解消したりする、というような認識パターンを踏襲する、その意味で共時的な、つまり、いわば無時間化された「言語と『我々』」観である。ここでそのような言語観と「我々」観をつないでいるのは、これもまた共時的な(=無時間的な)表象観とでも呼びうるものである。あるいは素朴な、その意味で啓蒙主義的な表象観といってもいい。* 端的に言えばこれは、表象主体と表象対象の間に生まれる表象関係を(時間的な)因果関係とは明確に区別する表象観である。私の見るところ、ここにもやはり共時的と評せるような、つまり、前述の共時的な《言語観と「我々」観の相補的な対》と相補的に関係するような《表象観と因果観の相補的な対》がある。こちらの対は、一方で「表象関係を因果関係の言葉で還元的に説明する」ことを目指すような「『心』の自然化」運動を動機付け、もう一方で「そのような還元的説明は絶対成功しない。なぜなら、そのような因果関係の言葉では肝心の被説明項である『表象関係』に言及しえないから。」という「『心』の自然化」の不可能性テーゼも動機付ける、そのようなものである。** こうして時間的な因果観から切り離された共時的・無時間的な表象観は、「我々」のことを「世界の単なる傍観者」("a mere onlooker or spectator of the world"、デューイの『Democracy and Education』の25章の言葉)と見なさせるようなものであるが、さらに加えると、同様な意味で共時的な知識観や知覚観ともセットになっている。(《表象観と因果観の相補的な対》にこれら知識観・知覚観も含めたこのセットこそが、先ほど私が「分析哲学の伝統における標準的な理解での認識論」と評したものの核をなす。後でまたこの点にふれる。)このように、指示型意味論の背後には、一定の言語観を中心に、さまざまな(共時的)○○観が互いに互いを前提しあって形成するような、暗黙の「哲学的世界観」が見て取れる。タルスキの指示型意味論がその一部の明示化をなしている、と評せるような、いわば暗黙の「共時的世界観」である。「ベナセラフのジレンマ」の壮大な解釈が求める'意味論'の統一性は、この「共時的世界観」に描かれた図柄全体を包括的に否定するような、あるいは、「我々」がそのような「世界観」を持ってそれに基づいて日常の言語生活を送っているということ自体を俯瞰で眺める視点によって、その「世界観」そのものの見え方を一新するような、そういう意味で超越論的でコペルニクス的な展開を促すものなのかもしれない。そしてそのような展開は、例えば、ある種の通時的言語観を中心とする「通時的世界観」の観点から、超越論的俯瞰の態度で、「真理」や「表象」などの概念の素朴で啓蒙主義的な、共時的な理解の仕方(それすなわち、狭い意味での「ベナセラフのジレンマ」の最深度の基底前提をなすもの)を見直すことで初めて得られるものかもしれない。また、このような展開は、その先でさらに時間・空間についての「何たるか」の問いの再考につながるかもしれない。共時的な《言語観と「我々」観の相補的な対》と《表象観と因果観の相補的な対》の相補的な対、その再考に関係して。。。。
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* ここで「共時的な表象観」としているものを「啓蒙主義的」とも評し「素朴」とも評するのは、私の啓蒙主義批判の一部を表す。ただし、あくまでカントの『啓蒙とは何か』をベースにした啓蒙主義理解に基づくものである。(啓蒙のなんたるかについては、浅学の私の知らない、もっと多様な意見があるのかもしれないので、この点をお断りしておく。)カントのこのエッセイに示される、個人の自立が前面に押し出された「知識」や「責任」等についての考え方(つまり啓蒙主義)に対して、私は実は共感と批判の両方を、いくつかの異なる意味合いにおいて、抱いている。今この文脈では、そのうちの一つの意味合いにおいて、そのような啓蒙主義を「共時的世界観」の一端とみなして、この俗論的な「世界観」一般についていえるそのナイーブさについて批判している。しかし、私が考えるような「通時的世界観」の観点からこの「共時的世界観」を「超越論的に俯瞰」すれば、このような「共時的世界観」こそ「我々」をして「我々」となさしめている、決定的に重要な(生態学的)役割をもつものであることがわかる。(この「役割」については、こちらの拙文に概要説明がある。)この「共時的世界観」の一部の名付けや語りによる明示的イデオロギー化である啓蒙主義にも、この種の「役割」がある点は同様である。つまり、実践面においては、啓蒙主義のこのナイーブさにこそ、その重要な「役割」が宿っており、これを学者が一方的に批判できるものでは、断じて、ない。(そもそも、ある種の自己矛盾を伴わずにはこれを批判する(という言語行為)も我々には出来やしない。)ここで思わず表出させてしまった私の啓蒙主義批判は、実践面ではなく、「『我々』とはいかなる存在ないし現象なのか」という哲学的問いについての理論面におけるナイーブさへの批判である。
** 共時的な《表象観と因果観の相補的な対》については、こちらの拙文(「自然観の思想史からみた現代と本プロジェクト」)にもう少し詳しく解説してある。 |
「第一の角」をこの壮大なレベルで解釈することの意義は、かくも大きい。それは、分析哲学を(明示的レベルで繰り返される批判にも関わらず)相変わらず暗黙知的なレベルで支配し続ける俗論的言語観(この「暗黙知的なレベルでの支配」についてはこちらの拙文に少し説明がある)の改変を、そして言語学という学問のほとんど再定義に近いものまでをも要請するかもしれないもの、ということになる。「ベナセラフはまさにそれを自覚的に意図していた」と主張するつもりはない。率直にいえば、この論文のときのベナセラフは未だに標準的三分類(統語論/意味論/語用論)の枠組みと「共時的世界観」に大きく囚われている、と言わねばならない。と思う。(「このときの」というのは、別にその後のベナセラフは違うと示唆するものではない。単にその後のベナセラフもその前のベナセラフも私はほぼ全く知らないので、念のために付け足しただけの言葉である。)ただ、こうした壮大な要請に答えるような「通時的世界観」(と、今、この要請を知ったあとで自負するもの)を探求・構想してきた私が今回ベナセラフ(1973)を読み直したとき、「第一の角」の背後に、このような壮大な分析哲学批判にも繋がりうる萌芽のようなものを(過剰自己投影かもしれないが)感じてしまい、そしてそれが必ずしも全然根拠のないものでもないように思われた。それで非常に感動してしまった。そういうことである。
次回から、この感動の報告をする。
2018年11月4~5日にかけて改定
To achieve success in philosophy would be ... to 'know one's way around' with respect to all these things, not in that unreflective way in which the centipede of the story knew its way around before it faced the question, 'how do I walk?'
- *(2018/11/24補足):
- 言ってしまえばこれは、私自身の意図においては、このような暗黙知の「共時的世界観」を「超越論的に俯瞰」しようとするものです。「私自身の意図においては」とモッタイつけて言うのは、これが(次の2018/10/23追記で説明する意味での) pseudo-transcendence でしかありえないからです。
「個体のあつまり」という現状認識の本質的に無時間的なとある側面(個体認識が運動の相互独立の認識である以上、そして運動には時間的側面が潜在する以上、潜在的には時間性をもつが、その潜在時間性は一旦捨象されている、そのような側面)
- 「超越論的観念論」を主にイメージしていたこと
この注で「カントも基本的には同じような意味で[「超越論的」という語]を用いていると思う」としたのは、あくまで超越論的観念論(transcendental idealism)の文脈でのこの語の用法を念頭においたものである。この文脈での「超越論的」には、「認識主体としての『我々』の『立ち位置』を俯瞰で見る」という説明は問題なく当てはまる。しかし、後から「カントの『超越論的』はこればかりではなかったはず」と思い出し、ググって、「Kant's Transcendental Arguments」なるSEP記事を見つけたので、確認のため少し読んでみた。そして、『純粋理性批判』には少なくともTranscenental deduction [of categories]や Refutation of idealismのようなメジャーな「超越論的」な議論があったことを思い出した。この注を書いた当時はこの種の「超越論的議論」は念頭になかったものの、これにも「認識主体としての『我々』の『立ち位置』を俯瞰で見る」という説明は概ね当てはまりそうである。というのも、少なくともこのSEP記事による「超越論的議論」一般の概説によれば、この種の議論は、「『我々』の『経験のありよう』を俯瞰で反省し、その『経験』の主体(つまり認識主体)としての『我々』についての何らかの形而上的結論を、その事実(『我々の経験』の事実)の生起の必須与件として得る論法」というふうにもまとめうるので。この他にも「超越論的」という語で形容される何かがカントには(例えば他の『批判』等に)あるのかもしれないが、カント以外の「超越論」同様、それらについては私はまったく無知なので、この注ではそれらはまったく念頭にない。 -
「超越論的」という言葉への両面感情について
実は、「認識主体としての『我々』の『立ち位置』を俯瞰で見る」という説明には、ある種の曖昧さがある。私が「超越論的」という語を使う際の意図を十分に説明するためには、この曖昧さと、それに関連する私の両面感情(このように説明されるところの「超越論」を自称することについての)にはどうしても触れておかなければならない。ところが、カントの『純粋理性批判』における「超越論的」の使い方(超越論的観念論の文脈であれ超越論的議論の文脈であれ)には、この両面感情は見られない。と思う。本当にそうかどうかを確認する意識を明確にもって『純粋理性批判』の原文をくまなくチェックしたことがあるわけではないが、私が記憶している諸々の間接的証拠を総合するに、「超越論」を自称することについてのこのような両面感情はおそらくカントにはなかったろう、と思う。なので、(そうである限り)カントに言及して自分の「超越論的」の意図の説明を試みたのは、一面においては誤解を招く説明法だったかもしれない。問題は、「超越論的」という語を「認識主体としての『我々』の『立ち位置』を俯瞰で見ること」というふうに説明すると、そこには、「『我々』という存在に宿命付けられた『認識論的立ち位置』を『超越』し、一種の『神=超越者』の視点からこれを俯瞰する」という穏やかならぬ含意が、意図するつもりがなくてもどうしてもついてきてしまうと思うのだが、この意味の「超越」である。カントはおそらく何のためらいもなくこのような意味での「超越」も自身の「超越論」に意図していたと思うのだが、私としては、ある意味ではこんなだいそれた「超越」を自分の言説が果たしているかのように振る舞うのは本意ではない。しかし、ある意味ではやはり本意とも言えるし、そもそも、本意であろうがなかろうが、私自身の「超越論的俯瞰」によれば、「我々」の一員たる私にはこれに関して選択の余地はない。なぜなら、この「俯瞰」によれば、これは「我々」(という歴史現象、ないし生態学的にアプローチすべき自然現象)の本質に付随する宿命だからである。ここで言う「我々」とは「生きている当事者」としての「我々」のことであり、その本質とは、「記述的言語行為」、言い換えれば、「何らかの命題の真偽を求める(対話的)行為」、これに参画することである。(拙文「真偽と私たち」参照。)私自身であれ誰であれ、もし誰か哲学者が、自身が従事するところの哲学という言語行為も「記述的言語行為」として行うなら、* その「哲学者としての発言」もまた「生きている当事者としての発言」であることを(当然のことながら)「超越」などしておらず、(逆説的ながら)だからこそ、あたかもそれを「超越」して「本当の真実」(なんじゃそりゃ!)について語っているという体(てい)をそこに生み出すわけである。これは、「生きている当事者」としての「我々」の歴史的実在を担保する「認識的責任(ないし義務)epistemic duty」という(「我々」には逃れようのない)責任が、哲学という「超越的俯瞰」(という体で行われる言語行為)の文脈においても「我々」を律するからである。しかし、無理筋を承知で私の(自分なりの意味における)「超越的俯瞰」を説明するなら、これはまさにこのような「超越」の体を生み出す共時的な記述観そのものを否定ないし超越することを、「非当事者」としての哲学者(という体)の「立ち位置」から提唱するものである。つまり、「認識主体としての『我々』の『立ち位置』を俯瞰で見る」という説明は、私の「超越論的」の説明である限りにおいては、「一種の『神=超越者』の視点からの俯瞰」という含意を含まないもの、として意図されていた。**- 注
- * 「もし・・・なら」と、あたかもここに選択肢があるかのような言い方をしてしまったが、そもそもここにだってそんな選択の余地はない。「記述的」に行う以外、他に、哲学を行う行い方はない。次回記事(「ベナセラフのジレンマ」と数学認識論の自然化について(2)、、、となる予定)で詳述するように、クワインが『Epistemology naturalized』で「ノイラートの船」を参照して指摘する通りである。
- ** 言うまでもないが、この意味での「神の視点」の含意を批判しつつも、この文章自体が、まさにその批判において、やはり、ミイラ取りがミイラになって、この「本当の真実」について語っているという体=「神の視点」を体現している。ご注意!
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(2018年11月22日 付記)「pseudo-transcendence」について
本年4月の応用哲学会年次大会での個人研究発表用の予稿およびその発表の草稿を皮切りに、私は「pseudo-transcendence」という無手勝流の哲学用語を使い始めているが、この意味は概ね上記の 2 で説明するところの「無理筋の超越論的俯瞰」のことである。