「醜いあひるを醜いあひるのままで幸福にできるのか?」
あらすじ
醜いあひるを白鳥に変えるような<救済>などたかが知れている。醜いあひるを醜いあひるのまま幸福にしてみせろ、と私は思う。
本書では、霧子というヒロインが存在できるすべての環境においてひどい扱いを受けています。家では義父の暴力、学校では義姉の柄の悪い仲間からのいじめを受け、それは帰宅後の深夜まで影響を及ぼします。飲酒の強要、私物の盗難、汚水を飲ませる等々……ありとあらゆる手を尽くして霧子の身体と精神を破壊していきます。睡眠時間もろくに取れないまま、気が休まるのは市の図書館しかありません。
そこで霧子は音楽を聴きながらこう考えます。
ピート・タウンゼントはいっている。「ロックンロールはあんたの苦悩を解決しない、あんたを苦悩したまま躍らせるんだ」。そう、苦悩を解決しないこと。それこそが救いの本質なのだ。あらゆる苦悩が解決することを前提にしている思想を私は信用しない。どうしようもないことはどうしようもなくどうしようもないのだ。醜いあひるを白鳥に変えるような<救済>などたかが知れている。醜いあひるを醜いあひるのままで幸福にしてみせろ、と私は思う。
私自身について
この本を初めて読んだのは、私が中学生のときでした。
当時、家庭は冷ややかなものでした。リビングは物が飛び交うような環境で、物心がついた頃にはすでに顔に消えない傷がありました。父の機嫌が悪いと些細なことで突っかかってきて、ストレスのはけ口として私を殴り「これは教育だ」と言って正当化しました。外出中や友達の前などでも問わず、罵声を浴びせられたことがあります。私の中で父の指示は絶対的で、自分の意見を口にすることさえもできずひたすらに怖かったのを覚えています。母はというと、同様に暴力を受けていたのもあり「私だって辛い」とか「可哀想アピールをするな」とか「泣きたいのはこっちだ」とか、言われたくないことを散々言われました。家庭における安息地はなく、誰も助けてくれないその家の中で、息を潜めることだけが得意になっていきました。
まだ精神的に未成熟だったというのもあり、どこに助けを求めればいいのかがわかりませんでした。そして、幼少期から続くこの環境が異常であるということに気づくことができませんでした。仮に誰かに打ち明けたとして「そんな些細なことで辛いだなんておかしいよ」と否定されるかもしれないことを恐れていました。誰かに言って、自分の今までの環境や関係性が崩れてしまうことを恐れていました。救済を求めることが怖かったのだと思います。
そんな時に本書と出会い、衝撃を受けたのを覚えています。そして上記の文章に対し私が思ったのは「まったくもってその通りだ」ということです。どうしようもないことはひたすらに、どこまでいってもどうしようもない。助けてほしいのに現状は変えたくない、誰かにわかってほしいのにわかられたくない。苦悩を解決しないまま身を委ねていることは何よりも、「楽」でした。そして、どうせ変われない私や現状に対して、ありのままを肯定してくれる人が現れるのを祈っていました。
本題「醜いあひるを醜いあひるのまま救済することはできるのか?」
さて、「醜いあひるを醜いあひるのまま救済することはできるのか?」という本題です。
10年以上本書の内容について向き合い考え続けた今、やっとこの問いに答えを出すことができるような気がしています。
なぜかというと、もう私は救済を必要としていないからです。
結局、私の虚ろな学生時代に瑞穂くんは現れないままでした。そして社会人になり、数年が経ちました。この歳になってようやく「自分の人生は自分だけのものとして扱ってよい」という感覚がわかるようになりました。それは何度も注意されながら、幼少期に身につけた世間との認識のずれを直していった結果にあります。
それと同時に、「自分の在り方は自分で決められる」ということも知りました。やりたいことを(もちろん倫理的範囲の中で)なんでも自由にやっていい。やりたくないことは断ってもいい。今日どこに行って、どこに住んで、何を食べて、何が好きで、何が嫌いだと主張してもいい。
それを知った今、私は自分の機嫌を自分で直すことができます。自分の中のSOSを認識して、それに対処する術があります。誰かの助けを借りずとも、自分をより生きやすい方へ導くことができます。
10年前の私が望んでいた救いは、他者から手を差し伸べられることでした。しかし今の私は、他者を介さない自己決定という形で、ようやく、自分で自分を救える段階にいます。この事実を当時の私に伝えたら、助けてくれる人はいないのだと悲しむかもしれません。でも、同時に、自分の力でどうにかできる現状を羨ましくも思うかもしれません。
そして、私の至った結論は「醜いあひるのままで救済はできない」ということです。
現状の変化がないまま<救済>を謳ったところで、それはまったく救済の形をしていないはずです。簡単な言葉だけの救済なんてたかが知れている。それは思想の押し付けや偽善にほかならず、正義を語ることで気持ちよくなりたい人のために利用されているようなものです。
つまり、現状を変化させるしか方法がない。
それは、醜いあひるが醜いあひるのままでいられないことを意味します。
成長しても白鳥になれないかもしれない、白鳥になれたとしても救済にならないかもしれない、そう思ったとしても、現状を変化させてみる。行動して、話して、周りを見渡してみることは予想外の気づきに繋がるはずです。(困難を乗り越えたら必ず報われるとか、努力は裏切らないとか、そういうことを言いたいわけではありません。むしろ私は、困難は報われるとは限らないし、努力は裏切る可能性があると思っています。それでも、まずは動いてみてから結論を出してもいいんじゃないか、ということです)
本書においても、霧子を醜いあひるのまま救うことはできなかったと私は考えています。大好きで大切な人からの言葉や睡眠時間の確保ですら、一時しのぎにすぎませんでした。根本的な解決を試みない限り、本当の意味での救済は訪れなかった。「どうしようもないことをどうにかしようとする」には、それ相応の対価が必要なのだと思います。
それはあんまりじゃないかと思ったそこのあなた、私もそう思います。そこで、無理やりにでも、醜いあひるを醜いあひるのまま救済する方法について話していきたいと思います。
醜いあひるを醜いあひるのまま救済する方法
1.現実逃避
霧子が音楽で頭を満たしたように、一時的な忘却は効果があると考えます。私自身、読書や創作物で頭を満たすことで難を逃れていました。創作物に浸っている時だけは、自分が、私という存在を無視してくれました。なんならその時だけが本当の自分で、あとは全部嘘なんじゃないかとすら思っていました。
2.非行に走る
私の好きな魔法少女の台詞を引用します。
「ねぇ、私たちこのまま二人で怪物になって、こんな世界何もかもめちゃくちゃにしちゃおっか。嫌なことも悲しいことも全部なかったことにしちゃえるくらい、壊して壊して壊しまくってさ。それはそれで、いいと思わない?」
人生を呪うこと、絶望をまき散らすことは、時に救済になりえると考えます。自暴自棄になることで、根本的な解決とは違った形で自分を守ることができます。どちらかというと、最終手段のような気もするのですが。
最後に
霧子の諦観の先にあったものについてお話します。
瑞穂くんは再会後、「復讐する君の姿は、圧倒的に美しかったんだ」と言っています。大切な人を失い、歳を重ねられなくなった霧子に残された最後の復讐の日々。その先にあったものは、霧子が行動し、霧子が変えた未来によって得られたものです。
復讐のその瞬間、霧子は「醜いあひる」でも「誰かに救われた白鳥」でもなく、確かにひとりの人間として、美しかったのだと思います。
ここまで読んで頂きありがとうございました!
良かったら「スキ」を押していただけると嬉しいです。


コメント