先にも述べた通り、成仏は一念信解の位から展開して行くわけです。一念信解とは、絶対不滅の仏界がこの身このままで、自分自身に存在していると固く信じている位です。経典では法華経寿量品の本尊観です。もっと深く云えば、久遠実成無作三身を信じることです。久遠実成だけの意味合いだと、自分との相互関係が成立しません。下種を包括した即身成仏の教義は本尊と断絶していては叶いませんから、釈尊即自分自身と強く信じなければ駄目です。蓮祖が南無妙法蓮華経から諸仏が出生したと云うのは、因位の時久遠実成無作三身を信受したという意味です。
真言宗にしても、自分自身が即大日如来と観想するところに妙味があります。念仏も自分自身が阿弥陀如来だと観想するところにポイントがあるんです。禅宗にしても、自分自身に本来備わっている仏さんを体得することが修業の目的です。これら各宗は縁起を信じ、本来の自分が仏と信じなければ出来ない修業です。法華経には二乗作仏・久遠実成・円融三諦・一念三千が他の経典と違い明確に説かれています。要はこの考えがないと、真の成仏する教義も存在しませんし、全員の成仏を保障したことにはなりません。
法華経の更に重要な教義は、開会により仏法を統一していることと、種・熟・脱の三益・三種教相を説いていることです。爾前経は下種の教義など一切説いていないんです。また、他宗を見渡しても、三種教相を説いているのは、天台や日蓮宗関係の僧侶・学者ばかりです。無作三身を敢て本尊観や教義で説明していないのは天台・日蓮系以外の教団の特徴ですが、爾前経を根本経典とするこれらの宗において、既に下種されている前提を基本とするからです。
真言宗に円融三諦・一念三千があったわけではなく、善無畏三蔵が天台教学から勝手に取り入れた代物です。華厳の教義も天台からのパクリです。要は法華経に開会されての権教・爾前の存在意義なのに、権教を根本経典とする各教団のお祖師さんらが、勝手に自分の宗派が優れていると主張しているだけなんですね。それが可能だったのはお祖師さんらが、既に過去世において本巳有善(下種を受けていた)だったからです。下種を受けていた大恩を忘れて、法華経に弓を引いている忘恩の徒であると蓮祖はボロクソに御書に書いていますけどね(笑)。
権教・爾前経を根本とする各宗派も、所詮過去世の薫習をバネにして法華経の説く行程を瞑想・信心に取り入れて見性しているわけです。親が居るのに、自分一人で育ったかのように思っているわけですね。特に念仏宗は死後の成仏のみを願い阿弥陀仏を念じるなど、凡そ仏法とは全くかけ離れた教義が庶民に蔓延していました。おまけに聖教類を完全否定するんで、蓮祖は「この一凶を禁じなくては」と固く誓ったんですね。
自分が仏さんで阿弥陀さんなのに、自分を観想の対象者から外した信仰は間違いです。当時の念仏は法華開会の思想には程遠いものだったんですね。蓮祖は円教のスペシャリストだったんで、仏因に関しては非常に厳しい指摘をしています。それは衆生の仏道を権教・爾前にある毒薬で妨げたくないと云う、慈悲の思いから来る折伏なんですね。天台は本迹一致、双用権実の法華開会で仏法を統一しました。蓮祖は本迹勝劣、下種法門の根源である独一本門から仏法の統一を考えていました。
11/11/13 07:06