小さな世界

   二


 山腹に築かれた山小屋に暮らしている常葉は、見目麗しい慈母の如き容姿を損なわず、今日も皮鞣しの作業を行なっていた。

 彼女は妖怪である。この「真玄なる慈愛の星」──「玄慈球」の唯一大陸・和深かずみではなんら珍しくない存在だ。

 人間とは中立を保ち、山河で暮らすことが多い妖怪にとって、この山岳郷は最高の棲家と言えた。


 人間の乱伐を阻む峻峰はそれ自体が天然の要害であり、故に神の息吹も力強く吹き荒れる。

 昨今、下界では人間同士が天下布武なるものをかけて争っているというが、この山岳郷においてはまるで遠い、異界の地の話にも感じられた。

 だからこそ、常葉はこの土地を終の棲家として選んだのである。


 あの日玄吉を拾った時から常葉の見た目は変わっていない。妖怪ゆえ、歳を重ねても外見が変わることは滅多に無いのだ。

 幼年期、少年期は激しく成長を見せる──例えば、今年で十四になった玄吉などは、特に。


 この玄吉、まず何より体躯に恵まれている。山育ちということもあり筋骨は逞しく、身丈は五尺五寸(一六五センチほど)。

 韋駄天の如き俊足と大岩を持ち上げ投げ飛ばす怪力、そして疲れ知らずの健脚ぶり。

 何よりも、──こんな世捨て妖怪のかかさえも孕ませんとする、雄々しき珍宝。

 この地では、そして常葉のような流民には他に寄る辺もなく、互いに寄り添う他なかった。

 そもそも血のつながりがないから、何ら遠慮はいらぬ。毎日毎晩、なんなら日によっては朝から盛っていることさえあった。


 だから、外からの客人に対して、常葉は過剰なほどの反応を示す。

 小さなこの世界を壊されたくなかったからだ。


 突然、山小屋の戸がガラリと開いた。愛息子ではない。あの子はこんな帰り方はしない。

「誰、──」

 常葉は咄嗟に、護身用の短刀を掴んだが。

 次の瞬間には、パァン──という雷鳴のような炸裂音が響き渡り、気づけば彼女は後ろへひっくり返っていた。

 じわ、と左胸に熱いものを感じて抑えると、真っ赤な命の滴が手を染める。


「あ、ぁ」

 常葉はその影を睨んだ。

 逆光を背負うそいつ。見たこともない武器を握っている。筒のようなもの。知っている、それは鉄砲というものだ。

 しかし男は弾込めする様子もなく片手間に何かをかきり、と起こして、そして二度目の雷鳴音を響かせた。

 常葉の頭は、粉微塵に吹き飛んだ。




 戦廻暦せんかいれき五十七年の燦天季(真夏)、四十三日目。


 一羽のテンランオオフクロウが風を掴むように羽を広げ、音もなく空を舞う。一枚の栗色の羽根が抜け落ちてふわりと舞い踊り、それが風に吹かれて踊った。

 羽の行先には霊石高れいごくだか六十万とも試算されるさと──山岳郷さんがくきょうの峻険たる山々が剣の如く突き立っており、東から差す朝日で緋く灼けている。

 大小無数の山が盛り上げられ、乱伐に遭わずのびのびと生えそろう巨木が絡み合っていた。美しい萌葱色を成したそれらは、まさしく生きる全ての者にとっての楽園に他ならない。

 

 フクロウが留まったのは大石岳おおいしだけという山の山頂にある大杉。そこに降り立ったフクロウは変身を解いて、一人の壮麗な美女天狗に姿を変える。

 山の匂い──青々とした、草木と土と、川の水の香り。

 それを胸いっぱいに吸い込んで、女天狗は隣に生える、桜の神木を見つめた。そこにあるうろをまじまじと見、それから、この急勾配を駆け降りる。

 あらゆる障害物を跳び、乗り越え、身を投げ出しさえして走破していく。曲芸じみたその疾駆は、風さえ置き去りにした。


 フクロウ天狗の名を、なつめ、と言った。


 狂飆きょうひょうを浴びて踊り狂う髪は小麦色。

 青い目には都合三重の円環瞳孔が奔り、表情は無に近い。冷徹だが、しかし、不思議と無機質ではなかった。そこには確かに、骨に筋と腱が絡む温かみがある。


 大石岳は、由緒ある山庭師やまにわしの一族、大石家が管理している山である。

 その大石家の新当主・蔵内子大石くらうちのこのおおいし浩彦ひろひこが、社殿に管理されている戸籍表にも、大石岳の戸籍表にもない子供を見たと、天嵐神社に報告をあげたのがことの発端である。


 ただの孤児みなしごであればそれでも良いが──なつめ個人としては、救える命を放置する気はないが──この山では十四年前に、奇妙なことが起きたと噂になっていた。

 そして目撃された子供というのは、壮健な少年だったといい──妖怪変化の類であれば、それが十四の子供である可能性もあった。


 風と踊るように疾駆したなつめは、やがて一軒の山小屋にたどり着いた。

 周囲の木々が天蓋を成しており、さながら、天然に迷彩された穴場であった。天狗の警戒網、千里眼からも逃れよう。

 なつめは決して、刺激を加える気はなかった。だが、何かあれば戦う用意もせねばなるまい。

 長さ七尺になる杖を握り、その山小屋の前に立った。


 なつめが山小屋を開けた時には、ここに住んでいるという兎賓天狗とひんてんぐは息絶えていた。

 思わず口元を押さえる。死後二日──これは、凄まじい臭気である。こう言った現場に慣れているなつめだが、だからといって平気なわけではない。

 すでに御霊の抜けた遺体に手を合わせて瞑目する。その御霊の残滓が、安らかに山河と天地を巡るよういのり、すでに腐敗している遺体を検める。

 腐り、ウジが沸いているが──凡その傷の具合で、何が死因かわかった。

 そして肉を広げて取り出したものを見て、確信する。


「鉛の玉……鉄砲? この山で?」

 なつめは訝しい、と思った。

 この山岳郷では鉄砲は硬く戒められている。殺生の重みが曖昧になるからだ。許されている飛び道具は、鍛錬によって完成する技──せいぜい投げやりか、弓矢である。弩さえ禁じられている。

 山の外の者の仕業──そう見るのが自然であった。


 なつめはこの異常事態に、息を呑んだ。

 噂に聞く「子供」が危ないかもしれない。


 そのとき、外から足音がした。神経が尖っているなつめはすぐさま杖を握りしめて、土間に降りる。

「母様、外ですか? 今帰りま──」


 開け放たれた戸から姿を現したのは、鉄藍色の髪の少年。

 浅葱色の目がなつめを、そしてその背後の腐乱し変わり果てた母を見、手に握っていた山鳥を取り落とす。


「落ち着きなさい、私は、」

 なつめは弁明しようと杖を放り捨てるが、少年は「貴様ぁああああああああッ!!」と憤激を露わに、剣鉈を引き抜いて襲いかかってきた。

 なつめは身を開いて一閃を避け、少年の伸び切った右腕の手首と肘を掴んで、己を支点に回転させると、遠心力で身を崩した彼を押し倒して腕を捻り上げる。

 剣鉈を振り落とさせると、なつめは「私じゃない。あなたの母君を殺したのは、山の外の者よ」と言った。


「殺してやる……!」

 少年が鬼の如き形相でこちらを睨む。剛力が腕に漲り、なつめは目を見張る。


 ──まずい、抜けられる。


 苦渋の決断、迷いの暇乞いなど、誰も許さぬ状況。

「許せ」

 なつめはそう言って、少年の肩を外した。

「がぁああ!」


 関節を抜かれた腕から力が抜け、少年は激痛のあまりか、あるいは奔流する様々な感情の渦に飲まれてしまったのか、涙を流しながら気を失ってしまうのだった。

 少年の顔はしかし、どこか──奇妙に安堵しているような色も、見受けられた。


「…………」

 なつめはこの親子のいびつな関係を、見抜いていたが、感情までは読み取っていない。

 どうも、この仮初の親子は……相当にゆがんだ間柄であったようだ。

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