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那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

歌人・山崎方代を紹介します

2012年12月12日 | 芸術・表現
詩歌や芸術はアクセスが低いのですが、知ってもらいたい歌人なので敢えて紹介します。

以下wikiより抜粋引用
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山崎 方代(やまざき ほうだい、1914年(大正3年)11月1日‐1985年(昭和60年)8月19日)は、日本の歌人。

故郷の中道町。右左口峠付近から北西望 正面奥は八ヶ岳山梨県東八代郡右左口村(旧中道町、現甲府市)に生まれる。次男。右左口村の青年団に加わり、「一輪」の名前で文芸部雑誌「ふたば」や「あしかび」「一路」「水甕」などの結社誌に詩や短歌を発表し、地方紙の峡中日報や山梨日日新聞の文芸欄へも投稿。1929年(昭和4年)には右左口尋常小学校(現中道南小学校)を卒業。1937年(昭和12年)には横浜へ移り、職を転々とし1941年(昭和16年)7月には陸軍東部第77部隊へ入隊。

翌年には野戦高射砲第33大隊一等兵として出征し南方方面で戦い、ティモール島クーパンの闘いで戦傷で右目を失明。
1946年(昭和21年)には復員し、傷痍軍人の職業訓練で習った靴の修理をしつつ各地を放浪する。

特定の結社に属さず、身近な題材を口語短歌で詠んだ。鎌倉に住む歌人吉野秀雄や唐木順三とも交友があり、しばしば土産物を携えて訪ねたという。関係資料は山梨県甲府市の山梨県立文学館に所蔵されており、常設展でも展示されている。また、生家跡地には中道往還の右左口宿や円楽寺など周辺の歴史的景観と合わせた観光拠点とするため、歌碑の移設や東屋を設置する計画が出されている。
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以下、甲府市の観光情報から引用した作品です。好きな歌だけ抜いたので途中で数字が飛んでいます。


2・寂しくてひとり笑えば卓袱台の
上の茶碗が笑い出したり

3・野良馬の靴の片方みつけ来て
出口の釘に掛けておく

6・うつし世の闇にむかっておおけなく
山崎方代と呼んでみにけり

7・死ぬ程のかなしいこともほがらかに
二日一夜で忘れてしまう

8・笛吹の土手の枯生に火をつけて
三十六計にげて柿食う

13・遠方より友来たりけり目隠しをして
鶏小屋の鶏を選べり

14・ふるさとの右左口邨は骨壷の
底にゆられてわがかえる村

15・ひっそりと座っていると月が出て
畳のへりを照らして去った

16・まっ黒く澄みたる馬の目の中に
釜無川が流れている

19・こんなにも湯呑茶碗はあたたかく
しどろもどろに吾はおるなり

22・私が死んでしまえばわたくしの
心の父はどうなるのだろう

23・茶碗の底に梅干の種二つ竝をる
あゝこれが愛というものなのだ

24・これやこの吾とて水呑百姓の
父の子にしてほこらざらめや

25・なりゆきにまかせているとかたわらの
涙の土瓶が笑い出したり

26・ほんとうの酒がこの世にありし時に
父もよいにきわれもよいたり


この他に私が偏愛する下の歌がある。

こんなところに釘が一本打たれていじればほとりとおちてしもうた

私が30歳の頃に、この歌と共に山崎方代の死亡記事が組まれ、凄い歌人がいたんだなあ、と感動した記憶がある。死亡の直後にその偉大さを知ったのは尾崎豊と共通している。

言うまでもなく自由律の前衛短歌で、その真骨頂は身辺に転がる「詩のモチーフにならないものを詩にする能力」と言えるだろう。映画で言えば実に淡々としたセルフドキュメンタリーに相当するかもしれない。このブログの何処かに「子規の次はコッフ」と言われた中井コッフを紹介しているが、コッフにもそういう一面がある。

私が死んでしまえばわたくしの
心の父はどうなるのだろう

これも凄いですね。タヴィアーニ兄弟の映画「カオス・シチリア物語」の最後あたりに似た様な台詞が出てきます。さらりと無神論者の考え方を歌っています。

茶碗の底に梅干の種二つ竝をる
あゝこれが愛というものなのだ

これも感動の視点が素晴らしい。山崎方代は生涯独身の筈で、彼のファンの若い女性に恋をして失恋している。自分で食べた梅干の種が二つ茶碗に残っていて、そこに愛の形を想像するとは哀れなことこの上ない、と思ってしまうが、

死ぬ程のかなしいこともほがらかに
二日一夜で忘れてしまう

寂しくてひとり笑えば卓袱台の
上の茶碗が笑い出したり

と歌うように、悲しみの果てにクルリと一回転してユーモアに変わるところが彼の特徴でもある。山頭火と比較されるときもあるが、山頭火は結局煩悩を超越しようとして結局悟りきれなかった気がしてならない。
 山頭火は私の故郷愛媛で死に、最初に山頭火の評伝を出したのは隣にある大洲市の教師・村上護で1972年出版された直後に買ったので高校1年ごろに読んだことになる。非常に感覚的にしかいえないが、少し酢の臭いが残った酒みたいな気がする。簡単に言えば山頭火は人間臭く、そういうのが好きな人には支持される歌人でしょう。

山崎方代に関しては下手な解説をするより、ゆっくり読んで味わってください。私にはとてもマネできないとこに到達した人です。

なお多分左下のブックマークから入れるはずですが、私は「八王子五行歌会」のお世話をしています。私は推敲している時間がないのと自分の作風をどんどん変えているのでスタイルに迷っていて下手ですが、常連の方々に凄腕が揃っているのでぜひ投稿してみてください。新年にネット歌会をやりましょう。

芸術と批評を巡って:俳句少年の思い出

2012年12月07日 | 芸術・表現

以下は9年ほど前(平成3年)に作っていたHP「那田尚史の部屋」に投稿したものだ。個人名など出てくるのでそういうところは削除して、ここに書き残しておくことにする。
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私が俳句に熱中し、そして辞めたいきさつについて語ってみる。

私は愛媛に生まれた。父親が大好きで、いつも夜は父と添い寝した。蒲団の中でいろんなおしゃべりをしたものだが、短歌や俳句の作り方も、父の寝物語に聞いて習った。
 中学は創立されたばかりの東京の中学に入った。地方からの出身者が大半を占めていたので、寮が完備していた。生徒の7割以上が寮生だったと思う。
 それで、寮のイベントとして「寮内俳句大会」が月に一度あった。
私は父から俳句のイロハを習っていたし、中村憲吉の書いた「現代俳句」という文庫本をボロボロになるまで読んで、名句といわれるものはほとんど覚えていた。
 寮内俳句大会は数百人の寮生が俳句を出し、天賞、地賞、人賞の三賞が発表されるというものだったが、私は毎回のように入賞していた。
 
ある日、創立者と中高の代表者50名が「句会」をする催しがあった。私はその一人に選ばれた。
 そのときに詠んだ俳句は、表紙が布地の美しい一冊の本になって出版された。
そこに載せてある私の俳句は次の二句である。

  片隅に浜木綿枯れし無人駅

  寒椿蕾に紅の冬やさし


中学1,2年生の読んだ俳句としては、マアマアだが、今見れば、最初の句は「付き過ぎ」ている。
「片隅」「枯れし」「無人駅」と、全て寂しい風景が畳み込まれ、寂しさの強調になってはいるが、奥行きがなくて心象風景が平板すぎる。
 二つ目の句は、あえて「二重季語」(寒椿と冬)を読み込んだのだが、全て言い終えてしまい、説明的だ。どうも頭で考えすぎた句であり、やはり当時から私は批評者には向いているが、創作者としては大したことはない。

ところで、同級生のFという男が次のような俳句を詠んだ。

  カンナ見に寄るガラス戸の暖かさ

この句を読んで、私はぶっとんだ。なんて凄い俳句なんだ、と思った。
 作者はカンナを見にガラス戸に顔を近づけている。「カンナ見に寄る」という非凡な歌い出しに、女性的な妖しい色気があり、まるで映画の一場面のようだ。初夏の熱い空気がガラス戸を通して緩和され鼻を撫でる。目に見えるのは南米原産の強烈な色彩を持つカンナの花。視覚と皮膚感覚が手を携えて襲ってくる。庭のカンナとガラス戸のある家、という設定も美しい。また、作者はカンナだけを見ているのではない。ガラス戸に写った自分の顔も同時に見ているのだ。この俳句に漂うのは、少年のナルシシズムの匂いである。この感覚が素晴らしくいい。確かに、夏の季語「カンナ」を使いながら、「暖かさ」という中途半端な感覚で締めるのは、普通に考えると間抜けである。しかし、この「暖かさ」は気温の実感であるよりも、カンナと自分の顔が二重写しになった場面を目にした心の状態を示している。カンナを見ている自分自身への絶対的な信頼から生まれた「暖かさ」なのである。

実はこのFという男は、飛びぬけた美少年だった。彼には二人の取り巻きがいた。一人はゴリラのような大男、もう一人はカッパのような顔をした痩せ男である。男子校は同性愛の生まれる世界であり、Fは喧嘩が強いわけでもなく、頭がいいわけでもなかったが、非常な美少年であるために、いわばスター的な存在となって、常にこの二人の取り巻きをボディガードのように連れて歩いていた。この美少年がこんな傑作を作ったわけである。
 私はつくづく、人間の才能というものには勝てないと悟った。こういう俳句は、自分の美しさと美意識に酔っている人間でないと作れない。ナルシストであるがゆえに作れる堂々とした美の世界である。私のように、神経質で、自己呵責が強い人間には逆立ちしても作れない。

このFの俳句を目にして以来、私はキッパリと俳句を作るのをやめたわけである。

Fという男は神戸出身で、母親がスナックを経営してた。いかにもお水の家に育ったらしい小生意気でツンとした、しかし不幸の影の漂う、女よりも綺麗な男だった。
 どんな中年になっていることだろう。少し、気にかかる。

追記:このエッセイを読まれた読者の方が、ある掲示板に次のような感想を載せてくれた。ありがたいのでここに転載させていただく。さすが現役の俳人だけあって適切な言葉に満ちている。
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俳句雑感

那田さんの「私と俳句」、拝読いたしました。

那田さんが、早熟な「俳句少年」であり、その手だれぶりと、
異常に鋭い感受性をお持ちだったことに驚嘆と感銘を覚えました。
愛媛(松山)には、那田さんのお父様のような方がたくさんおられ、
幼少時から師弟に俳句の語法やつぼを教える環境があるので、
たくさんの優秀な俳人が育つのかも知れんなあ、
と改めて「芸術と風土性」についても考えさせられました。

エッセイの中で、最も感銘したのは、
那田さんのF少年の作った

  カンナ見に寄るガラス戸の暖かさ

という句についての受け止め方です。
私も多少俳句をやるので、わかるのですが、
本当の意味で「選」または「鑑賞」が出来る人は、
いい俳句が作れる人同様、とてもまれだと思います。

中学生の那田さんが、この句を読んで

>この句を読んで、私はぶっとんだ。なんて凄い俳句なんだ、と思った。
>作者はカンナを見にガラス戸に顔を近づけている
>初夏の熱い空気がガラス戸を通して緩和され鼻を撫でる。
>目に見えるのは南米原産の強烈な色彩を持つカンナの花。
>視覚と皮膚感覚が手を携えて襲ってくる。
>庭のカンナとガラス戸のある家、という設定も美しい。
>また、作者はカンナだけを見ているのではない。
>ガラス戸に写った自分の顔も同時に見ているのだ。
>この俳句に漂うのは、少年のナルシシズムの匂いである。
>この感覚が素晴らしくいい。確かに、夏の季語「カンナ」を使いながら、
>「暖かさ」という中途半端な感覚で締めるのは、普通に考えると間抜けである。
>しかし、この「暖かさ」は気温の実感であるよりも、
>カンナと自分の顔が二重写しになった場面を目にした心の状態を示している。
>カンナを見ている自分自身への絶対的な信頼から生まれた「暖かさ」なのである。

と感じた感受性は尋常なものではないと思います。
まあ、ちょっと素晴らしい鑑賞文に水をさすようで
申し訳ないのですが、いちおう「カンナ」は秋の季語になっているので、
僕が思うに、F少年は「秋冷のなかに咲くカンナ」を詠ったのかも知れず、
そうすると「温かさ」という結句は、わりと素直な収め方になり、
那田さんご指摘の何かとても隠微なナルシシズム感が薄らぐように思いますが、
那田さんの「誤読」にせよ、絶世の美少年の「季語の無視」にせよ、
中学生の句会を通じて、そのような濃密で奥深い
文学的な場面が生じていたことは、とても驚きです。

しかも那田さんは、この俳句を読み、
自己の文学的才能を見限り、「筆を折る」という自己認識がすごい。

>私はつくづく、人間の才能というものには勝てないと悟った。
>こういう俳句は、自分の美しさと美意識に酔っている人間でないと作れない。
>ナルシストであるがゆえに作れる堂々とした美の世界である。
>私のように、神経質で、自己呵責が強い人間には逆立ちしても作れない。

は、世界の中での自分の位置付けや役割を、怜悧に見つめる
客観性(批評性)がないと、とても吐けない言葉で、
ゴミのような駄作を性懲りもなく撒き散らしている
僕のようなおめでたいおじさん趣味俳人とは
最初からとてもレベルが違うなあ、と恥ずかしくなった次第。
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この友人は後日、私が最初の見性体験をしたときにも遠くから駆けつけてくれた。京都から来た操体の施術者を含めて6人が八王子の我が家に集まった。その様子は当時中学生の娘がビデオ撮影して今でもどこかに残っているはずだ。禅や唯識論のレジュメを配って理論的な説明をした後、取り合えず数息観を試してみたが、娘が簡単に数息観を突破したのには驚いた。

なお、季語の問題に関しての私の勘違いは、私は愛媛で育ったため、カンナは真夏に咲いて初秋まで真っ赤やオレンジ色の強烈な色彩を残す「美人の寿命の長い花」という印象があったためである。今調べたら

「カンナ(かんな)《季 秋》
カンナ[(ラテン) Canna]カンナ科の多年草。観賞用として栽培される。茎は肥厚した根茎から出て、高さ約1.5メートル、バショウにやや似た葉を数個つける。夏から秋にかけ花茎を出し、大きな花を次々と開く。花の色は鮮やかな赤・黄・絞りなどで、品種が多い。(三省堂「大辞林 第二版」より)」

とあり、実際真夏の似合う花なのだが、季語は独特の文化的背景があるので、私もFもそういうことを無視していたのだろう。

それにしても感動するのは、こういう雅で知的なヤリトリを普通にしていた9年前の精神的風土である。あの頃は私も元気一杯だったので様々な面で活発に活動していたから、こういう芸術好きな人からカルトストーカーまでがHPに集まって大賑わいだった。ゆとり教育だの愚民化政策を受けなかった世代ならではの濃密な交流である(ストーカーは別ですよw)。

尚、後日、不思議なきっかけで五行歌の会を主催する草壁先生と出会い、私は現在八王子五行歌会の代表を務めている。俳句はやめたが5行自由律の歌を今も詠んでいるわけだ。五行歌は芸術であると同時にアンチ芸術的な側面もあり、自由なところがいい。興味のあるかたは左下のブックマークから入って、是非「八王子五行歌会」の掲示板に投稿してください。私の歌は大抵ヘトヘトになって作っているので下手ですが常連の方の作品は素晴らしいです。
 それにしても、雀百まで踊り忘れず、というのは本当だなぁ、と思う昨今です。



詩歌の話

2012年11月27日 | 芸術・表現

高校から大学生時代、好きだった詩人は中原中也、金子光晴、ボードレール辺りだった。
金子光晴は骨太で、おぼろげな記憶だがパリで不良グループの親分になったり反骨精神の塊だったが、いずれにせよこの種の詩人は破滅型の側面があり、中原中也は子供を失い狂死、ボードレールも梅毒で「酒とハシッシュの比較」などという文章を書いて詩集も発禁、などなど、凄まじい生活をしている。

朝の歌 中原中也


天井に 朱(あか)きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫(いさ)めする なにものもなし。

樹脂(じゆし)の香に 朝は悩まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森竝[もりなみ]は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。


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これは当時は丸暗記して、朝、天井を見ながら心で呟いていた。詩心という面で中也は凄まじいものがあり、この詩など、アンニュイを通り越して、末期の目というか、自殺代わりにどうにか詩を作ることで生きている感じがする。他の歌も同様で、余りにも痛切なので私はある時期から中也の詩を読まないことにした。
 が、当時はのめり込み、彼の詩の魅力を探るためにローマ字に直したりして、音の響きの分析したこともある。単純な例を挙げれば、「犬が走っていく」と「犬が走ってゆく」では後者のほうがyuの音感が柔らかい。ア行やカ行やタ行などは音が硬く冷たい一方、サ行やハ行やマ行などは柔らかくて暖かいなど、意味やイメージ意外の部分に詩歌の魅力の秘密がある。後日記号論関係の本を読み始めたときに、誰かが同じような詩の分析方法を論文にしていた。意味やイメージと、音の感覚が相補的関係になると詩歌の磁力のようなものが強くなる、といった内容だったと思う。文学部の教授の引退記念講義でもそういうことを聴いた記憶があるが、誰だったか覚えていない。
 ちなみに、中原中也の評伝を書いた大岡昇平は「彼の実生活を知らずに詩だけを読んで感動できる人たちは幸せだ」といった意味のことを書いている。

              
 洗 面 器 金子光晴

( 僕は長いあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが爪硅(ジャワ)人たちはそれに羊(カンピン) や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたえて、花咲く合歓木の木陰でお客を待ってゐるし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ しゃぼりしゃぼりとさびしい音をたてて尿をする。 )

洗面器のなかの
さびしい音よ。

くれてゆく岬タンジョン の
雨の碇泊とまり。

ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。

人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。

洗面器のなかの
音のさびしさを。

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光晴は「おっとせい」などが有名だが、ああいう骨太さとこういう繊細さが同居していて面白い。
 私の郷里愛媛の八幡浜からはダダイスト高橋新吉が出ており、この人は禅でも悟りを開いて公案の解説書なども書いている。中原中也にも強い影響を与えた。郷里の詩人なので感慨深いものがあり、これは後日新たに書きたいと思う。

高田渡が歌った「ブラザー軒」

2012年10月19日 | 芸術・表現
以下http://plaza.rakuten.co.jp/mz5na/diary/201201160000/ より


 「菅原克己全詩集」を読み終えた。菅原克己は名は早くから知っていたのだが、読もうと思わせてくれたのは、アーサー・ビナードだった。小熊秀雄もおなじである。

 (略)

 アーサー・ビナードは全詩集に挟み込まれたしおりのなかでこういっている。

 「外連味のない日常を、実況中継するかのように詠み、でもその奥で息づく森羅万象にまで読者をグッと、優しく引き込む」「エリオットがもし、菅原克己の作品を読んだならば、それも羨望の的になったのではないかと思う。」

 同じしおりに高田渡のインタビュウがあって、コンサートでよく菅原克己の「ブラザー軒」をうたっていると語っている。彼が菅原の詩に曲をつけたものだという。

 ブラザー軒 

 東一番丁、
 ブラザー軒。
 硝子簾がキラキラ波うち、
 あたりいちめん氷を噛む音。
 死んだおやじが入ってくる。
 死んだ妹をつれて
 氷水をたべに、
 ぼくのわきへ。
 色あせたメリンスの着物。
 おできいっぱいつけた妹。
 ミルクセーキの音に、
 びっくりしながら
 細い脛だして
 椅子にずり上がる。
 外は濃藍色のたなばたの夜。
 肥ったおやじは
 小さい妹をながめ、
 満足げに氷を噛み、
 ひげを拭く。
 妹は匙ですくう
 白い氷のかけら。
 ふたりには声がない。
 ふたりにはぼくが見えない。
 おやじはひげを拭く。
 妹は氷をこぼす。
 簾はキラキラ、
 風鈴の音、
 あたりいちめん氷を噛む音。
 死者ふたり、
 つれだって帰る、
 ぼくの前を。
 小さい妹が先に立ち、
 おやじはゆったりと。
 東一番丁、
 ブラザー軒。
 たなばたの夜。
 キラキラ波うつ
 硝子簾の向うの闇に。
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実は私が東京工芸大で教えていたとき、ある映画研究会が撮影監督・長田勇市(撮影監督という社会的地位を作り上げた人)と私をゲストに呼び、トークと学生の作った映画の審査員を務めたことがある。
 そのとき長田氏と名刺を交換し、氏が「タカダワタル的」という作品を作ることになり、DVDをもらった直後に高田渡は死去した。電話で「亡くなる前に撮っておいて本当によかったですね」と話した記憶がある。また2人ぐらい映画スタッフ希望の教え子を長田氏に紹介し、嫌がらずに引き受けてもらったこともある。

高田渡は「生活の柄」が一番有名だと思うが(「自衛隊に入ろう」かもしれない)、菅原克己(元共産党の詩人)の「ブラザー軒」は、歌詞が余りにも素晴らしく、凝った曲を添えないのが大正解だったと思う。
 
この歌詞は、ガラス暖簾、カキ氷、風鈴、という夏の風物詩が繰り返し出て、同じ系統の擬音(シャリシャリ、キラキラ、チリーンなど)が作品世界を貫くとともに、死んだ親父と妹が現れるのだから夏の幽霊を幻視しているわけだ。要するに七夕の夜に現れた家族の幽霊と冷たい音とが交差しあって非常に静かな、悲しみの世界を作り上げている。
 最初にこの曲を聴いたとき、原爆で死んだ家族がテーマになっているのか、と思った。焼き殺された父と妹が冷たいカキ氷を食べに来たのだろうと。この詩が優れているのはそういう連想を働かせる喚起力の背景に、聴覚と触覚に訴えるものがことごとく冷たく透明、という技巧がしっかり備わっているからである。

どうやらブラザー軒という店は実在しているようだが、そのあたりは余り調べず印象批評、技術批評でとどめておいたほうがこの詩は生きてくると思う。
 なおyoutubeで探るとこれを歌っている高田渡の姿を数バージョン見ることが出来る。



りんごが落ちるのは当たり前か

2012年10月17日 | 芸術・表現
疲れて転寝していたら午前0時を過ぎたので昨日の投稿が出来なかった。

私は大学院の修士課程を修了した後、様々な事情があり郷里愛媛に10年間ほど妻子を連れて帰郷していた時期がある。

そのとき映像作家・金井勝氏のHP「映像万華」にエッセーを投稿した。「愛媛からの手紙」というタイトルの連続ものだったが、インテリや研究者には非常に評判がいい。簡単な話、芸術というものは人間にとって必要不可欠なものではない、ということを証明したエッセーである。

以前からロジェ・カイヨワを含めて色んな「遊び」「笑い」に関する文献を集めて「趣味学」のような研究をしようと思っていた。過疎の盆地で10年の間に芸術家一人いない環境で暮らし、人間は趣味、遊びがないと狂ってしまうが、芸術はあってもなくてもいいオマケである、ということが分かった。

そこで趣味と芸術の構造を比較し、芸術研究者が現れ議論が沸騰して○○学会などができ、制度化されると大学教育システムの中に組み込まれ、本来持っていた芸術の危険性が消えてしまう・・・・・凄く簡単に言えばそういうことを書いた。

すると案の定、ケチを付けたがる人間は一杯いるから、「那田の言ってることは当たり前じゃないか」と2ちゃんねるかなにかに書いた人物がいる。そういうのには嫌というほどあっているので無視した。

リンゴが落ちるのは当たり前、という人間の中で、何故リンゴが落ちるのかと疑問に思う人間が稀にいる。そして万有引力を発見する。当たり前のように見えることに対して、何故?と疑問を抱くのが研究というものだ。万有引力というと私は、地球儀がイメージされて、南極と北極で人間が逆さまに立ってい様子が浮かび、なんとなくウキウキしてくる。

たしか太宰治のお兄さんだったか「一言で書けば済むものを、なぜそんなにダラダラと長ったらしく小説にする必要があるのか」と小言を言ったとき、太宰は「それで人が納得するならね」と応えた記憶がある。
 無念無想になれ、というのが本当に分かるには一生かかっても無理かもしれない。頭の先で理解するのと、体得するのとでは天地の開きがある。

芸術、この過剰なもの。無駄なもの。愛しながら憎む腐れ縁の恋人のような存在です。
 そういえば、この数年全く遊んでないなぁ。






五行歌を紹介します

2012年09月16日 | 芸術・表現

原文      読み下し文       日本語訳
 
渭城朝雨裛輕塵 渭城の朝雨 軽塵を裛し 渭城の朝の雨が道の埃を落ち着かせ
客舍青青柳色新 客舎 青青 柳色新たなり 旅館の柳も青々と生き返ったようだ
勸君更盡一杯酒 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒 さあ君、もう一杯やりたまえ
西出陽關無故人 西のかた 陽関を出づれば故人無からん 西方の陽関を出てしまえばもう                            酒を交わす友もいないだろう

これは高校の漢詩の授業で習ったもの。
酒の歌なのでてっきり李白かと思っていたら王維の作でした。大好きな歌で漢詩の教師がテープで原語バージョンを聞かせてくれたものです。

和歌、短歌と言われるものは57577になっていますが、これは五行歌会を主催されている草壁 焔太(くさかべ えんた)先生の研究により、聖徳太子の時代以降にこれらの漢詩が次々と日本に紹介されたために、漢詩の五言,七言の影響でこのリズムになったものであり、本来の大和歌は、

 やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし うるわし

のように自由律だったことを統計学的に実証されて、基本的に「五行以外のルールなし」の五行歌を提唱され、世界中に広まって行ったわけです。

私は生まれが愛媛ですので、幼い頃から俳句には親しんでいました。俳句短歌はもちろん散文詩、稲垣足穂の「少年愛の美学」のような詩歌と論文と随筆のフュージョンのような文章などが大好きで、今フト思い出しましたが、小学生の時に七夕になると、「小説家になりたい」「学者になりたい」「総理大臣になりたい」などと短冊に書いたものです。

不思議な縁で草壁先生と出会い、現在「八王子五行歌会」の代表を務めています。大ベテランの かわせみ様が毎日投稿して頂き、私の駄作にもアドバイスを頂いています。ネット投稿は無料ですから、ぜひ「ロータス人づくり企画」から入って「八王子五行歌会」の掲示板に投稿してください。ペンネームでいいです。
 面白いもので、疲れたときは投稿できないか、疲れた歌になるし、元気があるときは元気な歌になります。仕事が終わったら一首詠む、というのも心が落ち着いていいものですよ。


芸術は民度の顕れ

2012年09月13日 | 芸術・表現
私は実験映像論を長く教えていました。
日本はアジアで戦前に唯一前衛映画が受容され、製作された国です。
これにもピークがあり、戦前では1930年前後、戦後では1970年前後、そしてバブルの時代、と三度レベルの高い作品が数多く現れました。

1930年前後は作っていたのは超お金持ちですが、時代背景として共産主義という革命思想がありました。また大恐慌の時代とはいっても、大学生やブルジョアジーはほとんど影響がなく、当時の映画を見れば分かりますが普通のサラリーマンでも就職したら庭付き一戸建ての家が買えました。記憶ですが部分的に統制経済が敷かれていたはずです。一番打撃を受けたのは農村部の小作階級で、肥料代のために娘を苦界に売ったほど貧富の差が激しかったわけです。

1970年代前後、あるいはビートルズの時代というべきでしょうか。共産党に物足らない新左翼の革命思想があり、高度成長の真っ盛りでした。この頃の作品は前衛における古典といえるでしょう。ATGの前半期に当たります。

バブル(1980年代後半から1991年ごろ)の時代には、瞬間的に優れた作品が出てきます。但し、危険思想といえるようなものはなく、日本には盛んにポスト構造主義が紹介されました。私はロラン・バルトのファンでしたが、それ以後の思想家になると、言っていることを次々と自己否定していくので文章がダラダラと長くなり、結局何が言いたいの?と聞きたくなります。蓮実重彦がもてはやされたように「表層批評」が流行りました。私は逆のスタンスから批評していたので作品をテクストとか言われると、ムっとしたものです。

そしてバブル崩壊以降現代です。構造的に見れば、前衛的映像が成熟するための二大要素「革命思想と経済の豊かさ」が消えています。すると映像作家たちは「自己プロデュース能力に長けたハッタリ屋」が表に出てくるようになります。また批評の質も堕落したので、自分の目で良し悪しが決定できず、賞を取ったものを褒める、という展開になってしまいます。どういうロビィ外交がされているか知っているはずなのに。

ホリエモンが一世風靡したように、今はホリエモンの子供達がダンスを踊っている時代と言っていいでしょう。



八王子五行歌会誕生

2010年11月06日 | 芸術・表現
10月1日に五行歌を主催する天才・草壁先生に八王子に来ていただき、「八王子五行歌会」の出発となったのですが、あれこれとストレスがあり、入院したりして、中々本格的にスタートできなかった。

それで、諸手続きを大体済ませたから、概要は「ロータス人づくり企画」で検索して見てもらう事にして、私は諸義務を果たし、真夜中に留めの晩酌をしなが、母のいびきを子守唄にして投稿した五行歌を、そのサイトの隅において保存しました。酔っていても、いや、酔っているからからこそかもしれないが、これぐらいの遊び心はあります。草壁先生、ありがとう。その愚作集をご披露します。ああ、恥ずかしい。
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始めまして。五行歌八王子会を世話させて頂くことになった那田尚史です。

本部の投稿用掲示板に、一日の仕事を終えて、晩酌をしながらほろ酔いで投稿するのが楽しみなのですが、草壁先生や10月のマルコ様から褒められた歌を忘れないようにここに保存しておきます。思い出しながら多分無意識に推敲しているので原作と少し違うところもあります。



一匹の蛍 藪影を光って消えた
光って消えた 光って消えた
水晶の瞳の子供たち
お前らさえも
光って消えるか


徹夜で
武道家たちと語り合った夜明け前
押忍! と挨拶して見上げれば
満月
酒は飲め飲め 母国のために



右翼も左翼も関係ない
右と左に地球を回ればどこかで一致する
細かなことを一々言うな
大同団結
それが大和魂 男の心


草壁先生は、僕の歌を「男歌」、と言って過分にも褒めていただきます。先生は恋の歌(相聞歌というのが昔ありましたね)を詠むのがお好きで(天才だからあらゆるジャンルに大傑作があります。僕は先生の枯れた歌が好き)、恋愛歌はエネルギーが湧いてくる、と仰ってました。
 僕はいま超過密スケジュールなので、恋愛する気力も軍資金も時間もなく、酒(黒糖焼酎)を飲んで喋ったり歌を詠んだりするほうがずっと楽しいし、現在進行形の恋歌は詠えませんが、昔の体験を思い出してたまにチャレンジします。

そうそう、こういうのも詠んだかな

君の
濡れた瞳 髪を撫でる仕草 息の馨り
気持ちは全部分かっているよ
けれど膝にも触れず 開口一番
マスター このバーボンもう一丁!!!



俺のこと たまに思い出す?
忘れたことないから 思い出さないわ
昔の相聞は粋だよねぇ
初デートで 港が見える丘公園のベンチに座り
手も握らなかった 君と僕


母方の祖父が「万語読み」と言われた人で、青年団を創設し、助役を努めましたが、こういう歌を、ご飯に日本酒をかけて「お茶漬け」と称し、酔って作っています。村民全員の宅地と山林の地番を丸暗記していたそうです。五行目は覚えてないので僕の創作ですが、意味と流れを考えたら、このように決める筈です。

伊予竹に
土佐紙貼りて
阿波ぐれば(扇いだら)
讃岐涼しき(これほど涼しい)
お四国の風


伊予の人間は昔は中年になると、大抵はどこかの同人になって俳句を詠んでいました。もうそういう文化は、意図的な愚民化政策により、消えましたね。だから、草壁先生の五行歌普及の意図は、歌による世直し、人づくりだと類推しています。
五行以外はルールがないので、自分のリズムで心地よく詠えます。五行歌、最高!!!