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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

新たしき 橋梁仰ぐ 志津川道:2013年5月の記録

2017-09-29 21:09:34 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

南三陸町に入り、志津川のモアイが迎える橋を渡って道なりに行くと、「三陸沿岸道路」の建築が進められていた。


普段は、産業や観光など暮らしの中で使う道。

非常時には、避難や救助などに必要な道。



三陸を繋ぐ道が、復興の力になるように。

新たな橋梁を仰いで思う。

(↓志津川湾周辺:2013年5月)


田束の つつじ色越し 青も青:南三陸町(2013年5月22日の記録)

2017-09-29 12:17:29 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

丘陵に、「田束山(たつがねさん)こちら」と掲げられた道案内が、歌津の目印。

丘陵は、伊里前川の脇にあり、向かって左が田束山方面、右が伊里前の町。


表示どおりに田束山へと行くが、少々戸惑いつつも、枝道に入らず道なりに行く。

震災の傷跡を過ぎ、棚田や緑が光る、里山の美しい風景に取り囲まれていた。


やがて、緑いっぱいの中に線を引いたように整備された道が見え、上り坂になっていく。

しばらく行くと、新しい施設が目に付いた。

出来たばかりの「払川(はらいかわ)ダム」だ。


素晴らしい。



でも高くて怖い。

足に力が入らず、前に出難いのを何とか進みながら、田束湖を眺めた。


直ぐ近くに右へと曲がる道があり、田束山への登り口となっている。


いよいよ田束山の山頂に近づく。

今年(2013年)は春に寒さがぶり返したので、ツツジの咲くのが遅いようだ。

(5/22は、まだ咲き始めで蕾多し。この年は6月上旬が見頃か。)


躑躅に囲まれた細道を行くと、先人が心を込めて納めた経塚があった。



そして山頂に着く。



山頂手前の「展望案内図」の近くへ戻る。

そこからの見晴らしといったら、何と見事なことか。


空と海と岬が一望できるではないか。

ツツジの紅色の向こうは、若葉茂る岬と海と空の青、青、青。


田束山から、里を越えて川を通ってあの海へ、自然の恵みは流れていく。

自然の巡りを大切にし、共に暮らすことを、ここは教えてくれる。


シロウオの 力賜る 伊里前:南三陸町歌津(2013年5月22日の記録)

2017-09-29 12:04:21 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

小満の翌日だった。

若葉はきらめき、森では木々が、衣みたいに藤の花を羽織っている。

志津川湾を正面に見て左に曲がり、うねる坂道を進んで歌津へと向かう。


伊里前川には、ぎざぎざに折れ曲がる形に、石が積まれていた。

「ざわ」と呼ばれる、漁の仕掛けだという。


この仕掛けで、シロウオを獲っている。


歌津のシロウオは、ハゼの仲間で、産卵のために遡上するもの。

海でも獲れるが、伊里前川に遡上したのを「ざわ」で捕まえるのが、いわば名物。


「ざわ」では、キアシシギも並んで待っていた。


いただきます。

そして命は廻る。


川で獲るシロウオは、少し飴色ががり、ぬめりもある。

朝に獲ったシロウオが、福幸商店のマルアラさんで売られていた。

何と、昼過ぎでもまだ生きているではないか。


買って仙台まで帰り、台所で思わず叫びながら飛び上がった。


夕餉にする段になっても、まだ数匹生きていたからびっくりだ。

思えば、海へ出て川へ戻るのだから、小さくもなかなか強い。


歌津で教わった通り、塩を振ってざっと洗ってぬめりを取り、韮も入れて卵とじにした。


かき揚げや、熱いご飯に乗せたシロウオ丼もこしらえた。

淡白だが、だしが出て美味しい。


伊里前川でのシロウオ漁は、4月5月6月と、春から初夏にかけて行われる。

自然の廻りは、恩恵でもある。

巧く付き合えば、小さくも、生きる強さを見せるシロウオも来て、元気をくれる。


          シロウオの 力賜る 伊里前 


女川と新たな町の片鱗:(記録日2013年2月)

2017-09-29 11:57:35 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

今、女川湾の周辺は、被災した建物の解体が進んで更地が増え、山となっていた町の破片も消えている。

そして、新たな町を思わせる国道計画の高さ表示や、盛土などが所々にあった。

(↓解体済みの場所に盛土・旧七十七銀行・マリンパル跡地辺り)

(↓左端に国道計画高さ表示)

(↓女川湾周辺)

 

かつては、湾に沿ってたくさんの建物が立ち並んでいた。

女川町観光協会が作った小冊子には、かつての町の写真も載っていて、どれほど多くを失ったかが分る。


震災当時のことを見聞きし、現地を巡って歩くと、いろいろな事を再認識する。


どこへ逃げるべきか、迷っているうちに津波に飲まれてしまう。

避難場所の選定も、避難路の整備も、日頃から良く考えて用意しておかねばならない。


津波は、その時の条件や、地形によっても微妙に違う形で現れる。

一律の構造物で防げるものではなく、地域に応じた対策が必要になるのだ。


また、構造物だけではなく、人々の適切な避難意識や行動と合わさって、大切な命が守られることを忘れてはいけない。


少しずつ動きを見せる女川。


女川湾には漁船があり、製氷施設も出来た。


(↓女川湾と漁船)


(↓製氷施設)


でも、あの日から一変した暮らしはいつまで続くだろう。

困惑することも多いだろうに、そこには、出来ることから懸命に一つずつやっていく人々がいる。


現地の人々は、今日も仮の暮らしで辛抱している。

新たな町を作るべく、再び生業も住まいも取り戻すよう願って。


やがて花が咲くように、空き地に公園や店や工場が戻るだろう。

高台に家が作られ、人々が行き交うだろう。


だって、私らは生きているのだから。

きっとまた、町は作られ、ふるさとが生まれるはずだ。


語り継ぐ:女川(2013年2月の記録)

2017-09-28 12:36:59 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

女川湾に沿った道の脇に、櫓が組まれて看板が掲げられていた。

良く見ると「国道計画高さ」とある。

2階建ての高さほどもあろうか。新たな国道が、この高さに作られる計画だ。


実は、海側に津波防波堤を設け、さらに湾岸に嵩上げした国道を作る大規模な計画がある。

これほどの計画が提示されるには理由がある。

もしも、国道の嵩上げだけならば、この高さでも決して高くはないのだ。


万石浦の東端の「浦宿」辺りで、海から少し離れた所に蒲鉾工場の「高政」がある。

ここでは、各地から訪れる人々に、あの日の震災と津波のことを語り継いでいる。


当方が立ち寄った時は偶然に団体客がいて、語り部が映像を交えて淡々と、あの日のことを伝えている所だった。


語り部の伝える津波の様子から、女川では初めは静かに水が侵入したかと思うと、見る間に増水していき、建物を飲み込んでいったのが分る。


記録映像には、渦を巻いて町を飲み込む津波が映っていた。

その水の量は、熊の神社手前で高台にあった女川病院まで達したという。

病院も1階部分が浸水し、諸々流され壊された。

(↓女川病院:現・地域医療センター2012年2月撮影)

 

これほどの高さまで増水し、渦を巻いた津波。

女川で、これを目の当たりにして耐えた人々は、どれほど切なかったろう。


だからこそ考えるのだ。

同じ轍を踏まぬため、大切な命を守るために出来ることは何か。

語り部は、共に考える機会を、人々に分け与えてくれている。