男と女――金子と森の場合(Ⅸ)
1926年(大正15年)に、改造社が一冊一円の「日本文学全集」を刊行したのをきっかけに、春陽堂など他の出版社もこれに追随して文学全集を出して、いわゆる円本ブームが到来していた。ブームにあやかって父独歩の印税が入ってきた虎雄は、再婚した妻とホテル暮らしなど贅沢を重ね、競馬に金をつぎ込んでいた。金子が、すべてを蕩尽する前にせめて上海へ旅行しないかともちかけると、上海旅行を二度も経験している金子に案内役を頼んできた。こうした経緯で、金子と国木田虎雄夫妻の上海旅行が決まった。金銭的にも文学上も行き詰っていた金子にとって、苦境脱出のまたとない機会に思えた。彼は三千代にろくに相談することなく、一カ月の上海行きを決めてしまったのである。
「上海行の話が具体的になると、私は、妻にろくに相談もせず妻一人を吹きさらしの家に留守番させ、子供は私がつれて長崎にあずけ、国木田夫妻と私と三人で、約一ケ月の予定で上海へわたることを勝手にとりきめてしまった。そんなときの私は、自分勝手なタイラントで、のこされた妻の淋しさなどを忖度するゆとりのない浅薄な人間であった。」(『どくろ杯』)
一方の森は、このときの金子のことをどう受け取っていたのか。「金子光晴の周辺 11」で次のように語っている。
「森 あの上海行きは国木田虎雄さんがいっしょでしたね。実はそれまで子供連れの生活で、私は子供相手で勉強がちっともできなかった。黒板をぶらさげといて、そこになにかを書きつけたりしているのを見て、金子がこういう機会に、じっくり一度勉強したらどうかといってくれたんです。それには子供といっしょでは専心できないということ、それからもう一つは、女と子供だけでは笹塚が寂しいところなんです。新開地でして、春の嵐の強いときなど、裏木戸なんかが音を立てて鳴りまして、ほんとに怖いみたい。それに子供を置いて留守にするというわけにもいかないし、私一人なら、なんとかまだ戸締りをして・・・。当時、金子の実家が大久保にあって、怖くなったら、泊まらせてもらうといいといって、それで私だけ置いていったんです。それがとんでもないことになっちゃった。(中略)
松本 話はまた戻りますけど、そのとき、金子さんが乾さんを連れて東京を立たれます。森さんはそれでいいと、十分納得のうえだったのですか。
森 それは不安でした。だから東京駅まで見送っていきましたときも、とっても心配でした。もうそれは、窓から乾が手を出さないようにとか、そんなことまでいちいち注意したりして。けれども長崎へ行ってしまえば、預けて世話をしてもらったりした、前の経験がありますから、その点、わりあい安心していました。行き帰りが心配で、国木田さんご夫妻がいっしょでしたから国木田さんの奥さんに一生懸命で頼み込んだりしましたもの。」
森は家事や子どもの世話をするために落ち着いて机の前に坐る時間もなく、小さな黒板を家のなかにさげておいて、思いついたことをそこにメモ書きするといった有様だったのである。処女詩集を出して、ようやく詩人としてデビューした三千代には焦りがあった。子どもを両親の許にあずけて、金子が留守の間に文学や新しい思潮をあらためて学びたいという思いは強かった。
金子が国木田夫妻と東京駅を発ったのは三月のことであった。耳かくしの髪型で、縮緬の羽織を着て裾をもつれさせながら、東京駅のホームを追いかけてくる三千代の姿を見て、国木田虎雄は、「三ちゃん、なまめかしいなあ」と言った。残された森は一人の慣れていたつもりだったが、いざ実際に一人になってみると、風が揺する家で、一人で夜をすごすのが怖くなった。すぐに金子の実家である大鹿の家に泊まらせてもらいに行った夜、心から「しまった」と思った.
次回は年明けの5日に再開します。