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白龍のオウム・アーレフで過ごした日々

オウム・アーレフと新団体「ひかりの輪」について考える。

「インド哲学と仏教哲学の探求」からatom氏の実践part1

2006-11-12 00:27:08 | Weblog
 以前ご紹介した、「インド哲学と仏教哲学の探求」板に書き込みをされているatom氏が、いろいろ興味深い修行実践を書き込んでくださっているので、転載させていただくことにした。以前、印仏板で、和井さんに、私がいろいろ教えていただいていた時に、突然現れ、割り込んできたのが、彼との出会いであった。

 彼は、自らを識別を超えた者であると位置づけており、その地点に立って自らの体験を述べ、質問者にアドバイスをしている。しかし、自分の境地にまで、至っていないものに対しては、妥協することなく、持論を展開させ、相手の立場を受け入れることがないため、最後には相手が嫌になってしまい、その場から退場してしまうという感じであった。和井さんなども、どのように言っても、自分の主張を理解してもらえないので、最後は嫌気がさして、いなくなってしまった。

 そのような態度のため、常にatom氏対敵対者みたいな構図が出来上がってしまっていた。しかし、最近は、管理人さんや、通りがかりさんなどが、いろいろと質問されたことによって、識別を滅していく過程の、atom氏の具体的な実践方法が明らかになってきた。これを読むと、なかなか人の真似の出来ないことを、やってこられたのだなと正直驚かされた。

 オウムの修行法は、ヨーガ的な行法や瞑想が多いわけだが、それとはまた別な、アプローチの仕方で、自己の識別を徹底的につぶしていく方法を実践したようである。私には、彼の実践が、バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガの徹底ではないかと感じた。彼が、仕事を持ち社会生活を営みながら、これらの実践を続けたことに大変な価値がある。

 彼の修行の拠り所は、経典であり、聖書であった。すなわち、末法の世で頼りになる物は、教典しかないと見切り、師を持たず実践を積み重ねたようである。彼がいかに激流を渡るために、死に物狂いで経典を参考にしてきたかは、彼の書き込みの随所に見える経典の引用を見れば理解が出来る。

 出家と言う形態に甘んじてしまった、サマナの方達も、一般の方で真摯に道を求める方が、これだけの実践をしていることを知るべきである。このような実践を徹底的に在家でやり続け、ひとつの境地に到達したというのは、すばらしいことである。

 特に、これからM派では、奉仕を中心とした団体にしていきたいと考えるなら、非常に参考になる実践ではないかと思われる。また、在家の人間でも、死に物狂いで識別を超えたいと言う方には、是非とも参考にしていただきたい。私は、atom氏に、質問ばかりしていたら、実践しない者というのは、末法の世界をさらに進める可能性があると指摘されたので、質問を控えているが、本気で実践したい方は、atom氏にいろいろ質問されると良いだろう。

 ただし、ここで、atom氏の境地が、本当に識別を超えた境地かどうかを判別することは、私には出来ない。最近の私は、それは、識別を超えた人間が、判別すれば良いのではないだろうかと考えるようになってきた。それよりも、そのような実践を死に物狂いで実践したという点に価値を置きたいと思っている。それと、彼の口調を傲慢に感じる方もいるかもしれないが、そこは目をつぶって内容を吟味していただくことをお願いしたい。

 なお、抜粋であってもかなりの長さになってしまった。印仏板に、彼は、大量の書き込みを残している。いろいろな人とのやりとりを、つぶさに読みたい方は、印仏板に飛んで読んでいただきたい。特に、過去ログに、和井さんとのやりとりが入っているので、是非読んでいただきたいと思う。お互い道を目指しているもの同士のやり取りは、一読の価値がある。印仏板のURLは、コメント欄に貼り付けて置くので、そちらから飛んでいただきたい。

 後は、皆さんの判断にお任せすることにする。
それでは、これが、atom氏の書き込みである。


3132 返信
Re:「小悟」に至る実践法 atom 2006/11/03 23:27

さて、探求者のために語っておこう。
世の中の解脱に向けての賢者の教えの中には一系の覚者と、釈迦やEO氏などゼロ系の覚者の教えと実は二通りある。
共通の部分もあるが、否定形が多くなるのがゼロ系の覚者の教えだ。
肯定形が多くなるのが、一系の覚者の教えとなる。
この点を良く心得ておくと、進んでいく上で参考になることだろう。

実は一系の覚者の大悟としているものは、ゼロ系の覚者では中悟に値しそれは大悟とは言わないのである。
私はゼロ系の釈迦の教えを取り入れた関係で、意図せず、ゼロの究極に突入してしまったので一系とゼロ系の両者を理解できる視点に立つことができ、西に東に一にゼロに賢者の教えのエッセンスをうまく和合するに至ったわけだ。

なお、釈迦にしろEO氏にしろ、ゼロ系の覚者の教えの中には、一系の覚者の究極としている次元は最高で無い位置づけがしてあるのだが、多くの探求者の視点で読み取れるものでもないだろう。


中部経典・小空経
アーナンダよ、もはや無所有処も非想非非想処も思わず、ただ無相心三昧に専心し、浄まり、確立している。それゆえにここには無所有処も非想非非想処もなく、その悩みも無い。すなわち空である。しかし、いま専心している無相心三昧は空ではなく、残りものであり、それについて不安である。


さて、これは釈迦が無所有処、非想非非想処を超えた滅侭定(ニルヴィカルパ・サマーディ)の境地を表したものである。
私が「存在の解脱」と表現するところの段階だ。

しかし、これはゼロの覚者の悟りの境地ではない。
それで釈迦から「無相心三昧(ニルヴィカルパ・サマーディ)は空ではなく、残りものであり、それについて不安である。」この表現が出てくるのだ。

それで、EO氏はこの境地を中悟と表現した。

ゼロの覚者の悟りの境地はマハパリ・ニルヴァーナの境地である。
私は偶然にも釈迦の教えを取り入れた関係で、マハパリ・ニルヴァーナの境地に突入し、さらに帰還(生還)したので、この視点にたって語ることとなった。

この場合は帰還を生還と表現する。
そう表現するしかないのだ。
生還できない者も多かったことだろう。
以下が、釈迦がゼロ系覚者の境地マハパリ・ニルヴァーナを現したものである。


自説経8-1
「汝ら修行者たちよ、ある領域が存在し、そこには地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、虚空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなく、現世もなく、来世もなく、太陽も月もない。汝らに告げるが、そこには、来ることもなく、去ることもなく、留まることもなく、死去することもなく、転生することもなく、よりどころもなく、発展もなく、支えもない。それが苦悩の終わりである」

自説経8-3
「汝ら修行者たちよ、生まれざるもの、形成されざるもの、造りだされざるもの、構成力から生じたのではないもの〔無為〕は存在する。もし、このような生まれざるもの、形成されざるもの、造りだされざるものが存在しなかったとすれば、生まれたもの、形成されたもの、造りだされたもの、構成力から生じたものから脱出することは、けっして考えられなかったことであろう」


釈迦の教えの原点はマハパリ・ニルヴァーナの境地から生まれたのだ。
それは決して一系の覚者の境地である、滅侭定(ニルヴィカルパ・サマーディ)ではない。
私も「存在の解脱」を実現できた辺りから、ゼロ系一系の両者の教えの区分けが良くできるようになったのだ。


3133 返信
Re:「小悟」に至る実践法 atom 2006/11/04 12:21

まず、思考の解脱の修行とは激流なのだ。
その激流の一面を話しよう。

実に私の周りは理屈抜きにドロドロしていた。
空気が既にドロドロしていた。
先祖の因縁など諸々があったのだろう。
この因縁渦巻くドロドロとした環境の中で、人と人とも仲良くなど暮らしてはいなかった。
職場も家庭も。

私も欲界にいる時は、色情霊を呼び寄せてしまったり不成仏霊に憑依されていたり、様々だった。
特に女性の不成仏霊が多かったようだ。

彼らは欲界にいる人々の思念に反応してとりついている。
それで、知ろうが知るまいが生きている者も影響をこうむるのだ。
特に不運の反復現象の中にある者は、その思念パターンに反応した何者かがいる事だろう。

まず、解脱修行を始めると憑依霊達は顔を怒らせて妨害を開始した。

これが、激流の激流と言われる事の一端である。
欲界からの解脱(次元上昇)とは、憑依霊からの解脱と言っても良い様な部分があるだろう。

ある時彼らは禅定中の私の鼻をつまんで引っ張り回そうとした。
ある時は私が禅定しているその部屋中を、ぐるぐるぐる彼らがもの凄い勢いで回った。
やがて、彼らは部屋の中にあったオルゴールを鳴らした。
ポルターガイスト現象の発生だ。

憑依霊達は人間の思念にとりついている。
その思念を私が遮断または修養しようとするのだから、彼らは必死にそれを妨害する。

そんな状況でも禅定を解いてはならないのだ、ただ、ひたすら神仏を念じ恐怖心を払い除き無心に近い状態で耐え忍ばなければならない。
彼らは、人間の恐怖心の思念にとり付いてくるだ。
だから、恐怖心を払いのけただひたすら座り続けるしかない。


スッタニパータ958
修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、
スッタニパータ959
または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。──修行者は音のしないところに坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが
スッタニパータ960
未到の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。──修行者は辺鄙なところに坐臥していても、それら
の危難にうち克たなければならないのだが。

スッタニパータ184
「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」

相応部経典11-1-3-11~12
またわたしは、このように語る。―『修行僧たちよ。もしもそなたらが森の中にいようとも、樹木の根もとにいようとも、空家にいようとも、恐怖が起こったならば、戦慄が起こったならば、身の毛のよだつことがあったならば、その時にはわれを憶念せよ。かの尊師すなわち、敬わるべき人、全きさとりを開いた人、明知と行いとを具えた人、幸せな人、世間を知った人、人間を調練する無上の人、神々と人間との師、ブッダ、尊師はこのような人である』と。
修行僧たちよ。そなたらがわたしを憶念するならば、恐怖が起こっても、戦慄が起こっても、身の毛のよだつことがあっても、それは除かれるであろう。


幾日も幾日もこのような状況は続くが、それでも、心の修養が進んでくれば、やがて欲界から上昇し憑依霊たちは目前から消える。
これが激流の一端である。

私が激流とは発狂するか否かの中を潜り抜ける事だ、と言うのは実にこんな一面からもその状況が察しれることだろう。
実はこれ以外にも一般には恐ろしい事が色々あるのだ。

そして、一端激流に入り込んだら、死んで命を落とすのなら命を落とすその時まで、発狂するのなら発狂するその時まで、精神をすり切らせながら進むしかない。もはや退転はゆるされない状況下で、生きる屍のようになりながらも決死の覚悟で進むしかない。
禅修行の僧で発狂する者が出ることがあると聞くが、それは経験で分かる。

本山博氏が「超意識への飛躍」で同じようなことを述べていた。
私も氏同様に神仏を念じずにはいられない地獄を経験してない者はエセ宗教者と言わざる得ない。
私は彼らを本物とは認めない。
的を得た実践ならそれらは必ず起こる、避けては通れない。

さて、激流と一言で語るが、その一端を話しただけでも分かった事だろう。
どれ程の者達が、人々の益になる為に、自分の身を呈してこの激流を渡れるのだろうか。

多くの者達は、苦悩を抱えたまま、宗教を論じたりするお遊戯の世界で楽しんでいるのだから、本物の解脱や悟りを得るための宗教実践はあんまり関係ない世界かもしれないな。(笑)
楽しそうで哀れと言うか・・・ま、やめておこう。


3135 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/05 00:00

管理人さんお久しぶり。
私は一人でも大勢でもいつも楽しい人間ですので、たんたんと言語化練習させてもらってました。

>やはり、自分で体験した者の強みといいますか、直接、自分で経験した人間の体験談と
>いうのは迫力がありますねえ。

この世界では体験の無い者の話は信じない事だ。
賢者と言われる人たちを見れば、例外なく自分の体験をベースに語っている。
体験の無い本の受け売りの知識の者は、だいたい見れば雰囲気で一発で分かる、彼らには尋ねても所詮貧弱な体験しか出てこないと言う共通の特徴を持ち合わせている、相手にするだけ無駄な徒労だ。
好きにさせておくのが一番いい方法である。

せっかくなので、実践をもう少し明らかにしておこう。

さて、私は欲界にいる時の実践時に、夜中に職場の3棟からなる4階建ての誰もいない施設(職場の施設はとても大きい)の中を、明かりをつけず手に明かりを持たずに、暗闇の中を恐怖心を取り去りながら2時間以上歩いた。
誰もいない暗闇では、少しの音も大きくなって聞こえるものである。
年に何度かやった。

現象に対する恐怖心を取り除かなければ、欲界から次元上昇することは出来ない。
恐怖心は何も無いところでは表面に出てきてくれないので、取り除くことは出来ない。
だから、自分の中から恐怖心が出て来る所にあえておもむく必要があるのだ。

その時浮かび上がってきた恐怖心と同化しない実践をして、初めて恐怖心を超えることが出来る。
私は、人々のため、生きとし生ける者たちの至福の為に、このような実践を敢行した。
自分のためと言う動機は、私には一切無かった。
人々の為に自分の精神と肉体を捧げる覚悟、これが実践者の姿勢だ。

スッタニパータ958
修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、
スッタニパータ959
または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。──修行者は音のしないところに坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが
スッタニパータ960
未到の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。──修行者は辺鄙なところに坐臥していても、それら
の危難にうち克たなければならないのだが。

私は実践として接する全ての人に、逆らうことをしなかった。
右を向けといわれれば右を向き、左を向けといわれれば左を向いた。
500円のチケットを冗談で5000円だと言われたのだが、私は5000円出したが、すぐに釣りが戻ってきた。
共同募金とみれば、思ったよりも多めに募金や寄付をせっせとしたので、ラジオで度々名前を読まれていたと聞く。
道を歩く時は空いている手に道に落ちているゴミを拾いながら歩いた。住んでいる所の2件両隣の前まで綺麗に掃除をした。
職場の流し場、ゴミ捨て場も度々掃除をした。
徹底して私は誰よりも下の者として振舞ったのだ。


今、私は人々の為に何ら実践を為すこともしてはいない。
しかしこれは、私は実践を捨てたのではなく、人々と言う対象が私の前から消えた結果、実践したくても実践不可能になったのだ。
実践可能なら私は、人々の至福の為に命を捨ててでもまだ実践を続けている所だ。
これが、自他の識別作用を越えることの真実だ。
なお異論のある者は、本の受け売りの知識ではなく、自らのその経験を提示しそれは違うと言うがいい。
貧弱な経験しか持ち合わせない口先だけのものたちよ。

私は意識だ、この掲示板を見ている思考の者達とは元々異次元交流だ。
肉体がある事が異次元交流を可能としている。
言葉や思考や行動が多くの者たちの本体だろう、しかし、私は意識の次元から言葉や行動や思考を操って、その者たちと異次元交流をしている。肉体が無かったらそもそも別世界だ。

生きとし生ける者たち、人々の至福のために私は耐えて実践した来たのだが、解脱(次元上昇)後は、実際に回りには無言のうちに好影響が生まれた。
住まいの雰囲気もさっぱりした。
私と対話する者も、主に世間話していても、なぜか気持ちが爽やかになると言う事から、私はさっぱり爽やか系と表現されてたりして一人でに頼りにされる立場だ。

私は仕事をしている部屋の者6人の中で一番年が下ですぐ上は私より10歳上の人だが、職場のスタッフも笑顔が多くなった。
私も離れた場所の四つの施設の責任者になったり、誰よりも下の者として振舞った私だが、解脱後は面白い事に発注責任者になったので、自分ではぺこぺこしなくていい、反対にぺこぺこされる立場になってしまった。(笑)

自分が変われば回りが変わるものだ。

3137 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/05 10:54

さて、実践法について自らの体験を例にして、もう少し明らかにしておこう。

まず、思い(アストラル界の行為)を殺して再び立ち上がれないようにまでしてしまわなければ、思考の解脱(意識の次元)には辿りつけない。

私は遭遇する現象に応じて、常に自分の中から湧き上がってくる思いを、細かく逃さず捉えて、正しいか正しくないか、と言うフィルターに掛けた。

基本的には、正しいと判断できるのにその事を私はやりたく無いと言う思いが発生した時、やりたく無いを捨てて正しいことを実行した。
やりたいと言う思いが発生した時、それをやる事が正しく無いと判断された時は、そのやりたいと言う思いをやらなかった。

常に正しいと判断される方を選択する。
そうすると実質的には、やりたいと思う事はやらなくて、やりたく無いと思うことを率先してやると言う内容が増えてくるのだ。
つまり、やりたい、やりたく無い、このような現象に応じて動きまくる思い(アストラル界の行為)との同化が断ち切れてくる。

ただし、言葉で言うのは簡単だ、実践は激流となる。
それは、ストレス因子に自ら体当たりして破壊していく行為なのだ。

私はこの実践において、顔色は青白くなり、体重は激減し、生きる死体のようになって、生きとし生けるものたちの至福のために自分の身を捧げる思いでこれを実践した。

なお、私は実践期間はほとんどの知り合いから縁を絶たれた。
今は縁も復帰しているが、理由は私が彼ら彼女らに対して、徹底的に神を敬うようにして敬語を使って接したからだ。
気持ち悪がられたわけだ。
しかし、私は自らの中の依存と馴れ合いと言う煩悩を見切っているので、その思いと同化することは私にとって悪魔への敗北を意味していた。それで、周囲の者にはことごとく私は他人行儀に礼を尽くして、神に接するようにして敬語を使用し接したのだ。

中にはそれでもその期間、縁を保ち続けた知り合いと旅行に行ったが、どこに行ってもまったく見ている景色は同じだった。
実践中は、入ってくる感覚を楽しまないと言うフィルターが掛かっているので、どこに行っても墓場を見てまわっているのと全く変わりない。延々と景色だけが変わるが、全て色気のあせた延々と墓地の景色を見ているようなものだった。
味覚についても同様だ。入ってくる感覚にフィルターが掛かっているので、美味しいともまずいともなかった。

もちろん今は私にそのような感覚のフィルターは無い。
味はそのままの味だ。美味しいものは美味しい、ただし執着と言うものが無いから、後に尾を引く事無く、その時々で片がつくのだ。つまり、美味しいと言う感覚は有っても、それに対しての執着が無いのです。
一言で言えば何ら苦悩が生ずる事無く、快適と言う事ですね。

私は正しい事をやり抜いた、生きとし生けるものたちの至福の為の行為をやり抜いた。
もはや私の前に正しい事も、生きとし生ける者たちの至福の為の行為と言ういかなる対象も消え去ってしまい為す事は出来ない、これらは為し終えてしまった。
私には正しいこと、人の為、このように何かに取り組むと言う次元を超えた、ただ瞬間瞬間にやる事の意識の次元に辿り着いた。
今や私が何かの為に何かを為すと言うことは遣り抜いて消滅したので再びこのような事を為すことは無い。


さて、私の対話は他所では良く記録されたり他所に引用されたり対話録にされたりしたが、ここでは大した前向きな探求者もいないようだから、後で気が向いたらログでも辿ってみるといいだろう。

まず、私は私の今いる次元にたどり着けたものを見ないどころか、欲界にいる者たちが精神世間にたむろしているだけのようだった。
それでも、這い上がろうとする者がいたのは事実だ。私は実践法が効果を表さない、的確で無い部分を見抜いて指摘した。これはその者より先にいる者しか示すことは実質不可能だからだ。

探究心の欠片の無い、自らの人に明かすほどのものも無い貧弱な体験しか持ち合わせていないような本の受け売り知識の者の話は無視することとしたが、探究心のある者は問うといい。
私が自分で言うのもなんだが、実際に途上と称する私以上のものを見ないのだから、私に答えられる範囲で提供できる情報があることだろう。同じ途上の者同し、仲間が仲間に尋ねるように尋ねればいい。
探求者に対しては、質疑応答の姿勢はいつも開いている。

大パリニッバーナスッタンタ6-5
「また、修行僧たちよ。ブッダに関し、あるいは法に関し、あるいは集いに関し、あるいは道に関し、あるいは実践に関し、一人の修行僧に、疑い、疑惑が起るかもしれない。修行僧たちよ。(そのときには)問いなさい。あとになって、〈わたしたちは師にまのあたりお目にかかっていた。それなのにわたしたちは尊師にまのあたりおたずねすることができなかった〉と言って後悔することの無いように。」

3139 返信
Re:atomさん、ありがとうございます atom 2006/11/05 23:28

思考の解脱が達成された時は奇妙なものだった。
そのような日が来るとは、予想してなかったのだ。
私はずっと永遠に、人々のため、正しい事の実践、この修行を続けていくつもりだった。

たしかに、正しい事が目の前から減っていったことは自覚があり、かなり楽に生きられるようになった自覚があったのだが。
その日確かに朝はいつものように人の為に生きていた、ところが昼過ぎ自室に入って人のためと思おうとしても、思いが無いのだよ。
思いが無い。

正しいことを実践しようと思っても、思いが無いのだよ。
私には思いが無い。

思いが無いのだよね。
私はただ生きている。
思い無く。
私はただただ生きている。

私はそれからは、ただ生きる事になった。
誰のためとか、正しいとか正しくないとか関係なく。

私は、人の為の正しい行為を為し終えた、もはや実践不能だ、再びこのような迷いの生き方をすることは無いと言うことを自ら知って、それからはただ快適に生きるだけになった。

私は釈迦の教えの相対の原理(縁起)の実践とは、こう言うものだったのかとまじまじと知ったのである。

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Unknown (印仏板)
2006-11-12 00:32:39
「インド哲学と仏教哲学の探求」

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