胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

まず、『HUNTER×HUNTER』には「地獄があったら、また会おうぜ」というセリフがある。

 

(冨樫義博『HUNTER×HUNTER』28巻p.152 以下は簡略な表記とする)

 

このページの最後のコマに、くだんの「地獄があったら また会おうぜ」というセリフがある。

 

この場面だけ抜き取っても前後の流れとかは分からないだろうけれども、このセリフは個人の武による戦いに敗北したネテロが、最初から仕込んでいた爆弾を起動させる際に言ったそれになる。

 

この「地獄があったら また会おうぜ」という言葉について色々書きたくなったので、今この記事を僕は書いている。

 

まぁ、どういう話をしたいのかを今から説明していく。

 

僕は以前、「『HUNTER×HUNTER』の「詰んでいたのだ 初めから」について他」という表題で、『HUNTER×HUNTER』作中にある「詰んでいたのだ 初めから」というセリフが誰のものであるのかについての話を書いたことがある。(参考)

 

一時的な話で、少し時間が経てば他のサイトに取って代わるようう話だろうけれども、これを書いている今現在、「詰んでいたのだ」とかそういう単語でGoogle検索を行うと、その記事が一番上に表示されるという事情があって、それなりにその記事にアクセスがある…というか、確認出来ている限り毎日その記事にはアクセスがある様子がある。

 

あの記事に用事がある人もいるのだなと思う一方で、読まれたところで僕に利益は特にないので、まぁだから何だという話でしかない。

 

そんな中最近、アメブロに仕様変更があった。

 

そのアメブロの仕様変更によって、その日にアクセスがあった記事について、最近一か月の間にどのようなワードでその記事に辿り着いたかが分かるようになって、その中で「地獄があったら また会おうぜ」という言葉でこのサイトに訪れた人が居たということが分かった。

 

僕はそれを読んで、そう言えば「詰んでいたのだ」云々がどうしてネテロの台詞と判断できるかの話の中で、「地獄があったら また会おうぜ」という台詞を以てして、「詰んでいた」云々が王の台詞であると主張するような人が居て、その判断に対して僕の意見を書いていなかったなと思ったということがあった。

 

なのでこの記事では、「地獄があったら また会おうぜ」というネテロの台詞があったところで、「詰んでいたのだ 初めから」という台詞はネテロのものであるという判断は揺るがないという話をして行きたいと思っている。

 

さて。

 

「地獄があったら また会おうぜ」という台詞がある場面は先に引用したけれども、この記事のコンセプト的に、その言葉が出てくる一連の流れは引用した方が良いと思うので、その辺りをまず引用したいと思う。

 

(同上pp.149-153)

 

最後のページにある「詰んでいたのだ 初めから」という台詞について、これはアニメ版だと王の台詞として扱われていて、王の声優が声をあてているという事情がある。

 

その事も理由となっているのだろうけれども、この台詞が王のものであると主張している人がネット上では多く見られていて、反対にネテロの台詞だと主張する人もいて、僕は以前、文脈とか置かれた状況の違いとか、そもそも最初から詰んでたのは王だけだとか、王の台詞だとすると「のだ」はおかしいとか様々な理由を挙げて、あれをネテロの台詞と判断した方が妥当だろうという話を以前している。(参考)

 

僕はネット上にあった王の台詞と判断するような場合の判断材料や、実際に来たコメントなどで、あれを王の台詞とするような様々な意見について、それはネテロの台詞と判断することを揺るがすようなものではないという話を実際したけれども、その中で、「地獄があったら また会おうぜ」という台詞を以て、あれはネテロの台詞ではないという主張をしている人が居て、そのような場合の反論は特にしていなかったというのは先にした話になる。

 

なので、この記事ではその話をしたいと思う。

 

まず、「地獄があったら また会おうぜ」というネテロの台詞があって、この台詞があるから「詰んでいたのだ 初めから」という台詞はネテロのものではないという主張をする人の意見を見るに、大体、次の三つがその根拠になっていた。

 

1.「地獄があったら また会おうぜ」という台詞の後にネテロの台詞が続くのは格好悪いから(詰んでいた云々はネテロの台詞ではない)。

2.「地獄があったら また会おうぜ」でネテロの台詞は終わりであり、その後に言葉が続くのはおかしいから。

3.あの時点でネテロは心臓が停止しており、絶命しているからその後にある台詞がネテロのものであるはずがない。

 

この三つが大体、「地獄があったら また会おうぜ」という言葉を理由として、「詰んでいたのだ 初めから」という台詞をネテロのものではないと主張する場合の根拠となっていた。

 

実際、その理由で詰んでいた云々はネテロの台詞ではないと主張した人が居たのだから、少なくともその人にとってはそれは説得力のある話であって、その人が一人そうであるのだから、他の人もその理由で納得する場合もあると思う。

 

…とはいえ、3.の判断が絶対的な間違いだという話はこの記事で後にするけれど、他の主張について、全体的に「詰んでいたのだ 初めから」という台詞がネテロのものではないという決定的な証拠になるような話ではなくて、論拠としては弱すぎるという部分はある。

 

別にそれらの事があったとしても、ネテロが最初から詰んでいるという事実などないという話は覆らないし、王の台詞とすると「のだ」はヘンテコだという話が解消されるわけでもない。

 

ネテロは王が初めから詰んでいたということを知っている一方で、王は全く把握出来ていないという状況が変化するわけでもない。

 

ただけれども、「詰んでいたのだ 初めから」がネテロの台詞だとするに際して、「地獄があったら また会おうぜ」という台詞は詰んでいた云々がという台詞がネテロのものではないという話に繋がらないと示した方が良いとは思ったというか、反論が想定できるのならそれは潰しておきたいと思ったので、順番に1.から見ていきたいと思う。

 

まず、1.「地獄があったら また会おうぜ」のあとに台詞が続くのは格好良くないという主張について。

 

まぁ言いたいことは分からないでもないのだけれども、恰好良いとか悪いとかは個人の主観の問題になる。

 

結局、どのようなものを格好良いと思うかは個人の裁量の問題であって、他人にどれだけダサく見えたところで、本人が格好良く見えたならばそれはその人物にとっては格好良いのだから、その事は個人で完結する問題であって、何かの証拠となるわけではない。

 

男子小学生が龍のイラストが描かれたバッグや、小さなメタリックな剣のアクセサリーを好むような場合はあるけれども、大人はそれを使えないのが普通であって、その理由はダサくて無理だからなわけであって、けれども、それを好む男子小学生にとってはカッコいいデザインであるというのは確かになる。

 

要するに格好良いとか格好悪いとかは私がそう思ったという個人的な体験であって、客観的な事実の根拠になるわけではない。

 

例えば、「地獄があったら また会おうぜ」の後に台詞が来るのはダサいと主張した時に、「私はダサいと思わない」と反論があったとしたならば、この話はそれ以上進まない。

 

別に格好良ければ正解という話ではないし、格好悪かったら間違っているというわけでもない上に、少なくとも僕は「地獄があったら また会おうぜ」の後に台詞があっても格好悪いとは思わない。

 

要するに1.の主張では「詰んでいたのだ 初めから」という台詞がネテロのそれではないという絶対的な根拠となりえないという話になる。

 

なんつーか、カッコ悪かったり締まりが悪く思えたところで、文法や前後関係の文脈を考えるに、気持ちでは受け入れたくはないけれど、それを正解とせざるを得ない現代文の問題なんていくらでもある。

 

結局、この話はハンタの読解なのであって、読解的に格好良いとか悪いとかは理由として弱すぎるという話です。

 

そもそも僕は格好悪いとも締まりが悪いとも思えないですし…。

 

次に、2.の「地獄があったら また会おうぜ」でネテロの台詞が終わりだという判断について。

 

この事は最後の挨拶を済ませたのだから、ネテロの台詞はあそこで終わりだという主張なのだと思う。

 

ただ…現実の話として、「さよなら」の言葉を告げた後に、告げた対象がその言葉に引っかかったり、難色を示したり、反発してきたならば、さよならの後に言葉が続くのは普通の出来事なのではないかと思う。

 

あの辺りを王の視点を追って読んでみれば分かるのだけれども、王はネテロが今から何をしようとしているのか全く把握出来ていない。

 

(同上)

 

最後のページの王の表情を見たら分かるように、王はネテロの行動について行けていない。

 

そんな中でネテロは自分の指を心臓にぶっ刺したわけであって、それに際して「地獄があったら また会おうぜ」と言っている。

 

その直前まで王はネテロが何をしようとしているのか全く分かっていない状態で、ここで「地獄があったら また会おうぜ」と言ったことによって、王はネテロが地獄に行くつもりであって、これから死ぬ気だという事と、地獄で会おうと言うのだから、王を道連れに死のうとしていることを初めて把握できた場面になる。

 

王はネテロが自分に対して、命を使った道連れ行為を何かしら行うと把握した時に「貴様は…!」と言って、その後に、「そう…貴様は… 詰んでいたのだ 初めから」と告げたという流れになる。

 

(28巻pp.152-153)

 

王が言う「貴様は…!」に続く言葉が何なのかは分からない。

 

「貴様は…!(初めから道連れにするつもりだったのか!)」でも成り立つけれども、王は描写的にネテロが何をするつもりなのかまでは把握出来ていないので、「貴様は…!(余をハメたのか!)」の方が近そうに思えるけれども、まぁ実際の所、「貴様は…!」で終わりで、続く言葉は想定されていないパターンもあり得て、諸々考えて、想定されてないパターンが最も適切なのではないかと思う。

 

もう一度、先に引用した場面のモノローグを見てみれば分かるけれど、王は今何が起きているのかあんまり把握出来ていない。

 

モノローグでは初めて体験する恐怖が語られていて、もしこの場で何が起きているか王が把握していた場合、そんな漠然とした恐怖ではなくてネテロの行動について語られなければならない。

 

ていうか、把握出来ていたらネテロの現状についてを、死を待つのみであるはずの老人だと評価はするのはおかしいから、状況を把握出来ていないとしか処理できない。

 

(28巻p.152)

 

ネテロが何をする気なのかを理解していたならば、ネテロのことを「死を待つのみであるはずの老人」であると思うわけがない。

 

これを読めば分かるように、王はネテロが何をしようとしているのかが分かっていない。

 

そんな風に王は状況を全く理解出来ていない所に、急にネテロが心臓を突き刺して、「地獄があったら また会おうぜ」と告げた場面になる。

 

結局の所、ネテロは「地獄があったら また会おうぜ」と「さよなら」の言葉を告げたけれども、王がそれにリアクションを行ったから、それを見て先の地獄があったら云々の言葉の真意を伝えただけと考えれば、全くおかしな流れではない。

 

普通に現実世界でも、相手が急に「じゃあねバイバイ」って言ってきたとして、なんで急にそんなことを言ったか分からなくて、「え?」ってリアクションを返したら、相手が「じゃあねバイバイ」と言った理由を続けて言うのは変な場面ではない。

 

さよならの言葉が発せられたら、その時点より後にその人物の言葉が以後一切続かないなんてことは全くない。

 

まぁ要するに、「地獄があったら また会おうぜ」という台詞は、「詰んでいたのだ 初めから」というそれがネテロの発したものではないという主張の根拠足りえていないという話になる。

 

最後に、3.の「地獄があったら また会おうぜ」の時点で心臓が停止していて、絶命しているからその後の台詞はネテロのものではないという主張について。

 

そもそも、人間の心臓が停止した時に何故死ぬのかと言えば、心臓の停止により血液の循環が止まり、脳に酸素が送られなくなって意識が失われて、その後に脳細胞が死ぬことによって再起不能になって死ぬという流れになる。

 

だから、別に心臓が停止したしばらく後は普通に生きている。

 

当たり前の話ではあるのだけれども…。

 

そして、ネテロはそもそも、0.1秒よりも短い時間で相手に言葉を伝えるという能力を持っている。

 

(25巻p.75)

 

しかもこの能力は相手も同じように刹那の時間を普通の時間のように体験するようなそれになる。

 

(25巻p.77)

 

要するに、ネテロが心臓を突き刺してから0.1秒よりも短い時間生存できればネテロは言葉を相手に伝えることが出来るわけで、ネテロが心臓を突き刺した時点より後に台詞があるということは、作中の描写に従えば何らおかしくないことになる。

 

だからそれを以て「詰んでいたのだ 初めから」がネテロの台詞ではないという主張は成り立たないそれで、けれども、ネット上にはそれを根拠として、あれを王の台詞だとする人が実際居たので、ここではその話をすることにした。

 

そんな感じの『HUNTER×HUNTER』の「地獄があったら また会おうぜ」について。

 

この記事は先に言及したように、アメブロの仕様変更で「地獄があったら また会おうぜ」という検索ワードでこのサイトに訪れている人を見つけたからで、このサイトに存在する「地獄があったら また会おうぜ」という言葉は、コメントで寄せられた、僕が主張するところの詰んでいた云々がネテロの台詞であるという話への反論の中に含まれているそれだった。(参考)

 

具体的には28.のコメントです。

 

僕がそのコメントに返した応答は、それ以外の所があまりに酷い内容のコメントなので、地獄云々よりもそういう酷いところへの苦言に費やされていて、「地獄があったら また会おうぜ」という台詞については触れていなかった。

 

そうだというのに地獄云々であのページに辿り着いた人が居るというその状況を見て、あのコメントをしてきたあの頭悪い人の事はどうでも良いのだけれど、他の人も同じようなことを思うかもしれないと思って、その反論は用意した方が良いかなと思ってこの文章を今書いている。

 

僕は今まで詰んでいた云々について沢山あれこれ言ってきたけれども、やっぱりどう考えてもネテロの台詞だよな…と思う部分がある。

 

そんな感じのハンタについて。

 

今月は元々、マケドニアの某将軍について記事を作る予定で色々準備を進めていて、その史料を確かめたり構想したりするだけで数時間とか費やしていたけれども、その中でこの将軍の話をするなら、あの将軍の話を先にした方が良いだろうという判断があって、焦点をずらして違う将軍の話をするための下準備を色々進めていた。

 

そんな中で、彼の老年に至るまでの経歴が不明瞭だという話をする必要が出てきて、それに際して、プラトンの『ゴルギアス』の話をする必要性が構成上出てきてしまった。

 

ただその話は、違う人物の解説の記事でする予定のそれだった。

 

そうとすると、『ゴルギアス』の話が必要な人物の記事から作った方が色々楽なわけであって、そういう風に想定がスライドしまくって時間はなくなったし、何より、当初の予定では今月その人物の解説を書く予定とかはなかったから、まるでモチベが保てなかった。

 

だから、今月はなしになりそうだったけれど、今月が終わりに近づいて、これもう無理だゾってなった時に、この記事の内容に思い至って、どうせ3000字くらいにしかならないけれど、ないよりマシだろうで書き始めたのが実際になる。

 

そして、書き始めて必要なことを頭から順番に書いていったら、ハンタの内容だけで5000字は越えていたので、まぁ今月はこれですね…。

 

この記事単体で読んでいる人には意味不明な内容だろうけれど、他の記事を読んでいる人にとっては、僕が何を言っているのかは分かる内容だと思う。

 

結局、体調でもスケジュールでもなんでもなくて、問題はモチベーションで、基本的に漫画の解説とか書くやる気でないからね、しょうがないね。

 

そんな感じです。

 

では。

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