ミスターに「偉そうに腕組んで見てんじゃねえよ」と篠塚利夫…長嶋ファミリーになった「地獄の伊東」
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[長嶋茂雄物語]<7>
「ワンちゃんが打線の中で孤立している。もう一人(強打者が)どうしても欲しかった」。1975年の暮れ、日本ハムから巨人への移籍が決まった張本勲に、長嶋は説明した。
現役を引退して監督に就任した長嶋が直面したのが、自らが抜けた打線の弱体化だった。厳しいマークにあった王貞治はブレイクしたプロ4年目以降でワーストの33本塁打。全球団に負け越し、47勝76敗7分けで球団史上初めて、そして現在までで唯一となる最下位に沈んだ。
そうして迎えた76年。4番王の前に広角打法で左右に打ち分ける張本を置く「OH砲」で臨んだ。張本に左翼を守らせるため、名手の高田繁を三塁にコンバート。76勝45敗9分けで、見事に復活優勝を飾った。翌年も2位ヤクルトに大差をつけて連覇を果たす。
ただ、ベテラン中心のチームに、長嶋は限界を感じていた。78年は2位。79年、再び5位と低迷すると「もう小手先の補強策だけではチームの再生はできない。若手を徹底的に鍛える必要がある」と考えた。10月末から約1か月にわたって行ったのが、伝説になっている「地獄の伊東キャンプ」である。
メンバーは若手18人。場所は長嶋が立教大への入学を目指してセレクション合宿に参加した伊東スタジアムだった。「テーマは技術より精神面。心のキャンプだった」という。午前中は自らノックバットを振って守備の特訓。午後は、江川卓、西本聖、鹿取義隆ら投手は投げ込み、中畑清、松本匡史、篠塚利夫(和典)ら野手は500~1000回、バットを振り込む。夕食後もミーティングと素振り……。
走り込みでは、アップダウンの激しい「馬場の平」の数百メートルのコースを10周した。キャンプ最終日。中畑から「シノ、何とか監督走らせろ」とけしかけられた篠塚が、長嶋に向かって言った。
「偉そうに腕組んで見てんじゃねえよ。1回、自分で走ってみろ!」
両手に唾を吐いて「よーし――」と走り出したものの、息も絶え絶えの様子で戻ってきた青年監督の姿に「長嶋コール」が起きた。
「長嶋、長嶋、長嶋……」
「みんなが長嶋ファミリーになった瞬間だった」と中畑は振り返る。キャンプの参加者の多くがその後、巨人の主力として長く活躍することになる。(敬称略)