うずまく円にもがく。「仮面の家」&「息子殺し」。現代の話題あり
ちょっと前、教育虐待と言う言葉が世間を騒がせました。この言葉は比較的新しく、どういう状態が「教育虐待なのか」を模索中。書きあげてみて「だれが最後まで読んでくれるのだろう」と自分でも思った。かなりの長文です。ごろ寝の友としてどうぞ。
ある世代以上の方なら、家庭内暴力による殺人事件の紙面記事を読んだことがあると思います。
金属バット事件でしたか※。事件は1980年・昭和55年に起こり、5年後テレビドラマの題材になったそうなので、そのあたりだと思います。
あるとき父が言いました。
「おまえも親を殺さないでくれよ」
そのときわたしはいくつだったんでしょう。
学生だった私はこんな風に答えました。
「なんでわたしが。そんなことしたらご飯食べれないじゃん」
父「おおそうか。」
「犯人になるのも嫌だし」
父は安心したような、複雑な顔をしていた気がします。
こんな会話を思い出したのは、「仮面の家」と「息子殺し」※2を読んだからです。金属バット事件は息子が両親を、「仮面の家」は両親が息子を襲った事件です。金属バットの方は瞬間湯沸かし器のような怒りを感じますが、「仮面の家」と「息子殺し」の方は大きなあぶくをうみだす鍋の表面のような、ゆらゆらする怒りを感じます。
「仮面の家」と「息子殺し」は同じ事件を扱っています。1992年6月埼玉県のA市の高校に勤務する男性(54才)とその妻(49才)が就寝中の長男(23才)を襲った事件※3です。
バイトをしながら、一年間で200万(学費は別にして、月平均10万)を親にねだり、高校・大学を中退、アルコール依存症の疑いを抱え、
ナイーブな悩みを母親に相談し、母親に自作の英語の曲のデモテープを聞かせ、母親が作った料理を母親に投げ、父親を一度殴り、諸々に耐えかねた両親が早期退職して自分を置いていくという宣言に怒った青年。
自分から彼女に別れを切り出したのと同じ日に「友人として一年後に会う」約束をし、冷蔵庫をひっくり返し(一回のみ)、父親に「てめえ」、母親に「ラーメンを作れ」と言った長男は助かりませんでした。
熱心な教師の父親と良妻賢母の母親への嘆願書の署名が集められ、8万5千人分に上ったそうです。「息子殺し」P34
両親側の証人からすると、両親は「立派な人」で、長男は「さわやか好青年」でした。どうしてそれで家庭内殺人が起こるのでしょうか?
証人のうち何人かは証言します。実名でしたが、わたしが○○にしました。
「これからも以前同様の付きあい方を〇〇夫婦とはつづけたい。あの一日だけはなかったことにして」と。
うーん、どうなんでしょう。個人的には「なかったふり」はできるかもしれないど、「なかったこと」にはできないなあ。
コロナ前、コロナ渦中と、子どもの受験のために埼玉県の高校6、7校ほど見に行きました。私立と違い、公立校の木々は大抵手入れをされておらず、ボウボウでした。見学に行ったうちの一つが、父親が当時勤務していた高校でした。事件から30年ほど経っています。雨が降っていて、川とは名ばかりの川が流れ、木が生い茂り暗い感じがしました。
埼玉県で名が通っている土地と言えば、観光地として「秩父」「川越」、生活の場としては「浦和」と「大宮」でしょうか。
浦和と大宮は、車で30分のほどの地域で、同じ経済圏と言えるでしょう。しかし、この二つの地域は仲良し、と言うわけにはいきません。大宮は氷川神社を中心とした商業で商業地区、浦和は文教地区と呼ばれます。
どんな土地に暮らしていたか
一家が暮らしていたのは旧浦和市(現・さいたま市)という県庁所在地です。
旧浦和市には市役所、地方裁判所(本庁)、伊勢丹百貨店がありました。伊勢丹百貨店は伊勢丹グループのなかで新宿についで二番目の売り上げでした。この地域に住むひとは、県外者から出身地を聞かれて「埼玉県」ではく「浦和」と答えるという噂があります。
当時、埼玉県には学区制があり、伝統と進学率の両面で県トップの公立校は男子校でした。一家が暮らす区には、県トップ学校(男子校)と、県の女子校トップがありました。したがって自然と教育への意識が高くなります。この二つの高校はどんな感じだったのでしょうか。改行()はわたしです。
小・中学校のPTAの会長や副会長、青少年育成会のあるいは少年野球のチームやサッカークラブの会長などになる人は地元出身、それも浦高、一女の卒業生ではないと何かとうまくいかないのだそうだ。
現にわたしもPTAのクラス役員をしていたとき、「あの人は浦高出身ではない。」「一女の卒業生でもないくせに偉そうな顔をして、、、」といった他人への悪口を聞かされたことがある。(中略)
浦高(男子校)か一女(女子校)を出ていないと、人格的にも社会的にも地元でなかなか認められないという、きわめて保守的な地域性があるらしい。
両親はまさに、浦高(県立浦和高校の愛称)・一女出身です。
父親はさらに東大に進んでいます。浦和高校卒業生の目標ルートを達成したわけです。
長男もまた浦高に入学したものの父親が退学届けを出します。高校を中退すると決めたのはだれなのか、書いてありません。
今は学区制は廃止され、公立校の県トップの定義も難しくなっています。偏差値か、東大進学率か、医大・有名私大を含めた進学率か、伝統、OBの多種多様な人脈か。どれをもって県トップと呼べばいいんでしょうか。
旧浦和市は旧与野市・旧大宮市と統合し、さいたま市となりました。
市役所は2031年(令和13年)、旧浦和市から旧大宮市に移転する予定です。移転に当たり、さいたま市大宮区北袋町1丁目の名称を中央区にしたいという案がでています。
このように旧浦和市と旧大宮市の争いが今もあるようです。
現在、伊勢丹は三越と合併し、浦和は「浦和伊勢丹」のままですが、三越も伊勢丹も全国的に店舗数を減らしました。
部活と地域性
長男は中学時代テニス部のキャプテンだったそうです。<>はわたしですが、()は引用内の注意書きです。
顾問教師は、テニス部のキャプテンは名門浦和高校に入るべし、あるいはテニスが上手で学力のきわめて高い生徒だけがキャプテンになる資格がある、という指導をしていた。
<中略>
彼の翌年、同じく中学のテニス部のキャプテンを務めた青年は同じく浦和高校に進み、卒業後、浪人中に自殺した。(浦和高校は公立中学ではクラスから一人はいるかはいらないかというくらいの難関である。)
さらに、彼らの三~四年下の学年にいた陸上部のエースで成績バツグンという生徒が、浦高に進む直前に中学校の職員室に放火した。
<彼の翌年>が彼の一つ後輩を指すとして、浦和高校卒業後浪人中に自殺したとすると、わずか5年足らずの間に自殺一人、職員室に放火が一人、なかなかの事件率です。
この顧問教師の発言に令和のわたしはついていけません。この長男は昭和43年12月生まれ、わたしより5歳上です。わたしは昭和48年なので、年代からすれば放火した生徒の一個下になるかと思います。
昭和44年生まれの生徒が中学生の頃、学校は荒れていると言われました。長野県の母校ももちろん荒れていて、それに嫌気がさした学校側は制服を学生服からブレザーに変えた話があるくらいです。
覚えているのは「卒業式に窓ガラスが割られた(担任の先生の体験談)」「先輩はそり込みを入れていて、怖かった。(話してくれたのは3年生、わたしは1年生)」や「不良っぽい他校の中学生が授業中にやってきて、先生が穏便に追いかえした(在校中目撃しました)」とかそのくらいでした。
「息子殺し」は編集したもので、各章それぞれの著者がいます。この当時の浦和の部活について書いた著者は、著者紹介でこう書いています。この本では実名がでていますが、わたしは仮名にしました。
東京から浦和に移り住んで10年。浦和区小・中学校の管理主義にはただ驚き、怒るばかり。
読書も絵画も昆虫も好きだった長男は、淳(仮名)と同じ中学校・高校で六年過ごし、大学生になってみると、無趣味で本も読まない青年になっていた。
さらにはこの件を取り上げた市民グループが開いた勉強会ではこんな意見がでました。
四~五年に木崎(浦和市)で同様の事件(長男の不登校で母親がノイローゼになり三人の子を絞め殺し、自分の手首を切ったが未遂)があったのに、社会の反応がどうしてこうもちがうのだろう、と地元では話題になっている。
やはり社会的地位のある人だからこんなに注目され、署名も集まるのだろうか。」事件のあった近隣の住んでいる女性。
署名を集めたグループ
どんなグループが署名を集めたか。その辺を内側から書いた人がいます。同じ地区に住み、母親がPTAの副会長(次男? 長男?)を務めていたときの広報委員であり、この人のお子さんと次男(二代目・淳の弟)が中学の同級生だったようです。
親の勤務先の高校、
自治会の嘆願書のほかに母親のコーラス仲間のグループ、PTA三役を発起人とするPTAグループ、子どもの同級生の親の有志グループ、生協グループなど、いくつもの輪が生まれ、それぞれが熱心に動いていたようだ。い地域ぐるみの減刑嘆願運動」だったと、はやりいえるだろう。
中学時代について(両親側から見た長男)
弁護側の最終弁論要旨ではこんな風に言われています。
(省略)中学では、テニス部のキャプテンをつとめ、音楽にも秀でた才能を秘めた少年として、被告人らはもとより回りの誰からも将来を嘱望されていた。
その反面、通知表の記載からうかがえる担任教師の評価は、(○○長男の名前)が、自分の気の向くことには極度の関心と集中力を示す一方、興味がないことには投げやりになり、担任教師の指導や忠告に対しても、真剣に耳を傾けようとしない傾向があり事でほぼ一致しており、また、異常に自意識過剰な側面を有していたことも疑いがない。
ここの担任は小学校、中学校です。
名門高校の存在感
長男が入学したのは、地元では「あそこの卒業生でないと何かと上手くいかない」といわれた当時の公立県トップ校の浦和高校です。
1980年代、管理教育全盛です。学校でも管理教育があったものと思われます。
通信制を希望する生徒が増えてきた令和ではなく、家庭内暴力、学校に行かない子どもに悩んだ親※4が各地でネットワークを作ろうとしていた時代です。
高校での長男
長男は短期集中型で、一年生の時は話す相手がおらず、二年生からは音楽にのめりこみ、成績は中か、それ以下で、「ガリ勉の戦士たちばかりで、幻滅を感じたという話をしていた」そうです。○○は父親の名で、わたしが仮名にしました。「仮面の家」では犯人の父親のことを「先生」と書いています。
担任からは「これでは進級できない。浦和高校は、いままで留年をした人は例がない」と言われ、結局、年度末のぎりぎりの3月31日に、○○先生は浦和高校に出かけていき、長男の退学届けを出した。
「最初の例」になればよかったのに、と部外者は思うのです。おそらく長男が感じた違和感の一つは<同質性>、ひと昔前なら<ムラ意識>と呼ばれたそれに近いのではないでしょうか。
同質性
同質性とは何か。まずは同質性について書かれた本から。 改行と数字はわたしです。数字は同質性の問題点としてわたしがふりました。
多様性がイノベーションの源泉であることは広く知られているが、日本の場合「多様性がない=同質性」のリスクにフォーカスしてほしい。
不祥事を起こしやすい組織は同質性が高く、そこには「集団浅慮(グループシンク)」(ジャニス)が起きる。
集団浅慮とは個人は優秀なのに、集団となると個人の総和よりも劣ったレベルの意思決定をすることを言い、さまざまな防止策が論文になっているが、「日本軍の失敗」なども例として挙げられる。
1、「集団の実力の過大評価」
2、「不都合な悪い情報を入れない」
3、「内部からの批判や異義を許さない」
4、「他の集団をきちんと評価しない」
5、「逸脱する人を許さない同調圧力」
6、「集団内の規範を重視する」などの事象が起きている。
同質性の具体例と浦和高校
長男が入学した高校は当時も現在も男子校であり、高偏差値・進学率で全国でも有名です。
とはいっても、ほとんどの県のトップ公立は共学なので、浦和高校=共学だと思っている人も多いんじゃないでしょうか。まったくのゴシップですけど、浦和高校のシンボルのイチョウの木がオス→メスに性別を変えたそうです。不思議なことです。
埼玉県浦和高校でもオスのイチョウにギンナンがなったという報告が筆者に届いております。jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=6042
イチョウの木は、雌雄がかわることがあるのでしょうか?
さて、2025年・令和7年2月、この名門校がゆれました。詳細は記事末の「※7 校歌指導」に書きました。ここでは簡単に書きます。
2025年2月【「地獄の校歌指導」で精神的苦痛を受けて中退した】と元生徒が証言をし、【その校歌指導が今でも続いている】と全国紙が報道しました。
浦和高校の校歌指導に「心病んだ」男性の訴えに「改善する」と同校
それまで、2022年12月末に同校の校歌指導について報道されたこともありますが、朝日新聞の有料記事の見出しになった程度です。「高校時代の思い出」をテーマにしたものらしいです。わたしは未読です。
「コロナによる行事制限が解除された段階で、内部から従来型の校歌指導を改革する」というチャンスをつかむにはどうしたら良かったのか?
これについては浦和高校の関係者による検証を待ちたいと思います。
二か月後の2025年4月末、「改善された校歌指導が行われた」と同じ全国紙で報道されました。
さらに5月22日東京新聞デジタル版が「校歌指導が不登校や退学の一因になった可能性がある県立浦和高校の1人の保護者に対し、県教委として謝罪した」と報道しました。
普通なら学校長の謝罪で終了です。しかしながらこの場合は、県の教育長みずからが事態の幕引きをはかっています。
校歌指導問題 埼玉県教育長「大変重く受け止め」 保護者に謝罪も
それはなぜか。
学校長だけでは対応できない重大事案だったのではないでしょうか。
それはなぜか。
ひとつには、「浦和高校のことは在校生にまかせる」「他言禁止」「校歌指導は伝統」などの不文律が長く場を支配していたからではないでしょうか。
別の言い方をすると、浦和高校内において「集団浅慮(しゅうだんせんりょ)」が起きていたためと考えています。
「集団浅慮」とは、集団で合意形成をすることによって、個人で考えた方針やアイデアよりも質が劣り、好ましくない結論を導き出してしまうこと。
超エリート校・浦和高校の校歌指導は「地獄の時間だった」 新入生を追い込む「伝統」に疑問の声
上記のヤフーニュースに書き込まれたコメントを読むと、別校、共学校、県に関わらず、このような威圧的な校歌指導が全国にあった(一部の学校は現在もある?)らしいです。
多くは真偽不明でしたが、二か月後、文春オンラインで、他校の状況がのりました。※7「校歌指導」にあります。
共学校の場合「伝統校で高偏差値」と「地域性」という同質性になります。浦和高校ではさらに生徒の性別が「男性」にかぎられるので、さらに同質性が強くなります。
長男が入学したのは1985年の4月です。おそらく長男も「校歌指導」をはじめ、同じような「同質性」を体験したものと思われます。当時は学区制でしたから、「高偏差値で伝統校」「男性」「学区=地域性」、全部で三本立ての同質性でした。それは息苦しかったでしょうねえ。
地裁での影響
地裁も浦和にありました。というわけで、裁判官も他人事ではなかったようです。
「あの裁判官、法定で被告人の陳述を聞きながら、泣いていたそうですよ」
基本的に裁判官は公平を保つ存在です。だから他人の思惑に染まらないように黒い法服を着ています。管轄が同じ木崎の母子事件に、同じ裁判官が担当したとしたら、同じように法廷で泣いたんでしょうか。
ここでの裁判官とは一審の裁判官。両親に執行猶予を付けた裁判官のことです。
やればできる長男
猛勉強の末大検に合格し、さらに同級生より先に大学に受かります。スキーを始め、全日本スキー連盟の一級資格をとります。
父親は大学生の間「スキーなんてブルジョアの遊びで俺には関係ない」とひがみ、長男が生まれてからは長靴を履いて子どもにスキー指導をしていたそうです。(スキーを関係ないという父は、スキーできたのかな? どんな指導をしていたのでしょうか?)
それほど父親に抵抗のあったスポーツにのめりこみ、スキー一級資格を取ります。
しかし、進級に必要な単位を取らず、長男は「中退する」と宣言し、1990年大学3年生の春に中退。しばらくして司法試験の勉強を数か月して中断します。
理由は、一番目の女性とのナイーブな問題のためだと書かれています。最初の彼女とはここでお別れしたようです。どんな女性だったのか謎のままです。その後スキーサークルの後輩の女性と付き合い始めます。
中退後はバイトと、スキー仲間と遊びに行く以外は、昼夜逆転の飲酒生活です。夜に作詞やバイトをしています。彼には、自分の心に忠実でお金を稼ぐ新しい生き方のモデルが必要でした。しなしながらインターネットは一般的でなく、そうした情報が得られませんでした。
かくして、荒れ、苦しんだ長男は母親に連れられ精神科に行きます。
「ぼくだってクリエイティブな仕事をしたいけれども、皆はどういうふうにやっているんですかね。ともかく勝たないといけないのに、どうも自分のからだを犠牲にしてしまったと思う」
<勝つ>これが長男の一つの目標でした。
誰に勝つのか? 相手は自分ではなく、<世間の評判>のようです。タイトルをどうしようかと思っていたある日、夕飯の支度をしていたら、尾崎豊さんの「僕が僕であるために~ならない」という歌が浮かんだのです。
調べてみたら、「僕が僕であるために」という歌の歌詞でこう続いていました。この歌の後半部分が、長男と彼女の関係に似ているような気がします。
僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない
正しいものが何なのか
それがこの胸に解るまで
なぜ長男はこの世から去ることになったのか?
これが二冊の本に共通するテーマです。長男の家庭内暴力はお金の要求、暴言、物に当たるタイプでした。このあたりは主に母親が受けていたせいか、父親は耐えられたようです。
一度、自分にあたれと言ったとき、子どもはほんとうに殴ってきた。殴りあいをしても解決にはならないと思った。
この殴ってきたのはいつなんでしょう。書いてないです。この後も長男は当たる対象はモノです。
父親が耐えがたかったのは
ひとに、てめえと言われる生き方はしてこなかった。(中略)わが子から侮蔑を受けたことだ。
この手の親の否定、思春期の子供はよく言うそうです。わたしも言われます。夫は親としての自分を否定されて傷つくこともあるみたいですが、「こどもが正常な発達をしている証拠」です。
と頭ではわかっていても、こちらの気分ではやはり面白くない事も確かです。父親(初代・惇)の反抗期(思春期、自己確立のための時期)は、「父を尊敬しつつ自己確立」というの時期を過ごしたようです。本を読んでいくと小さな疑問がいくつもでてきます。
なぜ父親は長男に同じ読み仮名の名前を与えたのか?
旺文社漢字辞典で調べたところ、彼らの本名は音だけではなく、表記(漢字)も意味も似かよっています。
父親、本名の漢字の意味は、”心”と”めぐる”で”思いめぐらす心”。
①まこと。まことに。
②おそれる。おそれおののく。
長男の本名の漢字の意味は、”水”と”めぐる”で”めぐりうずまく水”。
①うずまく水
②まことに
母親の名前も調べてみました。
この人は夫や息子のように一文字の名前ではありません。
本名の一字は漢字の意味は”楽器にむかう”や”こたえる”
①むきあう、ならぶ
②あいて、つれあい
父親の名前の漢字の偏(ヘン)を変え長男につけたとあったので、それをもとにわたしが仮名をつけました。ここでは父は惇(じゅん)、息子は淳(じゅん)とします。
父と長男の漢字が別だったため、出生届は通ったらしいです。調べたら、漢字が同じなら読み仮名が別でも通らないそうです。
そもそも父親(初代・惇)の名づけは誰がしたのでしょうか? 書いてありません。普通に考えると、父である歌舞伎好きの祖父です。
しかし、父親の育った時代は、第一子の名前は親ではなくその上の世代(祖父母)付ける事がままありました。実際、わたしの父方の伯父(昭和19年生まれ)の名前は祖父が付けました。
父親は息子に同じ名前を与えた理由を同窓会誌にも載せています。裁判ではこう述べています。改行はわたしです。
三十年をふり返って、自分なりに紆余曲折もあり、後悔することもありましたが、今度は人の親になったからにはしっかり生きなくちゃいけない。
そこで子供に同じ名前を付けて、この子が大きくなったときに、あんなお父さんと同じ名前でいやだなと思われないような父親としての生き方をしたいと、自分の悲願を込めて付けたつもりです。
理解できません。自分と同じ名前なんてわたしは自分のコピーみたいでイヤですねえ。
ただ、親としてふさわしい生き方を目指す気持ちはわかります。
複数の同僚は、父親のことを「教師という職務に非常にまじめな人」と話している一方、気になる表現をしています。
この人も同じ職場で十年以上もいっしょだったひとだが、気持ちが通じ合った経験がないという。だが、その”浅い関係”のなかでも彼の”逸脱を許さない硬質の価値観”が随所で感じられたという。
この「逸脱を許さない硬質の価値観」は若さからきたものではなく、父親の性質のようです。
地裁の証人たち
長男がどんな人物だったのか、法廷で証言した人は父親と母親の関係者です。
事件の証人として出廷したのは4人、父親の教え子、父親の同僚教師、母親のPTA仲間、父親の義理の兄です。
証人以外の、二冊の本に登場する両親を直接知る発言者は、肉親、同僚教師です。
長男を直接知り、本に登場するのは、アルバイト先の関係者(上司、知人)、彼女(大学のスキーサークルの後輩)、大学関係者(スキーサークル)、高校の先輩(音楽)です。
お気づきになりましたか?
両親の関係者が学校(職場)周辺に集中しています。とくに、父親は小学校から同じ地区に40年ほど住んでいながら、行きつけのお店とか、そういった学校外の関係者の話がありません。当時の週刊誌では載ったのかな?
父親には「高校の友人、大学時代の友人、趣味の集まりの友人、ご近所さん」による話が二冊の本にありません。
編集の方はまだしも、「仮面の家」のほうでは共同通信社のジャーナリストが取材しています。これほどの詳細な追跡ルポを書いたのに奇妙です。一人一台のスマホの令和と違って、年賀状全盛時代、個人情報ただ漏れだった時代に、友人からのコメントが一件もないなんて。
読み落としたのかな? と探したら、母親にいました。母親と同じ高校、同じクラブ(コーラス部)出身の女性がいました。
(省略)母親とは、私と同じ高校の一年上級にいた。クラブ活動でいっしょに毎日のように顔を合わせていた。
とは言っても、この二人の関係は友人ではなかったらしく、母親の性格については家永さん自身の言葉で書いてありません。母親については、家永さんの友人の言葉を書いていました。
この母親がPTA活動に熱心で、「学校のすることは正しい。批判などとんでもない。」という立場を明確にしていたということは、事件よりずっとまえに聞いていた。また夫を尊敬し誇りにしていたともいう。
母親にとって、「学校=夫=子にとっては父親」なので、夫もまた絶対的な存在です。「批判などとんでもない」。ここから、母親も価値観が固定化していそうです。
このPTAの活動中(副会長もした)に高校でコーラス部にいたと分かり、その後このママさんがいる地域のママさんコーラスグループに入りました。この時、コーラスに誘った人が地裁で証言しています。「仮面の家」P77、78 改行、(中略)、○○はわたしがしました。
同じ年ですが、頼りになる、とてもよく何でも知ってるお姉さんという感じで、お付き合いさせていた。(中略)
私たちは時間がもったいないから本当は練習したいんですけど、○○さんは、そういうおじいちゃんを、いま練習だからねとかって、普通だったら言うんですが、そんなこともなく、にこにこ笑って、おじいちゃんも、またご機嫌で歌をみんなに聞かせていたことがあります。」
これまた、コーラスの練習を自宅って、どういう自宅なんだろうか。見取り図がないので推測すると、二階に夫婦の部屋、一階に仏間、台所。長男の部屋(一階?)興味津々です。
なぜ、母親は一家に二人の同じ名前(読み方)を反対しなかったのか
名前を〇〇にして、(母親)としたはわたしです。
弁護士から同じ名前を付けることで「相談を受けたのか」という質問に、○○(母親)さんは「それでいいと思いました」と答えています。
夫に対してはこんな感じ。
やはり主人の方が私より人格が上ですし、大人という事もあると思うんですけれど、、、
わたしからすれば、この母親は自分の意見があるようなのに、5才年上の夫に従う不思議な人です。惇文会に作文を書くように言われて、しぶしぶ書いています。「仮面の家」P78
その内容は「ひろってくれた○○さん(夫の名)ありがとう」、「結婚は足を引っ張る道具」、「取り柄のある人は結婚などしないで共同生活を」と書いていて、最後のフレーズは
ところが、子どもというすばらしいプレゼントを天から授かったらば、やはり結婚生活という泥沼に足をつっこまなければならないでしょう。どっぷりと。
「泥沼って、、、
あなたひろわれて幸せじゃないんかい? これを夫や夫の生徒に読ませるのか? 夫の顔がつぶれるのでは?」というもの。まあ、確かに「泥沼」で事件になるわけですが、、。言い方がすごい。
この母親は大抵の場面では「模範解答」を話し、「模範的態度」をとります。なのに、この作文は「本音と建て前のごちゃまぜ」で戸惑ってしまいます。さらに困惑するのは、この普段と違う様子(だと思う)の妻の作文を読だはずの夫の感想がさっぱり記載されてないことです。もしかして読まなかった?
夫婦は結婚当初から舅姑と同居
「夫の両親の面倒を見る」のが条件の結婚で、裁判でこう証言してます。
「自分が長男なので、最後まで両親の面倒を見てもらえるだろうか、生活はかならずしも豊かではないが」と、条件を出したところ、「私の生い立ちもけっして豊がではないので大丈夫です」という、
令和の今からすると少々「?」となる話です。昭和44年頃?結婚した夫の両親もそうだったらしいです。姑(夫の母)の希望によりその後、別居しています。
この家庭では同居姑とのいさかいは、記録にある限り長男の中学進学の時に小さなテーブルを台所に置いたとき、だそう。
食事は居間や台所で取るのが一般的だと思っていましたが、この家族は長男が中学に進学するまで祖父母の部屋で食事をし、テレビも見ていました。祖父母の部屋はそんなに広かったのでしょうか? 住宅ローンの支払いは息子だと思うけれど、いつの間に住宅を建てたのかも記載がない。「仮面の家」P81
母親の詳しい成育歴は書かれていません。男一人、女4人の5人兄姉の末っ子で高卒で就職しています。第一子の兄が私大の教授になっています。この兄が両親に仕送りしたという記載がありませんが、老母の世話をする代わりに、月5万もらっていたとあるので、ほかの兄姉から老母に資金援助があったのかもしれません。
作文指導の会
「生涯一教師」が口癖の生徒指導に熱心な父親は勤務先の学校を移動しても、二か月に一度日曜日に作文指導の会を開いていました。参加は十人くらい。午後一時から二次会も含め午後八時まで。時期は分かりませんが作文指導の後に泊まる生徒もいて、「民宿・惇」宿帳がありました。「仮面の家」P38
会は最初の時期はお店を使っていましたが、だんだんと自宅開催になります。その会の名前は<惇文会>。父親の名前です。「息子殺し」P17
「仮面の家」では<じゅん>が父親の漢字だったので、こちらもそれにならって私が付けました。
会の名前の由来はどこにも書いてありません。作文会なので「純文学」をもじるのは少々変な気がします。
普通は自分の好きな文学者の名前とか、地名とか。自分の名前をつけるのはわたしは恥ずかしいです。百歩譲って自分の名前を使うなら姓を使うかな。
「男としてのありかた」について
父親が事件の11年前に書いています。ざっくりいうと我が子より義理を重視する生き方でしょうか。この話の中の長男は12歳くらいで、この話をきっと成長しても覚えていたと思います。
いつぞや、長男と二人で、”太陽にほえろ”というテレビドラマで掲示が殉職する場面を見終わって、長男曰く、”学校の先生はああいう危険がなくていいね”。
私は即座に答えた。”本当にそう思うかい。お父さんは、たとえば臨海学校か何かで、女生徒を引率していた時に暴漢に囲まれて、その女の子を寄越せと言われたら、自分が殺されるまで生徒を守るね。
ここで死んだら三人の我が子が野たれ死ぬかと思っても、ぜったいに生徒を放って逃げないよ。
と。この人はどの言葉を読んでも「世の中には理想と現実がある。自分は(貧しいながらも)理想を追求して生きる」。こんな感じです。
わたしが12才の時にそんなことを言われたら、反発します。
「えっ? 自分の子より生徒を取る? 反射的に生徒をかばって(その結果)死ぬならともかく。わたし(自分の子ども)はどうなるんだ」と衝撃的で忘れられません。わたしは身勝手なんです。英雄の父より、自分に優しい父がいいです。この父の発言を聞いた長男がどう感じたかは残されていません。
理想を語っていても人間は弱いもので、長男の暴言・物暴力に耐えかねて、両親は「早期退職をして、三男(昭和54年生まれ、当時中学一年生)を連れて四国へ行くから自分で生活をたてよ」と長男・次男に宣言します。
長男からみれば、
「早期退職。
生徒を投げ出し、子供(アルバイトの自分と就職済みの次男)も投げ出し、三男だけ守るのか」「自分も三男も同じ子ではないのか」「自分は暴漢か」と感じられ、暴れたのも仕方ない気がします。
この件で、長男の意見は見つかりませんでした。
そうは言っても、三男に「お前だけ守るんだってさ」と怒りを直接ぶつけていないみたいなんですね。この段階でも長男はあくまで、物に怒りをぶつけています。偉いと思います。わたしならきっと三男に八つ当たりします。
病人がいる家
事件の一年ほど前から、家には、介護が必要な祖父がいました。母親が介護していました。その間、同じ家で、父親の作文会、母親のコーラスの音合わせは、それまでと同じペースで続いていたのでしょうか。
自宅介護って、負担です。そのうえで、長男の対物暴力を受け、近所の徒歩15分の家に(母親の実母)の三食の食事運び(自転車? 車?)をして、趣味の会を自宅で開く。すごい精神力、体力です。
うーん、外に出ていった方が気分転換にいいと思うのだけど。自宅の方が気楽だったのでしょうか。
母親のコーラスの音合わせは続いていたみたいです。父親の会は不明。
念のために書いておくと、気晴らしを否定するわけではなく、むしろ介護生活に必要なのは気晴らし、介護者の自由な時間と言いたいのです。私が就職でうろうろしていた頃、訪問診療をお願いし、寝たきりになった祖母を両親が自宅で介護していました。建付けの悪い雨戸を開けなかったせいか、家が暗かったです。
家計はひっぱくしていたのではないか?
一家の稼ぎ頭が理想を追求をして、世間(生徒)に尽くしていると家族は精神面のみならず、物質面で大変になるわけです。貯金が豊富とはいえなかったんでしょうねえ。
事件後、父親の名前を取った支援組織が立ち上がり、800万あつまったそうです。また、情状酌量を求めるケースでありながら通常の刑事事件より多い4、5人の弁護人が常に法廷にいたとか。「息子殺し」P15、16 この弁護士費用も格安だったのか正規料金だったのか気になるところです。
被告人両名は、被害者丙の将来に強い懸念、不安を抱かざるをえなかったばかりか、経済的にもかなりの苦況に陥ることとなった。
なぜ三男に長男の家庭内暴力を隠していたのか?
三男は昭和54年、1979年生まれ、中学一年生でした。裁判で母親は答えています。
いいお兄ちゃんでいさせたかったから
三男は本当に何も気が付かなかったのか?
当時11才か12才。冷蔵庫を倒したり、椅子をひっくり返したりすれば物音で気が付くとおもうんですがねえ。「三男が気が付いていた」「いなかった」かは書いてない。
ただ母親が拘留から帰ってきて、長男の部屋を片付けている母をみて三男が「帰ってくるからそのままにしておいて」と言ったという。三男は慕っていたのでしょうかねえ。
なぜ、「子殺しで、子の人生を守れる」と考えられるのだろう。
そんなことをすれば「自分も住んでいる家で、包丁と自分のモデルガン(三男の机の横にあったとあるので、おそらく持ち主は三男)を使って、兄の命を奪った両親の子ども」という人生が確実に三男に訪れるのに?
父親は裁判で答えています。
「もちろん考えましたが、、このまま続けていくのも地獄、そして殺人者の子どもに、というのも地獄で、どっちを選んでも、、、まったく、、、展望が開けなかったです」
と、深いため息を何度もついた。
このまま続けていくのは「両親の地獄」、殺人者の子どもになるのは「次男三男の地獄」、この両親は結果として「次男、三男の地獄」を選びました。
長男はどんな人だったのでしょうか。
彼のために中退した大学のホールを借りて、友人葬を開いた友人がいました。「同級生や後輩から人望があった」。性の問題にしてもスキーサークル(大学)の人達はその話を聞かされて「頭をかしげて」います。
長男の弱さを知っていたのは彼女と家族だけのようです。と思いきや、一人だけいました。
バンド仲間
高校の軽音楽サークルの先輩で、二学年上。先輩は一年生の時に「SNOW MEN(スノウ・メン 雪だるまたち)」バンドをつくり、その後休止していたバンド名を使い、3年生の時に長男と二人でバンドを組みました。
長男はキーボード、先輩はギター、学園祭ではドラムとベースの助っ人を頼み、6曲演奏した間柄です。コピー1曲、1曲を先輩が作り、残り4曲を長男が作りました。「息子殺し」P105
この先輩は一浪、長男が大検で受検した結果、ふたりは別々の学校ながら、同じ年に大学一年生になりました。先輩は、長男の家をたびたび訪れています。ふたりは先輩の大学祭で「スノウ・メン」のライブもしています。
長男は何度か先輩に「プロになる気はありますか? いっしょにやりませんか?」と誘っていたそうです。先輩にその気はありませんでした。「息子殺し」P108
事件後、先輩は友人葬であいさつにをし、大学院では社会心理学を研究してます。さらに先輩とスキーサークルの人達は1993年5月8日、原宿ロサンゼルスクラブというライブハウスで、「(長男のフルネーム)復活祭」を開きました。
長男が手掛けた曲を演奏したそうです。「息子殺し」P111
本名が書かれていたので、<淳>にわたしが替えました。
一度、淳がぼくのうちに来たときがあった。そのとき、ぼくは『モノを憎まず、人を憎め』っていう張り紙を壁にしてたんです。
それを淳が見て『なんすか、これ?』って聞いてきた。当時、ぼくはアタマにくるとモノを投げたり、壁をつきやぶったり、大切なモノをこわしたりしてましたから、それをやめようと誓って書いたんです。そうしたら、淳は笑って『そうすか。おれもなんすよ』っていってましたね」
異性からの人気もありました。
「女の子が”ちょっと先輩、あの曲がいいですね”と注文を出すと、パパンパンパンと惹き始めちゃって、それも主旋律を引くだけじゃなくて、彼ふうにアレンジして弾くんですね。(中略)
だからすごく女の子に人気がありました。それも彼の場合は、ボーカルは全部英語ですからね。もちろん当然、かれの作詞は、すべて英語。女の子三、四人が、ピアノのかたわらに立って、彼がピアノを弾いているという光景が合宿ではよくありました。」
長男の音楽
ワムやU2といった英国系のバンドが好きで、(中略)
日本人では、さだまさしとサザンの桑田佳祐は認めていましたけれど、
このあたりは一般的には「15歳の夜」や「I LOVE YOU」「僕が僕であるために」で有名な尾崎豊さんの時代だと思うのですが、書いてありません。
尾崎さんをウィキペディアで調べたところ、いくつか共通点がありました。
誕生月が同じ12月。
小学校5年生から埼玉県・朝霞市の公立小学校に通う。
さだまさしさんに影響を受けている。
同じ年に他界した。
違う点は、長男より3歳年上、本人がオーディションに応募した。
東京都・私立の中高一貫校在学中17才でデビュー、自主退学したことです。
尾崎さんのウィキペディアを読んでいて思ったのは、才能があり、音楽を食べていく手段に決めたはずの長男に「オーディションに応募して落選」、「オーディションに落選して気落ちして慰める」という家族や他人の証言がないことです。
「居間にデモテープがごちゃっとあった」ので曲はありました。「息子殺し」P107
当時「一般人がテレビや雑誌のオーディションで才能を発掘されてスター街道にのる」という流れがありました。
こっそりオーディションに応募して落選という事実があったけど、本人が黙っていたのでしょうか。
見ず知らずの他人の前で歌う、ライブハウスとか、路上ライブを決行する、この記録はありません。高校の文化祭、先輩の大学の学園祭、スキーサークルの仲間の前、彼は内輪のスターから抜け出す手前だったのでしょうか。内から外に出ようともがく、これが自己確立のための青春の一ページです。
スキーはすでに父親から手ほどきされていますから、外、未知の分野ではありません。長男の中で、未知の分野は「職業としての音楽」と「肉体を持つ女性とのかかわり」です。
論理的な思考力
例として、大学の同性の同級生からこんな話が載っています。※6
「ひとりの同級生の女の子がクラブをやめたがっていました。その子は、たとえば、クラブの役職を決めるときに、自分は権力のある部長か渉外係でないとやりたくないと仲間にハッキリ言う子だった。
だから、その子は男とも女ともあまりうまくいってなくてぼくたちはその子の対応に困っていたんです。でも、あるとき、男だけの話し合いの時に、淳がした話でみんな納得してしまったことがあるんです。」
A君はその淳君の話を「同心円の論理」と解釈している。自分の性格など、変わらないものがまんなかにひとつある。そこを中心として半径を広げていく、それをいかに広げられるのかが問題なんだ。
人が点であるとすると、お互い半径を伸ばし合って人間関係をつくっていく。だから、彼女についてはお互い伸ばし合っているのに、その円の中に入ってこれないのだから、もう(説得するのは)無理だろう。ーそう淳君はいった。結局、その女の子はやめることになったという。
本当に?
平面(紙の上)の同心円上なら確かに届かないけど、三次元(実体)で傾きがあれば手は届くのでは?(<同軸のずれ>というらしい)
もしくは同心円が自ら動けば、他の同心円に近づけるのでは?
(この問題は、はりねずみのジレンマに近いと思う。)
<同心円の論理>を、なぜすんなり納得するのか。
ただ<理解できないこと>を正当化したかったのではないのか。
つまり、長男は「他人を理解しないための理論」は持っていたが、
「他人を理解するための理論」をもっていなかったのではないか?
それほど若かった。
彼が持っていたのは理論で、実体験ではなかった。
と思う。実体験を積むには生きている必要があるから。スキーサークルの後輩の恋人との関係もそう。彼女とは事件まで、一年近く付きあっています。
彼女は長男の才能を認めていながら、普通の生活が捨てきれない。
それを長男は察しています。でも彼女を手放したくない。
時代はバブル
一般人に光が当たっていました。令和のように、個人が匿名のまま有名になるのではなく、中流層が全般に豊かになっています。サラリーマンの給料は上がるものだったし、不動産神話で転売目的のマンションを買う、株ブーム、女子大生ブーム、フリーターの増加、クリスマスには大学生でも来年のホテルの予約をする、就職の内定者を逃がさないために企業は工夫する。
バブル世代とは、社会進出後にバブル経済の好景気を経験した人々を指す言葉です。1965年~1970年生まれの方が当てはまります。(中略)
バブル世代は、バブル経済の影響を強く受けています。当時は高級品がステータスといわれており、好景気だったことからバブル世代は他の世代よりもブランド品の購買意欲が高いといわれています。
長男は昭和43年=1968年生まれです。生きていればバブル世代と呼ばれる人たちです。ミュージシャンの夢を抱いて華やかな学生生活を送ってい人は多かったでしょう。長男にとって<彼女>はバブルそのものではなかったのでしょうか。
事件の二日前
関係の煮詰まった長男と恋人は別れ話をします。
夜の11時から6時間。
別れ話に6時間。すでに書いたように、彼は大学でモテたそうです。それならば、別れ話にはあっさり応じるような気がしますが、ごねています。
彼女がすでに自分の弱みを知っている人間だからか、プライドか、よっぽど放したくない彼女だったのでしょうか。
私が彼女なら1時間でうんざりして切ってしまう。しかも、1992年は今のように全員がスマホを持っていない。普通に考えれば彼女も長男も家の固定電話で話していたはずです。お手洗いとかどうしたんでしょう。
この一家にはちょいちょいわたしの理解を超えることがおきるのですが、この日も不思議なことが起こります。
「彼は私に”別れよう”と言ったことから、私も賛成して、”恋人としての付きあいはやめ、友達として今度付き合っていく”と提案したのでした。すると彼は”俺はミュージシャンとしての成功するから、そのとき、迎えに行くよ。それまで別れよう”と納得していたのでした。」
六月十二日には恋人として付きあいはじめた一周年のデートをする約束もした。
「”六月十二日がさよならパーティーになるね”と二人で話したわけです。これからも会いたい時にあうという約束をしたので、私たちの交際は今度も今まで通りつづいていくものと思っていました。」
「恋人としては別れる。今後は友人として付きあう。しかし、恋人として付きあった記念日にパーティーをする」
???
わたしなら、友人としての付きあいをするなら、恋人記念日は無視です。
恋人記念日を祝うのは恋人だからでしょう。
夜。大抵の人は疲れていて、<夜の考えはろくなものじゃない>ともいわれます。夜は基本寝る時間です。恋文とか書いちゃいけません。ふたりは夜の魔法にかかっていたのでしょうか。
次男はどう見ていたのか?
次男は昭和46年生まれ(1971年)、3つ年下です。
検察庁で述べています。改行()、※7はわたしです。
ただ常日ごろ、自分の意見をもてるようになるまでは、親の言うことはよく聞きなさいと言っておりました。(中略)
また母は、父の考え方にほとんどべったりであり、とくに母自身が自分の意見を出して家庭を運営するというようなところまではありませんでした。
(中略)
ただ兄は、小さいころから、あらゆる面に優れており、三人兄弟のなかでは、一番優秀ではないかと思います。
(中略)
しかし、この優秀な兄も背の高さ、近眼であることを意外と自分自身で気にしており、中学のころから、背を伸ばす機械やプロテイン飲料などを買ったりしておりました。(中略)
ただ、中学時代から年齢が三つ若いわたしより背が低いでしたし、周りの同級生からも見ても、平均より低いくらいでしたので、この点のコンプレックスがあったのは事実だと思います。
(中略)
いまになって気づく点は、兄は子どものころから、優秀だったこともあり、親の言うことに対しても納得しなければ聞かないところがありましたし、しかも理論的な話し方をするため、親も口で負かされる点もありました。(中略)
勉強一筋の浦和高校の雰囲気に馴染めなかったものと思います。※7
(中略)
兄の悩みというのは上手にうまく表現できないのですが、小さいころ、すべて思い通りにできたにもかかわず、最近、つまり言葉を換えて言えば、社会生活に入ったあたりから、ことごこく挫折してしまい、思いつめたのだというしかありません。(中略)
今回の事件は、私の両親が兄を殺したのではなく、兄が自分自分で自殺行為を図ったのだというふうに私には思えてなりませんー
この次男は兄の心情を含めて、育った家庭をよく見ています。今のように近眼の高校生が多数の社会でない時代に、近眼だったことはこの次男の話にしかでてきません。メガネかコンタクトかも記載ないです。
「逸脱を許さない硬質な価値観」のかけら
父親と同じ「硬質なかけら」や「同質性」と似かよったものを、長男もまた持っていました。次男だけでなくアルバイトで一緒になった21歳の私大生はこう言っています。若さが個人的な資質か。今となっては分かりません。
私が音楽について反対論を言うと、彼は向きになり、絶対に妥協しないし、曲げないので、いつも笑っている人だと思ったので、違う一面を見ました。ほんとうに頭のなかは音楽だけという感じでした。
また、次男は「兄が怒ったときの激しさは、手がつけられないような状態でした」と言っています。
怒ったときの激しさ
これを持っていたのは長男だけではありません。
昭和ではよく聞いた話ですが、父親もまた、三度ほど暴力をふるっています。父親と母親、息子で息子のためにリトルリーグを探しに行ったときのことです。
長男は硬式が希望でしたが、軟式チームしか見つからず、怒った長男は買ったばかりのジャージを地面にたたきつけました。子どもによくあるかんしゃく玉の破裂です。語り手は父親です。
”最初からどこへ行けば硬式ってわかってれば親だって探さない。親もいっしょに探してやっているのに何事だ”といって、、、。鼻血がでてもまだ私が殴り続けておったくらいですから、一回では謝んなかったです
母親は父親側なので「謝りなさい」といいつつ見てます。幼児の頃、母親のスカートを握りしめてたたずむような子をこう扱うのはどうかな~。
小学2年生のこどもを殴り続けるのは、令和からすると腰がひけます。他にも、「祖父に対する口の利き方が悪いため、弟に対する邪険な口の利き方」、体罰を加えたとあります。
父親は口の利き方が悪いと殴ったことが分かります。本当の理由はそれだけではなく、おそらく職場のイライラもあったのでしょう。長男はあきらめの良い性格ではなかったようです。
背が伸びない、足が短いなどと、外見を気にしはじめたという。
「どうして、どうして」と訴えてくる長男と○○(母親)さんが言いあいをしていると、祖父が出てきて「もういい加減にしてくれ」などということもあった。
長男のしつこさに対し、「祖父が殴った」とは書いてない。
祖父と父親の育った家庭
父親(初代・淳)の実父は、15才で上京。四谷のお米屋さんに小僧として入ります。お給金を本に使い、番頭になり、奉公先の女学校卒のお嬢さんに見初められ、のれん分け(他にも嫁資つき)して結婚します。戦時の事情により店がなくなり、妻は貧乏生活を支え、小学校4年のときに浦和に転居。(この辺、書かれていませんがちょっと謎です。当時転居先は浦和でも田舎の方だったんでしょうか。)
この祖父と祖母は「長男一人に相続権があった時代」「女性に学がいらないとされた時代」「妻の事を夫が決める時代」に育った人です。長男一括相続なので、当然、親の面倒も長男がみます。
長男の二代目・淳に「家庭内暴力」を教えたのはおそらく父親ですが、その父親である初代・惇に「家庭内暴力」を教えたのは祖父と長姉でした。
物心ついた初代・淳がどんな家庭で育ったというと、こんなふうです。
お金を自分の趣味(読書・歌舞伎)に使う父親と進学したい長姉が庭で取っ組み合い、火鉢を投げる。両親は両親でお金のなさで喧嘩。次姉と父親は暴力を伴わない不和。無視でしょうか。
初代・惇は小学校一年生の時から母の行商につきそい、中学3年生からバイト、高2年生からは奨学金を受けながら生活費をかせぎ、貧困を極めたため学生服で税金の延滞願いに市役所へ行き、家では調停役を務める。「仮面の家」P40から42
もちろんそんな生活では子供は精神を病んでしまう。浦和高校から一浪して東大に進学した初代・惇は、自殺未遂をします。文学の助けを借り、出世(物質)とは違う道を選び、初代・惇は生き延びます。
転部をして、東大を卒業したのは27才でした。(「仮面の家」P65より)
一浪しているので大学に入学したのが20才とすると7年いたことになります。
本好き歌舞伎好きの祖父はこのとき銀行に勤めていて、さまよう子羊となった初代・惇に「おまえが幸福になることが親にとって幸福なんだから、自分の道を選びなさい」と言っています。
初代・惇は父親を尊敬していて、そう書いていますし、同僚の証言もあります。
卒業後就職して、3年後の3月に結婚。夫は30才、妻は25才。
同じ年1968年、12月30日、長男・二代目の淳が生まれます。
父親となった初代・惇は作文会を開き、現場(生徒)に親しみ、教職に傾倒します。
祖父と父親(初代・惇)の年表
祖父の代からの年表を作りました。
祖父誕生、1905年(明治38年)
祖父(15?) 高等小学校卒業、上京 1920年?(大正9年)
祖父、番頭になる。奉公先のお嬢さんと結婚、のれん分けしてもらい店を持つ。時期不明。長女、次女出生。
父親(初代・惇)出生 1938年(昭和13年)
第二次世界大戦開始 1939年(昭和14年)
祖父(37)失業、父親(初代・惇、4)
1942年(昭和17年)以後。職を転々とする。
父親(初代・惇、6?) 1944年?(昭和19年)小学校1年生、母の野菜行商を手伝う。
第二次世界大戦 終結 1945年(昭和20年)
一家、浦和に転居
父親(初代・惇、10?)1948年(昭和23年?)小学校4年生
父親(初代・惇) 1952年?(昭和27年?)中学生3年生、父の行商を手伝う
父親(初代・惇 15?) 1953年?(昭和28年?)浦和高校進学。
父親(初代・惇 16?) 1954年? (昭和29年?)高2で奨学金をもらい始める。
高度経済成長期 始め 1955年頃(昭和30年)
父親(初代・惇、20?) 1958年?(昭和33年?)一浪後、東大進学(奨学金不明)。
時期は不明ながら自殺未遂&転部。
このあたりで祖父、銀行勤務となる。
父親(初代・惇、27)1966年(昭和40年)
東大卒業(在籍期間7年)、就職。
父親(初代・惇、30) 1969年(昭和43年)
結婚、4人世帯スタート。
祖父、祖母、父親(自分)、母親(妻)。
長男出生、(結婚と同じ年) 5人世帯に。
次男出生、1971年(昭和46年) 6人世帯に。
高度成長期 終わり 1973年頃(昭和48年)
オイルショック(一次) 1973年
オイルショック(二次) 1979年(昭和54年)
三男出生、1979年(昭和54年)、7人世帯に。
祖母他界、1982年(昭和57年)6人世帯に。
ベルリンの壁崩壊 1989年10月
次男就職 高卒で就職したとあるので、18才1989年?
祖父他界、1992年、5人世帯に。事件まで約1か月半。
一家の金銭感覚
彼ら(祖父、父親、長男)は金銭感覚はいまいちだったようです。今風に言うと「マネーリテラシーが低い」でしょうか。
なぜなら、
平均より高い住宅ローン※5、
実父はあれば使うので、頼りになるのは自分の収入一本。
結婚生活のうち、7人家族の期間は3年、事件までの20年間は6人の食い扶持を稼ぐ必要があった。
このような現状でありながら、奨学金の検討をして経済状況を改善しようとした記事がありません。大学進学した長男の無心が続き、母親がパートしてました。でも「夫にパートお願いされた」という記事はありません。母親は「生涯一教師」の父親(夫)に「昇進試験を受けて(出世して稼いで)」と言えなかったか、言ってもきかなかったみたいです。どちらかというと、言えなかった気がします。
父親は父親でバブルの影響を受けて「何とかなる」と思っていたのでしょうか。
一方、祖父は道楽者で子供が生まれても孫が生まれても、生活は変わなかったようです。そもそも小僧の時から本を買っていて、その点が見込まれた人です。
息子が孫に同じ名前を与えようとしたときの祖父母とのやり取りは記載がありません。次男は別として、この一家は出来事(事実)は書いてあっても、「なぜか?」という他人の心情に踏み込んだ文がはあまりないのです。
ともかく祖父は息子一家と同居し、昭和57年(1982年)に妻に先立たれ、痴呆症になり1992年、事件の少し前の4月に他界します。
この祖父の納骨の際に<世間の普通>と自分と間にずれを見た(とわたしが思う)長男は、深夜に暴れます。アルコールとホルモンのなせる業かと思うのですが、「よりによって納骨の夜に騒動を起こした」と父親と母親は幻滅します。このとき、家族は五人、父親、母親、長男、次男、三男です。
もしも、この父親が管理職だったならば、もしも暴力(対物)&暴言がなったらば、もしも外に助けを求めることができれば、もう少し長男は生きていたのでしょうか。
息子に音楽の道を許さなかったのはなぜでしょう?
不安定な職だったからか。
中退を重ねたからか。
自分が手ほどきした”ブルジョアの遊び”だけを続けていたからか。
音楽は文学ではなかったからか。
そう言えば、わたしの明治生まれの曾祖父も音楽に偏見を持っていたと聞きます。
高校中退からの流れ
長男の年表です。二冊の本から私が作成したので、間違いがあれば指摘をお願いします。
二冊の本には書いてはありませんが、尾崎豊さんからも影響を受けたと思われるので、一緒に載せます。ウェキペディアより。
1983年(昭和58年)12月 尾崎豊、17歳でデビュー。
1985年(昭和60年)埼京線開通
1987年(昭和62年)
3月31日 長男 高2で中退
5月くらいから3か月ほど 長男、時計屋でアルバイトする
7月20日頃? 大検の勉強のため、アルバイトをやめる。
10月末 大検に合格する。
浦和市木崎(現さいたま市)で母子無理心中事件起きる。
長男の不登校で母親がノイローゼになり三人の子を絞め殺し、自分の手首を切ったが未遂。この時期か?(この段落は木崎の事件の内容)
1988年(昭和63年)
4月 長男、難関大学英文学科に入学、スキーサークルに入る。
長男、散財しはじめる。
1989年(平成元年)
長男の卒業した中学校生徒(陸上部エース)が、浦和高校合格後の卒業前に中学校の職員室に放火。(この頃?)
4月 長男大学2年、
この年、次男18才で就職。
4月中旬 母親、ファミリーレストランでパートを始める。
10月 ベルリンの壁 崩壊
1990年(平成2年)
3月 長男、大学3年生で中退。
スキークラブの後輩Aと知り合う。
長男と同じ中学、同じ部活一年後輩?(元部長)浦和高校卒の生徒が浪人中、自殺。(この年?)
5月、司法試験の勉強をする。
夏頃、長男、飲酒し、昼夜逆転。荒れはじめる。
司法試験の勉強は参考書の独学で、数か月続いて中断。
このあたりで最初の彼女と別れる。
長男「部屋に霊がいる」とおびえる。
「両親のせいだ」と悪態をつきはじめる。
母親、一人で北浦和駅の精神科医Aを尋ねる。
6月末あたり 母親の実姉に相談した結果、新宿のBクリニックに長男と行くべく予約するが、当日長男がぐずぐずするので、母親一人で受診する。
「退却神経症」の可能性とC精神病院の受診をすすめられる。
7月31日 長男、本棚を倒し、「自分が死んでしまうような気がした」と真っ青な顔で部屋を飛びだして、ぶるぶる震える。
母親と父親が付き添い、C精神病院へ行き、精神安定剤を注射してもらい、1週間分の服薬、診察を受ける。
医師は病名を告げず、「通院、飲酒はビール一本、規則正しい生活」を進めるが、以後長男は通院せず。医師はカルテに「両親の過大な期待が要因ではないか」と書くが、両親、長男に伝えていない。
このとき、長男は医師に「霊がついているのでは?」と尋ねる。
1991年(平成3年)
5月、尾崎豊「僕が僕であるために」発売。
6月、スキーサークルの後輩Aを付き合い始める。
7月、母親、舅の介護のため、パートをやめる。
代わりに別居の実母の世話(朝食、昼食、夕食を運ぶ)をして毎月5万円ほどもらう。
8月、長男、恋人Aと佐渡へ旅行へいき、帰宅後荒れる。
長男、長崎へ一人旅行する。旅行中、電話で母親にナイーブな問題を打ちあける。そちらの病院の診察を母が進めるが、長男は行かなかった。帰宅後、長男と父親が話す。
1992年(平成4年)
4月22日 祖父(87)他界
4月25日 ミュージシャン尾崎豊さん(26) 他界
5月初め 長男、高級焼き肉店のアルバイトを始める。午後十時から午前5時まで。
5月中旬 父親と母親が「翌年3月、早期退職して土地や家を売って、お金 を分けるから長男と次男は独立しろ。三男と両親は九州か四国へ行く」と長男、次男に告げる。
5月下旬 長男、荒れる。
5月31日 祖父の納骨。
午後二時、父親、母親、長男、次男、親戚。お坊さんで、自宅でお清め。三男は出席不明。
6月1日 未明。長男、恋人Aと電話。別れ話が出る。
午前2時ころ、長男ガスレンジの下の扉に椅子を投げつけ、三、四 センチほどの穴を開ける。ガラスの醤油差しを壊す。居間のテーブルやいすをひっくり返す。飲酒運転で外出。
午後1時、長男、帰宅。
午後4時、長男、アルバイトへ。
午後5時、父親帰宅。母親愚痴をこぼす。長男の実行方法について話し合う。
6月2日、午前7時、長男帰宅。母親に「親睦会があるから起こしてくれ」と頼む。
午後6時。長男、アルバイト先の親睦会にでる。
午後11時、長男、恋人Aに電話する。5時間の長電話、開始。
6月3日、朝5時、長男と彼女が別れと一年後のデートを決め、電話終了。 長男、コードレスホンの受話器をなげ、壁に穴を開ける。テーブルをひっくり返す。母親にラーメンを作らせ、どんぶりごとドアに投げつける。
父親、次男、出勤、三男、登校。
最後の転機が訪れます。
母親は新聞に入っていた大宮の宗教団体のチラシをみせ、長男に相談。長男は「三千円の相談料か。よさそうだね、行ってくれば」と賛成。
母親はすぐに出かけますが、霊障相談は詐欺まがいでした。疲労していた母親はそれに気がつきませんでした。この気持ちわかります。わたしも数万ならだします。改行はわたしです。
”このままにしておいたらたいへんなことになる。ご主人が殺されてしまう。あなたには水子の霊が取りついている。それが長男に取りついている。ちゃんと供養しないとだめだ。
治すには百万円かかる。ご主人には内緒でなければだめだ。”などと言うので、私は”内緒でそんな金はできません”と言うと”五十万円は出せるか”と言うのです。
昔、「独身女性より、既婚女性の中絶率が多い。」という記事を読んだことがあります。三島由紀夫の「美徳のよろめき」のように、文学では主婦の不倫の末ですが、身の回りの実社会で聞くのは「夫の子」です。2020年は10代より40代の中絶件数が多いのです。
最近ではこちら、NHK「40代の予期せぬ妊娠」よりwww.nhk.or.jp/minplus/0029/topic101.html
母親が先祖供養15万円、水子供養に50万、65万円で供養をお願いします。生活はカツカツなので、30万を実母(長男からすると母方の祖母)から借ります。
帰宅後、長男は「どうだった」と聞きます。長男は長男で「他人の霊が自分に取りついていたら」と思っていたのかもしれません。「それだったら、父も母も自分も、家族は誰も悪くない。」と。
しかし、長男は、予想外の話を聞かされました。その日初めて、水子の話を聞かされたと思います。
「それまでの自分を導いてきた立派な父親像」が「水子がいる事実」によって崩れ、本に書いてはありませんが、長男はかなりの衝撃を受けたと思われます。
「自分はできないのに父親は水子までいる。しかも供養していない。そのせいで自分の人生はめちゃくちゃになった。しかも先日は自分を置いて四国に行くと言い出した。許せない。」
「父親を尊敬しつつ自己確立」と「父親に反抗して自己確立」の狭間で揺れ動いた長男から「父親への尊敬」が姿を消しつつある苦しみ。
こんな感じでしょうか。このあたりの長男の苦悩に夫婦は気が付かなかったようです。
夫婦の苦悩は分かり合えますが、長男の苦悩は長男のものだけで、理解はしてもらえず、夫婦と長男の間には深い断絶が横たわります。
午後4時半、父親帰宅。
霊視鑑定の結果を母親が父親に話す。
父親「おれはそういうものはいちばん嫌いだ。でもおまえが気が済 むのなら行ってきなさい」と母親に言う。
その後、長男がやってきて「水子について」意見を求める。
父「俺は信じない」
長男「てめえ」と発言。父親、激怒。長男の望む会話が不成立。
午後6時半、父親が実行を決意する。
午後9時、夫婦で6月7日以降に実行しようと確認する。父親、日付なしの退職願いを書く。
長男、アルバイトへ行く。
6月4日、
仕事明け、アルバイト先でマネージャーに向かい、長男は笑いながら「家がまずい。でないとまずい」と話す。
午前7時40分頃、長男アルバイトから帰宅。
お題目となった「こんな体にしたのは親のせいだ」といい、冷蔵庫を倒し、電傘を割り、母親にベーコンエッグを作らせた。
(冷蔵庫は誰が戻したんだろう?、冷蔵庫の中身は無事だったのかな?)
母親が水子供養の話をすると、
長男は「”信じていくなら何千万でもいいが、おれがおとなしくなると思って行くなら、きかないからやめた方がいい”と言って、さらに”その金をよこせ”と言ったのです。
長男はこのときに、一人暮らし用の部屋を探すように母親に言いつけています。そのお金で一人暮らしの当座の費用にあてようと思っていたのかどうか、分かりません。この長男、自分のご飯も作れそうにないですし。お金じゃなく、親から見捨てられる不安でしょうか。
実は両親には他の計画がありました。
両親の計画です。
★6月7日(予定) 姪の結婚式のため、この日の後に実行しよう。
(結婚式、どうしたんだろう。)
★6月8日(予定)三日間の水子供養。
この供養が終わっても長男があばれたら、実行しよう。
供養が終わるのは6月10日です。
この時期を早めたのは母親でした。
夫や息子の指示に従って動いているような印象を受ける母親ですが、事件当日、母親は長男から暴言を受け、自分の意志で動きます。実家から出刃包丁を持ち出し、三男の机の横からモデルガンを持ち出し、自宅の台所からはさらなる凶器を持ち出します。
判決文から。改行はわたしです。被告人乙は母親、被害者丙は長男、被告人甲は父親です。
被告人乙は、この瞬間、
被害者丙の右の言葉は、単なる脅しでもいやがらせでもなく、
被害者丙の本心であり、
被害者丙がもやは自らの力で生きてゆく意志を完全に喪失しており、
被害者丙が自分達が破滅に追いこまれるまでどこまでも自分達につきまとい、自分達を食い物にしようとしていることを直感し、
言い知れない恐怖、絶望、憤りに襲われるとともに、
二男、三男を含む自分達の人生を守るためには
やはり被害者丙を殺害する他はない、
猶予はならず今日こそ被害者丙を殺害する他はないと考えるにいたり、
実家から電話して職場の被告人甲に対し、当日の被害者丙の言動を伝えるとともに、右の決意を打ちあけた。
10時半、母親は実家へ行き電話を借り、父親の職場に電話します。
11時半すぎ、父親と母親は自宅で落ち合います。
両親は準備万端でした。
11時50分、110番のブザーがなりました。
父親と母親が帰宅後、わずが20分もたたずに長男の人生は終わったのです。
寝ている息子の心臓を指し、取っ組み合いになる中で冷静に「包丁の先が折れているからかけ持ってきてくれ」と言った父親に、「急いで台所へ行き、一番切れそうなのを」渡した母親に、
許してくれ。悪かった。お願いだから殺さないでくれ
弱り切った長男の声は届くことがありませんでした。
いくつもの閉じた同心円
村のような閉鎖性のある地域、教師という職業、エリート校出身の両親、バブルという時代、家系の連鎖、子供の私物化、資金面の不安、介護うつ、子供の反抗期、長男の高校、大学中退、アルコール依存症、デリケートな悩み、生き方の模索、この一家はいくつもの閉じた同心円の中にいます。
長男に比べ優秀でなかった次男はこの輪から外れました。
両親と地域が作った輪の中から、両親の理解を超えた形で外れていった長男。
けれども「両親が望みをかけた三男」はまだ閉じた輪の中にいます。
いまじゃ、もう遅いんだよ。親を親とも思わない人間は親の手で死なせてやる
輪を守るための争いは、6月4日、11時50分、父親が警察に事件を通報して明らかになりました。令和になって話題になった本があります。
『ケーキの切れない非行少年たち』
2019年7月、令和元年に出版された本です。医療少年院、女子少年院に勤めた作者による本です。偶然手にしたのですが、ここに面白い一文がありました。
子どもが大人と一対一で向き合って得られる気づきよりも、同級生に言われて得られる気づきの方が大きいこともあり、グループでの様々な活動も欠かせません。
少年院の少年少女に共通することは「認知機能の弱さ」「感情統制の弱さ」「融通の利かない」「不適切な自己評価」「対人スキルの乏しさ」「身体的不器用さ」だそうです。
長男は「身体的不器用さ」はなく、「対人スキル」はあります。なので、典型的な「非行少年」と呼ぶのには難しいです。
一方、両親が語る長男の姿は「親が生活に強く不安を感じるほどお金をせびる」、「物を壊す」、「罵声をあびせる」、「飲酒により運転免許停止」、「昼夜逆転」であり、「非行少年」と共通する点があると言えます。
さらに『ケーキの切れない非行少年たち』によると、これらの少年は自己認識に極端なゆがみがあるそうです。ある程度のゆがみかはニンゲンであればよくあり、当然わたしにもあります。
ただ、長男には、助言を与える同級生の存在がなかったのではないでしょうか。もしくは友人の助言を受け入れる度量というものが、まだ育っていなかったのかもしれません。
父・母・息子につらなる<硬質の価値観>と、「いくら手を伸ばしても届かない」長男の<同心円の論理>が平和的な形で交わるにはどうしたらよかったのでしょうか。
地裁の「執行猶予」の判決に対し、検察が「軽すぎる」と控訴しました。「仮面の家」と「息子殺し」は高裁について書いてありません。ほぼこの記事を書き終えて検索したら、東京高裁の判決の結果についても書いてあるブログを見つけました。
カウンセリングの専門家のブログです。
リンクフリーなのでご興味のある方はどうぞ。中尾さんによる事件について読まれる前の注意事項があります。記事数50の長編です。
「あるがままの自分を取り戻す」
世代間連鎖に気づき、脚本人生から自分本来の人生へ踏みだすためのヒントを掲載しています
(旧ブログ名「あなたの子どもを加害者にしないために」)
長男とその両親を取り囲んだ円と、長男が起こしたうずまく水の流れは33年たった今も本の中に流れています。弔い上げ、仏様の区切りがつくともいう33回忌の年が2024年に終わりました。
長男さんのご冥福をお祈り申し上げます。
関係者の皆さんの心が安らかでありますように。
おまけ
※1~7までの説明です。
※1神奈川金属バット両親殺害事件
(かながわきんぞくバットりょうしんさつがいじけん)です。ウィキペディアによると歌にもなったそうです。
※2「息子殺し 【演じさせたのはだれか】」
斎藤茂男編 太郎次郎社
『ひと』誌は太郎次郎社が1973年2月から2000年8月まで刊行していた教育総合誌です。ここに最初の投稿者が現れたのが、「息子殺し」が生まれるきっかけでした。
「仮面の家」先生夫婦はなぜ息子を殺したのか
横川和夫 共同通信社
※3ネット上での通称
複数あります。浦和高校殺人事件。(この「ごぼうちゃんブログ」の記事を読んで本を借りようと思いました。gobou-chan.com/social/urawa-jh-son/)浦和・高校教師夫妻息子殺人事件。
※4子どもに悩んだ親
「子どもサポートネット埼玉」という市民グループがあり、その中に「親の会」があったそうです。教員の父親は組合の新聞を取っていたので、知っていたはずだ、どうして相談にこなかったのかとありました。「息子殺し」P66 平野和弘
※5 月給
月給48万(本給)+実母(目が不自由)の世話と引き換えに5万パートの時も平均5万くらい。収入でした。 「仮面の家」P20
収入 53万(48万プラス母親の収入5万円して計算しました。この母親、自分のお小遣いはあったんでしょうか。)
ローン 月15万円・約28%。
理想的な住宅ローンの返済率は20%以内らしいので、この一家の場合10万6千円。5万ほど多い。この時代は金利が高かったのでそのせいでしょうか。
長男経費(学費を含む)月10万。
次男 就職済み。事件当時同居らしい。
4月に同居祖父が他界。葬儀費用は100万~150万くらい。ほぼ喪主持ちのはず。(全くの想像)
6月水子供養にと言われて、30万を妻の実母より借りているため、貯金はほぼなかったと思われる。
※6「同心円の論理」のきっかけになったサークルの女子
この生徒の話は「仮面の家」にもでてきます。
「仮面の家」ではこんな感じ。
うちの学年はものすごく連帯意識が強かったんですが、二十人のなかでたった一人だけ協調性がなく、非常に自己中心的な考え方をする女の子がいたんです。彼女を除く十九人は、彼女を受け入れようと努力したけれど行き詰まってしまったことがあるんです
この言われよう。
「非常に」「自己中心的な考え方」「協調性がない」
三拍子そろってます。
「仮面の家」のなかで具体例もなく、こんな扱いをされているのは彼女だけです。
彼女を知らないけど、同類の、協調性のないわたしからすると気の毒です。こういう人が、何を間違って連帯意識の強い団体に入ってしまったのだろうか。双方にとって人間関係の試練の場だろうと思う。
もちろん、自分の希望を自分で言うのがいけないわけじゃない。
ただ、当時は「<女性が権力を持ちたい>と女性本人が公言するのは、(なんだろう、今のわたしには言語化できませんでした) 女性はサブ」という空気があった。(一部の人や地域は今もあると思う。)
そんな空気のなかで、しかも19対1のサークルで部長役や渉外役を希望したあたりの彼女は自分に忠実な人だったのかな。
途中でやめた彼女はこのサークルをどう思っていたのだろう。
彼女から見た長男はどんな青年だったのだろう。できることなら聞いてみたい。
※7 校歌指導
ご注意
この文章は県立浦和高校を「威圧的校歌指導(以下、特に断りがなければ校歌指導と書きます。)」という窓の外から、外部のニンゲンが見たものです。間違いがあるかもしれません。その場合は冷静にご指摘をお願いします。
まずは学校紹介から。
進学率や偏差値については本文で触れました。ここではそれ以外です。
令和7年の学校の広報では「勉強一筋」ではなく、「文化祭」「50キロマラソン」をはじめ、三つ兎(勉強、部活、学校行事)を追う方針です。基本的に、行事は雨天決行です。ホームページにも記載があります。
校長経験者による「少なくとも三兎を追え 私の県立浦和高校物語」著者関根郁夫 さきたま出版会 2014年4月。わたしは未読。)という本もあります。
OBは経済界、たとえば埼玉県発祥スーパーの創業者、政治家(市長含む)、宇宙飛行士、医者、学者、教師、フリー記者、県庁、多種多様です。
2023年8月
埼玉県男女共同参画苦情処理委員が、埼玉県教育委員会に「共学化が早期に実現されるべきである」と勧告しました。これ以後、別学校の雄である浦和高校は注目を集めることになります。
2024年9月
埼玉県では公立高校の共学化計画の方向性が決まり、相互理解のための話し合いの段階です。(個人的認識です)
浦和高校同窓会のホームページによると、主流派が共学化反対派らしく、そちらの活動が書かれています。
共学反対の意見書を数度にわたり県に提出。
浦和高校同窓会の敷地を連絡先とする関連団体が反対デモを二回企画・浦和区で実行、意見交換会について個人情報保護の観点から署名を集め、議員を通じて改善要求書を提出しました。
賛成派は一度、「共学賛成」の意見書を県に提出しています。
2025年3月6日、埼玉新聞で報道されました。
【2024年12月在校生が自殺。
遺族は学校側の説明が「不十分」だとし、県の教育委員会に「文部科学省の指針に従い、基本調査を実施し、結果を受けて詳細調査委員会を設置する」要望書を出した。】
高校を取り巻く環境は以上です。校歌指導の話に移ります。浦和高校の負の部分について考えていきます。あとで有料にする可能性あり。
一体どんな校歌指導だったのか?
弁護士ドットコムによれば、時代を超えて校歌指導に共通しているのは「入学式の翌日、オリエンテーション中に突然真っ暗になる」など。
平凡な体育館が突然暗闇になったら、そりゃ驚きます。動物は暗闇を怖がりますし、ニンゲンも動物ですから。
情報を総合すると、校歌指導は、年度によって少し違う方式であるものの、いくつかの点が共通している。
入学式の翌日、新入生はオリエンテーションとして体育館に集められる。館内はカーテンが閉じられて、突然真っ暗になるという。そこに学ランを着て、ボンタンをはいた応援団が現れて、強烈な「校歌指導」を始める。
新入生は気合を入れたあと、ランダムに指名される。その際、照明が当てられて、校歌や応援歌を歌うように求められる。年度によっても異なるが、もし歌えなかった場合、ステージ前に"連行"されるという。
ここからは新聞報道されたもの、報道機関の報道と一致したSNSの書き込み、真偽不明の書き込みを時系列順に書いていきます。報道機関の発表と一致しないものはここでは<真偽未確認>として扱い、その旨を書いてあります。
有料記事は無料部分からの引用です。どれもわたしの独断と偏見で選びました。
一番古い証言です。
1990年代(35~26年程前、平成2から平成11年。)
1990年代に入学したCさんは、校歌指導の存在は知らなかったそうです。ネットもないし、口コミなし、噂も知らなかったようです。生徒会も同席し、野次を飛ばしていました。
1990年代に入学したCさんは合格後、校歌と応援歌の音源をもらった。覚えてくるようにと書かれていたので、何度か音源を聞いたという。しかし、校歌指導の案内はなく、事前に知らされていなかった。
2000一桁台でしょうか。平成12年。
20数年前に入学したAさん。今のように個人が手軽にネットで情報収集する時代とはいえなかったように思います。
入学式翌日です。事前に何も知らされておらず、このときの校歌指導が原因で今も(2025年)治療を継続中だそうです。
Aさんは二十数年前、第一志望だった浦和高校に入学したが、入学式翌日の校歌指導による恐怖で精神的にダメージを食らってしまった。
2012年7月8日 平成24年
約13年前。校歌問題がヤフーの知恵袋に載りました。質問者は行事の内容を明らかにして、どう感じるか意見を求めています。
ここでは「オリエンテーションのひとつ」と表現されています。4人の回答者の意見は分かれました。典型的な回答だと思うので、各回答者の最初の一文を紹介します。
「恐喝だと思います。」
「応援団のある旧制中学では大体同じような感じ」
「浦高1年生が皆キミと同じと思われてしまうのでこんな事を書くのはやめてほしい。」
「別にいいだろ」
埼玉県立浦和高等学校の「校歌・応援歌指導」について 浦和高校を希望する人たちへ
2012/7/8 0:04 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1290345982
2013年1月 平成25年
ツイッターでの発言です。校歌指導の詳細な内容です。
ツイッターは140字の制限がありますので、いくつも投稿しています。2024年7月にX(元ツイッター)のまとめ、posfie(ポスフィー)に引用されていますので、そちらにアクセスすると全文が読めます。
2013年4月 平成25年
高校受験ナビという、埼玉新聞が運営するサイトで「校歌指導について」書き込まれました。校歌指導の詳細は書かれていません。このサイトは利用者登録がないので、なりすましが可能です。この投稿者が懸念したことが約11年後現実になりました。
こんな時代錯誤行事で、マスコミにくだらない事を書かれる前に、学校が手を打った方がいいんじゃないかと思う。
これだけ入学に苦労がいる高校に合格した生徒達。その彼らが仲間と歌う初めての校歌が
あんな状況下でとは、とても信じ難いよ。
さわやかで知的な浦和高校のイメージ
ダウンで、残念だ。
www.zyuken.net/school_page/11110722111/bbs_id/305241365320346/校歌/
2011、12年頃でしょうか。
10年ほど前の卒業生Bさんのときは竹刀が登場します。ネットが発達しても知らない人は知りません。Bさんも知らない人でした。入学時はヤフーやツイッターで書き込みがされ始めた事でしょうか。
10年ほど前の卒業生Bさんの場合も、入学式翌日、部活紹介などのオリエンテーションのあとに校歌指導があったという
2010年代の入学Dさんの話。平成20年から平成31年。
改革を訴えて失敗したDさん。
どこに入れるか迷ったのですが、ここにいれます。Dさんは校歌指導で指名された同級生が不登校になったのを聞いていました。
Dさんが改革に成功すれば、ポスフィーにも載らなかったし、載ってもすぐに「現在は違う。外部の指摘なく改革できた」と正々堂々反論できたでしょう。このとき、浦和高校はそのチャンスをつかむことはできませんでした。
2年生のとき、Dさんは友人を通じて、生徒会の定例会に参加して、次のように校歌指導やめるべきだと主張した。
<精神的に人を追いやって不登校においやるリスクがあることをするのはメリットがない。指導中はトイレにも行けず、人権侵害だ。校外から抗議を受けることもあり得るし、それもリスクだ。『浦和高校には理不尽なことがある。その理不尽に慣れるため』という理屈はおかしい。緊張を強いて、弛緩にいたる過程は洗脳セミナーと同じだ>
しかし、やめさせることはできなかった。
しかし、、、トイレにも行けないんだ。トイレが近い人は困っただろうな。
2022年12月29日 令和4年
1、朝日新聞、有料記事のタイトルに載ります。わたしは未読です。このシリーズは「あのひとはどんな高校時代をすごしたのか」がテーマです。
2013年の高校受験ナビの投稿者が恐れた「マスコミにくだらない事を書かれる」事態がちよっとだけ訪れました。
【浦和高校②】応援団が竹刀持って…震え上がった応援歌練習 宇宙中継の功労者も】
2、記事がでた当時浦和高校校長だった教育長は、朝日新聞の有料記事の件は耳に入らなかったそう。あとから考えると、この有料記事が出る前がギリギリ「外部が知らないうちに改善できた」チャンスでした。
自身も22年に浦和高校の校長を務めており、「自分が在職していた1年で意見を頂いた記憶はなく、当時問題意識を持っていたわけではない。今の時点で考えれば、校歌指導に立ち会って指導するべきだったと感じている」と述べた。
2024年4月 令和6年
posfie(ポスフィー)によれば、県の教育委員会に「校歌指導」について質問を出した議員さんがいるそうです。真偽未確認。
2024年4月、ある埼玉県議会議員がこの暴力的「校歌指導」について調査と報告を埼玉県教育委員会(トップは埼玉県立浦和高校の前校長の日吉亨氏)に求めました(埼玉県立浦和高校の現校長は臼倉克典氏)。県議会議員は県民の代表であるため、県教育委員会はこの要求を拒むことはできない、という仕組みになっています。 にもかかわらず、埼玉県教育委員会から2か月以上経っても報告が出ないという現状があるようなので、私も一人の被害者としてここに「校歌指導」の詳細を書くことにいたしました。posfie.com/@q1w2571065/p/c4LpRnH
更新 2024年7月24
2024年5月 令和6年
1、県教育委員会に「校歌指導が高圧的ともいえる」と情報提供がありました。
校歌などの指導をめぐっては去年5月、県立浦和高校で上級生が新入生に対して、高圧的ともいえる指導が行われているとの情報が県教育委員会に寄せられました。news.yahoo.co.jp/articles/17e77ff94167dac525388655d73cfbbf25f2550d
5/21(水) 19:10配信最終更新:5/21(水) 19:10テレ玉
2、県は高校に聞き取り調査をしています。
県は2024年5月、元生徒の男性の訴えを受けて同校に聞き取り調査をした。www.asahi.com/articles/AST2G2QV6T2GUTNB00ZM.html?msockid=166079819d7a60eb0a556bf89c756154
学校への聞き取り調査が終わったということは、学校は「県の教育委員会から問題視されていることを認識した」はずです。
今までは有料記事、ネットの一部分でささやかれていたものが、公式な続きによって学校教育と言う表舞台にでてきました。こうなれば、管理職がすることはひとつです。
さて、それまでの浦和高校が「従来の校歌指導について、過去にどう対応していた」のでしょう。それを考えるうえで、興味深い書き込み(真偽不明)がヤフコメにあります。
56年前の1969年の浦和高校入学生が(確認が取れないので自称)「応援団が入った校歌指導はなかった」と書き込んでいます。真偽不明。
書き込み主が1954年・昭和29年生まれとすると71才。
これは驚き。自分は1969年浦和高校入学だが、こうした応援団が入った校歌指導はなかった。当時、学園紛争の影響で3月の卒業式が荒れた。そこで4月の入学式は簡素化された。そういう時代で、儀式はやらない雰囲気があった。それで校歌指導がなかったのかもしれない。 その後、この記事のような校歌指導が毎年行われるようになったのか。 記事を読む限りは、こうした新入生を恐怖に陥れるイベントはやめた方がよい。news.yahoo.co.jp/articles/db72c6e66589c3115f39f2e5787220b3880427aa/comments?order=newer&page=4
ヤフーニュース 超エリート校・浦和高校の校歌指導は「地獄の時間だった」 新入生を追い込む「伝統」に疑問の声
弁護士ドットコムニュース2/13(木) 10:49配信 mas******** 2/14(金) 19:34
1969年の中止は裏付けのある資料が見つかりませんでした。(わたしが力尽きた)。
この書き込みが正しいとすると、いつ威圧的な校歌指導が始まったのでしょうか。
学園闘争以前にも威圧的の校歌指導があったとする書き込みが見つかりませんでした。中断したのか、学園闘争以後に新しく生まれたのか分かりません。
2024年7月24日 令和6年
ネット上のX(元ツイッター)のまとめposfie(ポスフィー)に校歌指導の件がのりました。浦和高校は文化祭告知等でXを使って情報を発信しています。当然、ある程度の人数の生徒の耳にも入ったと思われます。
2013年のツイッターの全文やその後の反響、全国の他校の例(真偽不明)も載っています。わたしが知ったのもこの頃です。
2024年8月 令和6年
posfie(ポスフィー)のまとめによれば、県の教育委員会に対し4月に求めた「調査と報告」への返事がきたそうです。真偽不明。在校生と名乗る校歌指導・存続派の意見も追加しています。
不登校者、中退者を複数出しているその行事について教員の責任はどうなっているのか、ある埼玉県議会議員が埼玉県教育委員会を通して問いただしたところ、3ヶ月経ってやっと公的な回答が来ました。 【2024年8月16日追記】「校歌指導」存続派の在校生だという方から、校歌指導の現状を伝えたいということでリプライをいただきましたので、追加しました。
2025年2月9日 令和7年
朝日新聞の紙媒体&電子版、弁護士ドットコム他ネットニュースで記事になりました。ここで初めて、報道機関により「校歌指導が令和の時代にそぐわないのではないか」と指摘されました。
のちの報道発表から考えると、このとき浦和高校はすでに対策済みです。
浦和高校の校歌指導に「心病んだ」男性の訴えに「改善する」と同校
地元のニュースを扱う、埼玉新聞は紙媒体の記事に掲載なし。電子版も同じく掲載なし。
ヤフーコメントやX(元ツイッター)でも全国の同様の進学校(主に旧制中学の流れをくむ高校が多い)で行われていたと投稿がありました。投稿の時点では真偽不明でした。後日本文に書いたあるように、ヤフコメやXの投稿の一部が事実であったと報道されました。こちらのヤフーニュースについたコメントです。
超エリート校・浦和高校の校歌指導は「地獄の時間だった」 新入生を追い込む「伝統」に疑問の声
報道された他県、他校の報道を見ていきます。
見つかった報道で一番古いのがこちら。
2021年6月の報道。
岩手県立盛岡第一高校他です。今年(2021年)の入学生もあったと書いています。2021年当時の学校側の回答は「伝統なので」で中止・見直しはないそうです。2025年は人づてに確認したところ、「だいたい同じ」だそうです。
東北の超名門高校で「パワハラ応援歌練習」元生徒が告発「絶叫強制された」
Smart FLASH 週刊FLASH 2021年6月1日号)
2025年4月の報道。
1、2020年代の秋田県立秋田高校(共学)
今は違うと学校側の回答が記事中にあります。
「あんなに大声で罵倒された経験は後にも先にもない。人権侵害です」秋田県で一番の進学校に入学した男子生徒を待っていた“応援歌練習”とは…
2、記事は、前半と後半で別の学校と取り上げています。
前半は2020年入学の岩手県立水沢高校(共学、現在改善済み)で、在学中から父親とタッグを組んで活動した生徒の話。
後半は、10年ほど前に卒業とあるので2015年くらいでしょうか。
長野県上田高校(共学。応援練習→校歌指導へ名前を変え、令和にあわせて改善中)を卒業し、応援団に属した生徒の証言です。
「女の子が泣かされていて応援団を許せなかった」怒号を浴びせながら黒板を叩き、前列の生徒の机をひっくり返す…今も日本中に存在する“応援練習”の闇
2025年5月報道。
福岡の県立福岡中央高校(共学校。女子校として開校。今は生徒会による校歌指導はなし。合宿での校歌指導は合宿が自体なし)が報道されました。2006年あたりの入学でしょうか。
福岡の伝統校で「威圧的な校歌指導」、わずか8カ月で中退…文筆家の西田藍さんが語る高校時代の恐怖
秋田、岩手、長野、福岡、「上級生が下級生に威圧を与える」という基本路線は似ています。ちなみに私の母校も平成初期、似たような校歌指導してました。暗闇とか一人で歌わせることはなかったです。ただ、大声がダメな人にはダメかも。今は学校のホームページで内容を公式に発表しています。浦和高校に戻ります。
2025年2月14日 令和7年
朝日新聞が有料記事で、報道されました。
1、「県は2024年5月、元生徒の男性の訴えを受けて同校に聞き取り調査をした」
2、「県は当初、同校が「改善する」としていることを理由に、さらなる調査をしない方針」だった。
3、「朝日新聞の報道を受けて、訴えの詳細を把握したとして、方針を改めたという。」
この「朝日新聞の報道」とは2月9日の記事でしょうか。前記のように浦和高校は対策済みです。
県は当初、同校が「改善する」としていることを理由に、さらなる調査をしない方針だと朝日新聞の取材に説明していた。だが、朝日新聞の報道を受けて、訴えの詳細を把握したとして、方針を改めたという。www.asahi.com/articles/AST2G2QV6T2GUTNB00ZM.html?msockid=166079819d7a60eb0a556bf89c756154
有料記事 杉原里美2025年2月14日 17時40分
2025年4月30日 令和7年
朝日新聞、有料記事で現在の「改善された校歌指導」が報道されました。
浦和高校の校歌指導「1人で歌わせず」に見直し、他校も言葉遣い改善
www.asahi.com/articles/AST4X12YGT4XUTNB00FM.html
2025年5月20日火曜日 令和7年
埼玉新聞(朝日新聞は有料記事、他にも)で調査内容の一部が発表されました。すでに高校は対策済みです。
『3校で配慮欠く内容』
校歌指導で埼玉県教委が調査結果を公表 上級生が怒鳴る
以下、埼玉新聞の記事をまとめました。()内はわたしの註釈です。
1、調査対象は、県立高校すべて 137校
2、調査された期間は2022~2024年度の3年間
(2022年3月くらいにコロナによる行事の制限が解除されました。学校によっては、このくらいから行事見直しの機運が高まりました。)
3、上級生による歌唱指導があったのは8校。(適切な学校を含む)
4、配慮を欠ける指導の具体例として、
上級生が下級生の近くにより、大声で怒鳴りつける
新入生を個別に指名して一人で歌わせる。
竹刀で床をたたく。
などです。
5、不適切な校歌指導が行われたのは三校「浦和高校、川越高校、松山高校」(本年度=2025年4月から改善ずみ。すべて男子校。)です。
ここではじめて「埼玉県の教育委員会から上記三校は(2022年4月から2024年4月の校歌指導は)配慮に欠ける指導があった」と認定・公表されました。
この場合の配慮とは「人権に対する配慮」です。浦和高校に限ってはさかのぼって25年分調査したはずです。
その結果は<校歌指導が原因で不登校・中退が確認されたのが一人>という発表です。
それ以上でも以下でもない。
コロナ制限のあった期間を除き、20数年間威圧的な校歌指導があったと認定したのか。20数年の中で認められたのは2022年から24年だけなのか。この辺、新聞記事に記載がないです。
ここで、同質性の問題点をあらためてあげます。
2、「不都合な悪い情報を入れない」
3、「内部からの批判や意義を許さない」
5、「逸脱する人を許さない同調圧力」
6、「集団内の規範を重視する」
この「校歌指導について改革案がでない、通らない、実行されない。」と言う事実が、浦和高校における同質性の問題を起きていたことを示します。
いくつもの同質性の問題を抱えた結果、「集団浅慮がおこった」と推測されます。
「集団浅慮とは個人は優秀なのに、集団となると個人の総和よりも劣ったレベルの意思決定をすること」
この件はこれで終わりかと思いきや、5月22日木曜日に埼玉新聞で後追い記事が出ました。中略と太字はわたしです。これは珍しいことです。
しつこく書きますがのちの報道から考えると、この県の指導が来る前に各学校は改善策を打ち出していました。それをすかさず実行しました。さすが伝統校です。
「時代に合わせ適切に」 埼玉県立高校での校歌指導 3校で配慮に欠ける指導行為が確認 昨年度末に各学校に指導→配慮に欠けた指導は改善
(中略)
昨年度末に各学校に指導し、本年度から配慮に欠けた指導は改善されたという。日吉教育長は「校歌指導は学校への帰属意識などを育む必要な指導。時代の状況に合わせて具体的な方法を毎回検討し、適切な指導を行う」とした
22日の記事に対し、X(元ツイッター)上では、威圧的な従来の校歌指導を肯定する人と否定する人が多少もめてました。
東京新聞では「校歌指導が不登校や退学の一因になった可能性がある県立浦和高校の1人の保護者に対し、県教委として謝罪した」とありました。購読中の埼玉新聞では触れていませんでした。
校歌指導問題 埼玉県教育長「大変重く受け止め」 保護者に謝罪も
ガールズちゃんねるというサイトでもこの問題が話題になりました。サイトが違うと反応もまた違います。ここでは「地元の誇り。出身者以外は口出し無用」という視点はぐっと減り、「昭和」という点からのコメントが見られます。ご興味のある方はどうぞ。girlschannel.net/topics/5683019/
ここまで同質性の悪い面を見てきましたが、物事は一長一短、同質性にも良い面もあります。それは「(強烈な)一体感がもてること」です。良い面と悪い面は表裏一体です。
もし、同質性の良い点だけがあったのなら、他校のように内部(教員、OBや現役生)からの改革がなされていたら、それが実行され続けていたら、今回の件は起こらなかったのではないでしょうか。残念です。
最後に、では「閉ざされた共同体はどうすればいいのか」についてです。
こちらの記事では方法の一つが書いてあります。同質性の観点からではありませんが、「閉ざされた共同体」という点が共通しているので、参考までにあげます。
「生活」を人質に取られている日本人が多すぎる…「目立ちたくない、でも特別になりたい人」に真に必要なスキル cid=msedgntp&pc=DCTS&cvid=5b8df076161940cc84e4949541910e65&ei=11onaj)
岸見 一郎(きしみ・いちろう) 哲学者 1956年京都生まれ。 2025年5月20日アクセス
「そうはいっても、、、校歌指導が<伝統だから>と元に戻ったらどうしよう?」と不安なあなたにはこちらの記事を贈ります。少しは安心できるといいのですがどうでしょう。
ここまで読んでくださってありがとうございます。良い毎日を。
今後は、県教育委員会から各学校の校長に対して、校歌指導をする際は威圧的な言動をしないことや人権に配慮することを求めるとしています。
テレ玉
いいなと思ったら応援しよう!



