古戦場の亡霊
ウィルの古い隠れ家での日々は、表面的には穏やかに過ぎていった。とはいえ、それは決して安穏とした休息ではなかった。二人は来るべき戦いに備え、一日一日を無駄にすることなく過ごしていた。隠れ家の周囲に張られた結界は、依然として二人を外界の直接的な脅威から守ってくれていたが、その結界ですら完全ではないことを、ウィルは日に日に強く感じ始めていた。
ウィルは鍛冶場の整備を進め、炉に火を入れ、金床で鎚を振るう時間を増やしていた。エリスの矢の補充はもちろん、自身の剣の手入れ、そして旅に必要な様々な道具――例えば、より頑丈な留め具や、携帯用の小型の罠など――を作成・改良していく。カン、カン、というリズミカルな金属音が、再びこの古い隠れ家に響き渡るのは、彼にとって五百年ぶりの懐かしい感覚だった。
それと同時に、夜ごと隠れ家に残されていた古い資料を読み解くことにも時間を費やしていた。羊皮紙に記された古代文字や魔法陣、錬金術の記録。それらは、二つの腕輪の製作や、力の根源に関わる、危険な知識の断片だった。彼は慎重に資料を整理し、世界の腕輪の行方や、冥王の石に対抗する術に関する手がかりを探していたが、五百年の歳月はあまりにも長く、情報は散逸し、決定的なものはなかなか見つからなかった。
ウィルの研ぎ澄まされた感覚は、日増しに結界の外、特に森のさらに奥深くから漂ってくる不穏な気配が強まっているのを捉えていた。それは、これまでに遭遇したシャドウ・クロウやブライテッド・ベアとは比較にならないほど強力で、かつ知性を感じさせる、冷たく邪悪なオーラだった。まるで、巨大な悪意そのものが、じわじわとこちらに滲み出してくるような感覚。結界の境界付近では、時折、空間が歪むような、あるいは黒い影が蠢くような幻影が見えることさえあった。
「…どうも、落ち着かないな」ある日の夕食後、ウィルは焚き火の炎を見つめながら、眉間に深い皺を寄せて呟いた。いつもの穏やかな表情は消え、険しい戦士の顔つきになっている。
「何かあったの、ウィル?」エリスが心配そうに尋ねる。彼女もまた、ウィルほどではないにせよ、森の空気が日に日に重くなり、夜になると遠くから不気味な囁き声のようなものが聞こえる気がしていた。結界の中にいても、完全に安心はできなかった。
「森の奥…おそらくは、第二紀の古戦場があった辺りから、良くない気配が強まっている。それも、複数だ。数は多くないようだが、一つ一つが非常に強い気配だ。まるで、地の底から何かが這い出してくるような…そんな気配だよ」ウィルの表情は険しい。「最初は微かだったが、日ごとに濃くなっている。何か良くないことが起ころうとしているのは間違いない」
「古戦場…」エリスは息を呑んだ。歴史書で読んだ、最終戦争の激戦地の一つだ。多くのエルフやドワーフ、人間たちが、マルゴスの軍勢と戦い、命を落とした場所。そこには、今もなお多くの無念の魂が彷徨い、強い魔力が渦巻いていると言われている。「まさか、その魂たちが…?」
「おそらく、冥王の石の力が、古戦場の怨念を呼び覚まし、何かを歪めてしまったんだろう。死者の魂を弄ぶのは、マルゴスの得意とするところだったからな」ウィルは苦々しげに吐き捨てた。「放っておけば、さらに強力な魔物と化して、この辺り一帯に災厄をもたらすかもしれない。この隠れ家の結界も、いつまでもつかわからない」彼は立ち上がり、剣の柄に手を置いた。「少し、様子を見に行く必要があるようだ」
「私も行くわ!」エリスも迷わず立ち上がった。「危険なのでしょう? あなた一人で行かせるわけにはいかないわ」彼女の碧い瞳には、恐怖よりも強い決意が宿っていた。
ウィルは一瞬ためらった。古戦場は危険すぎる。彼女を連れて行くべきではないかもしれない。だが、彼女の瞳に宿る強い意志と、自分を信頼してくれる気持ちを無下にはできなかった。それに、彼女の光魔法は、アンデッドのような存在に対して有効かもしれない。
「…わかった。だが、決して無理はするなよ。僕の指示に必ず従うこと。そして、少しでも危険を感じたら、すぐに僕の後ろに隠れるんだ。いいかい?」
「はい!」エリスは力強く頷いた。
二人は手早く準備を整え、隠れ家を後にした。目指すは、森の奥深くにあるという古戦場跡。ウィルの記憶と、彼が感じる不穏な気配だけが頼りだ。隠れ家の結界を一歩出ると、途端に空気が重くなり、淀んだ気配が肌にまとわりつく。エリスは思わず身震いした。
「大丈夫かい?」ウィルが気遣わしげに振り返る。
「ええ、大丈夫。少し驚いただけよ」エリスは気丈に答えた。
古戦場跡へと向かう道は、これまで以上に過酷だった。もはや道らしい道はなく、ウィルが鉈で茨や密生した下草を切り開きながら進む。森の汚染はさらに進み、木々は奇怪な形にねじくれ、地面は黒や紫の粘菌に覆われている場所が増えた。空気は重く淀み、腐敗臭と、鉄錆のような血の匂いが混じり合ったような、不快な臭気が漂っている。時折、正体不明の生き物の、苦しげな呻き声のようなものが遠くから聞こえ、エリスの背筋を寒くさせた。
「ここは…まるで死の世界ね」エリスは顔をしかめながら呟いた。リンドリアの美しい森とは似ても似つかない光景に、彼女は強い嫌悪感と悲しみを覚える。
「ああ。石の力は、生命の循環そのものを歪めてしまうんだ」ウィルは、周囲を警戒しながら静かに答えた。「かつてはここも、豊かな生命に満ちた森だったはずだが…」彼の声には、深い哀しみが滲んでいた。
「ウィルは、この場所を知っているの?」
「…最終戦争の頃、一度だけな。激しい戦いがあった場所だ。多くの者が…ここで命を落とした」ウィルは遠い目をして言った。「彼らの無念が、この地の空気をこれほどまでに重くしているのかもしれない」
彼の言葉に、エリスは息を呑んだ。彼が口にする「最終戦争の頃」という言葉。それは、彼がやはり五百年以上を生きていること、そして、あの戦争を実際に経験したことを示唆していた。彼女はウィルの横顔を盗み見た。その表情は硬く、深い悲しみが刻まれているように見えた。彼が背負っている過去の重さを、改めて感じずにはいられない。
「大丈夫…?」エリスは、思わず彼の袖を掴んでいた。
ウィルは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな表情に戻り、彼女の手にそっと自分の手を重ねた。「ああ、大丈夫だよ。ありがとう、エリス」その手の温かさに、エリスは少しだけ心が安らぐのを感じた。
二日かけて移動し、二人は霧が立ち込める一帯に足を踏み入れた。霧は乳白色で濃く、数歩先も見通せないほどだ。周囲の木々は完全に枯れ果て、あるいは黒く焼け焦げたような姿を晒している。枝は不気味な形にねじ曲がり、まるで苦悶の叫びを上げているかのようだ。地面には、錆びついた剣や砕けた鎧の破片、そして白骨化した人骨らしきものまでが、無数に散乱していた。空気中には、鉄錆と腐敗、そして何よりも強い怨念のような気配が満ちている。冷たく、重く、肌を刺すような感覚。ここが、古戦場跡なのだろう。
「…ひどい場所ね」エリスは顔を青ざめさせ、思わず呟いた。五百年の時を経てもなお、これほどの憎悪と絶望がこの地に満ちているとは。息をするだけで、魂まで凍てつきそうだ。彼女はウィルのマントの裾を、今度は無意識のうちに強く握りしめていた。
「ああ。多くの命が失われた場所だ。彼らの無念が、石の力で歪められ、現世に縛り付けられているのかもしれない」ウィルは周囲を鋭く警戒しながら、静かに言った。彼の表情も、普段の穏やかさとは程遠い、厳しいものになっている。「気をつけろ、エリス。気配が近づいてくる。…四体だ。かなり強いぞ!」
ウィルの言葉と同時に、濃い霧の奥から、ゆらり、と四つの影が現れた。それは、かつてのエルフの戦士の姿をしていた。しかし、その体は半ば透け、ぼろぼろになった銀色の鎧を纏い、その瞳があったであろう場所には、憎悪と狂気に満ちた赤黒い光だけが宿っていた。手には錆びつき、欠けた剣や槍を握りしめ、ゆらりゆらりと、しかし確かな敵意を持って二人に近づいてくる。その動きは音もなく、まるで悪夢の中の存在のようだ。一体一体から放たれる冷気とプレッシャーは、これまでの魔物とは比較にならないほど強力で、かつての高位の戦士であったことをうかがわせた。その姿には、生前の威厳の残滓と、死してなお戦い続ける呪われた者の悲哀が漂っていた。
「ゴースト・ジェネラル…! まさか、本当に…! しかも、四人も…!」エリスは歴史書で読んだ存在の名を呟き、背中の弓を引き抜いた。第二紀の最終戦争でマルゴスに敗れ、その魂を冥王の石に囚われたという、エルフの大将軍たちの亡霊。彼らは生前の卓越した武勇と、石から与えられた邪悪な力を持つ、恐るべきアンデッドだ。伝説上の存在だと思っていたが、現実に目の前に現れたのだ。
「来るぞ! エリス、距離を取って光の矢を! 一本ずつ確実に!」ウィルの鋭い声と共に、ゴースト・ジェネラルたちが一斉に襲いかかってきた! 音もなく滑るように、しかし恐るべき速度で接近し、錆びた剣を振りかざす。その動きには、生前の熟練した技が色濃く残っており、四体とは思えぬほどの連携で二人を包囲しようとしてくる。剣筋は鋭く、迷いがない。
「フッ!」エリスは狙いを定め、光魔法の力を込めた矢を放つ! 矢は一体の亡霊の胸を捉えた。ギャア!という甲高い悲鳴が響き、亡霊の体が光に焼かれ、その輪郭が大きく揺らぐ。しかし、倒れない! 動きは鈍ったものの、憎悪の光をたたえた瞳でエリスを睨みつけ、再び剣を構える!
「なんてこと…! 効いてはいるみたいだけど…!」エリスは驚愕する。彼女の渾身の一撃が、致命傷を与えられていない。
「怯むな、エリス! 動きが鈍ったところを狙え!」ウィルは叫びながら、自身の剣で迫りくる二体の亡霊たちの攻撃を受け流す。キィン! ガキン!と甲高い金属音が霧の中に響き渡る。亡霊たちの剣は錆びついていても、その一撃一撃はウィルの剣を弾くほどの重みと、生前の技が込められた鋭さを持っていた。ウィルは巧みに攻撃を捌き、時には腕輪の力で瞬間的に斥力場を展開して相手を怯ませるが、一体一体が強力なため、容易には崩せない。彼らの剣技は、ウィルが知るかつての同胞たちのものだった。それが今は、憎悪に歪められ、彼に牙を剥いている。
エリスは深呼吸し、精神を集中させる。再び光の矢をつがえ、先ほど傷つけた亡霊の同じ箇所――光に焼かれて半透明になった胸部――を狙う。
「光よ、貫け!」
二射目の矢が、亡霊の胸に再び突き刺さる! 今度こそ、亡霊は苦悶の叫びを上げ、その体が完全に霧散して消えたかに見えた。
「やった…!」
だが、安堵したのも束の間、霧散したはずの場所から再び赤黒い光が灯り、亡霊の姿がゆっくりと再構成され始めた!
「そんな…! 不死身なの!?」エリスは絶望的な声を上げた。
「いや、石の力で無理やり繋ぎ止められているだけだ! 何度か浄化すれば完全に消滅させられるはず…! だが、時間がない!」ウィルは歯噛みする。一体を倒すのにこれほど手間取っていては、残りの三体に押し切られてしまう。
その言葉を証明するように、残りの三体の亡霊たちが、ウィルを二体で足止めしつつ、残る一体がエリスへと殺到する! 彼らは生前、熟練の指揮官だったのだ。連携を取り、ウィルとエリスを分断し、数の少ない方を確実に仕留めようとしている。
「しまっ…!」
ウィルはエリスを守ろうとするが、足止めする亡霊たちの連携は巧みで、容易には突破できない。彼らの剣技は正確無比で、ウィルといえども油断すれば致命傷になりかねない。一体一体が、並のエルフの戦士では到底太刀打ちできない強さを持っている。
エリスは必死に応戦する。光の矢を次々と放つが、亡霊は巧みにそれを避けるか、剣で弾く。再生し始めた一体も加わり、エリスは三体の亡霊に囲まれる形となった。多勢に無勢、というわけではないが、一体一体の強さが桁違いだ。じりじりと追い詰められ、ついに一体の亡霊の剣が、死角から彼女の肩を掠めた!
「キャッ!」
幸い、革鎧のおかげで深手は負わなかったが、衝撃でバランスを崩し、地面に倒れ込んでしまう。その隙を見逃さず、亡霊たちの錆びた剣が、無防備な彼女に振り下ろされようとした、その瞬間――!