今の霊感者はインターネットで自分をアピールして、多くの人を集める講演会等を催して大金を稼ぐ方がかなり出て来ておられます。純粋に神に仕えるとか真理に向かうではなくて、何か自分の名声や大金を得たいの魂胆が見え見えの方が多く見受けられます。その為に、講習会も花盛りなのでしょうが。
以前はと言いますと、霊感者は町の「拝み屋」などと蔑(さげすさ)まれたりしても、困った時には神頼みと駆け込んで来る人達の為に低料金やお気持ちで神仏の御用を勤めておられたりしたものです。そうした方達から見れば、今の現状はもう驚きに堪えないでしょう。
私の最初の師匠は、某稲荷神社で伏見稲荷大社講務本庁の教師資格で、その神社の神主をされていました。伏見稲荷大社は神社本庁には所属していませんので、神社本庁が認定する神主の資格を必要としません。神社本庁は指定された学校で単位を取るとか、大学二年過程を終えた者でないと神主の資格を与えません。
学歴で一定の線を引いています。
今はほとんどの方が大学に進学し、中学で解らないといけない分数計算すら出来ない大卒の方も多いようです。以前は分数計算が出来ないと高校でも進めないがありました。
ある男性の霊能力者の方が宮司の成りてが居ない地元の小さな神社を守る為に、老いた現在の宮司さんからお宮を守る為の推薦状を頂いて神主の資格を取ろうとされましたが、そうした場合は認める規定があっても、現実には認めませんでした。高卒の学歴だったので認められなかったのです。ともかく日本の神社本庁は皇室神道の権威主義の組織と言えるでしょう。
言うなれば、
神社本庁は実際に神仏と関われることが出来る学歴を持たない者は町の拝み屋程度と侮蔑しておられます。それらはしょせん蛇や狐の霊で有り、
神に仕える者は高学歴の者でないとおかしいと主張される学者の方達と同様の錯覚に陥っておられるのです。
為に、伏見稲荷大社講務本庁の教師養成講座には、腕に覚えがあるお不動様の行者とか稲荷の行者等が多く混じるなどして、無学歴であっても神主としての門戸が開かれています。
ただ、
大本教神諭に「この金神は禰宜や巫女には憑(うつ)らんぞよ。何も解らん神が憑りて参りて、知った顔を致して種々(いろいろ)と口走りて、肝心の仕組みも解らずに、世の立替の邪魔をいたすから、一寸の油断も出来んから」とある様に、本当の高次元の神霊は霊能者でございとか、少しの霊感で降りる存在ではありません。
まして、石笛を吹いたから降りて来るなどはありません。石笛を吹いたら降りて来るなどは低次元の話なのです。
私の最初の師匠は豊受様によれば、当時の日本では10本の指に入る霊能者。豊受様の御代としては、伏見稲荷大社講社の某支部長さんと双璧。どちらがトップであってもおかしくないと言われていたぐらいで、近隣の霊能者の方にその師匠の名を告げると、あの先生が言われることならば間違いがないと言われるほどの方でした。霊能者が霊能者を誉めるなどあまりない話です。それぐらい近辺では知られていました。
だが、一人前の霊能者になるまでの間、あまりの苦難に二度も自殺を図られたのですが失敗。いくら死のうと図っても豊受神が自分を死なせないと解った時から、
あらゆる試練に打ち勝って来られた人でした。
私は自分では「辛い苦労をして来た」と思っていました。しかし、豊受様はその師匠に私のことを「あれは苦労が足りぬ。もっともっと試練を与えるつもりであったが、あの者の母親の神力に邪魔されて叶わなかった」と言われたのです。確かに、私は苦労が足りぬと言われれば足らなかったかも知れません。
神は幸せを授ける存在だと思っている方は、あまり魂に成長がありません。この世は魂の修業場。この世の艱難辛苦を乗り越えることが魂の成長です。西洋では「試練は神が与えたプレゼント」の言葉がありますが、神と呼ばれる存在を見る目を改める必要があるのです。
同じ神でも幸せを与えられる者には善い神でも、試練を与えられる者からすると悪神かと言いたいほどなのです。
神を知るとは、学で知ることではないのです。高い魂を持った人ほど、この世の苦労を味わさせられる為に社会の底辺に叩き落とされることから、さほど学歴はないのです。人の苦労が解らぬ者に、神のことなど解りません。
何の努力も修業もしないのに神霊が懸かるはありますが、それは初期段階であって、苦労を積まないと魂が磨かれることはないので、結局は低級霊の餌になってしまいます。
私が感心したのは、その師匠は自己の我を持っておられないことでした。全て豊受神任せ。豊受様がその師匠に顔を右に向けておけと言われれば、3日でも顔を右に向けているような方でした。これは私にも真似は出来ません。
一般的に、スピで霊感を誇示する方には「我が強い」方を多く見受けます。その我を見事に消しているのです。
私はその師匠から、修業に入るに当たって朝夕に大祓祝詞3巻。般若心経を10巻を毎日唱えるように申し渡されました。俗に言う「拝む」です。畳の上で正座して、神棚に神札を納めての修業です。一年はかかるだろうと言われましたが、一ヶ月ほど経った頃から、神前でいろんな現象が起き始めたのです。私が朝早い出張でそこそこで切り上げていると、その師匠から豊受様があれは言われたことをキチンとしていないと電話が掛かってきたものです。
そうして正座して拝んで行く中で、自分の中から我が少しづつ消えて行くことが解りました。俗に言う「己の我を無にする」拝むになって来たのです。
日本人は「畳」文化の者達です。畳の上で正座して頭を下げる行為も一種の「土下座」と言えます。仏教寺院も畳で僧侶も正座して額を畳に付くような土下座をします。チベット仏教では「五体投地」と言いまして、頭のみならず両手両足も地に付けて仏に礼拝するが行われています。イスラム教徒も砂漠で拝む関係もあるのでしょうが、床に布を敷いて正座して額を付ける拝し方をします。それが神を敬う正式の拝し方です。
立って拝するなどは、もっての他なのです。しかし、現実には地面に正座して拝することが出来る場所ばかりではありません。立ってしか出来ない場所もあります。その点は止む得ないでしょうが、
基本は「土下座」なのです。
それは、自分はいと小さき者ですと、神に対しての行為なのです。
私は以前、稲荷神達に対して大変怒ったことがあります。すると、十二単衣を着た女神達が大半でしたが、私の前で無数の稲荷神が土下座して「ひれふす」をされたのです。それは私が怒ったのではなくて、私の背後の方が怒られたのです。
私がその話を最初の師匠に話した時、その師匠は言いました。「貴方は何も解っていない。稲荷の神達は貴方に「ひれふす(平伏す)」をされたのではあまりせん。貴方の背後に居る神に対して「ひれふす(平伏す)」をされたのです。貴方は何時まで経っても自分の背後に居る神を見ようとされていないと私を叱りました。
だが、それは無理なのです。
私が私の【後ろの正面】を見るなどは、霊的反射鏡でもないと見えません。あるいはその方が、私の正面に回られないと見えない理屈になります。
私が子供の頃に聞かされたのは、「そなたの背後にこの私を見る者でないと使えない」であって、完全に「後ろの正面は誰れ!」なのです。
私が子供の頃に臨んだ声は、
「そなたを見てそなたに頭を下げる者はそなたに頭を下げたのではなく、この私に頭を下げたのである。例え、その者が乞食の様に卑しい身であっても、そなたに頭を下げるのであればそなたも同じ様に頭を下げなさい。その者がそなたに正座してふれひすのであれば、そなたも正座してふれひすをしないと行けない。
そなたの背後に居るこの私を知る者は永遠の神の世界にと導く」と言われたのです。
それはイエスが説いた「私を見て父を見よ」ではないのです。それだと自分が父なる神式の思い上がった者となります。私に臨んだ声は、そなたはバカを演じていればよい。そんなそなたを見るのではなくて、その「バカ」たるそなたの背後に居る神が解らないようでは、使い者には成らないなのです。
そして、
それは私が神の名を振りかざして「思い上がるな」という戒めでもあるのです。ほとんどの教祖様は「ふんぞり返って」おられます。そうではなくて、同じだけ頭を下げられる者となりなさいなのです。
本来の土下座は神に対しての敬いの「ひれふす(平伏す)」なのです。よく威張り散らす者が、「詫びるのであれば、俺に平伏せ」等と要求して来ることがあります。それは自分を神の如く思っている尊大な行為なのです。こうした者達は死後に地獄界へと墜ちて行くのです。
また、
いくら神仏に仕えて神仏に対しては頭を下げれても、人に対して頭が下げられずに権力者だけには頭を下げる宗教家も同じです。己の我が強いから、「己我無(おがむ)」になっていないのです。
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