前から述べておりますが、
命とは【息(い)の霊(ち)】と言うことであり、自分の心(魂)がある限り、人に根本的な死は存在しません。この世の死とは、単に魂が着る服から離れることです。その人生がどれほど辛い人生であっても、肉体に死が存在することでその「苦界」から抜けます。
お釈迦様の教えにこの世は【苦界】がありますが、この世は魂の修行場であり、社会の荒波によって魂の汚れが洗われるのであって、この世は「快楽の世」だとか、甘やかされて育った魂はその汚れが落とせずに、魂に「毛物」が発生します。それが【人の顔をしていても、その魂は獣】と認定されるのです。
可哀想だ。気の毒だという心を持つ必要はありますが、それで神は何もしないと批判するのは根本を見ていない論議なのです。
神の慈愛とは、【魂に幾度もこの世のチャンスを与えることで】あって、そこに魂の【輪廻転生】があります。何をしても神の愛で赦されるではないのです。そこに【カルマ】が生じているのであって、神は愛で何をしても赦されているなどの論理そのものが存在していません。
私が旧約聖書の神と名乗る声から注意を受けたのは【この世の一時の快楽や刹那心から、永遠の魂を腐らせたり潰してはいけない。】という教えでした。人はこの世で殺し合いをする時もあります。だが、それで自分の魂を失うことはないのです。また、人として出されて来ています。
その声は私の前世は悲運の武将だと告げられました。その武将であった当時、当然に私は武将として多くの敵兵を殺めているはずです。それは武将であれば宿命です。だが、またこの世に出て神の御用を勤めています。
その時に多くの敵兵を殺めたであろう罪は、この世で幾度か「牛」として出される罰を受けています。
つまり、この世とは「神の舞台」でもあるのです。芝居の舞台の役者は殺されても、次の舞台では出て来るでしょう。それと同じ事です。そこに【罪を憎んでも、人を憎むな】があります。それは神は愛で何をしても赦されるではないからです。
日本の心智学では、【愛ばかりを言う者は蛇神の教えとあります】。愛は絶対に必要な教えで有り、不必要な教えではありません。だが、愛の教えに固執する者は邪神への道に墜ちて行きます。何故なのでしょうか?。
それは、
キリスト教にもイスラム教にも仏教にも無い教えが【日本神道】には存在しています。それは魂の論理で【一霊四魂】の教えです。
だが、いくらそれを世に発表しても
【愛の教えに固執する者】はそれを学ぼうともせずに、愛を説く人は立派な人だとか聖人だと勘違いさせて、その信徒達を地獄界へと案内して行きます。
そうしたことを幾度かブログでも書いて来ましたが、愛を説く自分は「聖人」だと錯覚して「学び」を捨てていることで、もう本当にどうにもならないところまで来ています。
何故に大本教と言う宗教から、牛虎(艮)金神、羊猿(坤)金神が出されたのでしょうか!。そこには誰も気づかなかったことがあるのです。
私は修業時代、蛇霊に「改心」を薦めて来ましたが、ほとんどは聞き入れてくれず、
一部の蛇霊が改心されると現実界の蛇が「直立」する現象を見て来ました。改心した蛇霊は、何故に棒のように「直立」するかです。蛇は「蛇行」する物です。それが改心すると「直立棒」となる。それは、「良心神」とは魂の心棒で【悔い改める】ことから魂の心棒「杭(くい)」が改めたれたのです。
私は言葉遊びをしているのではありません。私は豊受様から「言葉の〇」と呼ばれた者で、この「言葉の〇」の「〇」の部分が解られたのは、某大阿闍梨一人だけです。
愛(幸魂)の教えは絶対に必要です。誰も愛の教えを否定する者はいないでしょう。されど、愛は常に【偏蛇】となる可能性を秘めます。偏蛇は「固執・執着」につながります。間違えれば欲につながります。愛で説く場合は必ずそこに「善」を入れないと行けないのです。【愛善】とした時、そこに良心神の働きも出るのです。
だが、愛の教えだけでは【如来】の悟りには到達しません。
如来には「奇魂」の働きがいるのです。
ここで、これまでの私のブログにもHPにも書いていないことを少し説明しなければなりません。
牛虎(艮)は、和魂と荒魂を意味して来ます。羊猿(坤)は幸魂と奇魂なのです。私自身、どうして奇魂が「猿」なのかが、今日まで解らないところがありましたが、あることを思いだして気づきました。
それはお釈迦様の前世において、お釈迦様は船乗りであった人生が有り、港の安酒場で喧嘩して人を殺められたことがある。その罪によって、次の生で「猿」としてこの世に出されたという話があるのです。それはお釈迦様の記憶話です。お釈迦様でも喧嘩で人を殺めた時があった。そして、その罰として「猿」として出されてしまったです。
私は自分でも「牛」としてこの世に出されたことを確認しています。罪の祓いであったでしょう。それは私自身が「和魂」であったということです。お釈迦様の猿で出られたは、お釈迦様は「奇魂」であったということなのです。イエスは間違いなく羊の幸魂です。マホメットは虎の荒魂だったのでしょう。
奇魂でなければ、日本語でないと解読出来ない「九つ花」の仕組みを知らずに、とても「悪魔は実体を持たない表れで、人には良心神が内在する」など、絶対に悟れるものではありません。
私は修業に入った頃、一つの夢を見ていました。私が大きな円形のパンを食べている夢です。その夢の中で私がつぶやいていました。「イエスのパンの教えは美味なれども、こりゃ真ん中の部分が無いパンだな」とつぶやいているのです。真ん中の部分が無いパンとは、イエスのパンの教えは真ん中の「芯」の教えを出していないなのです。
マホメットは神を説くのに剣を持って戦いました。これは完全に荒魂がすることです。あらぶる(荒ぶる)の「アラブ」るの剣です。
私が2番目の師匠の元に居る時、夜中に私の家に立派な羊達が数体訪ねて来ました。?。いったいこの羊達は何だろうと、2番目の師匠に言って霊媒通しをして貰いました。すると、霊媒者の口を借りて、その羊達は古代ユダヤ民族の族長であった者達と言います。その名乗りは忘れましたが、うち二体はヤコブとかヨハネとか言ったかと思います。古代ユダヤ民族の族長であれば不思議な名乗りではありません。
そうした古代の族長の霊達が何故に私の元に来たのですかと聞いたところ、
自分達は旧約聖書のユダヤ民族の救い主の登場を霊界で三千年に渡って待っておりました。イエスが出た時、イエスがその救い主かと思いましたが違いました。貴方が旧約聖書に予言されているその人ではないかと思い、仲間達と連れだって貴方の元を訪ねて来ましたと言います。
で、私がどうして旧約聖書に予告されている者だと思うのですかと尋ねたところ、貴方は「緑」の光を放っておられます。私達は三千年に渡って霊界からこの地球を見て来ましたが、こんな「緑」色の光を放っている方を初めて見ました。それで、もしやと思って皆とはからって訪ねて来ましたと言います。
私自身の前世は過去に日本の武将であったと聞かされているので過去に出ており、魂としての色は変わってはいないはずなので、初めて見るではないだろうと思いましたが、別の霊も私が緑色の光を放っている。もしかしたら、天帝の側に案内してくれる方ではないかと付いて来たことがありますので、霊界から見ると私は緑色の光を放つことがあるのかも知れません。
ただ、私も「緑色の光を放つ魂」など聞いたことがないことであり、私の2番目の師匠が自分がメシヤだと名乗っていましたので、その師匠を指さしてメシヤはこの方ですと言ったら、その方には用がありませんと言って帰って行きました。その師匠の魂が放っている光は、たぶんありふれた光だったのでしょう。
私はその一件で、
旧約聖書を信じる敬虔なる者は「羊」であることを知ったのです。だが、何故に「羊」なのか?。羊の言葉は「善(譱)」です。彼等が善なる人であるところまでは解ります。
私は彼等が敬虔なユダヤ教徒だったようなので、天国界に居るのかと思って、その羊霊達が居る世界のことを聞くと、意外な事を言います。「私達が居る霊界は天国と呼ばれるような世界ではなくて、荒涼たる砂漠のような荒野です。」と言います。
それは単に旧約聖書に従っているだけでは天国界に行けていないです。すると、ユダヤ教徒は天国界には進めていないのかの疑問に当たりました。だが、
旧約聖書はユダヤ民族の救い主(メシヤ)を予告している以上、その日まではユダヤ教徒は天国界には渡っていないとも言えます。
私達人間と「獣」の違いは、「良心」を持つか持たないかです。そして私達人間と「猿」の違いは、「叡智」で学ぶか学ばないかなのです。
猿にも「猿知恵」と呼ばれる様に知恵はあります。だが、それは知恵であって叡智ではありません。叡智とは【真理】に向かう才知です。本当の「悟り」です。お釈迦様はその叡智をもって「悟り」を得て説かれた存在です。人類は「猿」から進化したという説もあるように、単に猿の「知恵」で終わるならば仏陀への道は遠いのです。
もし直感の霊感頼りで何も学ばないのであれば、お釈迦様の悟りは「みろく」菩薩でないと解らないとされて来たその意味すら理解することは出来ません。
艮(ウシトラ)金神は「牛と虎」で教え、
坤(ヒツジサル)金神は「羊と猿」で教えて来ます。
それが例え日本語と呼ばれる言葉の仕組みであっても、天帝のスケールの大きな仕組みが解らずに、直感、直感で何が解ると言うのであうろうか?。なのです。
愛さえ言っていれば、その人は聖人だと勘違いする人達もまた同罪。仏陀の悟りを知らずして、【它(宇冠)】の宇宙の冠は戴けません。
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