眠ろうとしてもなかなか寝付かれず悶々としていましたら、ある光景が見えて来ます。それはどこかの小さなお社。祠と呼ばれる類の物です。その祠の台座の下から蛇が抜け出て来ます。そこまでは別にどうということもない光景です。俗に祠と呼ばれる小さなお社は蛇霊神等が鎮座しており、その現物(この世)の使いとして蛇が出て来るなどは行者筋ではありふれた話の光景です。
私自身修業時代は瀧場の入口に現物の巳(み)さんがとぐろを巻いていたりすると、そうしたお迎えがないと瀧場から歓迎されていないなどと聞いていました。
また、社に祭られる御神霊が涙ながらに感謝して天に帰られる時などは、現物の蛇が棒の様に直立するなどもありました。蛇が棒のように直立する?。です。
行者筋であれば、こうした現物の蛇の現象は言われるでしょう。行者や霊能者が蛇霊に関わるケースは非常に多いからです。
霊能者サイドでは人の執着心や怨念が蛇化することは古来より語られて来たことです。
すると、私が見ている光景は次から次へと別の祠などが見えて来ます。そうした祠の台座の下から一匹の蛇の場合もあれば、数匹の蛇の場合もありますが、次々と出て来る。?、どこに行くのかと首を傾げていましたが、どうやら祠の下から皆一目散にどこかに逃げて行く様のようです。
すると、霊的世界で何かが起き出したことになります。
私はその光景を見ていて、遂に待ちに待った「巳(蛇)帰る」の時が来たのかと考えていました。
私自身は修業に入って間もない頃、夢の中で自分の体から一匹のコブラが出て来て、上に向かって走り上がる光景が出て来ました。自分の体の中にコブラ(蛇)が存在していた?。だが、いくら考えても意味がさっぱり解りませんでした。
それから少し後、当時はサラリーマンで現与謝町の旧加悦町という場所で仕事をしていまして、休み時間に小さな本屋に入って本を探していましたら、阿含宗の桐山管長さんが書かれた一冊の著本がありました。
ペラペラとめくって、その本を買わずにその書店を出ましたところ、そこから数十メートル歩いたところで、先程の本に前に夢で見たコブラのことが書かれていると閃いたので、慌ててその本屋に戻ってその著本を買いました。
帰宅したその著本を見ると、私が夢に見た現象が書かれていました。その内容は
【人の中に眠るコブラが目覚めて走り上がる時、人は真理に目覚める(ヴェーダ典)】とありました。しかし、それに対して桐山管長さんの解説は何一つありませんでした。そうした現象があるとしても、それから先の【真理】とやらに目覚めるがピント来なかったのです。
人の中に眠るコブラなど、それまで聞いたことが無い内容です。しかしヴェーダ典の内容ともなれば、古代インドの聖典です。以後、私は【真理】とは何かを求めたのです。
その真理はイエスは説かず。お釈迦様は説かれていると解ったのですが、一般的にお釈迦様は仏の「慈悲」を説かれたとなっています。が、慈悲と愛ではさほど変わりません。お釈迦様の教えは改ざんされていると思っても、改ざんされているとしたならばその元が解りようがありません。
しかし、曹洞宗が出している檀家向けの小冊の機関誌に
、「お釈迦様は慈悲ではなくて、人には良心と呼ばれる神が内在していると悟られた」とありまして、私は正直小躍りしました。
慈悲と良心神では別物の教えです。それで、お釈迦様とイエスの教えの違いがはっきりしたからです。
それを追い打ちするように、大本教神諭予告、「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」によって、「みろく」の意味も「56億7千万」の意味も解けたわけです。つまり【真理】に向かったわけです。
私が体験した「人の中に眠るコブラが目覚めて走り上がる時、人は真理に目覚める」は、【巳(み)帰る】の現象なのです。
大本教の出口王仁三郎聖師は「ミカエル等の天使長は存在しない。ミカエルとは省みる(悔い改める)意味だ」と説いておられますが、聖書において人類の原罪とされる蛇の囁きとは「巳(み)帰る」によってのみ消滅するのであって、イエス一人が神の子だと信じることではなかったのです。
おそらく、99%の霊能者や霊感者は、自分の前に大天使長「ミカエル」が出て来たと自慢気に言われるでしょう。しかし、その「ミカエル」と名乗る大天使とか天使長に対して「真理」を尋ねたならば、彼等は真理の類を何一つ答えられないでしょう。
私は何かと「ミカエル」を言う方に、それならばそのミカエルに私の元に訪ねて来て欲しいと頼んでも、いくら待てども暮らせども一向にやって来ません。私はミカエルが会いに出るほどの大物ではないのでしょうが、そんな背中に大きな翼を持った存在がノコノコと出て来れば、私は「コラ!。その羽根をもぎ取ってやろうかと」一喝してしまうからでしょう。
彼等は【八根の意味を鳥(十里)違えた】霊達だからです。人類の原罪が「蛇の唆し」であるならば、当然にそこに出て来る答えは【巳(み)帰る】でなければならないのです。大本教の出口王仁三郎聖師がミカエル等という天使長は存在していないと言われたのもその為なのです。自分を省みる。悔い改めることによって、巳(み)は帰って行くのです。
それは大本教の神諭が予告した「九つ花」が雄弁に語ります。豊受の神様が貴方の言葉による教え(米型になる九つ花)を聞けぬ者は、如何なる神で有ろうとも天帝に対する反逆罪で処罰されますと言われましたが、自己の魂の中に「蛇」を入れている間は、良心神はまったく理解出来ない面があります。
私がいくら説いても、ほとんどの霊能者や霊感者の方は単なる「言葉遊び」と思っておられます。言葉が仕組んであることに気づかれません。自分は偉い。自分は凄い。何でも解ってる式です。
残念ながら、この日本で「言霊」とは何かを解っておられる霊能者や宗教家は若干名でしょう。言霊とは何かを知らずに「ことだま・ことだま」と言っておられるだけなのです。
和歌を歌えばとか、祝詞や御経を上げればそれが「ことだま」の本質ではないのです。それらは「ことだま」の鍛錬なのです。
コトダマは如何なる悪人も善人も分け隔て無く使うことが出来ます。だすらば、コトダマの本質はそこには無いぐらい解るでしょう。
この日本では【邪の道は蛇】と言います。
聖書では、蛇の囁きは人類の原罪です。
最後の審判は「ミカエル」と言われて来ました。しかし、それは最終的に日本語に持って来なければ意味が解らないものだったのです。
そこに言葉を仕組んだ神が居られるのです。
自分は何でも解っていると言うのであれば、聖書に【初めに言葉は神と共に在った】とあるようなに、どうしてこうした【言葉の仕組み】に気づかれなかったのでしょうか?。
聖書に示される要に、人は誰しも「蛇」が居ます。そうした「蛇」は執着や怨念として宗教の世界では説かれて来ましたが、すなわち「よこしま」の心です。
自己の中に、聖書で説かれた蛇霊を持ち込んでいる間は、【良心神】の教えは解らないでしょう。
新しい世にはそうした「邪」は要りません。だからこそ、自己の中に住む「邪」を帰らせないといけないのです。
出口王仁三郎聖師が言われた「みの尾張の国の中には」、当然「巳(み)の終わりの国の中」の意味も含まれます。
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