最近、同じ様な夢を幾度も見ました。それらの夢とは、私がどこかに行って帰ろうとすると、必ず私の靴だけが無い。周囲をいくら探しても靴が見つからない。時にはそこにあったスリッパで帰るです。
誰かが間違って私の靴を履いて行ったのかと、人が居なくなるまで待っても私が履いていた靴のサイズが見当たりません。誰かが履き間違えたのであれば、同じサイズに近い靴が残っていなければなりません。それが無いとなると、盗まれたともなります。
止む得ず裸足で靴屋に行っても、私に合うサイズの靴は何故か在庫が無いとか売られてないのです。私の足のサイズは小さいので無い店もあります。で、運動靴ならば子供用でも履けるはずなのですが、それすら売られていない。後は下駄屋で草履か下駄しか履く物がないことになります。
そうした夢が幾度も出て来れば、さすがにこれはおかしい。何等かの暗示が私に出て来ていると理解するより方法がありません。
昔、私の夢によく井桁が出て来ましたが、当時は「井」の意味をいくら考えても柵で囲うとか枠組ぐらいしか意味が解りませんでした。何かを【囲う】です。その夢は何を囲うのかが解らずにそこで行き詰まっていました。だが、今回下駄で「囲う」が解りました。
靴の字は、革が化けるですが、弥勒神の「勒」は革の力で、弥勒とは「改革の力」が実行される意味合いがあります。
私が履いている靴が無くなるは、弥勒に改革の力が無くなったのかとも考えられますが、有る言葉が浮かびました。
それは「ゲタを履く」です。靴がこれほど盗まれるのであれば、代わりに「ゲタ」を履くより方法がないわけです。
仮に、もし神が人類に「ゲタ」を履かせると言われれば、おそらく99%の方は靴では無くて履き物の下駄を履くことだと思われるでしょう。普通、諺の「下駄を履く」は、終わって見ないと結果は出ない意味の諺です。
大本教と呼ぶ宗教が起きた時、出口開祖のお筆先に「道の真ん中を歩け」とありましたら、当時の大本教信者は道の真ん中を「そこのけ、そこのけおいらが通る」をやってしまい、出口開祖が嘆かれたと残されています。
神が「道の真ん中を歩けと言われているのだから、往来の道の真ん中を歩く。それのどこが間違っているのか!」。そうした反論が起きたからです。言葉とは如何様にも取れるようにはなっています。
道の真ん中を歩けと教えられて、往来の道の端を歩ける者がどれほどあるでしょうかなのです。残念ながら僅かでしょう。その人が本当に奇魂による理解力を持っているかはそこにあります。それで往来の道の端を歩いた方は、神の真意を深く理解出来ている方達なのです。
もし、そこに「道の真ん中」でなくて、「道理の真ん中」と書かれていれば、誰でも解ったかも知れません。
その道の真ん中を歩けよりも、さらに難しい意味が秘められるのは「ゲタを履く」なのです。囲碁をされる方ならば「下駄を履かせる」の意味は理解されているでしょう。だが、囲碁をしない人は解らない言葉でもあるのです。
囲碁は敵の石を包囲して、敵に二つ以上の目(二眼)が出来無ければその石は死にます。その戦いの途中において、相手の石を直接に取りに行くのではなくて、一路とか二路離して自分の石を置き、相手がどのように逃げようとしても自分の囲みが敗れない。相手にその中で生きる為の眼を創らせないです。
その打ち方を「下駄を履かせる」と言います。その結果、下駄を履かされた相手の石は「完全死」となります。自分の囲みの断点を切られて、その包囲陣が崩れる打ち方は「下駄を履かせた」とは言いません。
直接に相手の石に着いて打つと、自分の石が切られて包囲陣が崩れてしまう可能性が出て来ます。そこで敵の石とは少し離れて石を置くことで相手の石を絡め取るのです。
囲碁の場合、その包囲陣から逃げようとすればするほど相手の被害は大きくなります。為に「下駄を履かされた」と気づいた時には、その石は捨てて打つのです。逃げる道がどこにも無いのです。
無論、下駄を履かせて敵石を絡め取ったしても、他の場所で自軍の陣地が少なければ囲碁は負けます。もしもそれが大石であれば、囲まれた側はその時点で負けましたと投了したりするのです。
昔、井桁の夢を見ていた頃は囲むは解けても、「囲碁」の下駄を履くまでは行き着けなかったのです。
弥勒の世とか三千世界の大立替と呼ばれることは、創造神派の神々と反創造神派の神々の戦いでもあるのです。囲碁は黒と白の石の戦いです。別に白が正義で黒が邪神の意味でもなければ、どちらが正しいとか正しく無いではないのです。
国常立尊様は厳格に「法」を重んじる主神であった為に、そんな法に縛られる生き方は嫌だ!。自分達が自由好きにやれる主神が良いで主神の座の追い出しが図られたわけです。
ですから、みろくの世とは「法」が厳格に重んじられることになりますので、法を厳格に遵守する神々と、自由好き勝手な世界こそ理想だとする神々との戦いでもあるのです。その時には勝てば官軍。負ければ賊軍となりますので、声を荒げて正義派だ邪神派だと論じることでもないのです。国常立尊様も反対派から邪神とか悪神として追われてしまったからです。
国常立尊様は如何なる「法」を遵守されようとしたのか?。
私は「九つ花の真ん中」である「四十一」を説いて来ました。
日本国憲法第「四十一」条は、最高の立法府の規定です。すなわち「法」を定める最高の場所の規定です。
イエスは四十日間荒野を彷徨って、四十一日目に悪魔を退けて神の子となる。
モーゼは四十年間荒野を彷徨って、四十一年目にイスラエルは入る。
その「四十一」の定めたる規定、立法(律法)に従うのか従わないのかです。その黒白の戦いです。
人は一人一人が創造神で、神は誰に対しても強制しない等と子供じみたことを言っている人は「四十一」の法の意味を理解せず、創造神の「立法(規律)」その物に従わないと宣言している様な人達なのです。
私はその「四十一」は大本教神諭予告、「九つ花に咲く一輪の言霊の経綸」を誠で紐解く者が一人出るで、その一輪の言霊は「ラ」で、人に内在する【良心神】として解き明かして来ました。
その「良心神」とは、単に人が考える「良い心」のことではないのです。私達の魂の中に存在する創造神の分魂で、創造神が示された第四十一は全ての「立法・律法」を創る良心なのです。
良心神に基づかない法は、必ず綻びが生じます。人は多様で在り、そこには利害が生じます。それを利害関係の数の力で決めるであってはならないのです。良心神の働きにより生じる「義」によって、義の言葉で議論を行わなければならないのです。
以前のブログにも書きましたが、あるサイキッカーの方の御友人が天人界を訪れて、天人達が話している内容として最後の審判は、各自の良心神で判定されると聞いて来られそうですが、神とは何をしても「愛で許される」の愛の心の判定者ではないのです。悪魔を退ける良心神の判定なのです。
人は一人一人が創造神で、何をしても自分の自由だ!。自分に厳しい律法の押しつけをする神などは邪神だ!。悪魔だ!。そうした者達によって主は「鬼」として追われた意味合いが大本教が世に出した退くの神・艮(ウシトラ)金神として説かれたわけです。
大本教の出口王仁三郎聖師が、日本で言う「尊」とは日本語の「御言(みこと)」のことだと残しておられますが、日本の国に常に立つ御言が「国常立尊」の意味合いでもあったのです。
為に「九つ花」は、この日本で日本語をもってしか解けないし出せない教えでもあるのです。仏教において「みろく」が56億7千万になっているのも、お釈迦様やインド云々ではなくて、日本で日本語で紐解く為でもあるのです。
もう創造神の仕組みは、絶対に逃げられないように「下駄を履かせられた」の状態でしょう。
私は単に言葉による仕組みを解読している者にしか過ぎませんが、その言葉による仕組みを数千年前から作為されて来た神とは、神社仏閣に鎮まっている段階の神霊ではないのです。
私は別に神力を与えられておりませんから、奇跡を見せるとか病気治しも何も出来ませんが、私の前でどれほど豪語した霊能者も光の存在も、あまりにも自己の小ささを理解されておられないと言えます。何故ならば、それらの神霊ではこれほどの言葉による仕組みを完成させることが出来ないからです。
私は私の前で凄い光の存在を見たと言われる霊能者の方に対しては黙って聞いています。天の岩戸と呼ばれる光に接した立場からすると、そんな光では天の岩戸の光と比較対象にならないからです。龍神でも天狗でも蛇霊でも狐霊でも全て光の玉であり、個々の霊が出す光とは限界があるからです。
仮にある龍神が凄い光を放つとしても、そのエネルギーに永遠性はありません。それは瞬間の光を見させられただけであって、永遠のエネルギーである天の岩戸の光とは違って来るのです。
創造神に関して自分はこう思う。自分の意見を主張されるのは自由です。それに対して創造神は何も束縛されないでしょう。されど、言葉の仕組みを見て、これがそんな論理で言える仕組みでないと気づきが起きないとなれば、それは自己の自我が自分の奇魂の働きを邪魔していると思われます。
魂の和魂、幸魂ばかりを言って、奇魂、荒魂のことを忘れていると、魂は○型に成長して来ません。魂は歪みを生じて「不正」となります。すると、魂の【心棒】が出て来ません。魂に「心棒」が出て来なければ、魂の心棒たる良心神は理解出来なくなるのです。
一般的に「愛」さえ言っていればあの人は聖人だと思われているようですが、結果的にその方達は死後に地獄火の中に落ちて行かれる。そうした方達は四魂のバランスと天帝から分魂である直霊(良心神)のことを説いてあげても、絶対に理解されようとはされないからです。そこに自分は偉い者だの自我が見られます。
病気治しが出来るから自分は偉いではないのです。そうしたことの多くは龍神とか蛇霊と呼ばれる存在の働きであって、根元神にはつながる話ではないのです。大本教神諭、「この神は病気治しの神ではない。心の立替立直しの神で有る」で魂の存在たる親神さんのことなのです。心の立替は愛ではなくて、良心が真柱とならなければならないのです。
私は言葉の仕組みを紐解いている私が偉いのではなくて、言葉の仕組みから言葉を創られた神の存在を見なさい。知りなさい。それを理解する理解しないは貴方自身なのですよと言います。
アマチュアの囲碁の世界では、通常打つときは3目くらいの置き碁が限界で、それ以上になると打ちづらいが起きます。それ以上の置き碁をする下位の人に対しては、無理して自分が悪手を打ってしまうようになるからです。
囲碁は遙かに上位の人と打ちたい時は自力で強くならないといけません。負けてはどこが悪手だったのかと考える。悪手を打たないようにしないと強くなれないのです。そこに囲碁の学びがあります。
囲碁の場合は格段に差がある人と打つと、その方の石の置き方が解りません。何でそんなところに行くのかです。だが、3目程度置く上位の方の打つ手は解りますので、なるほどと勉強になります。
神霊世界も魂の格による段階が違うと同じ事が起きます。蛇霊や狐霊と呼ばれる下位の神々と交わっている時は、奇跡を見るのが楽しく、それなりの面白さがあります。だが、そうした世界に何時までも留まっていたのでは自分の魂は成長しないのです。自分より少し上の段階に学びが入っている方に教えて貰うのが成長の早道になります。
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