私は個人信仰として日本の古来からの神道に足を踏み入れました。しかし、
そこで私が気がついたのは日本古神道は「旧約聖書」の世界であるということなのです。一部に「日ユ同祖論」がありますが、現代の歴史以前の日本人が本来のユダヤ人だったのです。つまり黒目で黒髪の日本人がエルサレムを神の都としていた現在の歴史以前の光景が霊的映像として出て来ることがあります。当時のエルサレムには朱色の鳥居もあった日本神道だったと思われます。
そうした内容は大本教霊界物語には書かれていまして、大本教の出口王仁三郎聖師はその当時は綾部が「聖都」で、エルサレムは「副都」であったと述べておられますが、【水の審判】以前の時代のことです。
水の審判において、この世はほとんどリセットされたからです。しかし、これは事物をもって証明しろと言われても出来ない話です。別に妄想の類と言われても結構です。
ただ、霊的世界に関わっていると、今の人類の歴史の時代よりも遙かなる古代があり、私達の意識の中にそれらの記録が流れ込んで来るがあるのです。「輪廻転生」とはそうした悠久の中に起きているからです。
歴史以前のユダヤ人とは日本人のことであった
まず、この意味を知るのには、創造神はこの日本に「キリスト教」が入ることを禁じられました。それが徳川幕府によるキリシタン禁止令です。もしも、この日本をキリスト教国家にしてしまうと、神の言葉による仕組みが成り立たなかったからです。
スペインの宣教師に支配された国々はスペイン語の国家となり、ポルトガルの宣教師に支配された国々はポルトガル語の国家になった。そうなると「日本語」の仕組みは出来なくなってしまいます。
キリスト教を国教にするぐらいならば仏教の方が遙かにましでして、ここに【和光同塵】の策が取られました。神が仏となって臨むが起きたのです。明治維新以後、神が仏の仮面を脱ぎ捨てて、本来の神としての姿を現して来たのです。この流れが日本の新神道と言えます。
霊能者下ヨシ子さんの名を全国に知らしめた事件に、岐阜の共同住宅におけるポルターガイスト現象がありました。腕自慢の多くの行者や霊能者がその現場に行ったが鎮まらなかった。それが霊能者下ヨシ子さんによって鎮まった。ただ、共同住宅の自治会長さんの話によれば、下ヨシ子さんの他にもう一人の方の力があったとは語っておられます。
そのポルターガイスト現象を起こしていた霊は、霊能者下ヨシ子さんによれば当時の異国の宣教師の霊であったと言われました。キリシタン禁止令において処刑された外国の宣教師です。神を説く宣教師が地縛霊化していたわけです。
イエスを主と説いていて、イエスによって救われなかった。そこにはこの日本にはキリスト教は必要無い言う神の御意志があったと考えるべきかも知れません。
明治維新において薩摩の〇十の旗が立ったことで日本にキリスト教が入っても、さほど支障がなくなったのです。神の仕組みが完成に近づいていたからでしょう。また、明治維新によって「神仏分離令」が発せられ、それまで仏の下に置かれていた神々を復権させたわけです。
ある日、私の目にイザナギ様とイザナミ様が西洋風のドレス姿で出て来られて、そのイザナギ様の服の胸付近の左右には金色の六芒星(ダビデ紋)。イザナミ様の服の胸付近には銀色の六芒星(ダビデ紋)が飾られています。それを見た私は?となりました。
この日本ではダビデ紋は豊受様の【カゴメ紋】として知られています。しかし、私は豊受様に関しては私の最初の師匠であった方が神主をされていた神社は豊受様を祭神とする稲荷神社であり、伏見稲荷大社講務本庁の支部であった神社の社務所の月次祭などでも豊受様の御姿は見て来ています。しかし、一度も豊受様のドレス姿はありませんでした。で、豊受様の服装にダビデ紋(カゴメ徴)姿は見たことがありません。
しかし、豊受様が伊勢外宮に行く前におられた「与謝宮」は丹後一宮の【籠】神社だとすれば、その「籠」からも「カゴメ(籠目)」は出て来るわけです。
六芒星(ダビデ紋)そのものは、神の上に向かう「△」力と下に向かう「▽」力の組合せであり、それをもってどうというこもないのです。
よく【ダビデの若枝】が言われます。イザヤ書を例にとれば、【エッサイ(ダビデ王の父)の根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す】。
その子孫から【メシア】が出るという意味なのです。
ナザレのイエスが「メシア」に祭り上げられたのは、この【ダビデ王】の子孫とすることから起きたわけです。
ならば、どうしてユダヤ民族は「ダビデ紋」を国旗としながらも、イエスをそのダビデの若枝と認めていないのか?。不思議な現象を知ることになります。
私は子供の頃、旧約聖書の神と名乗る声から不思議なことを告げられました。私が子供心に「貴方はどなた様ですか?」と聞きましたところ、【私はアブラハムの神であり、そなたの神であり、旧約聖書の神である】と答えられました。当時の私には「アブラハム」などと告げられても解る話ではありませんでした。
その声は私にあることを告げられたのです。それは日本のわらべ歌の【カゴメカゴメ】はこの私が創らせた予言歌であり、もっとも重要な予言歌である。そなたはその歌の意味を説きなさいと告げられたのです。
日本では、そのカゴメ歌にダビデの若枝の意味が秘められたのです。
その若枝とは、日本では別の言い方になっていたのです。
それは花笠音頭などても出て来ます「若松」様なのです。
目出度目出度の 若松様よ
枝も チョイチョイ
栄えて葉も茂る
ハァ ヤッショーマカショ
おらが在所ヘ 来てみてしゃんせ
米の チョイチョイ
なる木がおじぎする
ハァ ヤッショーマカショ
私が「米」教を紐解く前、それが神の仕組みとは露知らずに最初に「十三」に隠れた「良」を訪ねた場所は「会津若松市」でした。そこには猪苗代湖も鶴ヶ城も九曜紋もあったのですが、何故に【若松】なのかと長らく首を捻っておりました。その「若松」に意味があったことを
今回教えて下さったのは、大黒(米)様と恵比寿(鯛)様
みろく世は、めでためでたの世
だが、それには「若松」様かいる
大本教神諭、みろくの世は「松」の世。公正と公平の世
それは「ダビデの若枝」が告げる
正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、とあるように、【公】とは、自分が置かれた地位や名誉を守ろうと走ったり、諸々の「私欲」を離れ、人を好き嫌いで判断せず、常に「中立」に物事を判断して行く。そして常にその心は「正義と良心」に裏打ちされる。それが「公」の心なのです。そうした者が世の上に立たなければ、世の中が絶対に良くなるなどはないのです。日本ではその「松」の新芽の若松の意味が、聖書におけるダビデの若枝となるのです。
私が子供の頃に臨んだ声は旧約聖書の神と名乗られて、私に説かれたのは、たとえ人類の中でそなた一人であっても、「松の根」を見る者となれでした。
ダビデの若枝でなく、日本は「若松」の「公」に主は宿る
ようやく「若松」様が育って来たのです。
だが、ダビデの若枝が「若松」としても、どうしてそれが「カゴメ」歌と関係しているのかとなります。それは、次回のブログに「鶴と亀がすべった」に関して話しましょう。
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