Photo: Foc Kan / WireImage

Photo: Foc Kan / WireImage

画像ギャラリー
オブザーバー(英国)

オブザーバー(英国)

Text by Hayley Myers

世界的ファッションブランド「アニエスベー」を率いるデザイナーのアニエス・ベーに、英紙「オブザーバー」がインタビュー。過酷な幼少期、芸術への愛、ファッションに対する考えを力強く語ってくれた。

20歳で離婚、無一文の2児の母に


第二次世界大戦中、ヴェルサイユの自宅の真っ暗な廊下で立ちすくみ、爆撃の音を聞いたのを覚えている。私が爆撃音をあまりにも怖がるので、両親は私をノルマンディーにある親しい友人の農場に疎開させ、長らくそこに滞在させた。疎開先の夫妻は私を「子羊」と呼び、私は彼らを「羊飼い」と「羊飼いの妻」と呼んでいた。

母は複雑な人だった。厳格で、時おり極度に神経質になり、理由もなく怒りをぶちまけることも多かった。父とは始終言い争いをしていた。家の中と外で、母は別人のようだった。恋人と暮らしたがっていたが、当時は離婚など論外だった。

家族全員、私が父のいちばんお気に入りの娘だと知っていた。姉妹たちがそれを受け入れていたのは、私と父が似た物同士だと知っていたからだ。私の愉快で面白い兄、ブルーノ・トルブレは、母から「魅惑的な子」と呼ばれていた。彼こそが母のお気に入りだった。

最初の夫であるクリスチャン・ブルゴワと離婚した20歳のころ、私は無一文だった。家賃は彼が払ってくれたが、残りの生活費は自分でやりくりするしかなかった。私は結婚指輪や家具を売って、二人の子供を養った。

クリスチャンは文学出版社の経営者としては有能だったが、夫としては失格だった。それでも私に、姓のイニシャル「B」を残してくれたわけだが。

お行儀のいい女の子はいつも危険と隣り合わせだ。12歳のとき、私は足を骨折し、1ヵ月のあいだ家から出られなかった。その間、叔父が毎晩のように訪れては、私を虐待した。叔父は3人の子を持つ立派な人物だったが、私への愛情が度を超えていた。この経験が、父親から虐待を受けた少女を描いた映画『私の名前は…』の原点になっている。

デヴィッド・ボウイへのアドバイス


アニエスベーのパリ1号店は鳥だらけだった。最初は2羽のつがいを鳥籠で飼っていたが、雛が生まれてからは扉を開け放しにした。鳥たちは服から糸くずを取っては巣に運び、とても幸せそうだった。最終的には35羽の鳥たちが、ステレオから流れるボブ・マーリーやロキシー・ミュージックの音楽に合わせて店内を飛び回っていた。

コンサートで目にしたデヴィッド・ボウイは、ダサい茶色のプリーツ入りスーツを身につけていた。私はブラックレザーのジーンズを彼に贈り、ポケットに「ロックンロールスタイルを貫くべきよ」というメモを忍ばせた。

彼はその後、私から多くの服を買うようになった。マディソン・スクエア・ガーデンでボウイの50歳の誕生日に開催されたコンサートを含め、私は25年間、彼の衣装を担当した。

私はアーティストが大好きだ。1984年には自分のギャラリーもオープンした。友人の多くはアーティストやカメラマンだ。ロンドンに行くと、スピタルフィールズ地区のフォーニアー・ストリートにある現代芸術家のギルバート&ジョージの家や、ホワイト・キューブギャラリーの主宰者、ジェイ・ジョプリングを訪ねる。

英国のアーティスト、トレイシー・エミンと写真家のマーティン・パーには心底惚れ込んでいる。私にとって、芸術と服のデザインの間には自然なつながりがあるのだ。

一方で、ファッションは大嫌いだ。ちっとも面白くない。他のデザイナーの仕事ぶりなど見たことがないし、ショーにも行かなければ、ショッピングもしない。そんな時間はない。

アニエスベーはいちども宣伝したことがない。広告は人々を愚かにする。1960年代に培った共産主義的なビジョンを、私はいまも持ち続けている。

エイズ撲滅運動のため、イヴ・サンローランの共同創設者であるピエール・ベルジェと二人で、リヴォリ通りの真ん中に寝転んだことがある。私たちは二人とも、エイズで友人たちを失った。悲惨な時代だった。いまも店にはコンドームの入った器を置いている。何も買わずにコンドームだけ持っていく人もいるが、それでいい。

思い出に浸るのも悪くないが、私に懐古趣味はない。83歳になったいまも、10年前と比べて老いた気がしない。私の周りには興味深い人々がたくさんいる。孫や曾孫たち、音楽家、モデル、そして同僚たち。彼らが私を若く保ってくれる。おかげで退屈とは無縁の日々だ。



\新生活応援キャンペーン中/

クーリエのプレミアム会員になろう
オブザーバー(英国)

オブザーバー(英国)

おすすめの記事

注目の特集はこちら

こちらも読まれています