「高円寺」駅前で酒を飲み、音楽を演奏する人々…「唯一無二」の自由な雰囲気はどのように形成されていったのか

現代ビジネス編集部

受動喫煙への対策が強化され、煙草の吸える飲食店が少なくなってきた昨今。喫煙所を探して、街をうろうろと彷徨った経験をお持ちの方も多いのではないのだろうか。そんななか、喫煙所へ向かわなければ見ることができなかったであろう景色に出会えることも多くある。東京の喫煙所を巡りながら、そんな景色を紹介していく。今回は高円寺エリアに焦点を当てる。

大きな喫煙所もある、高円寺駅前広場

東京都、杉並区にある高円寺は古着や音楽の街として知られている。JR高円寺駅は南と北に広場があり、その両方に大きな喫煙所がある。喫煙所で煙草を吸っていると見えるのは、広場で酒を飲み、音楽を演奏する人々の姿。若者から中年までが入り乱れて、なんとも自由な雰囲気を醸し出している。

1970年代の面影を色濃く残しつつ、現代の若者までも引き寄せるこの広場は不思議な雰囲気を放ち、東京でも唯一無二のスポットといって良いだろう。そもそも、高円寺の街はどうしてこのような独特の発展の仕方をしたのだろうか。

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100年前からつづく、自由な雰囲気

高円寺が位置する武蔵野台地が近代化を遂げることになったきっかけのひとつは、甲武鉄道(現JR中央線)が敷設されたことである。1889年に新宿~立川間に鉄道が開通し、途中に中野、境、国分寺の3駅が設けられた。高円寺駅ができたのは、1922年のこと。その翌年、関東大震災が起こると、多くの人々が郊外に移住することになり、高円寺でも住宅地化が急速に進んでいった。新興の住宅街には開放的な雰囲気が立ちこめており、若い作家たちも次々と居を構えた。作家の井伏鱒二は1927年に高円寺にほど近い荻窪に新居を構えた。著書である『荻窪風土記』のなかには当時の中央線沿線の風景について、このような記述がある。

その頃、文学青年たちの間では、電車で渋谷に便利なところとか、または新宿や池袋の郊外などに引越して行くことが流行のやうになつてゐた。新宿郊外の中央沿線方面には三流作家が移り、世田谷方面には左翼作家が移り、大森方面には流行作家が移つて行く。それが常識だと言う者がゐた。関東大震災がきっかけで東京も広くなつてゐると思うやうになつた。ことに中央線は、高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪など、後大典(筆者注:大正天皇の即位)記念として小刻みに駅が出来たので、市民の散らばつて行く速度が出た。新開地の暮らしは気楽なやうに思はれた。荻窪方面など昼間にドテラを着て歩いてゐても、近所の者が後指を指すやうなことはないと言ふ者がゐた。貧乏な文学青年を標榜する者には好都合のところである。(『井伏鱒二全集』27巻「荻窪八丁通り」)

高円寺を含む中央線一帯の自由でエネルギッシュな雰囲気は約100年ほど前から健在だったのだ。それでも、全国的な知名度はまだそれほど高くはなかった。それを変えたのが1970年代に起きたフォークブームだった。

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