「家の名誉は自分の名誉」はなぜ揶揄される 個でがんばりすぎる現代
Re:Ron連載「あちらこちらに社会運動」第10回【おしゃべり編】
社会運動に尽力する家族の傍ら、家庭内のケア役割を担い「犠牲」になる家族の存在があります。前回の連載「あちらこちらに社会運動」で、その存在を指摘する論文を紹介しつつも、自身の仕事や活動を振り返り、「どこかで責められているようにも感じた」とつづった社会学者の富永京子さん。富永さんのパートナーであり、地域社会の祭りを研究してきた武田俊輔さん(法政大学教授)と、公私をまじえつつ、「家」と「個」の関係性を語り合いました。
――運動の「犠牲」について考える対談相手として、武田さんを選んだわけを最初に聞かせてください。
【富永】私自身、講演やメディアへの出演で土日は家にいなかったり、遠方に行ったりすることもある。ある種、社会運動を自分もやっています。その間、誰が子どもをみているかというと、家の人、つまり武田さんです。
前回で紹介した、エマ・クラドックによる社会運動研究では、家庭内の不平等な性別役割分業やケア負担といった「現実」ありきの社会運動、その中で主張される平等や公正という「建前」の関連性を論じています。
その中で、アクティビズムの犠牲になったパートナーについて書いていますが、私の場合、そのパートナーが、武田さんだと考えました。
実は今年初め、武田さんが倒れて2カ月間入院をしました。搬送時の生存確率は非常に低い病状だと聞いたとき、私は直感的にこう思ってしまったのです。
「私の活動や仕事がこの人を『殺した』んだ」と。
――クラドックの研究に出てくる「アクティビズムの犠牲者」は女性でしたが、女性である富永さんは自身のパートナーを犠牲にしてしまったのではないかと考えたのですね。
【富永】アクティビズムだけでなく、仕事もですが、誰かが犠牲になる前提で私たちは生きていかないといけないのか、それとも、犠牲にならないやり方があるのかを考えたかったのです。
武田さんの祭りの研究では、男性陣が祭りの担い手になり、女性たちは育児や家事の負担を担っているのだと拝察します。一方で、祭りで自分の子どもが良い役をもらえなかったと怒る母親らも登場します。つまり、祭りに直接参加できなかったとしても、子どもを通して参加している気持ちになれるのかなと。
自身が犠牲になったとしてもそれを喜びにできるくらい強い家族があるなら、それを通してアクティビズムのあり方を考えることもできるのでは。
後半では、前回の連載で「犠牲になった」と富永さんが表現した、パートナーでもある武田さん本人が、その表現をどう受け止めたのかを語り、「家」と「個」について対話します。
――富永さんの問い「アクティビズムと犠牲」について、武田さんが研究してきた「長浜曳山祭」(滋賀県長浜市)から見えるものは。伝統的に、祭礼は性別役割が分かれていることも多いと思いますが。
直接参加は男性のみの祭り
【武田】私がフィールドワークをしたのは2010~18年の9年間です。ある町内の「若い衆」として参加し、「参与観察」という方法で研究を進めました。
長浜市というのは、羽柴(後に豊臣)秀吉が初めて持った城下町です。そこにある13の町内で、代々行われてきた祭りです。
曳山と呼ばれる「山車」の上で5~12歳の男の子(役者)による子ども歌舞伎が行われます。祭りに直接参加できるのは男性のみ。若い衆と呼ばれる45歳以下の男性が、役者の世話役となります。
役者たちは、それぞれの町内で3~6人ほどが選ばれ、祭り前には学校がある日にも練習が入ります。練習日は午前中で学校を休めるという公休制度があり、若い衆が学校まで迎えに来ます。若い衆が役者を肩に担ぎ「この子が役者だ」と誇示するように帰って行く光景もみられます。
【富永】都市祭礼の研究ではよく出てくる話かもしれませんが、長浜曳山祭では女性が犠牲になっているように感じました。
祭りの主役である、「役者」には絶対になれない。武田さんの研究で興味深かったのは、それでもその祭りにプライドをかけている女性がいることです。
「裏方」に徹し、「家の名誉は自分の名誉」と思える女性がいる。そういう意味で、保守的なのかもしれないが、その価値観に学ぶこともあるのではないかと思いました。私が抱く、この「イジイジした感じ」はなんなんだろう。ある種、リベラルだからこそかもしれないという気もしていて。
――長浜曳山祭で、女性が担う役割は。
【武田】表立ってはありません。ただ、おはやしには女子も参加できることになっています。1970年代、地域の小学校長が「男子だけに公休をつけることはできない」と町内の人たちに主張し、それをきっかけに始まりました。
この地域では夫婦で自営業という家庭も多く、祭りの期間は女性が主体となって店を切り盛りする。また、自分の子どもが役者の場合はその健康管理も必要です。本番では男性の着替えが必要な場面が多く、それを整えないといけません。
この祭りには前哨戦としての「裸参り」というものがあります。若い衆が白無垢(むく)の格好になり、祭りの成功と子どもの健康などを祈って威勢を張り合うもので、4夜続きます。その間、女性たちは若い衆にうどんを振る舞うなど仕出しを担います。若い衆が着る白無垢や地下足袋を毎日のように洗うこともしている。
「裏方」である女性、嫌ではないのか
【富永】著書(『コモンズとしての都市祭礼:長浜曳山祭の都市社会学』)を読むと、協賛金集めなど、男性たちは年中、祭りに関することをやっている印象です。その間、裏方を女性がやっているのは嫌ではないのでしょうか。
【武田】それは普通に嫌ですよね。若い衆の一番の悩みは「妻をどうなだめるのか」というものでした。
聞き取りで印象深かったものに、若い衆のトップ「筆頭」に選ばれた男性が妻に頭を下げているところを、他の若い衆に見られてしまって気まずかったという話があります。筆頭ともなると、祭りに関する会合や行事のすべてに出ないといけない。祭りの半年ほど前からが特に忙しく、家庭に負担をかけることは明白です。妻に納得してもらわないといけません。
普段にできるだけ子育てや家事をし、「貯金」しておくことが重要だと、若い衆の多くは思っています。
【富永】そういう話は、春闘の時期は非常に忙しくて家庭が犠牲になってしまうなど、労働組合運動でもよくあります。
社会運動の場合は、活動自体の負担を軽減しようという論理が必ず出てきます。「家庭を犠牲にしてまでそのタスクは必要ですか」という話になりますが、祭礼だとそういうロジックは働きにくいということですよね。
【武田】そうしたロジックが働く度合いは町内によって違いますが、そもそも負担だという認識はあります。自営業の家庭であれば、店をお連れ合いに任せるということもできましたが、働き方が変わり、サラリーマンも増えてくると、そもそも「任せる」が不可能です。そういう状況で、これだけの負担があると、祭り自体がもたないよねという話になっています。
そのため、裸参りのときには、かつては家ごとに料理を振る舞っていましたが、最近では女性たちが出てきて1カ所でまかないをするという町内も出てきています。
「家」ぐるみの参加、その意味は
【富永】興味深いと思ったのが、「自分の子どもが役者として十分な世話をされなかった」と語り、激怒した女性の話です。「自分が祭りに参加できない」とはそもそも考えていないのかもしれませんが、子を通してしか直接には参加していないにもかかわらず、非常に強く祭りへの感情を持っていることがわかる。私から見たときに「参加できない」女性が、これほど強い思い入れを持てることに驚いています。この場合、子どもを通して自分が参加している気持ちになっているのかなと思うのですが。
【武田】「家」ぐるみで参加している気にはなるでしょうね。
この「家」とは、いわゆる現在の家族の構成員というだけではなく、先祖や、これからの子孫まで含めたものという意味合いです。どの家の誰が役者をしたかということはずっと記録に残ります。つまり、祭りはその世代だけではなく、代々続く「家」が継承する前提があり、祭りで得た名誉も世代を超えて引き継がれます。
――「参加」の実感を得る他のきっかけもあるのでしょうか。
【武田】期間中の行事の一つに、「夕渡り」というものがあります。各町内の役者(男児)とその世話役(若い衆)、父親が並んで練り歩きます。その際、積極的に設けられる写真撮影の場があります。衣装を着た子どもと、華やかな格好をした母親とを一緒に撮るような場です。それまで裏方だった女性も含めて参加するという機会を意識的に設けているものです。
裸参りの際には、役者の家に若い衆が押し寄せます。役者本人と父親が肩車をされたりして、「万歳」の言葉とともに名前を呼ばれたりしてたたえられます。何十人もの人に、我が子と夫が承認される。しかも「家」という場所で。そこで女性も「よかったね」と声をかけられ、華やかな気持ちになれるというのもあるでしょう。
――そのような行事も、裏方が承認される機会になっているように見えます。
【富永】女性も、主役ではないけど、極めて主役に近い立場にいられる機会みたいなかたちですね。
【武田】ただ、女性にとってそういうがんばりが報われるのは、祭りの中ではそこだけとも言えます。だから、役者である自分の子どもが軽視されて、その場さえも奪われるというのはすごく悔しい。家の名誉は世代を超えて引き継がれていくわけですから。
【富永】自分の後の世代も含めた話、というのがすごく重要なのかもしれません。祭りであれ社会運動であれ、我々って個人や世帯を超えた、もっと大きな共同体や歴史に貢献している。そういう価値観の中では、陰でケア労働をしていても直接的に活動に参加していても、どちらも貢献だ、と思えるかも知れません。
【武田】その時々では、まったくそうは思えないでしょうが、子どもが役者に選ばれたときや、それが今後引き継がれていく名誉なのだと感じた時には、自分の役割が若い衆であれ裏方であれ関係なく感じるかもしれません。
ただ、現代的に考えたらあり得ないよなとは思います。
――確かに、現代ではなじまない部分もあるように思います。「家の名誉は自分の名誉」と思う考え方はあると思う一方で、そこに「個」はどう存在するのかと考えてしまいます。
【富永】現代社会を生きていると、承認や名誉を、我々は個人単位で得ていますよね。でも、祭りの場合は家単位です。
現代は、例えば自分の子どもが受験に受かったときに、それは子どもの功績とすべきだという考え方が強いように感じます。「家族の名誉は自分の名誉」と思ってもいい社会も実在する一方で、それがダメなエピソードと見られがちになったのは、なぜなのでしょうね。
自分自身で名誉や承認を得てもいいし、家族によってそれを得てもいい。なのに、後者が揶揄(やゆ)される空気が強いように感じる。
女性も職業やそれ以外でも自己実現が可能になったから、自分の名誉を家族に仮託するのがダサくなったというか、「じゃあ自分でやったらいい」という声も出てくるようになってきたのかな……。
絡み合う「仕事」と「暮らし」
――富永さんは前回連載で、自身が外を駆け回っている間、ケア労働を担った武田さんのことを「犠牲になったパートナー」と表現していました。
【富永】武田さんが倒れたときに、「私たちってなんでこんなにバラバラにがんばっているんだろう」と思ったんです。
家族の功績を自分の功績とも思えたら、「この期間は私がケアに集中するので武田さんは本を書いてよ」、もしくはその逆もでき得たはずなんです。でも、そうではなく、バラバラにがんばってしまったなと思っている。
【武田】まず、犠牲になったと私は思っていません。
家事を、より負担しているなという気持ちはあった一方で私は、富永さんが著書を出したり、メディアに出たり講演に呼ばれたりというのは、うれしく思えているところは明らかにあります。
【富永】私は、個人として強がりすぎているかもしれませんね。
『コモンズとしての都市祭礼』で、武田さんはいくつかの賞を受賞されています。パートナーとしてうれしいと思うと同時に、「これで喜ぶのはダサいな」という思いも正直なところ、ありました。これは自分のパートナーの功績でしかなく、私とは無関係だ、と。いわゆる「現代的な」人間を気取ろうとしたんですね。
【武田】富永さんは「これはあくまで武田の賞」と言っていましたが、それとは私は考え方が違うかも知れません。
富永さんの示唆やコメントもありますし、精神的な支えがなければあり得ないもの。あきらかに貢献してくれていると思うけど、富永さんは別物だと切り離しますよね(笑)。
【富永】私が過度に個別がんばり主義なだけなのかな。同一でいいのでしょうか。
【武田】同一というか、そこは絡み合っているもの。仕事と暮らしは絡み合っているわけだから、わけること自体がそもそも無理なのではないですかね。
【富永】私はこれまで、パートナーや子どもの存在を秘匿してきましたが、それは社会にも家族にも不誠実でしたよね。
仕事と絡み合っている生活のバックグラウンドがあるのに、それを隠して一人前の研究者、職業人としてやっているつもりだった。それは、その裏でがんばっている人を無視しているという話にもなり得るんですよね。
なんでこんなに「個」であろうとしてしまうのでしょうね。個の成功しか喜んではいけないという気持ちになってしまって、なぜ「家」が現代人はいやになってしまったんでしょうね。
富永さん対談後記
武田さんを他の人に紹介する時に、よく「仕事面でも高め合えるよいパートナーです」と言っていました(こうした言説は、私のみならずメディア等でもよく見られるように思います)。この言葉は自分たちに対する最高の肯定のつもりでいましたが、むしろ「個」として自分たちを見なしすぎる方向にも、シャドーワークを認めない方向にも働いていたのかもしれません。
武田さんは無事退院しましたが、私にはまだ、家族であるにもかかわらず個であろうとしてしまうという課題が残っています。この課題を解決するためには、対談でも語り合ったように、家族の達成や功績を自分のものと思えるようになる以外に、シャドーワークの価値をより認めるといった過程が必要だと感じます。
次回の「おもし論文」では、家族の共同性、ケア労働やシャドーワークの価値に関する研究を改めて読んでみたいと思います。
たけだ・しゅんすけ 法政大学社会学部教授。専門は社会学。2019年に刊行された『コモンズとしての都市祭礼:長浜曳山祭の都市社会学』で第13回地域社会学会賞(個人著作部門)と第46回藤田賞、著書の元となった博士論文で、第5回日本生活学会博士論文賞を受賞した。他の著書として『コミュニティの社会学』『社会の解読力〈文化編〉:生成する文化からの反照』(いずれも共編著)ほか。
とみなが・きょうこ 1986年生まれ。立命館大学産業社会学部准教授、シノドス国際社会動向研究所理事。専攻は社会運動論。東京大学大学院人文社会系研究科修士課程・博士課程修了後、日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、2015年から現職。著書に『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史』『社会運動のサブカルチャー化』『みんなの「わがまま」入門』など。
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