(長文)僕が医者になったのは病という人を苦しめる強大な脅威に対する反骨精神からです。
自分は高3で急に重い喘息になりました。それまでパソコンが好きで工学部に行こうと思ってました。
適切な治療が受けれなかったせいで夜も眠れず、唇は紫色、窒息の苦しみが続きました。登校も出来なくなり修学旅行も行けず、受験勉強どころではない。
行きつけの開業医は地域に信頼されていましたが、針治療と漢方のみで私の喘息を治療しようとしました。針治療の前後でIgEを測るなどと言う、全く馬鹿げた試みまでされました。ネットも無い時代、素人高校生の私には何も出来ませんでした。だから私は標準治療を一度も通らない形での代替医療には厳しい態度を取っています(人を不幸にしえるから)。
時々いよいよ危ないと言うときには唇を紫にしながら宝塚駅前の児玉病院の救急に自転車で坂を下るだけなので行きました。当直医は聴診器をあてて「うわ!」とのけぞり、いつもお決まりの点滴をしました。恐らく、テオフィリンとステロイド。その時だけ著効して難を逃れるのです。でもどの医者からも、発作止めの気管支拡張スプレーは処方されるのに普段吸うべき吸入ステロイドを処方されることはありませんでした。まだ医者達に知識が無かったのです、当時既に日本でも発売されていましたが。(いまだに喘息に対する吸入ステロイドの重要性の理解は低い)。そしてまた元の状態に戻るのです。可哀そうな高校生はあまりに苦しいので治らなかったら死のうとまで思い詰めます。しかし治ったらこの人を絶望させる病というものを研究して苦しむ人を助けたいと思うようになります。ある日、テレビで沖縄の国体の映像を見ます。それまで得意科目などから新潟大や鳥取大を考えていましたが、環境を大きく変えれば喘息が治るかもしれないと思い、琉球大学にしか行かない、落ちたら沖縄で浪人する、と考えるに至ります。そして、出席出来ていた1学期までの成績で奇跡的に琉球大学の推薦入試に合格します。(今から思えば吸入ステロイドさえあれば良かったのに)東京に一発で体質が変わり喘息がなおるという怪しい注射も藁にもすがる思いで受けに行きました。沖縄ではダニを徹底的に排除するために、ベッドには風呂のウレタンマットを貼って、布団無しで、洗える毛布のみで過ごし、喘息は劇的に改善し嘘のように青春を謳歌します。そして学生のとき関わった血液内科と迷いつつ(コーディネートした患者さんの移植が失敗し挫折)も呼吸器内科医を志し、京都大学胸部疾患研究所に研修医として就職します。しかし、その年唯一の研修医だった私は肺がんと肺線維症しか居ない全入院患者を受け持たされ、夜中でもやまない呼吸困難のコールの為に家に1週間家に帰れないこともあるような日々を過ごし、全員死亡退院時には親しくなった患者さんを温かいうちに解剖にも参加する、という状況に精神的に参ってしまいます。呼ばれておもに使うのはモルヒネだったのです。実は入局時に知り合いの関係でこの医局の退官教授の紹介状を持って行ったのがあだになりました。現教授は元上司の退官教授を恨んでいたのです。恐らくだから私には辛くあたりました。元気なうちから入院させ、1か月生存が伸びた等と言っていた抗がん剤治療に疑問を持ち、救急医も考えましたが、人が死なない科、QOLを上げるだけの科として、形成外科とも迷いましたが、卒業時には思いもつかなかった眼科に移ることになります。しかし神戸市立中央市民病院を追い出されたあと、また内科への未練が経ち切れず京大の総合診療科に、年下の医者と混ざると言う屈辱を我慢しながら外来をしに京都に通うことになります。その時私は神戸でのストレスから、うつ病を発症しSSRIの副作用で京都への満員電車の中で突発的に嘔吐してしまったという地獄も見ました。鬱病はいったん治りましたが、うっすら不調と言う状態はその後何年も続き、脳神経に関する微量リチウムやSAM-eなどの探求もこのころから始まります。内科もやりながら開業資金を貯めるためにコンタクトの院長をやり、やっと開業して眼科と喘息診療と言う変な組み合わせで、普通に医者をやりますが、研究をして困ってる人を助ける、ということは出来ていないと感じ続ける事になります。そこにコロナが来ました。そして、自分の医学考察の能力が多少なりとも米国医学雑誌に載る程度、いつも自慢しているように欧州CDCのガイドラインに引用される程度、には通用することを初めて知ります。眼科でも新しい術式に関する小さい英文を1つだけ出したことはありますが、頭脳勝負と言う内容ではありませんでした。そして今、このOne Man's Dreamを実現すべく、医学の解明で苦しむ人を救うべく、空き時間の殆どはパソコンに向かって頑張っています。