*E p i l o g u e* ……結局、延長された最後の休日に、セルフィはどこにも出かけることができなかった。 トラビアから帰ったその夜のうちにまずセルフィが熱を出し、一晩看病したスコールが翌朝になって発熱した。 自室のベッドをセルフィに提供しているので、仕方なく保健室に自力で辿り着いたスコールを診たカドワキは肩をすくめてあっさりと「あ、風邪だねこりゃ」と宣告した。 スコールとセルフィが寝込んでしまえば、負担は当然のことながらキスティスにどっとのしかかる。それでもキスティスの関心はトラビアから帰ったセルフィの精神状態にあったし、エルオーネがエスタから呼ばれたのも、そんなキスティスが気を回してくれたおかげだった。 「今だから言える話だけれど、こういうこと、前にもあったのよ」 保健室でスコールが寝込んで一日目の夜、セルフィをエルオーネに任せておいて、仕事と勉強に忙しい合間をぬってスコールの見舞いに来てくれたキスティスは、直接文句など言うこともなく、淡々と教えてくれた。 「ほら、あなた覚えてない? あの子がミサイル基地から帰ってきて、疲れているから休ませてあげてって私が言った時のこと……本当はあの時もね、けっこう高めの熱出していたのよ。黙っていてって言われたから、ずっと内緒にしていたんだけれど」 もう時効よねとキスティスは軽く微笑み、トラビアの話はまた今度聞くわと言い置いて慌ただしく保健室を後にした。 そんな彼女に何と言葉をかけたのか、情けないことに朦朧としていたスコールはろくに覚えていない。 *** 「二人して仲良く三日も寝込むなんて、ずいぶんといい度胸だわって、キスティが言っていたわよ」 保健室に入ったエルオーネは、腰に手を当てて呆れたように笑うとスコールにそう告げた。 「……セルフィはどうしている?」 保健室のベッドを三日に渡って占領したスコールだったが、さすがに基礎体力のあるおかげかすっかり完治して、エルオーネが入ってきた時には洗面も終えてベッド周りを片づけている最中だった。 ベッドの端に腰を下ろし、エルオーネを見上げて静かに問いかけるスコールに、自分はいいからセルフィから眼を離さないでほしいと、高熱出しながら頼んできた三日前の弟の様子を思い出し、エルオーネは瞳を細めて優しく微笑しながら口を開いた。 「大丈夫よ。熱は上がったり下がったりしているけれど、今日は38度台で落ち着いているわ」 それでも決して低い体温ではない数字を口に出したエルオーネに、スコールは少し眉をひそめる。 そもそも、スコールが風邪を引いたのはセルフィの風邪がうつったせいだ。 みぞれ混じりの雨の中を二駅分歩き、濡れたままガーデン内をふらふらし、そのまま極寒の地トラビアへ行って薄着で真夜中歩き回るわ、雪の中一晩中絵など描いているわ、これで風邪を引かない方がおかしいというもので、それでもトラビアに滞在中は気力だけで持たせてしまう少女の胆力には敬意を表したいところだが、その風邪はスコールにうつったというのに、なぜセルフィは未だに熱など出しているのだろう。 「……カドワキ先生がおっしゃるには、精神的なものじゃないかって」 スコールの表情の翳りを見て、エルオーネは静かにそう説明した。 優雅な動作でベッド脇の丸椅子に腰を下ろす。 「きっと、色々頑張りすぎたのよ。それに安心したのもあると思うわ、やっと帰ってこられたんですもの。……あの子にとっての家は、もうここなのね」 「…………そうか」 呟いて、灰がかった群青の瞳をかすかに伏せ、スコールは慎重な口調でまた訊ねた。 「……それで……泣いたりとか……うなされたりとかは……?」 一番心配していたのはその点だったらしい。エルオーネはかすかに眼を瞠り、それから優しい微笑を浮かべた。 「……大丈夫、泣いてはいないわ。熱がとても高い時はうなされることもあったけれど、起こしてあげれば落ち着いたし……今は大分熱も下がってきているからそんなこともなくなったわ」 下がったと言ってもまだまだ平熱よりは高いのだが。 エルオーネの言葉に、スコールは幼い頃を思い出させるような、不安げな眼差しを向けてくる。 内心少し驚きながら、エルオーネは安心させるように強く微笑んでみせた。 「そんな顔しないの、大丈夫よ。カドワキ先生も心配はいらないっておっしゃってたわ。あの子の心の中で、ずっと止まってしまっていた時間が動き出したんだって。それに心がうまく適応しようとして、熱を出したり夢に見たりしてしまうだけで、いずれ落ち着くはずだって」 言いながらエルオーネは前屈みになると、スコールの眼の中をのぞきこんだ。 「スコールだって知っているでしょう。あの子は確かに強い子ではないわ。でも、だからって決して弱い人間じゃない」 鋼の精神を持った不屈の強さなんて持っていない。 けれど、弱さや脆さをバネにして前へ進む、そんな勇気と毅さを持っている。 それはもちろん、誰よりスコールが知っていることだった。 「……だから大丈夫よ。熱はまだあるけれど、意識もしっかりしているし、ちゃんとお話もしてくれる。髪の毛洗いたいって言うから、今朝はシャワーにだって入ったのよ。本当は、もっと駄々をこねたり我が儘言ってくれてもいいくらいなんだけど」 そこで冗談めかして肩をすくめたエルオーネに、スコールはようやくかすかに苦笑した。 「今はあなたの部屋にいるわ。私が使っているゲストルームの方が広いけれど、あなたの部屋の方が安心するみたいだから、そうした方がいいってカドワキ先生もおっしゃって。……バラムが自由恋愛に寛容でよかったわね」 ふふっとエルオーネはそこで笑ってみせた。 これがガルバディアガーデンだったら、男子寮と女子寮はそれぞれ通行禁止できっちり管理されてしまっている。 エルオーネが使っているゲストルームは、以前リノアがバラムガーデンにいた頃使用していたのと同じ広さの部屋だ。SeeDの個室はリノアにとっては部屋自体もベッドも狭すぎて、スコールの方がリノアの部屋に生活圏を移さなくてはならなかったのだが、さすがにガーデン育ちのセルフィに部屋の狭さは気にならないらしい。 それにそのお陰と言うべきか、今のスコールの部屋にリノアの存在を思わせる類の物もない。セルフィの意外とも言えるリノアに対する複雑な感情を知ってしまったスコールは、世の中何が幸いするかわからないものだと嘆息した。 「……色々、すまない」 自嘲的に小さく笑う。自分の部屋でセルフィが安心してくれるのは嬉しいが、肝心な時に傍にいてやれずに寝込んでいたのではどうしようもない。エルオーネが少し眉をひそめた。 「きっとスコールが心配しているって、とても気にしていたわよ」 え? と驚き顔を上げたスコールに、エルオーネは肩をすくめて苦笑してみせた。 「自分はスコールに酷いことをしてしまったから、きっととても神経質になっているって。セルフィの体調とか、そういうものにすごく敏感になってるんじゃないかって。だから大丈夫って伝えてあげてって、それで私はここに来たの」 保健室に現れたエルオーネが、セルフィの意志によるものだと知らされて、スコールが瞬間無防備にその瞳を見開くのを、エルオーネは静かに見守った。 「……詳しい話は何も聞いていないわ。そんな状態でもないしね。でも……とても、あなたを心配していたわ」 群青の瞳に無防備に透けて見える感情は、自己嫌悪だ。 それとまったく同じ感情を浮かべた翠の瞳を、ほんの数分前目の当たりにしているエルオーネは、少し胸を痛める。 キスティスやカドワキからざっと大まかな事情は聞いていたし、セルフィからもある程度の――本当にごく簡単な話だけは聞いていた。けれどあのセルフィが、弱音に相当する部分について口にするはずもなくて。 だからエルオーネには推し量ることしかできない。可愛い弟妹がどんな哀しい出来事を乗り越えて、あるいは乗り越えようとしているのか。何に傷つき、何を克服しようとしているのか。 「ねぇ、スコール。……何か、上手くゆかないことがあったの?」 言葉を選び、エルオーネはそんなふうに手を差し伸べた。 どこか途方に暮れた、あの頃と同じ瞳がエルオーネを見上げる。彼が言葉を選ぶ間、エルオーネは優しい微笑を絶やさぬまま、根気よく返事を待ち続けた。 「…………そうだな……」 長い長い沈黙を経て、ようやくスコールはぽつりと呟いて自嘲的に笑った。 詳細は何も知らないはずなのに、的確な言葉を望み通りに向けてくれる、美しい姉をまっすぐ見上げる。 「うまく行ったこともあるし……うまく行かなかったこともあった……」 「それはスコールのせいなの?」 優しい声音で、冷静に問い返される。スコールは眼を伏せて、また苦く笑った。 「……酷いことをしたのは俺なんだ」 ふたつまばたきをする間だけ、沈黙があった。 「あなたが? ……セルフィに?」 スコールは小さく頷き、それから額にそっと片手を押し当てた。 「……残酷な選択をさせた……」 呟くように吐き出されたその言葉の意味は、恐らくエルオーネにはわからないものだったろう。 だが彼女から疑問の言葉が発されることはなかった。 スコールはうつむいたまま、強く瞼を閉じ、あの時のことを思い出していた。 この腕をすり抜けて、遠い場所へ飛び去ろうとしていたあの時のセルフィを。この胸に莫大な喪失の恐怖を植え付けた、何ひとつためらわない翠の双眸を。 それがどれほど彼女にとって残酷な選択を強いるとわかっても、あの瞬間に何度戻っても、きっとスコールは同じようにしたはずだった。いつだって凛然とスコールを魅了するあの背中も、素直に好意を伝えてくれる翠の瞳も温かな手も、見ているこちらまで笑顔に変えるあの無邪気な微笑みも、今さら失うことなどできるはずもなかったのだから。 だから、そのこと自体に後悔はしない。 それにスコールを選んだのは、セルフィの意志だった。重い選択を強いた自分に、それでもセルフィは笑ってくれた。 だからこれは、後悔ではない。 「……怖いんだ」 うつむいたまま、かすれた声でスコールは囁くように告白した。 「いつかセルフィを失うのが……失くさないために酷いことをしそうな自分が……」 わかってしまったのだ。 たとえ命が代償であっても、皆を救えるならかまわないと叫んだセルフィの瞳が、先月死んだ後輩のそれとまったく同じものであると気づいた時に。 もし、あの時あの場にいたのが後輩の少年でなくセルフィであっても、彼女はきっと同じことをした。 何ひとつためらうこともなく、セルフィは自分の命を差し出したのだろう――あの少年と同じように。 喪われた大切な人達より、スコールを選んだ彼女はきっと、この先もスコールのために死ぬことすら厭わない。 「……スコール?」 優しいエルオーネの気遣わしげな声に、深くうつむいたままスコールは首を横に振った。 さらにあの時芽生えた不安を増長させたのが、セルフィの高熱だった。 バラムに帰ったその夜、セルフィが出した熱は数値にして40度弱だった。一晩中押し潰されそうな不安に苛まれながら、柄にもなく怯えていた自分をスコールは覚えている。あのか細い身体のどこにあんな熱源があったのか、信じがたいほど熱かった肌もせわしない息づかいも、ただただ不安で。 まるで世界中のすべてが、自分から彼女を奪っていくような気にさえなって、恐ろしかった。ひとりこの部屋で天井を見上げながら、今こうしている瞬間にも失うのではないかと馬鹿みたいに怯えて。 あんな思いは二度としたくなかった。けれど、どうすればいいのかがわからなかった。 (きっと縛ってしまう) この腕の中に閉じこめて。ガラスケースに壊れ物をしまいこむようにして。決して損なわれることのないように、失うことのないように、絶対に飛び去って消えてしまうことのないように、あらゆる方法で彼女を守ろうとするのだろう。自分は。 これを愛情と呼べるだろうか。 「……執着しているだけなのかもな」 呟かれる自嘲の言葉に、エルオーネは真意を汲み取ろうと懸命になる。 「リノアの時と同じだ。……俺はまた、同じことをするかもしれない」 はじめて自分を真正面から愛してくれたリノアに対する執着。 そう、あれだって恋と言うより執着と呼ぶべき感情だった。愛してくれる心地よさを、伝えてくれる温もりを、手放せないと感じ、喪失の恐怖に暴走した。すべてを放り出して宇宙まで追い続けてしまうほどに。 「いや……リノアの時よりもっと酷いかもな。……リノアは俺を待つだけだったけれど、セルフィはそうじゃない……」 自分と同じ、命を切り売りするSeeDだから。 望めばセルフィは、SeeDを辞めてもいいと言うかも知れない。SeeDより大切な物を見つけたと笑った彼女なら、SeeDよりスコールを選ぶことすらしてくれるかも知れない。 けれど。 (それでセルフィからSeeDを奪ってどうするんだ?) リノアと同じように、このガーデンで帰りを待っていてくれれば、確かに自分は満足するだろう。 けれどそれだけでは済まなくなることも知っている。 なぜならセルフィは人形ではないのだから。 リノアと同じように、セルフィも恐らく退屈を紛らすために、あらゆる行動を起こすだろう。ましてリノアよりセルフィの方が人脈も行動力も上なのだ。結局はアンジェロと日がな一日散歩していたリノアと違い、セルフィにはやることも行く場所もたくさんある。セルフィがセルフィらしくあるために必要なものを、彼女は自力で見つけだすだろう。どんな環境に置かれたとしても。 そして自分はまた、その姿に安心できなくなる。 決してどこにも行かないように、自分だけの傍にいるように、きっと縛り付けようとしてしまう。世界との繋がりをひとつひとつ断ち切って、自由のすべてを奪うことすらするかもしれない。――失いたくないと、ただそれだけの願いのために。 「リノアが以前、言っていたことがあるわ。……ひとりでどこかへ行こうとすると、あなたは良い顔をしないって」 普段は傍にいてもくれないくせに、独占欲だけは人一倍で。 「でも確かあの時……あなたの方が折れてあげたような記憶があるけれど?」 それでもその独占欲を抑えてリノアを優先するだけの、心の余裕はあったはずとエルオーネは小首を傾げる。 確かに散々に喧嘩を繰り返した結果、リノアはある程度の自由を勝ち取り、スコールがいない間に寂しさを紛らすため、あちこち出歩くことはスコールに許可させた。 しかし箱入りお嬢様の彼女には遊びに行ける場所などティンバーくらいしかなく、そのティンバーも独立直後の混乱期で気軽に遊びにも行けなくて、最終的にはガーデンでスコールを待つだけだったのだけれど。 「……だからこそリノアをそこまで傷つけずに済んだ、とも言える……」 もしリノアにセルフィと同じような行動力と人脈とが存在していたら。 独占欲が暴走しなかった自信はないし、暴走した独占欲がどんな結果を招いたかも、スコールにはわからない。 だからこそ、セルフィに対し自分がどんな行動を取ってしまうのかが不安なのだ。 これを恋とは呼べないのかも知れない。 リノアと同じに愛してくれて温もりを与えてくれて――そして、セルフィはいつだって、自分の憧憬であり指針だった。 あの寂しい墓場で凛と背筋を伸ばしていた彼女を見た、あの時から。 心の一番奥底にある聖域に刻みつけられた、絶対不可侵の。 (この子はちゃんとわかっている……) じっとスコールを見つめていたエルオーネは、その矛盾した自身の思考に翻弄されている様子を見て、判断する。 スコールに酷いことをしたと語ったセルフィの言葉を思い出す。今こうしてスコールが喪失の恐怖を口にしているということは、恐らく何らかの形で、スコールはセルフィを失いかけたのだ。 それをどれほどスコールが恐れているか、エルオーネは良く知っている。セルフィのトラウマが故郷であるなら、スコールのトラウマは大切な誰か、愛する女性の喪失だ。かつてエルオーネを失ってしまったスコールの、魂の奥深くに植え付けられた恐怖の種は、リノアやセルフィを失いかけたそのたびに深く根を張り、スコールを支配し続けている。 その恐怖がスコールの独占欲を煽り立てている。けれど彼の中の彼女に対する憧憬は、そうして自由を奪われる彼女が自分の愛した少女ではないと冷静に告げている。彼の混乱はそこにある。 誰にも縛られず、常に自由奔放で天衣無縫であるからこそ、セルフィはスコールを魅了するのだから。 「……あなたはセルフィを傷つけるようなことは絶対にしないわ、スコール」 穏やかな声で断言するように告げたエルオーネを、驚いたようにスコールが見返した。 「確かに、あの子はリノアよりつかみ所のない子だし……奔放すぎて不安を覚える面はたくさんあるでしょう。安心させてはくれない子かも知れない。……でも、それがあの子の魅力だと、あなた自身が一番良くわかっている」 誰よりも自由で。 自由の責任も重みもすべて背負ってなお、軽やかに飛び回れるだけの毅さを持つ少女だからこそ、誰もが惹かれ魅了されるのだから。 「恋か執着かなんて、そんなことをここで考えていても意味なんてないのよ。けれどあなたに、自分の独占欲に呑み込まれてセルフィを傷つけることは絶対にできないわ。嘘だと思うなら、セルフィに会っていらっしゃい」 灰がかかった群青の瞳が、意外な言葉にぽかんとした光を浮かべ、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。 エルオーネは花のように微笑む。小さな頃と変わりなく。 「……こんなベッドで悶々と考えているから、嫌な感情も浮かぶのよ。いいから直接会いに行きなさい。そうしたら私が言っていたことが、嘘じゃないってあなたにもわかるから」 「……エルオーネ、俺は」 「いいから」 きっぱりと言葉を遮って、エルオーネは立ち上がり、スコールの腕を引っ張った。 半信半疑という顔つきでスコールはベッドから降り立ちエルオーネの顔を複雑そうに見下ろし、口ごもる。ざっとその全身を眺め回し、エルオーネはにっこりと笑った。 「あなたの荷物は、私が預かっていてあげる。セルフィに会って納得したら、私の部屋までいらっしゃい」 Tシャツにスウェットの下という、カッコつけのスコールには珍しい格好だが、ガーデン内を出歩くのに支障のあるほど酷い服装というわけでもあるまい。洗面は終えてこざっぱりとしているのだし。 きっちりそこまでチェックされてしまえば、スコールには反論の余地などない。第一この美しい姉に強い態度に出るなんて、百万光年かかったところでスコールには不可能な話なのだ。 結局何やら騙されたような気分で、スコールは保健室を後にし、学生寮に向かうより他になかった。 *** 三日ぶりに戻った自分の部屋には、セルフィの私物が増えていた。 恐らくエルオーネが運んだに違いない。――まぁ、着替えだの何だのと生活必需品はなければ困るだろう。スコールだって風邪など引かなければ自分で運んでやるつもりではいたので、それはかまわないのだが。 (……なんでクマまで運んでくるんだ……?) 自分の机の上にちょこんと乗っているでかいクマのぬいぐるみと、部屋に入った早々ばっちり眼が合ってしまったのには少々閉口したが。 「スコール?」 ふいに、鈴の音のような声が響いた。 ためらいがちに視線を向けて、そしてそのままスコールは動きを止めてしまっていた。 ベッドの上に半身を起こしている少女が、窓を背にしてまっすぐスコールを見つめていた。 カーテンを開け放ったその窓から、高く昇りつつある陽の光がふりそそいで、銅色に近い栗色の少女の髪を金色に輝かせていた。 まだ、熱は高いと聞いていた。大きな翠の瞳が潤んできらきらしているのがその証拠だ。けれど陽射しを浴びてベッドにおさまっている華奢なその姿は、決して儚げでも頼りなげでもなかった。 思わず立ちつくしたままのスコールを、翠玉の瞳がじっとまっすぐに見つめている。 一度はその輝きを失ったなどとはとても信じられないほどに凛とした光をたたえて、貫き通すようにスコールを見すえていたその瞳が、ふいに、にっこりと微笑んだ。 愛らしい仕草で小首を傾げる。その華奢な肩口からかすかに癖の残る銅色の髪がさらりと楽しげに踊りながら滑り落ちた。 「スコール、元気になったんだね~。よかった~」 小さな身体で受け止めている陽の光より、なお明るくまぶしい笑顔だった。 この三日間、抱え続けた冥い物思いのすべてを吹き消してあまりある、あまりにも無邪気で、明るくて、どこまでも温かな笑顔だった。 「えへへ、あたしの風邪うつしちゃったね~。なんていうか~、口移しってやつ~?」 セルフィがいたずらっぽく瞳を輝かせながら、人差し指を小さな唇に押し当てる。 その眼差しを受け止めて、知らず唇に笑みがのぼるのをスコールは自覚した。 (あぁ、本当だな……) 知らず心の中で優しい姉に呟いていた。 彼女の言うとおりだった。あれこれ悩んだのが嘘のように、すべての答えが眼の前にあった。 ――――あなたに、自分の独占欲に呑み込まれてセルフィを傷つけることは絶対にできないわ。 耳によみがえるのはエルオーネの言葉だ。 あぁその通りだと、スコールはまた笑った。自分にはこの笑顔を傷つけることなど絶対にできない。 莫大な不安に苛まれようと押し潰されて自身の心が壊れようと、自分はこの笑顔を損なうことなどできはしない。 そして不安を与える一方でそれを癒してのける、そんな力が確かにこの笑顔には存在した。 ゆっくりとベッド脇に歩み寄るスコールを、にこにこと微笑んでセルフィは見守っている。 近づくと、彼女の枕元に小さな小箱が置いてあるのが見えた。 ルウが別れ際に手渡した、カードの入った小箱。そしてもうひとつ。 「あぁ、あのね、一緒に読んでほしいな~って思って」 スコールの視線を追って、セルフィが明るい笑顔のまま口を開いた。 「こっちはね~、色々写真とか入ってるの。今までず~っと、見ると吐いたりしちゃって苦しいから、開けられずにいたんだけど~、もうだいじょぶかな~って思って、おねえちゃんに取ってきてもらったんだ~」 あの空の写真立ての下に置かれていた、鍵のついた銀色の箱だった。 よいしょと膝上にふたつの箱を置いて、セルフィはにっこりとスコールに笑いかける。 様々な哀しい記憶と自身の心との折り合いをつけようと、熱まで出して今も戦っているはずなのに、どこまでも健康的な愛くるしい笑顔で、凛としたまっすぐな瞳をスコールに向けて。 「でもやっぱり泣いちゃうかもしれないから~、開ける時は、スコールと一緒がいいな~って思って待ってたの~」 キスティスの言葉を借りるなら、それは間違いなく彼女の勇気だった。 喪失の恐怖、不可視の未来、様々な不安に怯えて傷つき泣きながら、それでも懸命に顔を上げて自分自身と戦い続けている彼女の勇気を、一番近い場所で見ていたのは自分だった。 「だってほら、スコールの前でだったら、泣いたりしてもいいんでしょ?」 手を伸ばして頬に触れるスコールに、セルフィはいたずらっぽく笑って問いかける。 スコールはひどく優しい気分で笑い返し、静かに頷いた。 「あぁ、もちろん」 触れると安心すると、そう言ったのはセルフィだった。 けれど今、指先に温もりを感じた瞬間に安堵を覚えたのは、間違いなくスコールの方だった。 「言っただろ、全部聞いてやるって」 「うん」 嬉しそうにセルフィが頷いた。 「あのね、それでね……あたしのお話を聞いたら~、スコールもお話してほしいの~」 子猫のような仕草でスコールの手に頬をすり寄せて、無邪気にセルフィが提案する。 綺麗な翠の瞳に浮かんだ甘えは、こんな時でなければ絶対に眼にすることのかなわないものだ。 「もちろん、お話できる範囲でいいんだよ~。何か、なんでもいいから、スコールが覚えていたいな~って思えるようなこと。聞かせてくれたら~、あたしも一緒に覚えていられるでしょ? あたしの思い出と~、スコールの思い出と~、二人で覚え合ってたら、どっちかが忘れても一緒に思い出したりできるの、なんかいいな~って思ったの~」 日記書くよりもっと素敵でしょ? セルフィはそう言って幸せそうに笑った。 「嬉しい思い出でも、哀しい思い出でも、なんでもいいよ。お話、してもいいって思えること、なんでも聞くよ。それで~、一緒に色んな思い出、未来に持っていくの~」 底に深みを隠す不可思議な翠の瞳をまっすぐ見下ろしたまま、スコールはふと不思議な気持ちになった。 人と視線を合わせるのは得意ではない。けれどこの翠の双眸だけはなぜか別だった。 あまりにも自分のそれに似て、そして自分が目指す何かがあって、だからこの瞳をのぞき込むのは苦痛にはならない。 「……いいな、それ」 いつでも未来を映している瞳。どれほど過去に翻弄されて傷つけられても、それでも前を向くことをためらわない。 この瞳を、彼女が見つめる未来を守るためだったら、きっとどんなことでもできる。 自分自身の暗部にさえ打ち勝って、貫き通してみせる。それだけの勇気はすでにもらっているから。 「でしょでしょ~?」 えへへとセルフィが陽溜りそのものの笑顔で大きく頷く。 スコールは指先でセルフィの頬に触れたまま、セルフィの枕元に腰を落とした。 視線の高さが揃って、セルフィはまた嬉しそうに微笑んだ。 無防備に笑う少女を前にして、スコールは急に泣き出したいほどの強い感情に襲われて、腕を伸ばすと強引に華奢な身体を引き寄せ抱きしめる。驚き顔を上げたその唇に、衝動的に口づけた。 「……っ」 びっくりはしても抵抗はしないセルフィの喉が、こくんと動くのを合図にして唇が離れた時には、スコールの身体はほとんどベッドの上に乗ってしまっていた。腕の中で、わずかに呼吸を乱したセルフィが眼を開けて、呆れたような嬉しいような、色んな感情のないまぜになった顔でくすりと笑った。 「も~。あたしの風邪うつしかえす気~?」 キスで風邪をうつされたスコールは、それを聞いてくっと笑い出した。 「……その時は俺が看病してやるさ」 「そういう問題じゃな~い!」 今でも充分熱の高いセルフィにすれば、これ以上具合が悪くなるのは真っ平ごめんだ。スコールはますます笑い出してしまいながら、靴を脱ぎ捨ててベッドの上に身体を完全に乗せる。上気させた頬をさらに赤く染めながら、セルフィは壁際に身体をずらして上掛けをちょっと上げてスコールを迎え入れた。 「えへへ、な~んか、お母さんに添い寝してもらう子供みたい~」 照れたようにくすくすセルフィが笑う。スコールは立てかけてある枕とクッションに背を預け、セルフィに手を伸ばした。 「……冗談。俺はあんたの親になんてならないからな」 セルフィのウェストをさらって自分の両脚の間に腰を落ち着かせ、上掛けを引っ張り上げる。セルフィがびっくり顔でスコールを見上げ、それからまたくすくすと笑った。 「じゃあ何ならいいの~?」 「……今さらそれを聞くか?」 こつんと軽く小突くと、くすぐったそうに笑う少女を背後から抱きしめる。密着した華奢な身体は、やっぱりいつもより少し熱かったが、不吉さはもう感じなかった。 セルフィの膝上に置いてあった銀の箱を手元にそっと引き寄せる。 「……自分で開けるか?」 問いかけると、スコールの胸に寄りかかった体勢のセルフィがこくんと頷いた。一瞬見上げきた翠の瞳に、スコールは小さく笑んで頷いてみせた。 「うん。……だいじょぶ」 にこりとセルフィが淡く微笑んで、視線を手元に落とす。 銀箱の鍵をあけるセルフィの華奢な肩がかすかに震えるのを感じて、スコールは彼女を抱く腕に力をこめた。 *** それからその日は一日中、ベッドの中でたくさんの話をした。 たくさんの写真を見、手紙を読んで、セルフィは幸せそうに笑いながら思い出を語り、そしてやっぱり時々泣いた。 強がることはせず、我慢することもなく素直に泣いて、そしてまた笑った。 それからにこにこと微笑んで、ぽつぽつスコールが話す言葉に耳を傾けた。 言葉足らずのスコールの話を、それでも嬉しそうに聞いて、時々一緒に泣いたり、怒ったり、笑ってくれたりした。 そんな時のセルフィはどこか姉のような母親のような顔になって、そして驚くほど聞き上手だった。 まだリノアが恋人だった頃、数え切れないほどに『言葉』を要求されたものだったが、あの日々でさえここまで多く自分のことを話したことはなかっただろうと思うほど、本当にたくさんの話を、した。 話し疲れてお互い時々眠って、そして眼を覚ましてまた話して―― 「スコールはど~したらハッピーになれるかなあ?」 何度目かの眠りに落ちる寸前に、ふいに囁かれたセルフィの言葉が、意外なほど強く心を揺さぶった。 「……あたしは~、今のあたしとおんなじくらい、スコールのこともハッピーにしたいよ~……」 半分うとうととしている少女の口調はどこか幼げで、けれど不明瞭なのにその言葉はあまりに鮮やかで。 答えようとスコールが唇を動かした時には、もう長い睫毛は頬に落ちてしまっていた。 (……そんなの、簡単なことだ) 届かない答えを胸の内で呟いて、スコールは重みの増した小さな頭を深く抱き込んだ。 (ちゃんと生きていてくれればいい) 彼女は自由な生き物で、だからこれからも自由に、どこへでも飛んでいってしまうのだろう。 時には見ているこちらの胸が痛むほど、その翅を傷つけてしまうことだってあるんだろう。 けれど彼女は必ず自分の腕の中に戻ろうとするだろうし、翅が傷つき戻れないなら迎えに行けばいいことだ。 (――どこに行こうと、何に囚われようと、誰が相手でも……) たとえどんな冥い独占欲に覆い尽くされても、彼女が傍で笑ってくれればそんなものは消えてしまうから。 いつでも幸せに笑ってくれるためなら、どんなことでもできる勇気があるから。 (たとえ死の世界からだって、俺は必ず連れ戻す――) せわしない日常から切り離されたそこで流れた優しい時間、それはいつまでもスコールの心に残った。 全身で感じた生命の温もりも、時に潤み雫をこぼし微笑んだ瞳も、鈴のような声が紡ぐ記憶も、穏やかな寝息も、スコールは何度も何度も思い出した。 ――その瞬間をこそ、人は幸せと呼ぶのかも知れない。 |