*H a p p i n e s s ..08*



 幸いにして雪は夜の内にやみ、作業を妨げる要因はほとんどなかった。

「えへへ~スコールほら、見て見て~!」
 顔にまで黄色のペンキを飛ばしながら、上機嫌でセルフィが振り返った。
 大きな脚立のてっぺんで勢いよく身体を揺らすので、脚立を支えているスコールとしてはなかなか重労働だ。
 何やってるんだよと呆れながら、スコールが肩をすくめてそっけなく答える。
「あぁ……いいんじゃないか?」
 無感動な一言にむっとしたように口をとがらせて、セルフィはぴょんと脚立から飛び降りると、持っていたペンキ用ハケをぐいとスコールに押しつけた。
「なによ~もお、感動少ないなぁ~! てゆ~かスコールも描いてよ~!」
「……冗談言うな。俺に戦闘以外のことを求めないでくれ」
「な~に言ってんの前金とったんでしょ~! ほらぁ、そっちにもういっこ描く描く!」
 ハケを受け取ったはいいが、絵なんてものを描いたことのないスコールは、そのままがきりと凍りついて固まった。
 もうひとつのハケを手にとって、セルフィはうきうきと壁に絵を描いている。――こちらは子供の相手を長年してきただけあって、けっこうちゃんとした絵になっていた。
「…………」
 困惑しつつ、見よう見まねでセルフィがいくつも描き散らした横にひとつ描いてみる。
「………………………………」
 手先は決して不器用な方ではないはずなのだが……さすがに描いたことのない絵を描く、というのは、想像以上に難易度が高かった。
 無言のまま悪戦苦闘しているスコールの手元を、セルフィがひょいとのぞきこむ。
 はっとして隠す間もなく、できあがったそれを見て、景気よくセルフィが吹き出した。
「あははははは……いや~もう、なんやのそれ~! おもしろすぎる~!」
 鈴のような声で高らかに笑われてしまっては、スコールの立つ瀬はまったくない。
 嫌な顔で睨み付けるスコールに、セルフィは何度も絵を見てはそのたび涙を流して大笑いしている。
 少々ハイテンション気味の今のセルフィは、もはやハケが転がっても笑い出すような精神状態になっているに違いない。……違いないが、ここまで笑われるとさすがのスコールもちょっとは傷つくわけで。
「おい……笑いすぎだ……!」
 殺気のこもった低い声に、ひ~とまだ笑いながらセルフィが手の甲で涙を拭った。
「ごめんごめん……いやもう、やばいわこれ……スコールほんまに面白すぎるわ~……」
「…………部屋に帰るぞ」
「あ~ごめんってば……怒らんといて~」
 笑い混じりに謝られてもちっとも心に届かない。
 ……そりゃまぁ、セルフィが描いていた物と自分のそれとが、多少どころかかなり形状を異にしているのはスコールも認めるが。
 あ~おかしいとまだ言いながら、セルフィは壁をぐるりと見上げて、満足げにえへへと笑う。
 よくやるものだと感心しながら、スコールはちょいちょいとセルフィの肩をつついた。
「……セルフィ」
「ん~? なに~?」
「……とりあえず……修正してくれ」
 指さしているのはもちろん、自分が描いた絵とすら呼べない謎のそれ。
 スコールの指先を視線で追って、セルフィがまた盛大に吹き出した。

***

 起床時間のずいぶん前に眼を覚ましていたルウは、時間になるのを待って子供達を起こして回った。
「セルフィは……?」
 不安げにルウを見上げてハイリが訊ねる。
「大丈夫やよ、スコールさんが一緒やから」
 半ば自分に言い聞かせるようにしてルウは答える。あれだけセルフィを気遣っていた青年が、意外なほど落ち着いて行動してくれたお陰で、ルウも少しだけ大丈夫だという気分になっていた。彼ならセルフィにとって、最良の行動をとってくれるだろうと無条件で信じることができる。
 子供達を食堂に連れて行って、それから部屋を覗いてみようと考えて、ルウは手早く他の少女達と一緒に子供達の身支度を整えて、大部屋を出た。廊下を出ると、ちょうどマディテス達が出てくるところだった。
 大部屋から玄関ホールを抜けて廊下を進み、左折した先に食堂はある。冷えた朝の空気の中廊下を歩いていると、玄関ホールのところに見覚えのある少女が二人、いるのが見えた。
「あ~ルウ、おっはよ~!」
 気配に気づいたひとりが振り返り、良く通る鈴の音のような声で朗らかに笑った。
「セルフィ!」
 いつもと変わらない、元気な笑顔のセルフィを眼に留めて、子供達が歓声を上げる。ルウはセルフィのすぐ傍に立つ少女の姿に、驚きのあまり絶句して立ちすくんでしまった。
「……アミ」
 いつもの三つ編みをほどき、ゆるくウェーブのかかった黒髪を流している少女が、セルフィの視線を追ってルウを見、かすかに苦笑した。
「……おはよう」
「ちょ~どよかった~! 今ね、そっちに行こうと思ててん!」
 にこにことセルフィが笑う。いつも通りに、いつも以上に楽しげに。
 なぜかあどけなさの残る頬や、着ているパーカーなどに、黄色や緑のペイントがされていた。
「そしたら~、このまま外にれっつご~!」
 華やかな笑顔を残して、セルフィはアミの腕を引っ張るようにして昇降口からドアを開けて外に出て行ってしまう。
 残されたルウ達は思わず顔を見合わせた。アミに対しあまり好意的な感情は互いに生まれていなかったが、肝心のセルフィが変わりなくアミに接してしまっているので、今さら怒りを持続させることもできず、どう反応すべきか全員困っているという様子だった。
「ほらあ、もう遅い遅~い!」
 開け放したドアの向こうから、セルフィの声がする。
「行くしかなさそうやな」
 呆れたような苦笑するような顔でマディテスがルウに視線を向ける。眼を合わせて、そうやねとルウも微笑んだ。
 あんなにひどく傷ついたのに、それでも強靱に微笑むことのできる強さを、ルウはただ羨ましいと思った。

 怪訝そうな生徒達の先頭に立って、ルウはマディテスと並んで、ホールからドアを開けて外に出た。
 冷たい風が吹き付けてくる。
「こっちだよ~」
 その風をものともせずに、よく通る鈴の音のような声がまた上がった。
 ご機嫌な笑顔のセルフィが、少し離れたところに置いてある脚立に腰掛けたスコールの隣で手招きしている。そのスコールが、ルウと視線を合わせてかすかに笑うのがわかった。
 子供達が真っ先にセルフィに駆け寄って、ばふんと細腕にしがみつく。にこにこと子供達を受け止め、ルウ達がすぐ傍まで歩み寄ったのを確認すると、セルフィは子供達の肩をくるりと回して身体の向きを変えさせた。
「はい、それじゃ~みんな、ここで回れ~右~!」
 のんびりした口調なのに、何故か有無を言わせない迫力をもって、セルフィが命じる。
 なんとなくその声に従って振り返ったルウ達は、次の瞬間驚きの声を上げていた。

 それはトラビアの地には、決して咲かない花々。
 夏と太陽を象徴する、凛然とした陽光色の。

「えっへへ~、セフィちゃんもなかなかのモンでしょ~!」
 歓声をあげてその壁画に駆け寄る子供達に、セルフィが自慢げに薄い胸をそらしてえへんと笑った。
「これ……セルフィが全部?」
 小さな昇降口、その周辺の壁一面に咲き誇る夏の花。
 たった一晩でと驚く生徒達に、セルフィは肩をすくめて笑いながら頷いた。
「うん。別に描くのはよかったんだけど~、壁が凍っちゃうから、それだけちょ~っと大変だったかな~? その辺はスコールになんとかしてもらったんだけど~」
 どうしたのかは秘密ね、と邪気なくセルフィは微笑んでスコールを振り返る。
 スコールがそれに対して、非常に面白くなさそうな顔をしてみせたあたり……ろくな方法でなかったに違いない。
「ねぇねぇセルフィ、これ、このライオンなに~?」
「え? あ~これね、これは~、スコールが描いたんだよ~! よかったねスコール、ライオンに見えるって~」
 また笑い出しながらセルフィがまたスコールを振り返る。スコールが溜息まじりに脚立から下り、つかつかとセルフィに歩み寄ると、平手で小さな後頭部をぺしんと叩いた。
「いたっ。ちょっとも~なにすんの~!」
「……余計なことは言わなくていい」
 もちろん最初に描いた時は、ライオンのつもりなんかではなかったのだ。
 ただ少々……いや激しく大きさと形を間違えたせいで、修正をしたセルフィが強引に動物にしてしまっただけで。
「い~じゃん別に~。スコールライオン大好きなんでしょ~グリーヴァなんでしょ~!」
「……俺のグリーヴァはこんなんじゃない」
 拗ねたようにぼそりと呟く。セルフィがはじかれるように笑いだし、周囲の子供達も訳がわからないまま、大好きな少女が笑ってくれているので一緒になって笑い出す。好きにしてくれと、スコールは天を仰いで嘆息した。
「セルフィがね~、いっちば~ん大好きな花やねんで~」
 にこにこと子供達に説明しながら、セルフィはぐるりと視線をめぐらせる。見つけた長身の青年に、まっすぐ瞳を向けて強く微笑みかけた。
「マディ、勝手に描いてしもてごめんね。でも~、どうせここ仮校舎やし、構へんよね~?」
 現生徒会長であるマディテスは、急に瞳を向けられ驚いたように立ちつくした。
「いつかは壊すものなんやよね?」
 小首を傾げて、にっこりと笑う。
 こんな時のセルフィの笑顔が、どれほど強くて綺麗なのか、スコールはずっと前から知っている。
 今その笑顔を向けられた青年が、どんな衝撃を受けているのかさえ、スコールには手に取るようにわかる気がした。
「いつかは、壊さなあかんもんなんやよ、マディ」
 雪に濡れていた髪も今は乾き、透明な風に舞ってふわりと揺れた。
 朝日の光を受けて金茶に輝くその髪に、スコールは一瞬魅入られる。
 そしてそれは恐らく、その場にいた誰もが同じだった。
「マディはどないしたいん。壊さんとこのまま全部置いといて、ほんでここから逃げるの? 見せかけだけの屋根と壁だけの、ほんまはあちこち穴だらけのこの校舎で、そんなんで必死に何を守るん?」
 見せかけだけの――刹那の平穏。
 すきま風吹く哀れな校舎に身を寄せ合って、自分達だけで頑張っているという居心地の良い幻想の中で、必死に虚勢だけを守って。
「いつまで被害者でいてるつもりやの。いつまで過去にしがみつく気なん」
 賠償金をもらって、それで終わりになるのが許せないと怒りを持つ少年達全員の心を、高いトーンの声が断罪していく。
 終わりにされるのが許せないなら、声を大にして怒りを叫び続ければいいのだと。
 そうして世界に対して戦いを挑んで行けと。
 実際に同じように刹那の平穏を必死で守り、そして一度心を壊すことで乗り越えてみせた少女が、告げた。
「そんなんリーナらは絶対望んでない。みんな、絶対絶対、生きてるあたし達が幸せになってほしいって、そう願ってる。誰も自分らの命に、罪悪感なんて覚えてほしないって、絶対絶対思ってるんやから……!」
 凛とした強すぎる眼差しが、ぐるりとその場にいる全員の眼差しをまっすぐ射抜いた。
 思わず視線を伏せてしまった者は、完全にとどめを刺された者だった。
「あたしは今生きてることを後悔なんてせえへん。リーナらをよう助けられへんかったのは、今でもすごい悔しいし哀しいし一生消えへんと思うけど、それでも生き残ったことを罪やとは思えへんで。あたしの命と引き替えにしてみんなが助かるんやったら、いつかて差し出すのにって、そんなふうに思たこともあったけど、でもそれかてもう思えへん。幸せになりたいって思うし、幸せになろうって努力かてするよ」
 救えなくてごめんねと、呟くことはあっても。
 自分だけ生きてごめんねとは、きっと言わない。
「なくしてしもた命に怒りを抱くのはいいと思う。……そやけど、憎むことに時間かけてるくらいやったら、前に進むことにつこた方が絶対いいやん。……少なくともあの時死んだのがあたしやったら、きっと生きてるみんなに対してそう思うよ。
 きっちり居場所確保して、生きてくのに必要な環境整えて、そっからはじまるんちゃうの? 自分の足で立つって、全部自分でって頑張るのって、そこからはじまるんやってあたしは思うよ。誰の手も借りんと生きていける人なんか、この世界にはひとりもいてへんねんから」
 最後まで自分の足でしっかり立って、まっすぐ伸びた背筋にいささかの揺らぎもなく、凛然とした眼差しでそう言い切って、セルフィはもう一度生徒達を見回すと、小首を傾げるようにして、いつもの陽溜りのような笑顔になった。
「あたしが言いたいことは~、これでおしまい! えへへ、聞いてくれてありがと~!」
 さっぱりとそう言って、セルフィは脇に立つスコールに顔を向けた。
「じゃ~、シャワー浴びたら~、バラム帰ろっか~?」
「えっ……」
 声をあげたのはルウだった。
 今日がトラビア滞在最終日だとは認識していたが、こんなに早く帰ろうとするとは思っていなかった。
 セルフィはルウに視線を向けると、小首を傾げて困ったように笑った。
「ごめんね~、ほら、明日からまた任務だなんだ~って入っちゃうから、やっぱ早めに帰りたいんだ~。あ、お風呂は別に湧かし直すことないからね~、シャワーでいいから~」
 さすがにこの時間に風呂が沸いているはずもないが、血塗れになったり外で作業をしたりと汚れが気になるセルフィとしてはシャワーぐらいは浴びておきたいところだ。
 それじゃねとあっさりした態度で微笑んで、セルフィはくるりとルウ達に背を向けると、いつもの軽やかな足取りで校舎の中へと消えていった。
「…………」
 後に続きかけて、スコールは無言でちらりとトラビア生達を振り返る。
 真っ先に視線が向いたのは、長身のマディテスだった。
「……未来の、象徴なんだそうだ」
 一度だけ砂色の瞳をまっすぐ見つめ、軽く笑って視線をそらしながら、スコールは独り言のように呟いた。
「え……」
「セルフィにとって、この花は未来の象徴なんだと、そう言っていた」
 淡々と呟き、両の手をコートのポケットに突っ込んで、スコールはマディテス達に背を向ける。
 それ以上何も言う気は特になかったが、数歩進んでふと思いつき、口を開いた。
「あんた達には誇りがあるんだろう。……それは、他人の力を受け入れただけで消えるような、そんなものなのか?」
 誰にも頼らず、自分だけでと。
 その気持ちはスコールには良くわかるのだ。
 そして自力だけで生きているつもりで、本当はそうではないのだという現実も知っている。
「あれはなかなかにしたたかな世渡り上手だが」
 ふ、と肩越しにマディテスを振り向いて、スコールは唇だけで小さく笑ってみせた。
「誇り高さは多分、誰にも負けない」
 傍目にどれほど世間に迎合しているように見えたとしても、そんなことで誇りは傷ついたりしない。大人の理屈を覚えて諦観を知っても、消えることのない純粋さを持っている。
 スコールがセルフィの何を愛しているのかと問われれば、それはこの、真正面から傷を受けてなお、敢然と輝くことのできる魂の有り様なのかもしれなかった。
 それだけの確固たるものをお前達は持っているのかと言外に問いかけて、スコールはまたふいと顔を前に戻し、今度こそ振り返らずに校舎へと足を運んだ。


 やっぱり綺麗だなと、憧憬すら超えた場所でぼんやりとアミは思っていた。
 自ら左手を切り裂いても気づけないほどの大きな傷を受けて血を流しても、決して前を向くことをやめない瞳。
 アミと同じような、綺麗じゃない感情を内包してもなお、透徹とした眼差しで。
(あの子はきっと、トラビアにいてたかて同じ選択をした――)
 校舎の中に消えていった細い背中を眼で追いながら、アミの中にはひとつの確信が生まれていた。
(たとえどんな地獄を目の当たりにしたとしても、きっと)
 あの日トラビアガーデンに彼女がいたとしても。その後ここで過ごしたとしても。
 あの瞳はきっと、未来以外を映さない。
(あの子は自分で幸せを掴み取ったんや)
 かなわないはずだった夢。彼女自らそう言った、最高の幸せを。
 多分、それは、アミがずっと思い込んでいたような、与えられるものではなく。
 たくさんの――本当に本当にたくさんの傷の痛みと引き替えに、勝ち取ったものなのだ。
 アミの見えないところで、セルフィだってちゃんと、現実と戦っていたのだ。
(かなうわけあらへん……)
 失ったものばかり数えて、幸せや、救いの手や、そんな不確かなものを待ち続けていただけのアミが、可哀想な自分という居心地のいい不幸の中で動き出そうともしなかったアミが、かなうはずなんてない。
 現実はおとぎ話のように優しくなんてない。うずくまっているだけの人間に、救いの手を差し伸べてくれる人なんてどこにもいない。
 自らの足で立ち、自力で前へ進もうとする者にこそ、それは与えられるものなのだから。
 スコールを見て、あんなふうに愛してくれる人がいたらどんなに幸せだろうと思った。
 昔から誰にでも愛されるセルフィが羨ましかった。いつだって最悪の事態は彼女には訪れず、だからこそ無邪気に微笑むことができるのだと、まるで幸せになることを約束されている、特別な人のようだと思っていた。
 けれどきっとこの地にいたとしても、アミとまったく同じ環境にあったとしても、セルフィはやっぱり笑顔であり続けただろうし、前に進もうとしたのだろう。
 何もせずに愛されたわけではなく。そんなまっすぐな彼女だから誰もが愛したのだと。
 ようやくわかった。

***

 背後から聞こえてきた足音に、セルフィはふと歩みを止めて振り返った。
 小走りに近づいてくる青年を認めて、にこりと微笑む。
「スコール」
 シャワーを浴びるにしても着替えをまず取りに行かなくてはならないので、行き先は借りていたソファのある小部屋の方になる。
 自分にスコールが追いつくのを確認して、セルフィは彼に背を向けるとまた足を動かし始めた。
「そういえばねぇ~」
 後ろについてくるスコールに、朗らかな声で話し始める。
「思い出したんだ~、ほら、前にあたし、トラビアの友達と遊園地に行く約束してたんだ~って、言ったことあったよね~?」
「……あぁ」
 軽い相槌が頭上で響く。セルフィは笑顔で肩越しにスコールを振り返った。
「約束は覚えてたんだけどね~、誰と約束してたのか、あたし覚えてなかったんだな~って。覚えてないこともわかんないなんて、人の頭ってけっこう都合良くできてるよね~」
 忘れたことすら忘れて。叶わなかった約束だけを大事に抱きしめて。
「なんであの時、あんなに哀しかったのか、や~っとわかったよ」
 視線を前に戻して、セルフィはそこでちょっと息をついた。
 死んでしまった誰かとの約束だったから哀しかったのではなくて、約束した誰かを忘れていることが哀しかった。
 思い出そうとしてしまわないように、忘れたという認識すらなかったけれど、それが今ならわかるのだ。
「でもね、約束した子のほとんどは死んじゃってるんだけど~、夢でね、その子達が言ってくれたんだよ。あたしがみんなのこと忘れていても~、ず~っとみんなはあたしの傍にいて、遊園地も一緒にいたんだよ~って。
 ……もちろんただの夢なんだけど、ホントはどうかなんてわかんないけど~、でもそうなんだってちょっと信じたいんだ。せめてそのくらいは、勝手に信じても許されるんじゃないのかなって」
「……あぁ、そうだな」
 ね、と同意を求める翠の瞳に、かすかに笑い返してスコールが頷いた。
 嬉しそうにまたセルフィが笑って、顔を前に戻す。部屋にたどり着き、ドアを開けようとひょいと手を伸ばした。
「うわ」
 ずっと拳に握っていた手を開こうとして、セルフィが自分でびっくりして声を上げる。
 ノブを握ろうとした小さなその手がぶるぶる震えているのを認めて、スコールも驚いて眼をまたたいた。
「あ、あはは……緊張してたのかなぁ~? なんかすごいなぁ~」
 震えの止まらない右手を胸元に引き寄せて、やっぱり震えている左手でぎゅっと掴む。
 本当に自覚はまったくなかったらしいその様子に、スコールはやれやれと溜息をついた。
「何やってるんだよ……」
 すいとセルフィの前に歩み寄り、途方に暮れた少女の両手を取り上げる。
 スコールの大きな手の中にすっぽりおさまってしまう、華奢な手の震えが伝わってきて、スコールは小さく苦笑した。
「……ちょっと、頑張りすぎたな」
 囁くと、セルフィはちょっと小首を傾げて軽く笑った。
「そうかなあ~?」
 まだまだ上手く出来てないよと苦笑するセルフィに、スコールはちょっと言葉を考えて視線を宙に彷徨わせた。
「……そうでもないさ」
 その手はあまりに小さくて、少しでも力をこめれば握り潰せそうに華奢で柔らかくて、しかしその実どんな傷をも受け止めてしまえる、受け止め続けてきた手なのだと、スコールは知っている。
「お前はよく頑張った」
 低い声で静かにそう告げて、潔癖な感じのする唇が自分の手に口づけるのを、セルフィは頬を上気させて見守った。
 まるで魔法のように震えが止まる。
 同時に瞳が急に熱くなって、セルフィは慌ててうつむいてぱちぱちとまばたきを繰り返した。
「……スコールが」
 やだなあこんなにあたし涙腺弱かったっけ? そんなことを思いながら口を開く。
「スコールが、いてくれたからだよ」
「……俺は何も」
 忙しくまばたきを繰り返す瞳から飛び散った涙に、スコールは一瞬眼を奪われながら呟くように答える。
 セルフィは顔を上げて、気の利いたことのひとつも言えないと、無力感ばかり抱いていた男をまっすぐ見て、呆れたように笑った。
「スコールは傍にいてくれたよ。それに~、信じてくれた」
 ちゃんとセルフィが乗り越えることを。その強さを。
 すべての人の優しさがセルフィを真実から遠ざける中、心の強さにセルフィ自身が不安を抱いても、それでも最後までセルフィを信じてくれた。
 取り戻した思い出はやっぱり痛くて辛くて苦しくて、けれどそれ以上に優しくて懐かしくて――でもスコールがいなければ、痛みにばかり眼を奪われたセルフィは、またそこから逃げだそうとしてしまったかもしれない。
「あの時スコール、全部聞いてやるからって、一緒に背負ってやるからって、だから怖くないよって、言ってくれたでしょ~? 思い出すな~とか、忘れちゃえ~とか、そうは言わないでくれたでしょ~?」
 左手に刃を食い込ませた痛みさえ気づけなかった、あの時。
 あんな状態の時でさえ、ちゃんと言葉は届いていたのだと驚くスコールの前で、セルフィは一度瞳を伏せ、またスコールを見上げてふわりと微笑んだ。
 今までスコールが見たこともないほどに優しく、柔らかな笑顔だった。
「それ聞いてね、あ~、そっかあたし大丈夫なんだ~って。スコールが信じてくれてるあたしなんだから、絶対思い出なんかに負けたりしないんだ~って、自分のこと信じられたんだ~」
 そして、本当に負けなかった。
 哀しい記憶に押し潰されることもなく、また思い出を失う恐れに囚われることもなく。
「……ねぇ、ホントに全部聞いてくれる?」
 優しい笑顔の中から翠の瞳をいたずらっぽく輝かせて、セルフィは小首を傾げるようにして問いかけた。
「あたしがなくしてた思い出のこと、全部聞いて、一緒に覚えててくれる? いつかあたしがまた忘れることがあった時、スコールも一緒に思い出してくれる? また思い出せるよって、またあたしのこと、信じててくれる?」
 他愛ない無邪気なわがままを口にする時とまったく変わらない、けれどとても真剣に。
 心の中にいる黒髪の美少女の姿を振り切って、こんな願いを口にする自分はひどい人間なのかもしれない。
 けれど。
「……あぁ」
 スコールが短く頷いて、まっすぐセルフィを見つめた。
 その灰がかった群青の瞳に浮かぶ微笑の優しさに、眼を奪われる。
「本当に? ……重荷だな~とかって、思わないの?」
 ぎゅっと奥歯を噛みしめて、それから頑張って笑顔で問いかけたセルフィに、スコールは少し苦笑したようだった。
「頼られないより、ずっといい」
 静かに告げられて、セルフィは一拍遅れて「え?」と呟いた。
 セルフィの両手を包んだまま、スコールがふっと身をかがめて顔を近づけてくる。キスされるのかと思ったその瞬間、こつんと額が触れ合った。
「……言ったろ。俺は全部、あんたのものだって」
 吐息の絡むほど間近で囁かれ、セルフィはどきりと胸を震わせる。
「頼りたければ、頼っていい。寄りかかりたいなら寄りかかれ。我が儘が言いたければ言っていいし、愚痴も泣き言も俺になら言っていいんだ」
「……どんなワガママでも?」
 おずおずと眼を上げて、セルフィは思わず訊ねていた。
 スコールは軽く笑って、答えた。
「あんたが死んだり傷ついたりする内容でないならな」
 たとえば、左手のオダインバングルを外して欲しいと言ったような、そんな我が儘は聞かないと断言したスコールに、セルフィは眼を伏せて少しだけ苦笑した。
 本当に今セルフィが思っている我が儘を口にすれば、きっとスコールは本気で困るだろうことはわかっていた。口にするつもりも、もちろんなかった。今の言葉だけで充分だと、ただそう思った。
「……ありがと」
 本当はスコールがセルフィだけのものだなんて、そんなことは有り得ないと知っていたけれど。
 今こうして傍にいてくれて、今こうやってたくさんの優しさを向けてくれる、それ以上を望もうとは思わなかった。
「じゃあ、話は後でゆっくり聞くとして」
 言いながらスコールは身を起こしてセルフィの手を離し、その手が震えていないことを確認すると、セルフィの頭にぽんと手を置いて軽く撫でた。
「……あと少し、頑張れるな?」
 身支度を整えて、帰路につくまで。
 訊ねられ、セルフィはにこりと笑って頷いた。
「うん。だいじょ~ぶ」
「よし」
 その答えに満足げに微笑んで、スコールはセルフィの頭から手を外すと、無駄のない動きでセルフィに背を向け、ドアを開ける。
 その背中に、セルフィはふと思いついて「でもね」と声をかけていた。
「なんだ?」
 スコールが振り返る。セルフィはいたずらっぽく笑うと、軽く小首を傾げるようにして彼の顔を見上げた。
「一回だけ、ぎゅ~ってして」
「…………」
 懐かしい言葉に、スコールは驚いてしばらくの間瞠目してセルフィを見つめていた。
 それからふっと、いつもの苦笑めいた微笑を唇に浮かべる。
 セルフィが一番好きな笑顔で、当たり前に腕を伸ばして背を引き寄せてくれる。
 そんなことが、涙が出るくらい幸せだとセルフィは思った。

***

「……お前の気持ちは、まぁわかったけどやな」
 風呂から上がって、荷物の置いてある部屋へと向かう途中に聞こえてきた声に、スコールはふと足を止めた。
「ルウにもお願いしたあるけど、やっぱりマディの方がほら、影響力が違うやん?」
 自分よりひとあし先に出たらしい、セルフィの声が響いてくる。
 声しか聞こえないので、二人の表情まではスコールにはわからなかった。
「お前がそう言うんやったら、俺らがアミに怒ったかてしゃあないしな。……まぁ、みんなにはよう言うとくわ」
「……うん、ありがとう」
 ほっとしたようにセルフィが笑う気配がした。
 やはり人間関係のエキスパートであるセルフィのやることに、ぬかりはないらしい。そんなことを思っていると、マディテスの低い声がした。
「悪かったな」
「……なにが?」
 少し間を置いて、マディテスが答えた。
「リーナらのこと。……お前、思い出したがってたの、俺ら知ってたのにな」
 セルフィからの答えはなかった。
 また少し間があって、マディテスの言葉が続く。
「お前のためとか言うて……結局俺ら、自分らのエゴ押しつけてただけやったんかもな」
 はっと小さく息をついて、苦く笑う気配があった。
「……ごめんな」
 数秒間の沈黙。
 やがて衣擦れの音がして、ゆっくりとセルフィの声が響いた。
「……あたしは、嬉しかったよ? みんながいっぱいいっぱい、あたしのこと心配してくれてんの、わかってたから。そういう優しい気持ちは、ちゃ~んと伝わってたから。エゴなんかとちゃうよ、みんな優しかったんやよ」
 そこで一度言葉が途切れ、ややして囁くような、小さな声が聞こえた。
「……ありがと、マディ」
「セルフィ……」
 息をのむようにして呟く声と同時に、ざっと衣擦れの音がまたした。
「……マディ?」
 くぐもったセルフィの声が聞こえる。それからしばらくの間、二人の息づかいだけが聞こえた。
 一体何が起きているのか、やきもきしすぎて脳の血管が切れるんじゃないかとスコールが思い始めた頃、やっとかすかな衣擦れの音と共に、セルフィの声が聞こえた。今度は明瞭に音が伝わった。
「だいじょ~ぶ?」
「…………あぁ」
 かすれたマディテスの声がする。
「お前さ……」
「うん?」
「……お前てさ、昔から、ほんまに……絶対、何からも逃げへん女やよな……」
 数秒間の沈黙があり、くすっとセルフィが軽く笑う気配があった。
「そうかな」
「……あぁ」
 マディテスもかすかに笑ったような、そんな気配がした。
「そやから、俺……お前の彼氏、ほんま好かんヤツって思てんけどな」
「……なにそれ~」
 呆れたようにセルフィが笑う。マディテスの小さな笑い声が聞こえた。
「そやけど、あの時あいつが……お前から逃げへんかったん見て……お前がなんであいつ選んだんかは……なんかわかった気ぃした」
 うん、とセルフィは頷いたようだった。
「……ごめんな。俺はあの時、お前から逃げたんや」
 苦くマディテスが告白したそれは、嘘ではない。あの時スコール以外の誰もが、セルフィの姿を直視できなかったのだから。
「そんなん、おどかしたのはあたしやもん。謝らんといてよ」
 きっぱりとした口調で、セルフィはマディテスの謝罪を拒絶した。
「スコールはスコールにしかでけへんことを、してくれただけやん。おんなじように、マディはマディにしかでけへんこと、いっぱいしてくれてる。ごっちゃにして謝ったりするのは、筋が違うで」
 言葉の内容は厳しいものだったが、鈴のような声音がそれを優しく響かせる。
 セルフィの声はいつも不思議だと、聞きながらスコールはぼんやり思った。のんびりとした口調なのに、凛とした響きをいつでも帯びている。ハイトーンなのに、耳に心地よい。
「……どこにいてても、誰と一緒でも……マディがあたしの友達なんは、ずーっと変われへんねんからね?」
 だからこんな残酷な言葉さえ、あまりにも優しく響いて。
「…………あぁ、そうやな…………」
 そしてマディテスはこう答えるよりないのだと、スコールにもわかってしまった。
 きっとその言葉に陽溜りのような笑顔を見せているだろう少女と、彼を思って、スコールは知らず溜息をついた。


 結果として全部立ち聞きする羽目になってしまったスコールは、即座に部屋に入るのも何だか気が引けて、しばらく廊下で時間を潰すと、いつも通りの無表情でドアを開けて部屋に入った。
「あ~おかえり、遅かったね~」
 鈴の音のような声がすぐに迎え入れる。
 スコールは入口に立ち止まり、しばらく呆れたように部屋の内部を見つめて固まっていた。
「……なぁ、セルフィ」
「ん、なに~?」
「……なんでそれ、中身増えてるんだ?」
 中に入っていた各種イベントグッズは使用されているのだから、容量的には減っていなければおかしいはずなのに、セルフィが全体重を乗せて無理矢理閉めようとしているトランクはあきらかに容量オーバーで閉じる気配がない。
「う~ん……」
 ソファの上のトランクに完全に座ってしまいながら、セルフィは大真面目に首を傾げた。
「……なんでかなぁ~?」
「聞いてるのは俺だ……」
 溜息混じりに呟いて、スコールはそっと額に手を当てた。

***

 結局スコールがトランクの中を詰め直したところ、どうにかこうにかトランクは閉じた。
「……お前、荷物の整理なんてSeeDの基本中の基本だろう。今まで任務で一体何やってたんだ」
 説教しつつ濡れたセルフィの髪を乾かして、ついでにポニーテールに結んでやって、話に夢中になりやすいセルフィを叱りつけながら身支度を整えてようやく部屋を出るのに一時間近くかかった。……なんだか髪型の知識だけは着実に増えている気がする。
 最近世話の焼けるようになったな、などと思っているスコールは、ある程度は甘えないとスコール機嫌悪くしちゃうもんね~などと思っているセルフィの内心など、当然知るよしもない。孤児でSeeDのセルフィは、もちろんスコールがいなければ全部自分で手早く何でもこなしてしまうに決まっているのだ。
「じゃ、行こっか~」
 忘れ物がないかを確認し、にっこりと笑ってセルフィが部屋のドアを開けた。


「セルフィ、これ」
 見送りには全員が校舎の外まで出てくれた。
 ルウに呼び止められ、セルフィが振り返る。眼の前に差し出された箱を見て、きょとんと眼をまるくした。
「なに?」
 両手で持っていたトランクを、地面に下ろす。
 その間に、ルウは手にしていた箱の蓋を開けて、中が見えるようにセルフィに差し出した。
「……!」
 その中身を眼にした途端、セルフィが愕然と眼を見開いて息をのんだ。
 そこに入っていたのは。
「みんなでね、書いてんよ。ほら、帰省してしまうみんなは、セルフィに会われへんやろ? セルフィが来られへんようになったって聞いてどうしようかと思てたけど……よかった、ちゃんと渡せて」
 セルフィの動揺には気づかずに、微笑んでルウが説明をする。
 だがセルフィの眼は、箱の中のそれに釘付けになったまま、身動きひとつできなかった。
(どうして……)
 あれは夢だったはずなのに。
 なぜあの時一瞬見た、あの黄色いカードが眼の前にあるのだろう……!?
「ほんとはね、これ、リーナらのアイデアやったん」
「…………え……?」
 凍りついたように動かないセルフィが、呆然とした眼差しをゆるゆると上げてルウを見た。
 視線をまっすぐ合わせてルウは微笑む。
「私と、リーナらと……みんなでね、あんたの誕生日に、バラムにバースデーカード送らへんって話しててん。
 たぶんあんたはSeeDになったら、誕生日にもようトラビアに帰ってこられへんやろうから、せめてカードでもって。
 それにほら、あんた転校する時もえらい忙しいて、私らお餞別はあげれたけど、なんにもメッセージカードとかつけてなかったやろ? だからそれも含めて、って」
 唐突に転校手続きを取ってしまったセルフィに、送別会もままならず、それでもみんなでお金を出し合って、贈った物があのコロンだった。
「カードも買うて、みんなで何て書こうねって言い合っててん。……その時のカードは全部、燃えてしもたけど……でも今回セルフィが来るって聞いた時にね、セルフィはずっとここで頑張ってくれてたし、アイデア出したみんなはもういてないけど、そやけど今いるみんなで、おれへんようになってしもたみんなの分も、何かあげたいねって。セルフィはリーナ達を忘れてしもて、あのコロンもようつけらんままやけど……でもせめて、気持ちだけは届いたらええなって。
 そらもう、こ~んな状況やから、カードもあの時買うたもんより全然ショボいねんけど」
 ふふっと笑ったルウに、セルフィはただただ呆然と眼を見開いていた。
 今もセルフィが身につけているコロン。出発の日、みんなから贈ってもらったプレゼント。
 嬉しくて嬉しくて、だからこそもったいなくて、大事にしまっている内にトラビアが爆撃されて。結局セルフィが贈り物をきちんと身につけるだけの精神的余裕を取り戻すのには、一年という歳月が必要だった。
「そやけどこれで、ちゃんとリーナらの気持ちも教えてあげられたから……よかった」
 にこりと笑って、たくさんのカードの入った小さな箱をもう一度差し出して――ルウはそこで、思わず絶句した。
「……セルフィ?」
 言葉を失って立ちすくんでいるセルフィの大きな翠の瞳から、音もなく透明な雫がこぼれ落ちている。
 小刻みに華奢な肩を震わせて、食い入るようにルウの手元のカードを見つめて、静かに静かに泣いていた。
 その場にいる誰もが、呆然と息を詰めてセルフィを見つめていた。
 無理もない。なぜなら誰一人として、この少女が泣くところなど見たことはなかったのだから。
「…………」
 凍りついた空気の中、動いたのはスコールだった。
 セルフィの後ろでじっと事の成り行きを見ていた彼は、静かに少女のすぐ背後まで歩み寄ると、泣いている彼女の背を抱えるように両腕を伸ばし、小さな両手をそれぞれに取って、ルウの手にしていた小箱をそっと受け取った。
 セルフィの胸の前まで小箱を引き寄せて、ちゃんと彼女の手がそれを持ったことを確認して、そっと両の手を離す。
 それから一歩、彼女から離れるように後退して、そっと片手を伸ばすと、華奢な背中をとんと押した。
 触れたといった方が正しいような、ごく軽い力で。
「……っ」
 次の瞬間、セルフィの足が弾かれるように前に出て、小箱を片手に抱えたままぶつかるようにして、ルウの身体に少女がしがみついてきた。
「ごめんね……!」
 びっくりしたまま、ルウは自分より背の低い少女を抱きとめる。耳元で、涙まじりの声がした。
「もう……絶対、絶対、忘れへんから……今までごめん……ごめんね……」
 あの仲良しだった5人の内、生き残ったのはルウとセルフィだけだったのに。
 セルフィはルウと共有できる記憶のすべてを手放して、ルウだけを置き去りにしてしまったのだ。
 思い出をすべてなくしてしまったセルフィを、ルウは一体どんな思いで見ていたのだろう。
「……アホやなぁ……」
 くすりと、ルウは笑った。泣いているセルフィの背中をあやすように叩きながら。
「そんなん、気にせんでええねんて。私は、あの5人の内、セルフィだけでも生きててくれて嬉しかってんから。あんたが生きてて、私の友達でいてくれたら、それでもう充分やねんで」
「あたしもルウが大好きやよ。いつでも、どこにいてても……この先おばあちゃんになって死んでしもても、友達やよ」
 頷いて、セルフィが囁くようにそう告げると、涙でいっぱいの顔を少し上げて小さく笑った。
「それから、リーナらも」
「……うん」
 淡く微笑み返して、ルウはセルフィの頬を指先で軽く拭った。
 拭う端からまた新しい雫がこぼれ落ちて、セルフィが恥ずかしそうにえへへと笑う。
「あのね、夢を見てんわ。リーナらがカードをくれる夢」
「カード?」
「黄色いカードをもろたねん。そいで、ずっと傍にいてたよって、そう言うてたの。あたしの傍にも、ルウの傍にも、ずっとず~っと一緒にいてたよって。これからもずっと、ずっと一緒にいてるよって」
 それはただの偶然なのかもしれない。
 切ない願いが夢となって訪れた、それだけのことなのかもしれない。
 けれど。
「……ね、今度は一緒に、遊園地行こうね」
 にこりと笑って、セルフィは大事な大事な約束を口にする。
 夢の中、リーナ達と再度かわした、最後の約束を。
「リーナ達と……みんなで一緒に、絶対行こうね」
「……うん……」
「今度は絶対、絶対守るから。約束守るから……」
「うん……約束ね」
 瓦礫の下に埋もれてしまったはずのあの日の約束は、今もこんなに温かい。
 いつもそうしていたように額と額をくっつけ合って、くすくすと笑い合いながら、これで生きていけると、ふとルウは思った。
 自分達は、ちゃんと生きていける。哀しくても優しい記憶を共有して、優しい想いに見守られて。
 今度こそ本当に。ちゃんと、前へ。
「……大好きやで、セルフィ」
 幸せになってと続けようとして、そこでルウはちょっと言葉を切った。
 いたずらっぽく笑ってセルフィをまっすぐ見つめる。
 ルウやトラビアの誰もが愛した、きらきらした翠の瞳がルウを見つめ返していた。
「幸せになろうね」
 一度まばたきをしたセルフィが、陽の光に溶けそうな笑顔になってこくりと頷いた。
「……うん。絶対やで」
 きっと、この約束は必ず果たされるだろう。
 そう信じたいと、この時ルウは心から願った。

***

「……そうだ、これ」
 トラビアガーデンを後にして、雪道をざくざく音を立てて駅へと向かう道すがら、ふと思い出してスコールは服の隠しからモバイルを取りだし、足を止めて背後のセルフィを振り返った。
「え? ……あぁ」
 顔を上げ、モバイルを眼にしてセルフィが軽く肩をすくめる。見るまでもない、とでも言いたげなその様子に、スコールはちょっと眼を細めた。
「……ずいぶんメール溜まったみたいだな」
 表情を窺いながら画面を立ち上げる。そう? と興味なさそうにセルフィは呟いて、素知らぬ振りを決め込んでいる。こんな時のポーカーフェイスぶりは、スコールに負けず劣らず大した物だ。
 ほら、と示してやろうとして、自分宛のメールが何通か来ていることに気がついた。ずっとチェックする暇もなかったのだから仕方がない。返す前にとりあえず自分宛のは読んでしまおうとメールボックスを開き、ざっと中に眼を通したスコールは、思わずそのまま動きを止めた。
「スコール?」
 セルフィが顔をのぞきこんでくる。
「どうかした~? なんかトラブル?」
「いや……」
 スコールは首を横に振る。ついで唇に浮かんだのはかすかな苦笑だった。
「俺とあんたの休暇、4日まで勝手に延長されたらしい」
「え?」
 きょとんとセルフィが意味もわからず眼をまんまるにする。スコールはくすくすと笑い出してしまいながら言葉を続けた。
「キスティスからの新年プレゼントらしい」
「キスティが?」
 セルフィはびっくりしてますます眼をまるくする。確かにそんなことができるのは、SeeD統括でスケジュール管理責任者であるシュウか、キスティスくらいしかいないだろうが。
 セルフィがトラビアに行くという、その意味を正確に把握しているからこそのキスティスの配慮なのだろうが、セルフィはキスティスがどこまで自分のことを知っているのかをまだ知らずにいる。まずはそこから説明してやらないとならないかと思いながら、スコールはモバイルを閉じてコートのポケットに滑り落とした。
「……せっかくの休暇だ。存分に使わせてもらわないとな。……リクエストはあるか?」
 自分の荷物をひょいと持ちあげて歩き出す。後ろに続いて足を進めながら、う~んとセルフィが首をひねった。
「そうだな~そうだな~、どうしよう、そんないきなり言われても色々行きたいとこも食べたいものもたくさんだよ~!」
 難しい顔で本気で悩んでいる様子が、やたら可愛らしい。
 肩越しに振り返り眼を細めてそんな彼女を見つめていたスコールは、唐突にあることを思い出してぴたりと足を止めた。
「……忘れていた」
「……え?」
 真剣に休日の使い方を考えていたセルフィは、スコールにどんとぶつかって足を止め、きょとんと顔を上げた。
 スコールはセルフィを見下ろして、やや意地悪な微笑を浮かべる。綺麗な顔の彼がそれをやると、なかなか迫力があって、さすがのセルフィも内心少したじろいだ。
「確か、報酬は愛情三割増でキスだったな?」
「……え……」
 ぽかん、と間の抜けた顔で呟いて、たっぷり十秒経過してからぼぼぼぼ、とセルフィの顔が火を噴いた。
 そういえば、何やらハイテンションに任せてそんな約束をかわしたような……気がする。
 しかし何もこんな、だだっ広く寒いだけの雪原で持ち出さなくても良かろうに。
「……んも~、しょうがないなあ~」
 精一杯の虚勢で肩をすくめてみせて、セルフィはやけくそで手を伸ばすと、ぐい、とスコールの襟元を掴んで強引に自分の方へと引き寄せて、精悍な頬へと唇を押し当てた。
 ちゅっと可愛い音がして、セルフィは即座にスコールを突き放す。こういうことは、テンションの上がっている時でないととんでもなく恥ずかしい。
「もお、これでいい~!?」
 真っ赤になって顔をそむけてつっけんどんに言うと、唖然としたようにスコールはしばしセルフィの横顔を眺め、笑い出しそうになるのを無理矢理抑えこみ、呆れたように肩をすくめた。
「……お前、イフリートと俺に散々魔力使わせておいて、これか?」
 ぐっとセルフィが痛い所を突かれて沈黙した。
 そう、雪に濡れたあの壁を乾かすのに、セルフィが選んだ方法は、スコールがジャンクションしているG.F.を使うことで……雪原に召喚された挙句、無理矢理火力を抑えられてドライヤー代わりにされてしまったイフリートは恐らく今ごろは、大層機嫌を損ねているに違いない。もちろんそんなこと、只人でありながら才能に恵まれたこの青年の強大な魔力がなければ不可能なことで、彼にも少なからず負担は強いてしまったことは疑いがない。
 う~と小さく唸って、セルフィは顔をスコールの方へと戻した。
 さてどう出るかとばかり、スコールはポーカーフェイスでセルフィの動向を観察している。
(なんかもう絶対、絶対意地悪~……っ!)
 灰がかった群青の瞳を見上げて、セルフィはそんな確信を抱いてしまう。なんだかすごく、とっても悔しい。
 また襟元を掴んで引き寄せて、背伸びをした。
 潔癖な感じのする唇に、自分の唇を重ねていたのはほんの二秒。
「~~~おしまいっ!!」
 頭から湯気でも出るんじゃないか、と思いながら、セルフィはどんとスコールを突き飛ばし、がっとトランクを持って先へと歩き出す。一瞬呆気にとられたスコールが、次に我に返ってくっと吹き出し、肩を揺すって笑い出した。
「……おい、セルフィ」
 響きの良い低い声が、笑い混じりに名を呼んでくる。顔に血が集まって、熱くてどうしようもないセルフィは振り返らない。
 本格的に笑い出しながら、スコールはそんなセルフィの腕をひょいと掴む。掴んだ瞬間、ずるっと足下が滑った。
「うわっ!」
「えぇ!?」
 ぐいっと後ろに勢いよく引っ張られ、セルフィが素っ頓狂な悲鳴を上げる。いかなSeeDのセルフィといえど、さすがに雪の上でスコールに体重をかけられてしまえばどうしようもない。
「……っ!」
「きゃあ!」
 ぼすっ、という音がして、雪が舞った。
 パウダースノーなので舞い散る雪は幻想的に美しかったが……いかんせん、仰向けに転がっているセルフィにそれを鑑賞するゆとりなどかけらもなくて。
「……もおお~~!! 信じらんない~~~!!!」
 ひっくり返ったまま思い切り叫んだ声は、冷たい空気を伝わりやたら良く響き渡った。
 叫んでから腹筋の力で半身を起こし、振り返る。ちょうど身を起こしたスコールは、やっぱりまだ笑っていた。
「もお!! 超信じらんない、ホントに巻き添えにした~~!!」
 悔し紛れに雪をつかんで勢いよくぶちまけてやる。
「たッ……お前、そこでそう来るか?」
 細かい粉状の雪が眼に入りそうになり、慌てて顔をそむけながらスコールが呆れて笑う。
 まだ雪をぶちかまそうとしているセルフィの手に気づいて、腕を伸ばすと両手首をぐいと掴んだ。
「ぎゃっ」
 そのまま引っ張り寄せられて、スコールの胸の中に転がり込んでしまったセルフィが、色気のへったくれもない悲鳴をあげた。
「……も~、なんでスコールそんなハイテンションやの~!」
 真っ赤な顔で抗議するセルフィに、ちょっと眉を上げて答えてやる。
「さっきのあんたのがうつったんじゃないか?」
 しれっと言い切られ、セルフィは絶句してぱくぱくと唇を動かした。
(今ぐらいいいだろ?)
 くすっと笑って、スコールは内心でひとりごちる。
 心のどこかに引っかかっている棘のような不安など、今この瞬間だけは忘れてしまっても。
 せめて今だけ、壊さずに失わずにすんだ安堵感に浸ってしまっても。
「ス……」
 ふっと群青の瞳に甘さが宿るのを眼に留めて、セルフィがどきりと鼓動を高くした。
 反射的に眼を閉じてしまったから、口づけの深さは耳で知る。
「……もおぉ~」
 一度離れた唇に、拗ねたように声を上げると、スコールはいたずらっぽく笑って言った。
「幸せになると言ったのはセルフィだろ?」
「……ううぅ言いましたけど~!」
 恥ずかしいやら悔しいやらで拗ねまくっているセルフィに、スコールはまた笑って口づける。

 冷えた空気も冷たい雪も、もう気にならなくなっていた。