*H a p p i n e s s ..04*



 明け方まで続いたどんちゃん騒ぎで、さすがのトラビア生も朝早く起きてくる者は少なかった。
「あ……」
 なんとなく食堂に行く気にもなれず、外に出たアミ・カーシュアは、早朝トレーニングでもしていたのかガンブレードを肩に担いで校舎へと戻り来る青年の姿を認め、思わず眼を見開いて立ちすくんだ。
 アミに気づいた青年が、研ぎ澄まされた刃を思わせる群青の瞳を静かに向ける。視線が合った瞬間、アミの心臓が勢いよく跳ね飛んだ。
「……おはようございます」
 おずおずと頭を下げると、スコールは淡々とした調子で「あぁ」とだけ応える。
 数秒であっさりとアミに対する興味は失ったらしく、ふいと整った横顔を向けるスコールを、アミは顔を上げてじっと見つめた。
 黒のコートに均整の取れた長身を包んだその姿は、雪の中からまるで浮かび上がるようだ。
 なんとなく自分の脇をすり抜けて校舎に入ろうとするその姿を凝視し続けて、アミはふと声を上げていた。
「それ……」
 スコールが足を止める。
 再度こちらを向いたことで、アミの眼にきちんとそれは飛び込んできた。彼が肩に担いでいる武器――ガンブレードの柄につけられた、小さな銀のアクセサリー。
 セルフィのペンダントと同じ動物を象った、それ。
 ちりっとアミの中で、ここ数日彼女を悩ませ続けている不快な痛みが走った。
「セルフィと……おそろいなんですね」
 かろうじて微笑んだアミに、スコールは無表情のまますいと視線をアクセサリーに移し、また「あぁ」と小さく呟いた。
「元はあれも俺の物だからな。揃えたわけじゃない」
 そっけなく言って、ついと視線を横に流してしまう。
 それがどこかばつの悪そうな印象をアミに与え、彼女は少し驚きを覚えた。
(照れて……はるんやろか)
 表情自体に動きはまったくないのだが……なんとなく、そんな感じがする。
 急にアミの胸の中で、何かあたたかな物がふわりと広がった。何かとても大切な物を発見したような、そんな気持ちでいっぱいになる。
 頬が熱くなるのを自覚して、赤くなってはいないかと思わず両手でそっと包んで隠した。
「あ~! スコール帰ってきた~!」
 だが次の瞬間響いた声に、アミの中で灯っていた熱はいっきに冷めてしまった。
 子供達と両手をつないだセルフィが、ぴょんぴょんと玄関で飛び跳ねている。ざっくりとして少しだぼついている白いニットのワンピースが、妖精じみて可愛らしい。
「よ~し、行っくで~!」
 そのまま子供ごと体当たりをするように駆け寄ってきたセルフィに、さすがのスコールもびっくり顔で一歩後退した。
「……おい……!」
 きゃーっと子供達がはしゃいだ声を上げ、セルフィと一緒になってスコールにしがみつく。三方から飛びつかれてしまった日には、伝説のSeeDも形無しだ。
 きゃらきゃらと無邪気そのものの笑い声を立てて、セルフィはスコールの胸から顔を上げた。
「えっへへへ~、ほらスコールはんちょって、い~っつも子供に怖がられてばっかでしょ~? だから~、トラビアで子供と仲良くしてみよう運動なの~!」
 ほ~ら仲良くしてみて~と笑顔で促され、本気の本気で困惑した顔でスコールが溜息をつく。額に手を当てようにも、両手にそれぞれ子供がぶら下がっているので、どうにもならない。
「……あのな、セルフィ……」
「よ~しそれじゃ~、食堂まではんちょとお手々つないでゴー!」
 きゃーとまた子供達が歓声をあげる。数日間遠目でどきどきしながら眺めてばかりいた、超一級の美術品のように綺麗な人を食堂まで独占できると言われれば、子供達が喜ばないはずがない。
 両側からそんなきらきらした憧れの眼差しで見上げられ、まさか邪険に放り出すわけにもいかないスコールは、ぱくぱくと唇を動かして何かを言いかけ、結局あきらめてどっと溜息を再度ついた。その顔がおかしいと、セルフィはまた声を上げて笑う。
「……後で覚えてろよ」
「えへへへへ~、わっすれちゃうかもね~!」
 きゃらきゃらとご機嫌いっぱいに笑いながら楽しげに宣言し、軽やかにセルフィが歩き出す。そこでようやく、背後に立ちつくしたままのアミに気がつき、にこりと笑顔を向けた。
「あれ~? アミおっはよ~! 食堂行く~?」
 おはよう、とアミは穏やかに笑顔で答え、用があるからと静かに告げた。
 そう? とだけセルフィは笑顔で小首を傾げると、じゃあねと軽く手を振ってくるりと背を向ける。
 相変わらず子供をぶら下げたままのスコールの背中をぐいぐい押して、食堂に向かって歩き出すその姿は、本当に楽しそうで幸せそうだった。
「あっねぇねぇスコール、あとで髪むすんで髪~」
 はしゃいだ声でセルフィが無邪気に甘えてみせる。とたんにスコールの両側の少女たちが声を上げた。
「あ~! ユーリもむすぶ~」
「アイも~!」
「じゃ~みんなで、スコールに髪の毛結んでもらお~!」
「こら……!」
 慌てたようなスコールの声がよく聞こえた。低いのだが、ある意味将向きとでも言うのだろうか、スコールの声は通りがいい。
「……俺はセルフィの髪しかいじらない。お前達はセルフィにやってもらえ」
 えぇ~と子供達からブーイングが起こったが、スコールは素知らぬふりでぶら下がる子供を軽く持ち上げてごまかしている。きゃーと楽しげな悲鳴がブーイングに取って代わり、それを見てセルフィが軽やかに笑った。
 その光景を立ちすくんだまま見送っていたアミは、ずっと胸をちりちりと焦がしてきたこの痛みが何であるのかを、その時ようやく悟っていた。
 自覚しただけ、痛みが増した。

***

 そんなこんなで、ルウが食堂に入った時、膝上にハイリとその妹マールを甘えさせたまま椅子に腰掛けた小さな少女二人の髪を結んでやっているセルフィと、そのセルフィの髪の毛を無表情に淡々と結んでいるスコールという、意外を通り越して唖然とするしかないような光景が展開されていて、ルウは思わず入口に立ちつくしたまま、あんぐりと口を開けてしまっていた。
「で~、こっちをこう、でもって反対側をこう……でまたこっちがこう……」
 しかもセルフィは三つ編み実演指導の真っ最中らしい。無表情ながら生真面目にセルフィの手元をスコールが見つめ、おもむろにセルフィの髪で実践してみる。わ~うまいね~と脳天気にセルフィが手を叩いた。
 ちなみにスコールが黙ってセルフィの髪を結んでやってるのは、某図書委員長が実は手先が器用で時々髪を結んでもらっていたのだと、何気なくセルフィが口にしたからだったりするのだが……真相はもちろん誰も知らない。
「……できたぞ」
 むっつりと不機嫌そうにスコールが手を放すと、ツインテールの三つ編みをぷるんと振って、セルフィがご機嫌に笑み崩れた。
「えへへへ~、やった~ありがと~!」
「暴れて転んで崩しても知らないからな」
 怜悧な美貌に皮肉げな笑みを浮かべてスコールが水を差す。ぷうっと即座にセルフィが頬をふくらませた。
「ぶ~。あたしはそ~んな子供じゃないです~!」
「……子供じゃないなら、そんな頬をふくらませたりするんじゃない」
 片手で両頬を荒っぽくつかむようにして、空気をぼしゅんと抜いてスコールが笑う。その頬を潰した顔がおもしろいと、セルフィの周囲にいる子供達がきゃっきゃっと声を上げて笑った。
 なんだ、こんなのが面白いのかと、スコールは子供達によく見えるようにしてセルフィの頬をみよーんと伸ばしたり潰したりし始めて、子供達がますます声をあげて笑い転げる。セルフィがいやいやをするように首を振った。
「こら~! 人の顔で遊ぶな~! あんたたちも人の顔見て笑わないの~!!」
 一番セルフィの膝を占領していたマールをがばっと抱き上げて「コチョコチョの刑や~!」などと言いながらお腹をくすぐると、超音波のような甲高い笑い混じりの悲鳴が上がる。
 と思ったら突然スコールを振り向いて、抱いていたマールをスコールの膝上にどすんと乗せるなり、
「ほら! みんな今がチャ~ンス!」
 と叫んで、なんとスコールの頬に指を伸ばすと思い切りびよんと引っ張りはじめ、
「おい……うわ……っ!」
 血相を変えたスコールが逃げる間もなく、歓声を上げた子供達がいっせいにスコールに群がり始め、哀れにも端整な美貌は見るも無惨に形を変える羽目になってしまったのだった。
 一番面白がっているセルフィは、もはや子供とほとんど大差がない。というか、はっきり言って子供だ。
 なんだかひどい目に遭っているスコールに、周囲で眺めている十代の少女達も一斉に笑い出す。もちろんルウも声を上げて笑い出してしまっていた。
 どうやら近寄りがたい美貌のSeeD様のことを、子供達はどうお近づきになろうか狙っていたらしい。セルフィさえ味方につけてしまえば、眺め放題の触り放題だ。こうなると、伝説のSeeDも単なる子供のおもちゃである。
 バラムの旧友が見たら腰を抜かしそうな大騒ぎを静めたのは、食堂の入口をかがむようにして入ってきたマディテスの呆れたような声だった。
「あ~あ、伝説のSeeDも形無しやなぁ」
 男子生徒では一番の早起きだったらしい。泣く子も黙る生徒会長の声に、きゃあと声を上げて子供達がぱたぱたとスコールから降りて床に立った。
 なんとか子供達を引きはがそうと努力していたスコールは、よりにもよって初対面で嫌いになることにしたマディテスに、とんでもない醜態を見られたと知り、一瞬本気で死にたくなった。何もこんな時に来なくても良いだろうに……。
「あれ~マディ早起きだね~? おはよ~」
 騒ぎの元凶はけろりとした笑顔で、マディテスに手など振っている。
 よじ登っていたスコールの膝上から身軽く降りて、そのままひょこひょこと歩き出そうとしたセルフィの腕を、スコールは何気ない仕草で掴むとぐいと引き寄せ、自分の隣の椅子に座らせた。きょとんとするセルフィにかまわず、細い腕を放してぷいと横を向く。とりあえず座っていろと態度で示されてしまったので、再度立つのはやめておくことにする。
「……悪いねんけどスコール、ちょっと手伝ってもらえるか?」
 ふっと口元にかすかな笑みを浮かべ、マディテスが誘いかけた。
 ばつが悪く機嫌も悪いスコールは無視したい気分だったが、ここにいる以上はそうもいかない。今度は何を手伝わせる気だろうかと思いながら、無表情で視線だけマディテスに向ける。
 意外にも、眼光強い眼差しがまっすぐ返ってきた。
(……なんだ?)
 やや非好意的とも取れるそれに、スコールは無表情を維持したまま警戒モードにシフトする。
「かまわないが」
 そっけなく返答すると、じゃあ行こうやとマディテスがすぐに入口に身体を向けた。
「あ、あたしも何か手伝うよ~?」
 思いついたようにセルフィが声を上げたのは、彼女もまた、同じく何かを感じ取ったせいだろう。こういう他人の感情の機微には驚くほど聡い。
「あんたはここにいろ」
 だが、マディテスが振り返って何かを言うより早く、スコールが視線も向けずに静かに命じた。
 言葉を失う少女の不安が伝わってきて、二歩進んでからちらりと肩越しに振り返る。
「……食堂、片づけるだろ」
 視線が合うなりにこりと笑うその顔は、まったくもっていつもと変わらない。だが向けられる大きな瞳に、不安の色が透けて見えている。昨日の今日なのだから、当然とも言えた。
 なるべく傍にいてはやりたいが、仕方がない。ルウがいるなら大丈夫だろうと判断する。
 何かもう一言くらい言葉をかけてやろうかと思ったが、自分たち二人に食堂中の視線が集まっていることがどうにも気になって果たせなかった。仕方がないので手を伸ばし、ぐしゃりとやると髪型が崩れるのでぽんと手のひらで頭を押さえるようにして軽く撫でた。
「えへへ、行ってらっしゃ~い」
 膨大な不安を抱えていようと、やっぱりぴんと背筋を伸ばしたセルフィの有り様に変化はないらしい。凛とした眼差しを取り戻して笑顔で手を振るセルフィに背を向けながら、スコールはそんなことをふと思った。

***

 マディテスの先導に従って歩くこと数分、スコールは自分たちが向かう先がどこであるのかを徐々に悟り始め、形の良い眉をかすかにひそめて辺りを見回した。
 それは、今回トラビアに来てからはまだ一度も足を踏み入れていない場所だった。
「……ここやったら、あいつは絶対にけえへんからな」
 スコールのその戸惑いを察したように、マディテスが肩越しに振り返って小さく笑う。
 視線を受け止めて、スコールはその顔をかすかに厳しくした。


 ミサイル爆撃による被害者たちが眠っている、広大な墓地に彼らは立っていた。


「……さて」
 墓地の入口で立ち止まり、マディテスは身体ごとスコールに向き直って口を開いた。
「ルウから話は聞いた」
 ダウンジャケットの両ポケットに手を突っ込んで、淡々と告げる。
 もちろん、昨日セルフィが忘れているという三人の少女たちの話のことを指しているのは明白だった。
「結論から言うとく。……あいつに余計なことを思い出させんな」
 スコールは微動だにせず、静かにその言葉を受け止めた。マディテスの砂色の瞳が自分を観察しているのを感じながら、広がる墓地に視線を向ける。一年半前に来た時より、そこは規模を増していた。
「仮にあいつがそれを望んだとしてもや。思い出さんでええことは、思い出さへんようにしたるべきや」
 ぐるりと墓地を見渡してから、スコールはゆっくり視線をマディテスに戻し、それからその視線を足下に落とした。
 一体この地で、彼女はあの大きな瞳に、どれほど多くの残酷な場面を映したのだろう。そんなことを思った。
 ここにいる、誰よりも多く。誰よりも近い場所から、きっとあのまっすぐな視線をそのままに、どんな光景も見続けてきたのだろう。
 その結果があの記憶の欠落だ。
 スコールには今、こうして自分に釘を刺すような真似までしてセルフィの記憶をそのままにしようとする、マディテスの真意がよく見えていた。
(罪悪感だ)
 嫌な部分を見たくなくて、何もかもをあの華奢な両肩に押し被せた自分たちに対する罪悪感を、なんとか払拭したくてセルフィを守ろうとしている。
「……なぜ、そう思うんだ?」
 わかりきった問いを、無表情で傲然と問いかける。マディテスにはスコールの真意など読みとれるはずもない。
 案の定、砂色の瞳を険しくして、マディテスがスコールのすぐ眼の前まで歩み寄ると間近く顔をのぞきこんだ。
「お前こそなんで分からんねん? 今のままで、あいつは充分幸せなんやろ。そやのに今さら辛いことを思い出して、わざわざ苦しむ必要がどこにあんねん?」
「幸せ?」
 ふいにスコールは唇に苦い笑みが浮かぶのを自覚した。
「笑顔でいてくれれば幸せだと言いたいのか?」
 陽溜りそのものの、見ている者すら笑顔にしてしまうような、あの笑顔を浮かべている限り幸せだと。
 なんの疑問もなくそう思い込める青年に、スコールはその時同情すら覚えていたのかも知れない。
(……同じなんだな)
 胸をよぎるのはかすかな苦い思いだった。
 この青年は、一年半前の自分たちと同じだった。彼女のすぐ傍で、彼女の傷から眼をそらしていた自分たちと。
 何も変わらない――
「結局……甘えているだけだろう」
 ふいと顔を横向ける。あの日、すぐそこでしゃがみこんで、それでも笑顔であり続けた華奢な背中を思い出す。
「笑ってほしいと願えば、笑ってくれる。励ましてほしい時には、励ましてくれる……そんなふうに」
 いつだってそうだった。どんな時も、誰に対しても、自分に向けられた期待を確実に果たすのがあの少女だった。
 そして勝手に自分たちは励まされ、和まされ、安心する。
「そんなふうに、許容してくれる……あの笑顔に、甘えてるだけだ。……俺も、あんたたちも」
 当たり前のように、いつでも笑ってくれているから。
 抱えたものを欠片も見せずに、幸せそうに笑ってくれるから。
 だから身勝手に願いたくなる。信じてしまいたくなる。――それが本当に、真実のものだと。
「俺には……もう……そんなふうには、多分、できない……」
 なぜならもう、スコールは知ってしまったのだ。
 あの笑顔の裏側を。セルフィがひとりで溜め込んだ涙を。
「エゴやとでも言うんか。……俺らが、守ろうとしてんのが?」
 表情を厳しくしてマディテスが呟くように言う。スコールはゆっくりと、視線を彼に向けた。
 エゴなのだろう、と心の中で静かに答える。
 あの笑顔に救われていたくて、あの笑顔を失いたくないと願うその気持ちは、間違いなくエゴだろう。
 けれど、それだけでもないことはスコールにもわかる。笑顔であってほしいと、幸せであってほしいと彼女のために願った気持ちもまた、確かにそこには存在していて。
「……幸せを願う気持ちに、嘘はないんだろう。――泣いてほしくないと、思う気持ちが、エゴだけだとは思わない」
 端的に答え、スコールは視線を伏せた。
 スコールだって、何も泣いてほしい訳でも泣かせたい訳でもない。
「そんなら!」
 ぐい、とスコールの肩をつかんでマディテスが声を荒げた。
 スコールの数少ない言葉の真意をうまく読みとれずに、どこか苛立った眼差しがスコールのそれと空中でぶつかり火花を散らす。
「これがエゴでもエゴでなかっても、それでもあいつがちゃんと笑えてるのは確かやろ! それをそのまま、笑えるようになったまんまでいさしたりたいだけやないか、何が不満やねん!?」
「俺は無理に笑ってる顔なんて見たくない」
 肩をつかまれたまま、静かにスコールが言い放った。マディテスが一瞬、虚を突かれたように眼を見開いた。
 泣かせたい訳ではない。泣いてほしい訳でもない。
 ただ、ちゃんと心から、幸せに笑っていてほしいだけ。
 泣かせたい訳ではないけれど、泣いている顔なんて見たくもないけれど、ちゃんと泣くことでまた心から笑うことができるなら、涙なんていくらでも受け止める。――少なくとも、その覚悟はある。
「お前……」
 眉をひそめて、マディテスはスコールの肩から手を外すと、ふいと横を向いて沈黙した。

***

 しゃり、と音と共に薄く剥かれた皮がボウルに落ちる。
「ごめんなぁ、皮むき器少なくて……」
 ルウが謝ると、セルフィは顔を上げてにっこりと首を振った。
「だいじょぶやよ~心配ないない!」
「そーとちごて。あんたがいつ指切るか、心配でたまらんわ」
「あっなにそれ~!」
 手にした包丁を握りしめて、セルフィが憤然と頬をふくらませた。
 彼女達は本日の食事当番。現在は大量の野菜の皮むきの真っ最中だ。
 厨房で黙々とやっていると息が詰まるので、隣室の窓際まで移動し外の景色を見ながら作業をしている。
「包丁マスター・セフィちゃんの実力を知らんな~!?」
「……や、あんたが上手いのは知ってるけど、大雑把なんやもん」
 手先はそこそこ器用なのだが、とにかくムラっ気が多すぎてかつ大雑把なせいで、注意力がよそに向けば指の皮まで剥いてしまうし、小口切りをさせても乱切りになったりする。さらに作業中に喋らせると、包丁を景気よく振り回すなんてことも日常茶飯事。
「あ~それねぇ、スコールにもよう言われる~。俺を殺す気か~って」
 野営中など、セルフィが包丁を握るたびに。
 あはははと苦笑しながら打ち明けられ、そりゃそうだろうとルウは肩をすくめた。パトロールして帰ってきて、わ~いおかえり~などとはしゃがれ包丁振り回して飛びつかれたら、伝説のSeeDだって血が冷えることだろう。
「それそうと、どっちが告ったん?」
 がしゃん。
 唐突なルウの一言に、セルフィの手から野菜がゴロンと転がりボウルの縁に跳ねて中に入っていた皮が勢いよく飛び散った。
「あ……わあ!」
 突然の惨状に、セルフィがびっくりして声を上げる。呆れたような顔でルウはわたわたと片づけているセルフィを眺めて息をついた。
「何慌ててん、別に大したこと聞いてないやん」
 いい加減危なっかしいのでセルフィの手から包丁を取り上げ、自分の使っていた皮むき器を代わりに握らせると、で、とおもむろに顔を近づける。
「どっちなん、なあ教えてよ」
「…………そんなん聞いてど~すんのよう…………」
 恨めしげに上目遣いで睨むセルフィに、ルウはうふふふと含み笑いをしてみせた。
「そやかって、よりにもよってあんたが彼氏作るなんて、意外すぎて想像つかへんねんもん。……で、どうなん、どっちなん。構へんやん私しかいてないんやから」
 うううう、とセルフィは喉の奥で悔しそうに唸った。常なら根ほり葉ほり他人の話を聞いて面白がるのはセルフィの方なのだ。これはとっても悔しい。
 だがしかし。食堂のど真ん中であれこれ聞かれるくらいなら、ルウひとりに詮索される方がまだマシなのかもしれないとも思い直す。今ここにいるガーデン生の中では、このルウが一番気心の知れた友人だ。
「…………あたし」
 がしがしがしと景気よく、実まで削り出すような勢いで手を動かしながら、セルフィがぼそりと答えを口にした。
 あらあらとルウはますます眼をまるくする。あの彼氏が自分から告白するようには確かに見えなかったが、このセルフィが自分から言うタイプとも思えなかった。
「へぇ、ホンマに? あんたから? 何て言うたのよ?」
「もお! ええやんそんなん~!! ふっつ~に好きって言うたら好きって言うてもろただけやねんから~!!」
 さらにあれこれ訊ねようとしたルウの言葉に押し被せるようにして、セルフィが真っ赤になって大声を上げた。
 手の中の野菜はどんどん削られて、元の2/3程度の大きさになってしまっている。
 ルウは遠慮なく爆笑した。
「あぁもうむちゃ笑えるわ……ねぇちょっとふくれんでもええやん、構へんやん教えてくれたって。ねぇどこが好きになったん?」
「そんなん言えるかアホ――!!!」
 すでに半分ほどの大きさになった野菜を、セルフィが真っ赤な顔でルウに投げつけた。
 ノーコン気味に投げつけられたそれを軽くキャッチし、ルウはますます笑い転げる。反応が面白すぎて仕方がない。
 ぷんぷんふくれて怒り出しながら、セルフィはルウにぷいと背を向けると、新しい野菜に手を伸ばし、また乱暴にがすがすと皮を剥き始めた。
 その野菜の皮が剥き終わるまで二人は何も話さず、しゃりしゃりという音だけが部屋に響く。
 剥き終えたそれを、セルフィが網ボウルに放り込んだ時、ふいにルウが口を開いた。
「……ええ人やないの?」
 ぴたり、とセルフィの手が止まった。
 視線を向けたが、ルウは器用にくるくると皮を剥いている自分の手元に視線を落としたまま、こちらを見ようとはしていなかった。
「最初は、な~んでセルフィ、こんな面白みのなさそうな人選んだんかなって思てたけど」
 言ってルウはそこでようやく眼を上げて、くすっとおかしそうに笑った。
「面クイとは思てたけどね。あんたって、自分より強くて話が合うてノリのええ相手を選ぶタイプと思てたから、あんな何もしゃべれへんような人となんか、一緒にいてられんのかなぁって思たよ」
 じわりと頬を紅潮させて、セルフィはふいとまた顔を横向けた。
 新しい野菜をまたひとつ手にとって、しばらく無言でそれを膝上で弄ぶ。
 ふいに、唇に苦笑が浮かんだ。
「……そうやね、確かにあんまり喋る人とちゃうかもね~」
 誰から見てもそうとわかるものだと、セルフィは何だかおかしくなる。
 自分だって、ガーデンで会った当初は、なんだか無口で無表情な奴だと思ったものだった。
「でも……伝わるから」
「伝わる?」
 うん、と頷いてセルフィはルウに視線を向けると、えへへと笑った。
「ホントはね~、わかりやすいんやよ、スコールは。よう見てると、何考えてるんか、けっこうわかるよ。で~、触ってみたらもっとわかるねんよ」
 指先が、ほんのかすかに触れただけでも伝わってくる。
 あの冷たい無表情の下にたくさん隠された、熱いくらいの優しい気持ちが。
「……あたしが泣いてる時にもね」
 眼を伏せて、淡く微笑してセルフィは言葉を続けた。
「泣くな~とか、笑え~とか、そういうことは言わへんねんよ~。黙~って待っててくれるだけやねんけど~、でもなんか、伝わってくるねん」
 いつだって、待っていてくれる。ただ黙って抱きしめて、涙が止まるまで。笑顔を強要することもなく。
 ふわふわと微笑んでいるセルフィを眺めて、ルウは驚きのあまり言葉を失っていた。
 だって、ルウは、セルフィが泣くところなど、一度も見たことなんてなかったから。
 どんな時も、何があっても、この少女は絶対に人に涙を見せるような人間ではなかったはずなのだ。
(……泣けるようになったんやね)
 心にすとんと落ちてくるように、ルウはそれを認識した。
 泣かなかったのではなく、泣けなかった彼女はちゃんと泣けるようになって、だからこそ失った記憶を取り戻すために今ここにいるのだと、そのことがはっきりと理解できた。
「なんやかんや言うて、結局ノロケてんねんから……ごちそうさまでした」
「なんやのそれ~! もお、ルウが言えて言うたのに~!?」
 かっと耳まで赤くなって、セルフィは大声を上げた。
 その様子に、ルウはますますおかしそうに声を上げて笑う。
「はいはい、もう、スコールさんは果報者やねぇ」
「そんなことないってば……!」
 むきになって言い募り、セルフィは手にした野菜をぶんと振り回した。


「……ホンマ、も~全然あかんねん、あたし」
 何気なく食堂隣室の前を通りかかった時、ふと中から聞こえてきた声に、アミは立ち止まった。
 少し開いたドアの隙間から聞こえるのは、セルフィの声。
「あかん、てなにが?」
 応えているのはルウの声だ。アミは思わずそっと、ドアの隙間から中をうかがった。
 窓際に据えたテーブルにボウルを並べて、大量の野菜の皮むきをしているセルフィとルウが見える。
「な~んかね、頼ってばっかりやねん、あたし。スコールはあたしより全然おっきいから、あたしは寄っかかってばっかりの甘えてばっかりで、あたしからはな~んにもしたげれてないな~って思て」
 しゃりしゃり、と軽快に皮を剥いていきながら、セルフィがちょっと吐息をついた。
「あ~あ、あたし、自分はも~っと、強いと思てたんやけどな~」
「…………」
 ルウが包丁を動かす手を止めて、少し複雑な顔をした。
 えへへとセルフィがそんなルウに照れたように笑い、ひょいと無邪気な仕草で肩をすくめる。
 それから膝上の野菜に視線を落として、もう一度かすかに微笑んだ。
「あたしね~、スコールには絶対ぜ~ったいハッピーになってほしいねん。も~、スコールが世界でいっちばんハッピーなのがいいねん。それが目標やから。……そやから、今のあたしにめいっぱい気を遣てるスコールは、ちょっと不本意やな~」
 うん、とひとつ頷いて、セルフィはまたルウに顔を上げてにっこりと笑った。
 昔から少しも変わらない、けれどどこか不思議な毅さを思わせる笑顔だった。
「えへへ、スコールには内緒な」
 ルウは少し眼を見はっていて、しばらくして淡く微笑むと小さく頷いた。
「……スコールさんがハッピーやったら、セルフィもハッピー?」
 セルフィは笑顔のまま、ふるりと首を横に振った。
「あたしは今でじゅ~ぶん、ハッピーやもん」
 くすっとルウは苦笑し、あ~そうごちそうさま、とまた肩をすくめる。
 アミは胸がちくりとするのを覚えながら、ルウから視線をふいと外したセルフィの表情に眼を奪われていた。
「昔ね~、あたしの知ってる人が、すんごくハッピーな時に言ってたんやて。眼が覚めて、何もかもなくなってたらどうしようって」
 少し懐かしそうな、遠い遠い眼差しで。
「眼が覚めても、この部屋のこのベッドで起きられますようにって。……その時はあたし、そう言うてるその人の気持ちがわかれへんかったんだけど、今なら何かわかるんや~」
 野菜を膝上に置いて、左手が胸元のペンダントにそっと触れる。
 そんな仕草が、またアミの胸を刺した。
「セルフィ?」
 気遣わしげにルウがそっと呼ぶと、セルフィは視線をペンダントに落としたままふわりと笑った。
「絶対叶えへんって、思てたことが叶ってしまうとね~、これが夢やったらど~しようって、そう思てしまうんやよね~。
 全部夢やったらど~しよう、夢から醒めてしもたらど~しようって。
 ……そやからあたし、みんなと話ししててもズレてしまうんやよね。そやからキールにも逃げられてまうんやろうな~」
 えへへとルウに視線を向けると、セルフィは肩をすくめて苦笑した。
 ルウはそんなセルフィを見つめたまま、さすがにしばらくの間絶句しているようだった。
 ――――このトラビアガーデンの生徒たちは皆、すべてが夢であってほしかったと、今も思っているのだから。
(でもセルフィにはそうと違う)
 アミの胸をきりきりと嫌な感情が締めつける。
(仮に全部を夢にしてくれる魔法があったかて、セルフィはそれを選ばへん……?)
 忘却することで前へと進んだ彼女なら、それもあり得る選択なのかもしれない。
 アミの中に瞬間浮かんだのは、紛れもない怒りだった。
「……どうやろね、私もきっとおんなじやよ」
 細い吐息を吐き出すように、ルウが囁いた。
「私がもし、この先叶わへん恋が叶ったりしたら……やっぱり夢じゃありませんようにって、祈ると思うもん」
 ルウの青緑の瞳を、まっすぐ見つめていたセルフィが、それを聞いて小さく微笑むと、皮むき器を片手に持ったまま思い切り伸びをして大きく息をついた。
「あ~あ、あたし、恋なんかしたなかったのにな~」
「……なんやのもう、いきなり」
 呆れたようなルウの言葉に、セルフィは椅子の背もたれに仰け反ったまま、くすくすと笑う。
「だ~って、絶対あたし、恋なんかしたら恋でいっぱいいっぱいになってまうってわかってたもん。今までは、自分がど~したらハッピーになれるか考えてたのに、絶対好きな人のハッピーばっかり考えるようになってしまうて、わかってたもん。そやからあたし、恋なんか絶対せえへんで、み~んなでワイワイして自分がハッピーでいてようって思てたのにな~」
 あ~あ、とセルフィはもう一度息をつくと、よいしょと身を起こして座り直した。
「……恋って、こわいね」
 くすっと大人びた微笑を浮かべてセルフィが呟いた言葉に、ルウはかすかな苦笑を浮かべて小さく頷いた。
「……ええんちゃうの? そうやってセルフィがスコールさんのこと目一杯考えてるから、スコールさんかてセルフィのこと、目一杯考えてるんやろ。要するにバランスやん」
 たとえばそれがポイントを外してしまったり、バランスが崩れてしまった時が、本当の恋の怖さだとルウは思う。――だが今はそれを口にする必要を感じなかった。
「バランスかぁ……」
 数秒間の沈黙。
 やがてセルフィは強い笑顔になってひとつ頷いた。
「ほんなら~、あたしが今いっぱい考えてるだけと違て~、ホントにちゃ~んと、スコールに何かできるようになったら、バランスばっちりオッケーやよね!」
 大きな翠の瞳をきらきらさせて、まるで何かとびきりのいたずらを考えている時の子供のような笑顔で。
「そんなふうに、なれるんかな~? スコールのために、何かできるようなあたしに。なれると思う?」
 くすくすと、そんなセルフィにルウが笑った。
「あんたがなりたいと思ったもんに、なられへんかったことなんてないやん? 絶対大丈夫やって」
「ほんと?」
 にこにことセルフィが嬉しそうに笑い、そうだといいな~と夢見るように呟いた。
 そうしてしばらく沈黙し、二人ともしゃりしゃりと野菜の皮むきを継続していたが、やがてセルフィがひょいと身を乗り出すようにしてルウの顔をのぞき込んだ。
「そやそや! ねぇねぇルウ、ど~なんそいでマディとは? 進展あった?」
「……えっ!?」
 あまりに唐突な質問に、ルウがぎょっとして包丁を取り落としそうになる。セルフィは眼をきらきら輝かせてさらに身を乗り出した。
「えとちゃうやろ~! あたしかっていっぱい話してんから、ルウかて聞かせてよ! ねぇねぇどうなんどうなん、上手いこといきそう?」
「ちょ、ちょっと待っ……」
「待~た~れ~へ~ん~!! も~絶対聞かせてもらうからね、お返しやねんから~!」
 古今東西、少女たちの恋話はネタの尽きることがない。
 あれこれ聞き出そうと躍起になっているセルフィの無邪気な声を聞きながら、アミはどうしても部屋に入ることができないまま、石のようにその場に立ちつくしていた。

***

「キールって奴がおる」
 墓場に眼を向けたままぽつんと呟くマディテスの背を、スコールは無言で見つめた。
「トラビアの、学園祭実行委員長や」
 冷たい風が吹き抜けて、マディテスの赤銅色の長い髪を吹き流していった。
「セルフィが一番会おうと思って来たのは、たぶんこいつや。セルフィとの約束で仕方なしに合同学園祭に承諾したかて、あいつはバラムガーデンもガルバディアも、未だに許してへんからな」
「……約束?」
 マディテスは肩越しにスコールを振り返った。
「セルフィが転校する前に、学祭委員長のキールと話ししてたんやと。自分がバラムに行ったら学祭実行委員に立候補するから、一緒に学祭やろうって」
 そこでマディテスは小さく苦笑して、肩をすくめた。
「もちろん冗談やったんや。すやけど、トラビアがこんなことになってしもて、学祭どころちゃうようになって……それでセルフィの奴が、冗談まじりの約束を持ち出して合同学祭を申し込んできたてわけや。キールはセルフィには弱いから、そう言われたら断られへん。
 けども、キールは大事な奴をあのミサイルで喪った。そやからあいつはまだ、許してない。魔女の支配を許したガルバディアも、戦犯を保護してるバラムガーデンも」
 どきりと、一瞬鼓動が跳ね上がった。
 表面上はあくまでも無表情を保ちながら、全身を緊張させるスコールの様子を、マディテスはじっと無言で観察するように見つめている。
(……サイファー、か)
 あの魔女戦争が終結した後、ガルバディア軍を統べた青年に対し、非難の声が上がらなかったわけではない。
 だが、彼がまだ未成年であったこと、魔女に利用されていたことが明らかであること、などの事情を考慮され、結局刑罰のひとつも受けることなく、彼は元通り、バラムガーデンに籍を置くことになった。
 もちろんバラムガーデン内での軍法会議にかけられて、それなりの処罰も受けたわけだが、今となっては普通に自由の身となって――さすがに自由意志で卒業はできないし進路希望もろくに通りはしないだろうが――学生生活を満喫している。すべてを奪われたトラビアガーデン生にしてみれば、こんな納得のいかない話もないだろう。
 もちろん、あの時ミサイルが飛んでしまった原因のすべてが、サイファーひとりにあったわけではないことを、事件に関係しているスコール達は知っている。だがトラビア生達はそれを知る立場にいない。結果として、ちょうどいい場所にちょうどいい形で、格好の悪者としてサイファーの存在があったために、彼らの憎悪はガルバディア政府と等しく彼にも向けられることになってしまっていた。
「言うとくけどな、俺かておんなじ気持ちがないとは言わん。言うてもしゃあないてわかってるから、言わへんだけや。
 俺はずっとキール達を説得し続けてるけども、それかてお前らのためとちゃう。
 全部セルフィのためや。あいつがそれを望んでるから」
 砂色の瞳が痛いほど真摯にスコールを見すえ、スコールはかすかに瞠目した。
 これまで一度も見せたことのなかった、他の少年達と同じく胸に秘めていた熱情が、はっきりそこに現れていた。
「あいつがバラムにおりたいて言うんやったら、俺はバラムと友好かて結ぶ。忘れることであいつがおんなじように笑うんやったら、作り物の記憶かって守ってみせる。あいつを泣かす奴は絶対に許さへん。
 ……仮にエゴやて言われたかて、これだけは譲れへん……!」
 スコールは、静かに眼を伏せた。
 立脚する場所があまりに違いすぎて、これ以上話しても歩み寄ることは到底不可能であるような気がした。
「見解の相違だな」
 低い声で静かに呟く。
 どちらも願うのはただひとりの幸福だけなのに、どうしてこうなってしまうのだろうと、それだけを思った。
「俺の方針は変わらない。――最優先はセルフィの意志だ。それはこちらも譲れないな」
「……あいつが傷つく結果になってもか」
「あいつは傷ついて立てなくなるような女じゃないだろう」
 恐ろしく冷たい声ですらりと言ってのけたスコールに、マディテスは数秒間絶句したようだった。
 そんなマディテスに背を向けて、振り向きもせずにスコールはその場から歩き出した。

***

 いったんいつもの調子を取り戻してしまえば、セルフィは大はしゃぎの怒濤の勢いで、ルウにあれこれ質問を浴びせかけていた。
「まったくも~全然進展なしってなにやってたんよ~! も~ちょっとでマディ卒業してしまうやないの!」
 何を聞いても、セルフィがここにいた数ヶ月前とまったく状況が変わっていないことに、セルフィはぷんすかと怒り出す。自分のことを完全に棚上げしているあたり、ちゃっかりしている。
「しゃあないやん、それどころとちゃうかってんもん」
 形勢逆転され、ルウが拗ねた顔でがつんがつんと野菜をボウルに放り込んで立ち上がった。
「とりあえずこれやってくるから、あんたは残りの切っといて」
「あっ、逃げる気~!?」
「逃げるんちゃうわ~もー腹立つ~!!」
 真っ赤な顔で一喝し、ルウは山のようなボウルを抱えると大股でずんずか部屋から歩き去る。ちょうどタイミング良くドアを開けて入ってきたアミに、驚いたような顔をした。
「うわ、びっくりした~」
「……あ、ごめんなさい。こんなとこにおったん」
 眼鏡の奥の瞳を優しく細めて微笑んで、アミはセルフィとルウそれぞれに笑いかける。にこにこと邪気なくセルフィがそれに応えた。
「厨房に持っていくの? 手伝いましょか?」
 問いかけられ、ルウはふるりと首を振る。ひとりで持てない量ではない。
「どうせ手伝ってくれるんなら、あっち手伝ったって。ほっといたら全部乱切りにしてまいそうやわ」
「ちょっとそれどういう意味やの~」
「ほんまのことやん。じゃ、よろしく~」
 ふくれるセルフィにくすくす笑って、アミは部屋の中に入り、代わりにルウが部屋の外に出ていった。
 アミはまっすぐ窓際のセルフィに歩み寄り、ルウが座っていた椅子に腰を落とす。
「これを切っていったらいいの?」
「うん、切ったらこっちにいれて」
 にこりと笑顔で指示し、セルフィは包丁をやや乱雑にふるって野菜を刻んでいく。
 アミはひとつ野菜を手に取りながら、静かに口を開いた。
「……ねぇセルフィ」
「なに~?」
 乱切りというよりぶつ切りと呼ぶ方が正しいような勢いで、野菜を刻みながらセルフィが返事をする。
「ちょっと、無神経なんちゃうの?」
 がつ、と音を立てて包丁が止まった。
「……え?」
 かすかに当惑した眼差しで顔を上げる。アミはそれを感じながら、自分は顔を上げずに淡々と言葉を続けた。
「マディはあんたを好きやからルウのほう向けへんて、知らんことないんやろ?」
「……え……」
 言葉に隠しようもない棘を感じ、セルフィは完全に絶句して眼を見開いた。
 アミの声はセルフィの動揺など知らぬげに、冷たいほど淡々と響き続ける。
「知らへんかったんやったらもっと最低やわ。マディは何べんかて、あんたにそういう態度を取ってきてたんやから。あんたがルウをけしかけるのは、そういうマディをかわすためやと思てたけど」
「……そ……そんな、違うよ~!」
 混乱と困惑でパニックしそうになりながら、セルフィは必死で声を上げた。
 一体何をアミは言っているんだろう?
 マディテスがセルフィを好きだなんて、そんなの今まで一度も思わなかった。ルウだってそんな素振りは一度も――
「そういうルウの前で、露骨に幸せそうな顔するのはもっと残酷やわ」
 アミは少しも顔を上げようとしない。
 セルフィは途方に暮れたまま、なぜこんなことをアミが言い出すのか、その真意を探ろうと懸命になった。
「自分が幸せやったら、他の人も幸せやとでも思てんの?」
 少しだけ、ほんの少しだけ声が震えていた。
 注意深くアミの様子を探りながら、セルフィはそのことに気づき、かすかに眉をひそめる。
「ひとりだけバラムなんかで幸せになってるあんたが、なんで――」
 声を少し大きくして顔を上げたアミは、そこで気遣わしげなセルフィの瞳とまともにぶつかり、続く言葉をのみこんだ。
 傷ついた眼差しではなく、困惑ですらなく。
 少し哀しげな、けれどアミに対する気遣いをはっきり浮かべたその眼差しに、アミは愕然と凍りついた。
(私……)
 冥い気持ちで張り巡らせた虚勢がいっせいにはがれ落ちていく。
 セルフィは無言で、どこか痛ましげにそんなアミを見つめていた。
(傷つけようとした)
 たった今の自分の言動が何であったのか、その瞳を見た瞬間にはっきり悟る。
 自分は、傷つけようとしたのだ。トラビアと関わりなく幸せになってしまったこの少女の、その笑顔を。
 なのに彼女は一筋の傷も受けていない。こうして悲しそうに自分を哀れんでいるだけ。
「あ……」
 血の気が一斉に引くような気がした。自己嫌悪と羞恥で自分が世界で一番惨めになった気がした。
「……あ、アミ!」
 持っていた野菜を放り捨てて立ち上がったアミに、セルフィが驚いたように声を上げたが、振り返ることなんてもちろんできなかった。
 夢中で部屋を飛び出し、前も見ずに廊下を駆け抜ける。ふいにどっと肩が何かにぶつかり、驚いて顔を上げると、血相を変えている自分を不思議そうに見下ろす、灰がかった群青の瞳がすぐ傍にあった。
「!!」
 今一番会いたくなかった青年の姿に、アミは今度こそ追いつめられた気分になって、彼が何か言い出す前に床を蹴って走り出す。もちろん彼がアミを追ってくる筋合いなどないので、その気配はあっという間に遠くになった。
 ほとんど無我夢中で空き部屋に飛び込む。
 誰もいないその場所にドアを背にしてずるずる座り込み、荒い呼吸を噛み殺しきれないまま、アミは肩を震わせて泣きだした。

***

 物凄い勢いでぶつかりながら駆け去っていく、黒髪三つ編み少女の背中を、スコールはしばし唖然として見送り立ちつくしていた。
(なんだったんだ……?)
 ただごとではないその様子が、わずかに気にかかる。
 何かあったのだろうかとアミが来た方角を見て、スコールは少し眉をひそめた。
 こちらの方角は、記憶に間違いがなければ食堂の方だ。
 確か今日の食事当番は、ルウとセルフィだった。
 にわかに不安が胸の内をさざめいて、スコールは足早に廊下を走り、一つ目の角を曲がる。食堂のひとつ奥の部屋の前に、求める少女の姿がぽつんとあった。
「……セルフィ?」
 部屋から廊下に飛び出したまま、そこで立ちつくしてしまったといった風情の少女が、呼びかけに反応してかすかに肩を震わせた。
「スコール……」
 呆然としたような翠の双眸を震わせて、セルフィが呟くように名を呼んだ。いつものように笑顔を向けることもなく、蒼白な顔で立ちすくんでいる。
 確かに何かがあったことを察し、スコールはセルフィの前までなるべく落ち着いた足取りで近寄った。近づくにつれて視線を落としてしまった少女の顔をのぞき込む。
「何があった?」
 返答は、しばらくなかった。
 根気よくそのまま待ち続けるスコールの前で、セルフィは哀しそうな顔で静かに首を横に振り、それからゆるゆると手を伸ばすとスコールの人差し指に触れ、それをきゅっと握りしめる。
 きょとんとしたスコールに、まだ視線は伏せたまま、セルフィは淡く微笑んだ。
「……だいじょぶだから……しばらく、こうさせて……」
 全然大丈夫に見えないその様子に、スコールは少し困って、握られた自分の指に眼を落とした。
「なんでかな~……スコールに触れてると、なんか安心する」
 えへっとかすかに笑って、セルフィはようやく眼を上げてスコールを見た。
 何かにひどく動揺しているらしいことはわかる。それでも必死に気を張りつめているのもわかる。
 だがどうしてやればいいのかがわからない。
 困った顔のままスコールはセルフィの瞳を見返して、それから空いている手を小さな後頭部に回すと、少し強引に自分の胸に押しつけた。
「……だったら、もっとちゃんと触れていろ」
 頬を広い胸に埋めてしまったセルフィが、一瞬驚いたように身を硬くし、それからふるふると首を横に振ると、空いている手でぐいとスコールの胸を押して身体を離した。
 うつむいたまま、今にも泣きそうな顔でそれでも苦笑してみせる。
「も~、そんなことしたら、がんばれなくなっちゃうよ~」
「……我慢する必要なんてないだろ」
 ここには自分しかいないのだから。
 憮然としたスコールの声に、セルフィはちょっと眼を上げて、それからまたくすっと小さく苦笑し肩をすくめた。
「うん……そうだね」
 囁くように言って、でも、とスコールの指からするりと手を離す。
「もうだいじょぶだから、心配しないで。……マディはなんて?」
 いつもと変わらない笑顔を取り戻して、セルフィは小首を傾げて問いかけた。
 話題を変えようとする意思を感じ取り、思わずスコールは眉根を寄せたが、結局何も言えず小さく首を振った。
「……大した話じゃない」
「そう」
 短く頷いて、セルフィは一瞬だけ、ひどく辛そうな顔できゅっと唇を噛んだ。
 次の瞬間にはもう明るく笑って顔を上げる。
「よかった。ならいいんだ~」
 じゃあ、とあっさり言って部屋に入ろうとするセルフィに、慌てて声をかけようとした途端、遠くからはじけるような子供の声が上がった。
「あ、セルフィこんなとこにいてた~!」
 伸ばしかけた手が思わず空を掴み、体勢を崩しかけたスコールの前で、セルフィがひょいと頭をめぐらせる。
「マール? どうしたの~?」
 ばたばたと走り寄ってきた小さな少女をばふんと抱きとめて、セルフィはいつも通りににこにこ笑って後から来たハイリに眼を向けた。
「な~に?」
「あのね、あのね、昨日の飾り、もう捨ててしまう?」
 セルフィに抱きついたままマールが勢い込んで訊ねる。
 食堂の飾り付けのことだと気がついて、セルフィはちょっと小首を傾げた。
「なに~? とっときたいの~?」
「あのね、他のみんなのね、お出迎えに使いたいの!」
 他のみんな、というのが、今帰省してここにはいないトラビア生のことであることは一目瞭然だった。
 にこりとセルフィが瞳を優しくしてマールを見下ろす。
「じゃあ、食堂じゃなくて、玄関ホールの方飾ったらいいんじゃないかな~? あっちの方が一番に眼につくもんね~」
「うん! じゃあそうする!」
「あっちの方が広いから~、じゃあ明日は飾りもっと作って増やさないとだね~」
 きゃっきゃっとはしゃいで笑うマールの手を引いて、セルフィは今度こそスコールにじゃあねと微笑むと、ハイリも連れて作業をしていた部屋へと入っていってしまった。
 さすがにそれを引き留める訳にもいかず、間抜けにも見送ってしまったスコールは、誰もいなくなった廊下でひとり、しばし呆然と突っ立っていた。
(何やってるんだ俺?)
 間の抜けた自分の姿をしみじみ見下ろして、思わずひとりごちてしまう。
 なんだか無性に自分に対し、むかむかと怒りがこみ上げてきた。
「…………」
 ずんずんと大股で廊下を歩きだしてみたものの、むかむかはさっぱりおさまらない。
 大きく息をつき立ち止まって、スコールは苛立ち紛れに横の壁を思い切り拳で殴ってみた。
 がふん、という嫌な手応えがあった。
(………………あ)

 ちゃちなプレハブ校舎の壁に、拳大の穴があいていた。