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米軍機の攻撃で魚釣島に漂着「尖閣戦時遭難事件」
南西諸島でも終戦の日をまたぐ悲劇があった。やはり台湾への疎開民を乗せた2隻の船が空から米軍機の銃撃を受け、漂着した尖閣諸島の魚釣島で多くの人が飢えや病気で亡くなっている。攻撃があったのは昭和20年7月3日で終戦より前だが、疎開民が救出されたのは8月19日だった。銃撃と約50日にわたる飢餓地獄の犠牲者は80人とも100人以上ともいわれている。
壮絶を極めた沖縄本島での日米の組織的な戦闘は6月23日、日本軍の敗北で終わり、石垣島では米軍による空襲や艦砲射撃が激しくなっていた。女性と子ども、高齢者を台湾に疎開させるため、第一千早丸(友福丸)と第五千早丸(一心丸)が計180人(240人説も)の疎開民を乗せて石垣港を出港したのは6月30日夜のことだった。
米軍の攻撃を避けるため、2隻は尖閣諸島の近海を
飲料水しかない無人島の飢餓地獄
第一千早丸でも機銃掃射で多くの人が命を落とした。かろうじて沈没は免れ、沈没した第五千早丸の疎開民を可能な限り救出したが、エンジンを損傷し航行できない。
だが、むしろ悲劇はこれからだった。救援を呼ぶために石垣島に向け出発しようとしたが、船のエンジンが再び止まり、疎開民は救助を待つしかなくなった。魚釣島にはかつては
食用樹木のクバ(ビロウ)はもちろん、ネズミ、ヘビ、磯辺の小魚、ヤドカリなども食べ尽くされた。「小さなスズメの死骸を焼いて8人で分け合って食べた」「トカゲを捕まえると奪い合いになった」という証言もある。傷口からウジがわいた病人や、やせ細って髪の毛も抜けた子どもが次々と亡くなったが、岩根の島は穴も掘れず、離れた所に石を積み上げて弔うしかなかったという。
このままでは全員が死んでしまう。8月上旬、漂流民の中にいた船大工らが小さな帆船(サバニ)を作って救助を呼ぼうと計画した。陸軍兵と船員経験者ら9人の決死隊が編成され、12日夕に石垣島に向けて出発した。船には米軍機の機銃掃射で船に穴が開いた時に浸水を防ぐための止水栓も詰め込まれた。実際にサバニの上空には3度、米軍機が飛来したが、攻撃は受けなかった。決死隊は14日に石垣島にたどり着き、知らせを受けて救助船が生存者を救出したが、帰還後に急に食物を食べて亡くなった人もいた。
民間船の攻撃は戦時中でも国際法違反だが、米軍は昭和19年(1944年)8月に1484人が亡くなった学童疎開船の対馬丸をはじめ、20隻以上の民間船を攻撃している。米軍は南西諸島海域を「『丸』の死体置き場(Maru Morgue)」と呼び、食料補給を断つため、軍民を問わず攻撃の標的にした。
周辺の制海権を失っているにもかかわらず、島民の疎開を進めた大本営の計画も甘すぎた。疎開は義務ではなかったが、石垣島からの疎開は事実上の「軍命」で、希望者が少なかったにもかかわらず、尖閣遭難事件は24回目の疎開船だった。
なお供養されない遭難者
留萌沖の「三船殉難事件」では、泰東丸乗員の遺族が遺骨の捜索を求め、海上自衛隊が何度も海域を捜索した。船体は昭和58年(1983年)にようやく見つかり、遺骨の捜索も行われたが、いまだに遺骨は見つかっていない。ロシアはいまだに攻撃したのはソ連の潜水艦だったことを公式には認めておらず、遺族への謝罪もしていない。北海道占領ができなかった「腹いせ」に奪ったとされる北方領土は、現在も不法に占拠されたままだ。
魚釣島で遭難死した人の遺骨の多くも、いまだに無人の島に取り残されたままだ。昭和44年(1969年)には当時の石垣市長らが魚釣島に慰霊碑を建立し、2002年には石垣島にも慰霊碑が建てられたが、尖閣での慰霊祭は半世紀以上、実現していない。中国が尖閣諸島の領有権を主張していることに配慮して、日本政府が尖閣への上陸を認めていないためだ。
遺族会は、「活動家らが過激な行動をとり、紛争の火種になりかねない」と、魚釣島での慰霊にこだわらない姿勢だ。実際に12年には、超党派の議員が洋上で慰霊祭を行った後、政府の許可なく島に上陸し、中国政府が猛反発している。
北の海と南の無人島に眠る遺骨を回収できる日は来るのだろうか。早坂さんは著書のあとがきに、こう記している。
「大事なのは、先人たちへの鎮魂や哀悼の気持ちを穏やかに育んでいくことである。このような行為への共鳴なくして、『歴史を学ぶ』ということにはならない」
主要参考文献
早坂隆『大東亜戦争の事件簿――隠された昭和史の真実』(2021、育鵬社)
福士廣志『留萌沖三船遭難~終戦秘話~』(2020、留萌市教育委員会編)
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