悪しき力とそれに抗う人間讃歌…楽園を舞った神の子の羽生結弦の『カルミナ・ブラーナ』誰よりも運命に苛まれた道を辿りし「神の子」
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『羽生結弦 notte stellata 2024』で事件は起こった
見えない糸が見える。
試練の糸が。
抗えない糸が。
運命の、糸が。
細く長く、そのあまりに美しい四肢が操られる。
糸は見えないはず、それでも、見える。
羽生結弦だから、見える。
大地真央という巨星によって、羽生結弦という月が輝く。
羽生結弦という氷上芸術が、また輝く。
『羽生結弦 notte stellata 2024』で事件は起こった。
「カルミナだ!」
羽生結弦と大地真央の共演『カルミナ・ブラーナ』。
「カルミナだ!」
私は心の中で叫んだ。多くの羽生結弦と共にある人々も叫んだに違いない。フォルトゥーナ=運命の女神=天の女王(後述)となって現前する大地真央、そして無邪気に楽園を戯れる青年、羽生結弦。それはやがて運命の糸に弄ばれることとなる。
『カルミナ・ブラーナ』の主要部分のみ訳す
まず前提として『カルミナ・ブラーナ』の主要部分のみ訳す。
おお、フォルトゥーナよ
そなたの姿は移ろう
月の如く
満ち欠け繰り返す
いまいましき人生
時に苛み
時に癒やす
そなたは弄ぶばかり
窮乏も権勢も
氷の如く溶かす
恐ろしいほどに冷たく
虚しい運命
そなたは車輪の如く回転し
あることを悪に
よきことを虚に
常に溶かしてしまう
そなたは裏で私を弄び
苦難を与える
私は無防備のまま
そなたのままにある
精神の健全も
精神の美徳も
私から離れゆく
情熱も失意も
そなたの思うまま
さあ、いまこの時ぞ
時を置かず
弦をかき鳴らせ
強者であろうとも
運命は打ち据える故に
皆よ、私と共に嘆かん
※筆者訳
『カルミナ・ブラーナ』 は 悪しき力とそれに抗う人間讃歌である
もちろん氷上芸術としての、劇中プログラムとしての『カルミナ・ブラーナ』であるが、この抒情詩は読む人、詠む人、そして演者の人生をも反映してしまう。この拙訳から羽生結弦のこれまでの栄光と苦難、そして現在を善き心で感じとることもまた(悪しき憶測は禁忌だが)決して誤りではないように思う。
少し前置きとなるが『カルミナ・ブラーナ』と言っても南ドイツのカトリック・ベネディクト会ボイエルン修道院で見つかったとされる詩歌集の『カルミナ・ブラーナ』とカンタータとしての『カルミナ・ブラーナ』は分けて考えるべきだろう。原本となった『カルミナ・ブラーナ』は写本によれば二百数十編の詩歌で構成されている。
その中の一編がカール・オルフ作曲のカンタータ『カルミナ・ブラーナ』である。作品の成立そのものは11世紀から12世紀とされ、14世紀に現在の形になったとされる(諸説あり)。
実のところ『カルミナ・ブラーナ』は腐敗した聖職者、とくに権力を握るローマ教会に対する批判と風刺である。またそうした権力の外にある人間としての喜びを詠み上げている。時代背景を鑑みれば宗教の力が絶対であった時代、原本の発見そのものは19世紀で啓蒙主義の時代であり、この詩歌集は世俗にも受け入れられることとなった。つまるところ、悪しき力とそれに抗う人間讃歌である。また単に、自分がついてないとか、うまくいかないといった素朴な感情との親和性も支持される理由にあるだろう。
氷上でなく、私には花畑に見えた。そこは楽園だった。神の子の自由
さて、羽生結弦の『カルミナ・ブラーナ』である。
楽園を謳歌する青年を演じる羽生結弦は伸びやかに、しなやかに氷上を舞う。
いや、氷上でなく、私には花畑に見えた。まさしくそこは楽園だった。神の子の自由、羽生結弦が善き意味で何も考えず、その純粋な心のままにいられた時代。大好きなフィギュアスケートと家族、友人のことだけを考え、慈しむことのできた時代、つまり、羽生結弦が「天使」であったころの自由である。
誰しもそうした時代はあるだろう。思えばみな最初は神の子だった。お金なんかなくてもどこまでも行けると思っていたし、時は無限だった。100円玉1枚あればそれこそ「無敵」な気分になれた。気分が高揚する瞬間など、100円玉すらなくても無敵だったりもした。宮沢賢治の詩『告別』ではないが「それらのひとのどの人もまたどのひとも」それを大抵無くす。自分でそれをなくす。
それは「成長」として受け入れなければならない運命(それこそ「運命」)なのだが、羽生結弦もまた、いや誰よりもそうした運命に苛まれた道を辿ってきた。歴史的な栄光、時代の寵児、羽生結弦が偉大であるからこその運命と言うにはあまりに残酷な話だが、それでも羽生結弦は「天使」のままに、神の子のままに成長した。だからこそ、稀有な存在がゆえに人を惹きつける、悪をも惹きつける。
私が「カルミナだ!」と心で叫んだのは、まさしく『カルミナ・ブラーナ』が羽生結弦という存在を象徴するカンタータであると確信したから――いやずっと以前から、そうであったようにも思う。
神の子としての天使、純粋無垢な羽生結弦青年を弄ぶ
そして運命は突如、神の子としての天使、純粋無垢な羽生結弦青年を弄ぶ。人の悪意が運命に作用する。神は人の心の写し鏡である。社会が乱れれば神も乱れる。運命を司るフォルトゥーナはローマ神話の女神、転じて女神はカトリックにおいて「天の女王」(あるいは天后・イエスの母であるマリア崇拝につながる)と呼ばれる。
いま運命の女神=天の女王、その名に相応しき巨星、大地真央が神の子の運命に降臨する。
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