羽生結弦の死にものぐるいの汗を知っている私たちは、「可哀想な人々」のゴシップ程度では揺るがない

日野百草 ファンしか知らない羽生結弦

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一転して羽生結弦のない本となってしまった

 これまで様々なコンテンツに携わってきたメディア側のひとりとして、羽生結弦と共にある人々、ひいては羽生結弦とその時代のための一助となればと書いてきたが、今回もゴシップの形成とその事情について格好の事例があったため書いておこうと思う。

 多くの知る通り、2月6日発売の山と渓谷社『フィギュアスケート男子ファンブック Quadruple Axel 2024』は当初、これまでの既刊同様に羽生結弦を大々的に収録している、はずだった。

 しかし1月26日、山と渓谷社は「一部内容が当初の予定から変更となりました」としてキャンセル、返品を受けつけるとお詫びした。

 一転して羽生結弦のない本となってしまったわけだが、羽生結弦を期待したファンにとっては納得いかない結果となってしまった。

「報道の自由」として他者の検閲を原則、受けることなく報じる

 もちろん、お詫びした上でキャンセル、返品を受けつけるというわけで、山と渓谷社(私も「ヤマケイ」は愛読していた山岳雑誌である)を責めることはしない。同社は『羽生結弦の肖像 番記者が見た絶対王者の4000日』や『羽生結弦写真集 The Real 美しき練習着の勇姿』など、羽生結弦の本を出してきた実績もある。

 しかしこうした結果こそ、ゴシップメディアにとって格好の餌食となってしまう。

 それでは、なぜ掲載内容が変わってしまったのか。これについて山と渓谷社が詳しく説明することはないだろう。実際、個別には答えないと回答があった。

 それは私もよくわかる。読者には分かりづらいかもしれないが、報道(いわゆるマスコミ、便宜上使う)と、それ以外の本(これも便宜上、雑誌も含め「本」とする)では扱う対象へのアプローチやその掲載の可否は非常に異なってくる。両者は総じてメディアとされるが、まったく性質が異なる。

 たとえば報道各社で記事を作成する場合(とくに新聞)、それは「報道の自由」として他者の検閲を原則、受けることなく報じる。かつてTBSがオウム真理教に坂本弁護士の批判インタビューを放送前に見せてしまい、それをきっかけに坂本堤弁護士一家殺害事件が引き起こされてしまうが、これは言語道断の話であり、取材対象や利害関係にある双方いずれに対しても、決して検閲や校閲、校正の類いをもって原則、見せてはならない。

 もちろんケースバイケースなのだが、情報源の秘匿は絶対であり、報道倫理としてもありえない行為である。

ゴシップ誌のしぶといところは、この二者をうまく使い分ける

 しかしこれはマスコミというかジャーナリズム、報道の話であって、いわゆるエンタメなどの「他のコンテンツを使わせていただく立場」にある本となると違ってくる。

 たとえば私はアニメ誌やゲーム誌に長く携わってきたし、編集長として長年編んできた経験もあるが、むしろ出来上がった記事の校閲、校正をアニメやゲームの会社に見せるのは当たり前というか「むしろ見せないほうが言語道断」の行為だったりする。これはそのコンテンツで本の売り上げが左右する、いわばクライアントのようなもので当然の行為であり、「他人様のコンテンツでご飯を食べさせていただく」という前提が優先される。

 ジャーナリズムの側からすれば随分と卑屈な媒体のように思われるだろうが、これはファッション誌であれ、さまざまな娯楽・趣味の本であれ、同様のことが当たり前のように行われている。これはもう、同じ「媒体」といってもまるで違う媒体である、としか言いようがない。

 ゴシップ誌のなかなかしぶといところは、この二者をうまく使い分ける(とくに芸能)ところにある。「報道」という錦の御旗でゴシップを扱う。本来はエンタメで当事者に確認してもらわなければならない、他者コンテンツの利用記事であっても「報道」だとする。

まず羽生結弦はプロである

 勝手に「報道」だからと他者のコンテンツを勝手に使い、ましてそれを貶める媒体というのは私も出版各社で多く接してきた。私個人はそうした本を幸いにして直接扱うことがなく、むしろ被害者であったことは以前書いたが、同じ出版社でもこうしたことがおきる。オタク叩きをしながらオタク誌を出していたりする。

 これも以前書いたが、出版社は執筆者ならびに編集者の権限、編集部の権限が「思想良心の自由」「表現の自由」として建前上は認められているからである。だから文藝春秋社で言うなら『週刊文春』で貶めて、『Number』で持ち上げるといった、一般読者にはどうにも理解し難い結果をともなうケースがある。普通の会社は基本的な目的が一致して、それに従い社員は行動するが、新聞社や出版社は必ずしもそうではない、むしろ編集者、記者、ライターによる多様な(悪く言えば「アノミーな」)存在である。

 少し前提が長くなったが、今回の件を私が考えるにいくつかの理由があるとするなら、まず羽生結弦はプロである、という点にある。

これほど急なケースは私も経験ない

 本の出版にあたり、プロである羽生結弦サイドが仮に可否を出したとしても、それはまったく正当な行為である。

 羽生結弦は羽生結弦という存在とその興行でご飯を食べるプロである。たとえばプロ野球であれサッカーであれ、報道自体に許可はいらないが選手のファンブックや選手の特集、そして写真には基本的に何らかの許可が必要になるし、出来上がった元の記事(ゲラ)を見せて本人確認をとる。芸能人を扱うときには必ず事務所を通して本人の確認(本人が見ないで事務所自体で判断する場合もある)をとる。

 報道では原則しない行為だが、それ以外の「他人様のコンテンツを使わせていただく本」では当然の行為である。もちろん、本人がノーならノーだ。それはまったく問題ない。それに対してゴシップメディアが疑念を抱く必要はない。

 当のゴシップメディアの出版社だってアイドルの本やカレンダーを出すときはきっちり事務所(あるいは本人)に確認してもらっているし、ノーを突きつけられることもあるだろうに。そもそもどの出版社もこうした不測の事態で発売日の延期や内容の変更など日常茶飯事だ。

 もちろん今回の『フィギュアスケート男子ファンブック Quadruple Axel 2024』ほどに急なケースは私も経験ないが、その混乱は結局のところ、版元並びに編集部、編集者の責任である。責めるわけでなく、読者を失望させる結果となったこと、それはプロとして甘んじて受けなければならない。

羽生結弦ほどプロとして成功しているフィギュアスケーターは日本にいない

 ただ『フィギュアスケート男子ファンブック Quadruple Axel 2024』はそれまでもプロ転向後の羽生結弦を扱ってきたとはいえ、やはり基本的にはアマチュアの競技スケートを中心とした内容が中心だったように思う。当該本がそうだ、というわけではないが、「それまで扱えていたから」となあなあで進めてしまうことは私の監督下の本にもあった。やはり他人のコンテンツを扱わせていただく立場なので、きめ細かな確認作業とコミュニケーションが必要である。

 もっとも、羽生結弦ほどプロとして成功しているフィギュアスケーターは日本にいない。プロフィギュアスケートを扱うという文化に日本のメディアが慣れていない部分もある。そんな成功、世界でも、いや歴史上でもどうか。そして羽生結弦を扱うか扱わないかでは売れ行きはまったく違う。大手代理店の方に以前伺ったが、

 「羽生結弦とそれ以外」

 と言っていた。失礼な話であることは承知だが、事実としてそうだ、という話だった。

 実際、コンテンツ力としての格差は歴然で、それは結果として明白である。これは決して他の競技者を貶めているわけではなく、コンテンツ産業のリアル、ときに残酷なエンタメの世界ではいたしかたのない見方のように思う。羽生結弦という存在を決めるのは羽生結弦、それは当然のことである。

 羽生結弦というコンテンツを待ち望む多くのファンのために無責任なものは世に出せない。これも当然のことである。その当然を、わざわざゴシップとしてあげつらわれても迷惑極まりない。

羽生結弦という絶対的なコンテンツ力をまざまざと見せつけた

 もっとも、このゴシップも内容は取るに足りないもので、いよいよゴシップメディア各紙もネタ切れのように思う。

 そもそもネタなんかないのだが、彼らはネタを作る。それを羽生結弦に対して心よく思わない人々(関係ないのだから見なければいい、はこういう可哀想な人々には通じない)や、自分の推しのために他の人々の推しを貶めようとしなければ推しができない、これまた可哀想な人々は作られたネタに嬉々として飛びつく。ゴシップメディアを支えているのはこうした可哀想な人々である。もっとも、羽生結弦ほどの「新時代」の人物となると堅固で、これまでもそうしたネガキャンすら羽生結弦という確固たる「歴史」の前になすすべなく消えるばかりなのだが。

 それにしても今回の件、むしろ羽生結弦という絶対的なコンテンツ力をまざまざと見せつけた格好になったように思う。羽生結弦はまったく望んでいない結果だが、現在の競技フィギュアスケートは羽生結弦のいた時代とはうってかわって容易に席の確保できる大会ばかりとなってしまった。私が別の報道媒体を通した関係者の話でも以前と比べて「お話にならないくらい埋まらないことがある」と嘆いていた。

 羽生結弦は誰よりもフィギュアスケートを思っている。その彼を、もっと大切にしてくれていたら、と個人的には思ってしまうのだが。

フィギュアスケートで、単独スケーターの興行が成立している事実

 まあいずれにせよ、羽生結弦という大きな時代、新時代からしたらたいしたことではないのだが、私もメディア側として端緒に書けることは書こうと触れさせていただいた。「RE_PRAY」は横浜公演もプラチナチケット状態。考えても見てほしい、この国で、フィギュアスケートで、単独スケーターの興行が成立している事実を。

 これは衝撃という他ない。

 それまで、このジャンルでこうした単独の興行を、この規模で成立させ続けている者はいない。

 本当に衝撃と言う他なく、まさに私が端緒から説いたように、それまで幕間の座興や道化でしかなかったバレエを芸術として、興行として成立させたバレエ・リュス、その象徴としてのヴァーツラフ・ニジンスキーがやってのけた20世紀の革新と同様のことを、日本のフィギュアスケーター、羽生結弦がやってのけている。それもミハイル・フォーキンやジョージ・バランシン、レオニード・マシーンといったバレエ・リュスのメンバー全部をひっくるめた革新を、羽生結弦という青年が一人で成立させている。

 その歴史とともにある私たち。まったく僥倖でしかなく、この僥倖をわからずに貶める人々、まったくもって「可哀想な人々」(大事なことなので繰り返した)というほかない。

 それでも今回もまた無理やりなこじつけでゴシップが垂れ流された。重ねるが、山と渓谷社もまたゴシップの間接的な被害者のように思う。そして羽生結弦と共にある私たちは今回も冷静で、思慮深く行動した。羽生結弦の死にものぐるいの汗を、命を削り続けるエッジの音を、がむしゃらな慟哭を知っている私たちは、この程度では揺るがない。

 それこそが、矜持だ。

 その矜持とともに。いざ、「RE_PRAY」横浜へ。

(了)

この記事の著者
日野百草

1972年、千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。国内外における社会問題、社会倫理のノンフィクションを中心に執筆。ロジスティクスや食料安全保障に関するルポルタージュ、コラムも手掛ける。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。

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