羽生結弦の根拠なき汚れを「それみたことか」と匿名で拡散…やはり引っかかる。おかしい

日野百草 ファンしか知らない羽生結弦

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1時間、誰もいない佐賀の駅で改めて考える

 やはり引っかかる。おかしい。

 だから私は、どうしても書いておきたい。

 1月12日、羽生結弦『RE_PRAY』佐賀公演を終え、私はそんなことを思いながら、佐賀駅から在来線で長崎方面の江北駅に下車した。

 佐賀駅は切符を求める多くの人々で長蛇の列だった。このままでは帰れない、という海外からの家族もあった。

 一人でも減ればいいだろう。

 私は江北駅まで行って、この1時間後の長崎行きリレーかもめ(武雄温泉駅経由)に乗ればいいと思った。

 案の定、駅には誰もおらず、長崎駅までの最終の新幹線特急券を買えた。

 そして1時間、誰もいない佐賀の駅で、改めて考える。

羽生結弦の根拠なき汚れを「それみたことか」と匿名で拡散

 改めて考える

 羽生結弦のこれまでの思いは、あれほどまでに尽くした思いは、なぜ簡単に強大なペンで、目的外利用の「表現の自由」で汚されてしまうのか。

 いや、汚されてはいない、それは確かだ。その程度で羽生結弦は汚れない。

 しかし、「汚したい」と思う側からは「汚してやった」になる。

 市井の心ない人々や、心ない人になるしか自分の推しを愛せない可哀想な人々は、羽生結弦の根拠なき汚れとやらを、「そみたことか」と匿名で拡散する。

 この世には一定数、「真実はどうでもいい」という人々がある。一部と言いたいところだが、案外と多い。歴史上もそうした悲劇は繰り返されてきたことが証明している。

 人間は、とすると主語が大きいだろうか、それでもやはり「人間は」である。残念だが。

 そうして考える。先に書いたように、羽生結弦は大丈夫だった。しかしいつもより、そう、いつもよりずっと、私たちを渇望していたようにみえた。私の思いばかりでしかないように思う。

 私たちをいつも以上に、慈しむように滑り、舞い、跳び、そして語った。

 それはそうだ、あれだけの受難の日々、歴史上のいかなる天才も、偉人も苦しんだように、羽生結弦もそうだったことは確かだろうと思う。

何ら罪もない対象に使うとバッシングの悪しき手口となる

 私は、これまでも一部メディアのおかしさと羽生結弦に対するバッシングの意図的な、あるいは作為的な「何か」を書いてきた。どれもメディア側だからこそわかる「いつもの手口」であった。

 それでも、あの『週刊文春』の記事はおかしい。多くはわかるであろうし誘引する必要もない(その価値もない)ため明確な引用として表記はしないがわかるだろう。仙台の新リンクの記事だ。あれは本当に、おかしい。

 税金70億円を投入したとする「羽生結弦の「新リンク」」という見出しもそうだが、これこそ意図的で、作為的な「何か」しかないように思う。一般市民にも使わせて、という異論噴出とやらも、これまたよくある執筆の手口で、使いようによっては政治家や財界人の汚職や失策に使うと社会的な効用はあるのだが、特定の個人、それも何ら罪もない対象に使うとバッシングのための悪しき手口となる。これはもちろん、後者だ。

実際に苦しい内容なのだから私怨でもない限り、そうなのだろう

 そもそも「羽生結弦の「新リンク」」という時点でおかしい。

 新リンクはゼビオアリーナ(以下、ゼビオアリーナ)仙台に新設される。仙台89ERSというB.LEAGUE所属のプロバスケットボールチームのホームとなっている他、さまざまな競技やコンサートが開催される施設である。その中のひとつが新リンクということになるが、そもそも羽生結弦のために作ったわけでも羽生結弦が作れと実際の計画上で言ったわけでもない。もちろん、羽生結弦の所有物でもない。というか直接的な関係は薄いとすら言える。

 それを「羽生結弦の「新リンク」」とする。目を引くための典型的な手口である。まともに読めば「なんだそれ」という話だが、そういう記事ほど「ウソ・大げさ・まぎらわしい」という、JAROのCMでおなじみのフレーズそのままになる。

 当該紙面は2023年12月の市政だより(1月号)から引いているが、市長の「ショーをやっていただきたい」に対する「ここでしかできないショーができたら」という羽生結弦の回答を「まるで羽生リンクと言わんばかり」と書いているが苦しい。私としても、それに怒るとか以前に社内の執筆者が苦しまぎれに書いているのが透けて見える。実際に苦しい内容なのだから私怨でもない限り、そうなのだろう。

 とにかく、羽生結弦の新リンクではない。これは(当たり前だが)はっきりしている。そもそも記事中で「言わんばかり」としているので、そうではないのだ。文春が自分で「言わんばかり」と書いている。まあ、そういうことだ。

こういう行為を口が悪いが「難くせ」と呼ぶ

 また宮城県スケート連盟会長の話を引いているが、「一般開放はされないそうです」「一般市民にも開放して、みんながスケートを楽しめるようにすべき」とあり、またフィギュア関係者の話として東北で唯一の公営リンクがなかったことを挙げている。

 アイスリンク仙台がいっぱいであることも。それに対する陳情を受けなかったことを親族がそうしたとして書いているが、羽生結弦という個人の人生と仕事である。その陳情をしなかった云々は、仮にそうだとしても個人の自由であろう。

 そもそも羽生結弦は偉大なフィギュアスケーターだが、政令指定都市の行財政の話となると外の人である。こういう書き方を口は悪いが「難くせ」と呼ぶ。

 さらに税金の話である。別のタイトルには「羽生結弦“70億円リンク”」とある。ここで大事なのが、きっちり70億円リンクには“”と引用符が振ってあるということだ。先の「羽生結弦の「新リンク」」の括弧と同様である。

 これは手口=レトリックとして大きく三種類あって、ひとつ目は読み易く括るため、ふたつ目は強調したいとき、そして三つ目は「前後の言葉とは別ですよ」というエクスキューズのためにある。前者ふたつは問題ないのだが、やっかいなのが三つ目である。つまり“”で囲った部分と羽生結弦は分けてますよ、というエクスキューズ(普通に「言い訳」でも構わないだろう)になっているということだ。

 しかし一般の読者からすれば「羽生結弦の新リンク」「羽生結弦70億円リンク」と読む人もある。羽生結弦を心よく思っていない、もしくは無関心だった人(むしろこういう無関心層を呼び込みたい)からすれば、「なんだ、羽生結弦のために税金使って新しいリンクを作るのか」となる。もちろん私がこう書いたとて、編集部からすれば「そう読んだのはお宅でしょ」となる。

 ゴシップ誌はこのように、日本語のレトリックをこれでもかと駆使してくる。大半は稚拙なものだが、それが大衆の関心を得るためのもっとも都合のよい方法であることも事実だし、彼らは知っている。

 しかし「羽生結弦のために税金使って新しいリンクを作る」はまったくのデタラメである。それでも編集部側は「そう書いてませんよ」のためのエクスキューズを用意して、わざと括ることでそう読ませようとする。「悪いのはそういう風に読む読者」、という体をとるために。

 また、羽生結弦サイドにも編集部はあたっているが、羽生結弦サイドは公営リンクの設立に反対していない、むしろ賛成しているという回答をしている。

 にもかかわらず、またも「フィギュア関係者」が登場して「彼にとっても良くない」と心配の体をとっている。これはバランスをとったもので、誹謗中傷ではない(ファンからすれば誹謗中傷としかとれないのは当然として)というエクスキューズのためである。つまり、「心配してますよ」という着地点で締める、ということである。さすがにこのネタで一方的に書くのは難しいという事情もあったのだろう。

 まったく、天下の文春だというのに稚拙極まりないように思う。

 例えば、同じ文春編集部でも松本人志の一連のスクープはしっかりと断言したものになっている。ここで書いたようなレトリックは控えて、極めて「直球」である。大勝負である。大手出版社の週刊誌ともなれば正規、非正規問わず大人数が関わっている。編集部内でもそれぞれの班やグループ(会社による)でそれぞれに記事を書いているので必ずしも一定のレベルというわけでも整合性があるわけでもないが、ともあれ、この記事そのものは「その程度の出来」ということだ。

 (続)

この記事の著者
日野百草

1972年、千葉県野田市生まれ。日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経てフリーランス。国内外における社会問題、社会倫理のノンフィクションを中心に執筆。ロジスティクスや食料安全保障に関するルポルタージュ、コラムも手掛ける。2018年、評論「『砲車』は戦争を賛美したか 長谷川素逝と戦争俳句」で日本詩歌句随筆評論協会賞奨励賞を受賞。

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